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2011年11月18日金曜日

Occupy Wall Street、2カ月目にしてNYで3万人規模のデモ



なんというタイミングでニューヨークにいるのかと、つくづく思う。


2008年、留学のため再渡米したのは、オバマが大統領選に勝利した年だった。アメリカ史上初の黒人大統領の誕生という快挙に、アメリカ黒人文化の中心の一つであるハーレムのストリートで涙した。(その後のオバマの政治には僕も大いに落胆しているし、Occupy Wall St.運動は様々な意味でオバマ政権に対する鬱憤の表れだと思うが、2008年の感動を僕が忘れることはないだろう。)


 そして、今、ここNYを中心に、また新たな歴史のページがめくられようとしている瞬間に僕は立ち合っている。NYには多くの日本人がいるが、こんな時に家にいるのは勿体ないなどという一言では片づけられない。




誰かがNYVerizon高層ビルにOWS側のメッセージを大きなプロジェクターで映しだしている。Verizonは今年組合潰しで民衆の反感を買った企業。その企業がOWSを宣伝してるかのように見せるとてもユニークなアイディア。 


Occupy Wall Streetは、今日を境に新たなフェーズに入ったように感じる。


今日、2011年11月17日はOccupy Wall Street運動が始まってからちょうど2カ月。かねてから、この記念日をNational Day of Action(国民運動の日)と称してアクションを取ろうと活動家らが呼びかけていた。


それに呼応した民衆らは、アメリカ全土(少なくとも30都市)でデモを展開し、ここニューヨークだけでもブルックリン橋を32,500人(NY市警推定)がデモ行進したというのだから、全体では5万人を超えたのではないだろうか。


 
「勉強」をほっぽって僕が駆け付けたのは、Foley Square。NY市役所の目と鼻の先にある広場だ。5時集合の予定だったが、1時間も前についてしまった。


まず驚いたのはおびただしいほどの警官とパトカー、そして上空に旋回する5機のヘリコプター。何よりもこの重厚な警戒態勢こそが政府側の危機感を物語っている。「何かやってるな」くらいにしか思っていない人々は、あの模様を見たらきっと間違いに気付くのではないだろうか。


政府側の危機感は同時に、この運動のポテンシャルを意味している。




 Foley Squareに集まった群衆は次第にその数を増し、時の経過と共に四方八方からデモ隊が合流してきた。学生も多い。5時半頃になって、授業をボイコットしたCity University of New York (CUNY)の学生2000人が加わった。高騰する授業料と膨らむ一方の学生ローンは学生にとっても深刻な問題だ。





この運動に賛同を表明してきた神父などの宗教指導者達。仏教僧もいた。
 
6時の時点では1万人に膨れ上がっていた。

歴史は受け入れるものではなく、自らが創るもの。

「世界」は自らが名付けるもの (“To name to the world”)
というパウロ・フレイレの言葉が 今ほど心に響く時はない。


2010年10月25日月曜日

「愛というか。」

 次々と出されるペーパーが首まで詰まっていると言うのに、また苦笑いをしながらこれを書いてしまっている。昨夜初めて電話でお会いしたマサさん、そして古い付き合いのかおるさんから、 『世界に一つ』 『(続)世界に一つ』 に書いた自分だけの感性について共感の言葉をもらった。かおるさんはコメントの中で、パウロ・フレイレに言及しながらこんなことを言っている。



 「自分の思っていることを勇気を出して言うことは、人とつながることなんだと思う。愛というか。」



 実は、自分だけの感性や主観性を大事にすることについて書きながら、僕自身の脳裏にもパウロ・フレイレの言葉がちらついていた。



 かおるさんからコメントをもらい、久し振りに自分のquote bookを読み返してみた。そしてこんな言葉を見つけたので、ここでシェアしたいと思う。



 これを読んでくれているあなたへのプレゼントのような気持ちでタイプしました。



“To deny the importance of subjectivity in the process of transforming the world and history is naïve and simplistic. It is to admit the impossible: a world without people. This objectivistic position is as ingenuous as that of subjectivism, which postulates people without a world. World and human beings do not exist apart from each other, they exist in constant interaction” (Freire, P. 1970. Pedagogy of the Oppressed. p. 32).



“Human existence cannot be silent, nor can it be nourished by false words, but only by true words, with which men and women transform the world” (p. 69).



“Dialogue cannot exist, however, in the absence of a profound love for the world and for people. The naming of the world, which is an act of creation and re-creation, is not possible if it is not infused with love. Love is at the same time the foundation of dialogue and dialogue itself” (p. 71).


Paulo Freire

 2009年8月9日に始めたこのブログ、今回の投稿でちょうど200本となった。読んで下さっている皆様から勇気をもらい、続けられています。ありがとう。

                              With love,



                                                                 Daiyu

2010年10月11日月曜日

時代のテーマ

 最後の更新から2週間以上が経ってしまった。

思えばこれほどすっぱりとブログから気持ちを切っていた期間も珍しい。今まではどこかで気になり、「何か発信せねば!」 という無駄な焦りがあった気がする。

でもこれは自分がやりたいからやっていること。無理にやるもんじゃない。焦りを感じつつやってしまうと、自然と書くもののクオリティーは低くなったり、小さいことが思いの他ドラマティックな表現になったりしてしまう。

だから決めたのだ。これからは、心から分かち合いたいと思うことだけ、せっかく読んでもらうのだから読むに値するものだけ書こう。

Google Analyticsを久しぶりにチェックしたら、ずっと更新されてなかった間も毎日チェックしてくれていた読者の方たちがいたことを知って心が痛んだ。
ごめんなさい。そしてありがとう。

新学期が始まってからというもの、自分は本業である教育の勉強に没頭している。今学期から授業数は半分に減り、少しずつだが確実に博士論文に向かいつつある。だから気持ちがそっちにフォーカスしてきているのも無理はない。今学期取っている授業はNarrative Inquiryの権威であるJanet Miller教授との個人授業、そして哲学科のSchool & Societyというイスラエルからのvisiting scholarによる教育哲学の授業だ。どちらも面白い。

教育の勉強に没頭すればするほど感じることがある。それはアメリカで教育を勉強させてもらっている自分の責任だ。



パウロ・フレイレ(Paulo Freire)はEducation for Critical Consciousnessという本の中でこう言っている。

“If men are unable to perceive critically the themes of their time, and thus to intervene actively in reality, they are carried along in the wake of change” (Freire, 1973, p. 6).


(もし人々が、自らの時代のテーマを批判的に捉え、現実に能動的に介入できないならば、彼らは変化の跡を追って流されるだけだ。)


自分が今ここにいる意味は何なのだろう?

フレイレが言う、「時代のテーマ」とは何なのだろう?

どんなことが時代のテーマとして設定され、「現実」として我々に提示されているのだろうか?自分はどのようにこの現実に介入していけば良いのだろうか?そんなことをずっと考えている。



先日、Twitterなるものを始め、そこにて自分の責任を追及し始めた。このブログの右端にもリンクされているが、自分が読んでいて感銘を受けたものや、日本が知るべきアメリカの教育最前線のニュースを発信し始めたのだ。

アメリカでは教育破壊が行われている。もはや教育を通してパブリックを語ることも難しい状況になっている。アメリカ主導の消費資本主義が加速する中、日本の社会、そして教育が受ける影響も必至だと僕は考える。日本の教育がアメリカの二の舞を踏まないためにも、今じっくりと、クリティカルにアメリカの教育動向を見つめることが必要だと思う。

とは言っても、Twitterでは字数の制限もあるし、かなり専門的な内容になってしまうので、これからはアメリカ最先端の教育情報を専門に発信する別のブログを作ろうと企んでいる。

ただし、『分かち合いたいこと』はこのままの形で続けていきたいと思う。人生の美しさを共有できるすてきな人たちが集まってくれている。もちろん僕自身も発信していくつもりだし、今まで通り、ゲスト投稿として誰でも発信できる分かち合いの場として使って頂けたら幸いだ。

これからもどうかよろしくお願い致します。

p.s. アメリカの教育最前線ブログの方はでき次第連絡いたします。


                  大裕

訳責:鈴木大裕
(10月12日に新設完了しました! http://us-education-today.blogspot.com/)

2009年12月3日木曜日

物では満たされることのない心の隙間

 以前紹介した、佐藤新吾という友人がブログを立ち上げた。ニュージーランドで一学期間共に学んだ仲間だ。その投稿の中で、彼が現代日本の病理について書いている。それを読みながら、僕の恩師である小関先生がいつも言っていたことを思い出した。



    「おなかいっぱいの子に食べさせるのは難しい。」



 中学校で教えていて、貧しかったり片親だったり、いわゆる「恵まれない家庭」出身の「荒れた」子の指導をする方が、裕福な家庭で育った優等生を教えるより、よっぽど簡単だということを知った。恵まれない家庭出身の子たちを見ていると、不足しているものは案外わかりやすいものだ。そして、それを補うことが教員の仕事に他ならない。もちろん、欠けているものは生徒によってまちまちだが、本当のところは、「妹の食事もおまえが作らなくちゃいけないなんて大変だろう」とか、「お母さん一人で頑張って立派だな」とか、その子に寄り添う気持ちだけで十分だったりする。愛情に飢えている分、ほんの一握りの気遣いも子どもの心に染み込んでいく。



 逆に裕福な家庭出身の子の多くは、最新の携帯を持つのは当たり前、ご飯は言わなくても出てくるし、洋服など何一つ不自由していない。あまりにも多くの物を与えられていて、物では満たされることのない心の隙間に自分さえも気付いていないのだ。裕福な子ほど、自分の心が発信するSOSに気が付いていないことが多い。



 今の日本の状況も、それと通ずるところがあるのではないだろうか。経済格差はもちろんあるし、年々広がっている。でも、国として見た時、日本が世界の大多数の国とは比べ物にならない程裕福であることも確かだ。



 今の日本、「恵まれない国」の人々のためにボランティアをする人も多い。僕は大事なことだと思う。でもそれは、それが人として正しいことだからと言うよりも、そのような経験がその人たち自身を救うからだ。助けなくちゃ、という気持ちで始める人間も、結果的に助けられるのは自分の方だったりする。ただ今日を生きのびることに懸命な人々を目の当たりにする時、我々は自分たちがいかに多くの物を持っているかだけではなく、いかに多くのことが見えていないかを知るのだ。



 僕が敬愛してやまないブラジルの教育哲学者、パウロ・フレイレが言いたかったのもそのようなことなのではないかと思っている。日本を「抑圧者」と見るか見ないかは議論の分かれるところだが、“haves” と “have-nots” が明確に分かれるグローバル化した市場において、日本が前者に入るのは否めない。そして、Oppressors(抑圧者)の悲劇は、oppressed(被抑圧者)の人間性を奪うことによって実は自身の人間性が奪われていることに気づいていないことだ。そして、抑圧者は被抑圧者の力を借りなければ、自分たちを解き放つことはできない。



 今の日本、僕は病んでいると思う。貧しい国々の助けを必要としているのは日本の方だ。

2009年9月26日土曜日

愛音と美風

 既に知っている人もいるかと思うが、実は我が家には二人目の女の子が産まれる予定だ。しかも予定日は明日だ。出産を控えた妊婦は医者に歩くことを勧められるが、今日も妻と長い散歩をした。

 現在21ヶ月の長女も、何となくだが妻のお腹に赤ちゃんが入っていることをわかっているようだ。僕が妻のお腹に顔をつけて「おーい!」と言うと、決まって愛音も「ぅおーい!!」と言いに来る。自分自身のまん丸なお腹にも呼びかけているのが若干気になるが…。

 名前ももう考えてある。長女の愛音(あいね)という名前は、音楽療法士である妻と僕の人生を常に支えてくれた音楽にちなんだ名前だ。2歳も離れずに産まれてくる次女は、お姉ちゃんになる愛音と一生をかけて支え合い、補い合うようにという願いを込め、美風(みかさ)と決めた。愛の音を美しい風が世界に運ぶ。どうだろう、本人に気に入ってもらえるだろうか。

 名前のことを考えていると、前にも何度か紹介した、Paulo Freire(パウロ・フレイレ)の、他人が名付けた世界に生きるのではなく、自分で名付けた世界を生きるのだという言葉を思い出す。人の名前にも通ずるものがある。親からもらう名前であっても、その名前をどのように生き、どんな意味を見出すのかは本人次第だ。はたしてこの子はどんな美風になるのだろう。


 愛音の時もそうだったが、まだお腹でぬくぬくしている美風に話しかけることがある。

「早く出ておいで。いい世界が待ってるよ。」

 そう囁くたびに、身が引き締まる想いがする。

2009年9月11日金曜日

約束のバトン

   最後の授業 - Dr. Sobolを囲んで(椅子に座っているのがSobol教授)


1.発信すること
 今年の自分の課題、それは発信することだ。このブログももちろんそうだが、その他でも積極的に発信しようと、いろいろな所に顔を出している。新入生のためのオリエンテーションのボランティア、キャンパスツアーガイド、自分のような留学生のアドバイザー、教授のティーチングアシスタント…、昨日は将来のフルブライターへのビデオメッセージの収録に出かけた。

 そう考えると、去年の自分とのメンタリティーの違いに驚かされる。『納得の一年』という内容で初めに書いたが、去年の自分のキャパシティーでは、自分自身が吸収することで精一杯で、自分の学びを発信することまではできなかった。それを今、一生懸命しているところだ。


2.人間は一人だけ自由になれるのか?
 前回、『Responsibility』というタイトルのエッセイを掲載したが、僕の中では「学び」というものは「責任」と深くつながっている。学んだ者には教える責任があり、そうして恩返しすることにより一つのサイクルが完結し、また新たなサイクルが始まるのだと思っている。だからこそ、たくさん学んだ者、多くの出会いや感動に恵まれた者には教えて欲しいと思う。それは必ずしも教員になるということではなく、分かち合うということだ。

 学びは人のために生きて初めて意味を持つ。以前にも紹介したブラジルの教育哲学者Paulo FreireはPedagogy of the Oppressed(邦題:『被抑圧者の教育』)という本の中で次のように言っている。

   全ての人々を解き放たずして自分を解き放つことはできない。

これは『自由について』でも紹介したMaxine Greeneのbreaking free(システムから自分だけ逃れること)とbreaking through(システムを打ち破ること)の違いに相違ない。この二人の賢人は問う。人間は一人だけ自由になれるのか?


3.二人の巨人
 去年の秋、今年の春に一つずつ、心震える授業を受けた。それらの授業を教えたのはThomas Sobol とMaxine Greeneというアメリカ教育界において「巨人」とされる二人の教授だ。Maxineについては前述の通り。Sobol先生は学者でありながら、ニューヨーク州の教育長を何年にも渡って務めた政治家でもある。Sobol先生は77歳。Maxineにいたっては91歳である。

 彼らの授業は、いつも儀式のような雰囲気の中で始まった。時間になると、付き添いの人に連れられ、Sobol先生は車いす、Maxineは歩行補助の器具に捕まりながら登場する。生徒たちが静かに見守る中、声を出すことに支障のあるSobol先生は20人程度の生徒たちに声を届けるために胸にマイクを付け、Maxineはいつもの電動イスに腰をかけ、角度を調整する。

 彼らが万全の体調でないことは生徒誰もが知っていたし、その二人の教授が次の世代を育てることを使命とし、我々こそが次の世代なのだと、身が引き締まる想いがしていた。授業が始まると、二人の巨人が発する一言ひとことには彼らが生きてきた人生の重みがあった。全ての生徒が先生の話を食らいつくように聴く、あんな授業はかつて経験したことがなかった。しかし、言葉よりも重かったのは、我々の可能性を信じてやまない二人の純粋さだった。

   あなたたちが世界をより愛しやすい場所に変えるのだ

Freireの願いに重なった二人のメッセージに、彼らによって引き継がれてきた約束のバトンを渡された想いがした。

2009年9月2日水曜日

小野寺愛さんの『船乗り日記』を読んで

 先日、『夢について』にコメントしてくれた小野寺愛さんのブログ、『船乗り日記』 を早速読んでみた。彼女はピースボートというNGOの中心人物であり、もともとは妻が大学時代に所属していたウィンドサーフィン部の先輩。とてもアクティブで、感動しやすくて、笑顔がすてきな女性だ。とてもフットワークが軽く、以前うちの中学校で、「世界と出会う」というテーマで総合学習を展開した時にも、ピースボートの仲間を連れてプレゼンをしに来てくれた。こんな日本人の女の子がもっといたら、と心から思う。

 さて、ブログだが、これがとっても彼女らしい。自然、子育て、教育、世界、愛、平和…、幅広いテーマを壮大なスケールで、でも気さくに、笑顔を忘れずに話している。このブログを読んでくれている教え子たちには、是非読んで欲しいと思う。「世界」とは想像よりもずっと身近なもの、「平和」とは何気ない日常に隠れているものだと教えてくれる。それにきっと、結婚っていいな、親になるっていいな、自然っていいな、旅するっていいな、大人になるっていいな、と思わせてくれる。何よりも、彼女の溢れんばかりの想いを感じて欲しい。

 以前、教えることとは感動の分かち合いだと思っていると書いたが、彼女がやっていることも「感動のおすそ分け」なのだと思う。きっと本人にとっては、教えているなんて意識はないのだろう。でも、まだ他の人が知らないかもしれない、見ていないかもしれない、経験していないかもしれない感動を先に生きた人間が、後から歩いてくる者に一生懸命生きる喜びを伝える…それって教育の原点なのではないだろうか。

 愛さんのブログをリンクしておくので、是非見てほしいと思う。僕が敬愛するブラジルの教育哲学者、Paulo Freire(パウロ・フレイレ)が目指した、「もっと愛しやすい世界」は、きっとこんなネットワーク作りの延長にあるのだろう。感動の輪があなたの愛する人にも届きますように。

2009年8月31日月曜日

「自由」について




 Kaoruさんが『失うものは何もない』のコメントに書いてくれた、Maxine Greene(マキシン・グリーン)の言葉をピックアップしてみたいと思う。



「自由とはパンを選ばないこと」



 非常に彼女らしい言葉だと思う。Maxine Greeneは、日本ではあまり知られていないが、現在アメリカのアカデミアで活躍する教育者の多くに、今なお影響を与え続けている教育哲学者だ。今では一人で歩くこともできないほどのお婆さんで、90歳代だと思われるが、今でも僕とかおるさんが勉強するコロンビア大学のTeachers Collegeで授業を教え、TCの学生や教授たちの間では、Maxineとファーストネームで慕われている。そして今年の春、彼女の自宅で教えられる授業を二人で受け、大いに感動した。

 自分の中では、「自由」とは「失うものは何もない」という人生に対するメンタリティーであり、「変わることができる」人間の器だという、二つの考えがあったが、それらが今回のかおるさんのコメントでつながった思いがした。

 アメリカを代表する教育哲学者、John Dewey(ジョン・デューイ)は言う。 我々は自由だ。
ただそれは、生まれつきの自由なのではなく、「我々が変わることができるから」だと言うのだ。(We are free “not because of what we statically are, but insofar as we are becoming different from what we have been.” Philosophies of Freedom, 1928, p. 280.)では、この「変わる」というのはどのような変化を表しているのか。Maxineは、「解放されること」(breaking free)と「打ち破ること」(breaking through)を区別しつつ、次のように解釈する。人間は、個人では真に変わることはできない。何か変えなくてはならない関係、法律、体制、社会などが存在する時、本当の意味で変わるということは、それらから自分だけが逃れ解放されることではない。何にも左右されない自由な意志で動く人々が、人との絆(connectedness)やコミュニティーとしての結束(being together in the community)を通して、その好ましくない状況を打ち破ること、新しい何かを創造することこそが「自由」だ。それこそがPaulo Freire(パウロ・フレイレ)が言う、世界を名付ける(to name the world)ということであり、そのためには命までも懸けなければならない。

あなたは、どんなに新しく、素晴らしい世界が可能なのか考えもせず、他人が名付けた世界の奴隷となりつつも、今日自分が口に入れるパンを選べるということを「自由」と呼ぶのか。

Maxineが言いたいのはそんなことなのではないだろうか。


(Maxine Greeneに興味がある人には、彼女の著書、The Dialectic of Freedomをお勧めする。)