「優等生になってはいけない。」
そんなことを言う教師はそうはいない。
でもこれこそが、小関先生が新天地にて子どもに伝えようとしているメッセージだ。
先日初めてこのブログにコメントを書いてくれた
小関先生の新天地の教え子が、今回新たに
コメントをくれた。小関先生とは4月からたった一カ月そこらの付き合いだというのに、彼女たちがどれだけ先生に影響を受け、悩み、教えが入りつつあるのかが伝わってくる。その証拠に、今まで 「優等生」 として通ってきた彼女たちが急に困り始めている。以前、
『不自由していないことの不自由さ』 でも書いたように、 「困ること」 こそが学びの条件なのだ。自分は分かっていると思いこんでいる人間には学びも進化もない。知っていることと分かっていることとは違う(
「守・破・離」 の前の 「信」)。大事なのは何も分かっていない自分に気づくことだ(
『無知の知』)。
優等生を褒めるのは誰でもできる。求められているのは、優等生に本気でバカと言える器をもった指導者だと思う。
でも、そもそも 「優等生」 のどこがダメなのか。
決して勉強のことを言っているわけではない。問題なのはそのメンタリティーだ。
誰の言うことでもハイハイと聞くYesマンに魅力は無い。そして、しまいには誰からも信用されなくなるのだ。これは子どもに限ったことでも学校に限ったことでもないだろう。もっと言えば、誰の言うことでも 「そうか」 と信じているようでは一流にはなれるはずもない。
初めて留学した時、16歳の僕はその学校での教育に衝撃を受けた。用意された答えを要求されるような授業は一つもなく、君はどう思うのか、何故そう思うのか、どういう証拠があるのか、それではこういう視点についてはどう考えるのかなどという訓練を徹底的に受けた。自分の主張を人前で発表したり、討論したりするだけでなく、授業で質問することも、先生の意見に異論を唱えることも良しとされた。これは大学院のレベルになると尚更だ。
しかし、日本人留学生にはそのような教育を受けてきていない者がほとんどのため、日本人は残念ながら授業で発表をしないことで有名だ。そして、それでは世界のエリートたちとはわたり合えない。
教育現場では、よく 「クセのある子」 という言葉を聞く。
クセのある子というと、ネガティブなイメージがつきまとうが、これは教育的に言うと間違っている。少し見方を変えてみれば、クセのある子とは自分を持っている子のことを言う。その場合の 「自分」 とは、簡単には曲げられない自分の信念だと思っていいだろう。仮にそれが間違っていたり不十分な信念であったりしようが、全てを鵜呑(うの)みにするような子よりよっぽど面白いし、見込みがある。
教育において目指すべき理想は、学校のような狭い世界における肩書だけの 「優等生」 ではなく、世界で通用する一流の生徒なのではないだろうか。
以下は2009年9月28日の投稿だ。
タイムリーだと思うのでもう一度シェアしてみたい。
「優等生」 を考える
1.すご腕茶師に学ぶ教育の心
テレビを持たない僕は、勉強の合間によくYouTubeを見て気分転換をする。よく見るのが歌手のライブ映像、そして実在の人物をテーマにしたドキュメンタリー番組だ。今日は 『プロフェッショナル』 の前田文男編を紹介したい。(2010年5月27日現在では残念ながらネット上から既に削除済み。)
前田文男さんは日本屈指の茶師だ。前田さんが他の茶師と全く異なる理由、それは彼の茶葉の選び方にあるという。
全国からお茶が集まる静岡の茶市場。たくさんの茶師で賑わう高級茶のセクションとは離れた人気のない所でお茶と向き合う前田さんがいた。
そんな前田さんには、お茶を選ぶことにおいて一つの流儀がある。
「良いお茶ではなく、伸びるお茶」
年間50種類以上ものお茶を世に送り出す前田さんが一番こだわりを持っているのは、100グラム1000円の一番安いお茶だという。なぜか?彼は言う。
お金を出せば良いものは提供できる。でも、作って良くなるお茶こそが茶師としての腕の見せ所だ。
僕は知らなかったが、お茶は通常一種類の茶葉だけでできるわけではないそうだ。味はいまいちだが香りの良いお茶、見た目は悪いがコクのあるお茶、香りは良くないが色の良いお茶、特徴はそれぞれだが、何種類ものお茶を混ぜることによって極上の一杯ができるのだという。
ではどうやって「伸びる」お茶を選ぶのか。前田さんはお茶の声に耳を澄ますのだそうだ。「お茶が何かを訴えている、そんな感覚」だという。誰にも相手にされなかったお茶を、心を込めて磨き、宝石に化けさせる前田さん。預かったお茶は絶対に最後まで面倒を見て、自信を持って世の中に送り出すという信念を持っている。
2.教員という仕事
本題に入る前に一つ言っておきたいことがある。僕は教員という仕事は、人にできる最も尊い職業の一つであると思うし、自分が教員であったことを誇りに思っている。今、必死に勉強しているのも、将来、有能な人材が教員になりたいと願い、親は教員を心から信頼して子どもを委ね、委ねられた教員が真に教えに浸れる環境作りに貢献したいと思っているからだ。でも、そんな想いがあるからこそ、現場に立つ教員に求める要求も高くなってしまう。教員批判と取られる所もあるかと思うが、自分では逆に教員を弁護しているつもりだ。
これは自分の教員組合に対する疑問も反映している。本当に先見性を持って教員の立場を守ろうとするのなら、弱い教員を守ることに奔走するより、頑張っている教員を守るべきだと思う。そうすることが教員の社会的地位を高め、質の高い教育を約束することにつながるのだと信じている。小作農のように、その場しのぎの問題解決を続けたところで明るい未来は拓けない。
給料も良くない教員にわざわざなろうという人に悪い人はいない。少なくとも僕はそう信じている。ただ、良い人が良い教員になるのかといったら、それは全く別問題なのだ。
3.「優等生」を考える
前田さんのお茶に対する姿勢は、小関先生の子どもに対する姿勢と通ずるものがある。小関先生も優等生には興味を示さない。
優等生は、教員であれば誰の言うことでも、 「はい」 「はい」 ときちんと聞く。理由もわからずに大人たちに言われたことをうのみにしてしまうのだ。以前、
『不登校から日本一』 でも書いたが、教員は皆正しいことを言う。ただ、それがその子、その場面において最適な助言であるとは限らないし、それぞれの助言が食い違うことも少なくないのだ。 「あの先生はこう言っていたのに…」 と思ったこと、誰でも一度は経験あるのではないだろうか。最終的には、自分の心と相談し、頭で考えて判断することを学ばなければ、その子は自由に生きていけない。でも、不幸なことに、多くの教員はそんな、自分にとって都合の良い子どもを育てようとしてしまう。
だいたい、 「優等生」 というのは、大人が勝手に押し付けるラベルに過ぎない。何かの拍子にそのラベルがはずれてしまった時、又は大人の号令なしには動けない自分に気付いた時、ふと自分の心にぽっかり空いた空洞に気がついた時、その子はどうするのだろうか。大人たちに裏切られた、と感じるのではないだろうか。自分の内なる声を押し殺し、ただ盲目に 「正しい」 大人たちの価値観の中で育つ優等生。そんな「自分」のない子どもを育てるのは罪だ。
2008年に教員の仕事に区切りをつけた時に残してきた野球部の一年生が、今ではチームを引っ張っている。当時副顧問として僕をサポートしてくれた若手の教員が、僕の意志を引き継ぎ選んだキャプテンがいる。バカもたくさんして来たし、多くの教員にとっては扱いずらい子かもしれない。でも、子どもらしいエネルギーがあり、手をかければ間違いなく 「伸びる」 子だと、そう信じている。