2009年8月31日月曜日

不登校から日本一



本校の校舎に飾られた横断幕。
写真は小関先生の良き理解者、関先生によるもの。


 今年の夏、小関先生の指導のもと、一人の女の子が中学校剣道女子個人の部で日本一になった。もともと不登校だった子だ。彼女は小学校の頃、担任の先生に算数ができないということでいじめられ、そのうち学校にも行けなくなった。彼女を支えたのは家族と、好きで続けていた剣道であり、剣道を本気でやれる学校環境が中学校に通うための絶対条件だった。そんな中、剣道の指導なら小関先生という評判を聞き、うちの中学校にやって来た。自分の学区からは程遠い中学校だった。


 日本一になるような子は、他の子にない何かを持っているのだと思う。それは必ずしも、ある競技における卓越した技術ではない。例えば、北島幸助を育てた平井コーチが、何故北島を育てようと思ったか。それは彼が水泳でほかの子どもたちから抜きんでていたわけではなく、彼の眼がギラギラしていたからだという。その女の子も、他の子とは違うところがあったのだろう。そして、それが小学校の担任には気にくわなかったのだと思う。どうしたのかと言うと、手なづけることもできずに、彼女の苦手だった算数の授業を利用して、彼女を潰してしまったのだ。不幸なことに、これは画一的な教育を行う日本の学校ではよくあること。出る釘は打たれるのだ。




 小関先生は、よく過激なことを言う。以前、こんなことを訊かれたことがある。


「もし、卓球の福原愛ちゃんがお前のクラスにいたとして、授業中に寝ていたらどうする?」


 普通の教員だったら、「注意する」 と答えるだろう。でも、小関先生は、「そのままにしておく」 と言う。


 周りの子が愛ちゃんが寝ていることに対して何か言ってきたらどうするのかと訊くと、「きっと練習でへとへとになってるんだから寝かしといてやれ」と答えればいいと言う。代わりに、起きた時に彼は愛ちゃんにいろいろ教えてもらうそうだ。練習のこと、普段の生活のこと、試合での駆け引きのこと、大会前のコンディション作りのこと、そして彼女の先生のこと。そのような彼女の体験談が、同世代の子たちに与える影響は計り知れないと言う。生徒のことも知らずに注意をしたり可愛がったりするのではなく、その子を見極めること、その子の良さを認め、その子が人生において勝負できる物を持たせることが大事なのだと教えてもらった。


 小関先生がおっしゃることは、すぐにはわからないことが多い。時間が経った今、愛ちゃんのケースを考えてみると、彼女のように日本や世界の第一線で活躍する子には、既に先生がいるということだと思う。自分一人の力でそこまでになるような子はどこにもいないだろう。やはり、誰か自分の才能を認めて、未知の可能性を信じてくれる人との出会いがあり、その人に完全に自分を委ねることで、子どもは一流になっていく。だから、もし愛ちゃんが自分のクラスにいたとしたら、彼女に 「教える」 ということは、彼女の先生に勝たなくてはいけないということになる。多くの教員は、そんなことも知らずに、勝ち目のない勝負に挑もうとする。世界クラスの子どもを育てる人間に勝る指導力を持つ教員が、全国に何人いるだろうか。残念ながら今の現場の状況では程遠い。ただ、いつか世界クラスの指導力を持つ教員を国が本気で育てようとする日が来て欲しいと願うばかりだ。




 話を今年の夏に日本一に輝いた女の子に戻そう。中学に入り、部活も学校も頑張る日々が2、3ヵ月続いたが、徐々に授業に出るのが辛くなり、毎日遅刻するようになった。特に数学の時間になると、「こんなこともわからないのか!」と他生徒の前でプライドを傷つけられることを極度に恐れ、教室に入れなかった。小学校の時の担任によるいじめが、彼女のトラウマとなっていたのだ。そしてとうとう、放課後の部活しか来られなくなってしまった。


 彼女が部活だけ参加するということについては、職員の間から様々な批判の声が上がった。学区外の子なのに特別待遇をして良いのか、甘やかすことになるのではないか、他の子に悪い影響を与えるのではないか。それを必死にかばったのは小関先生だった。彼はきっと、周りの教員に「自分が勝ちたいから」と思われていたに違いない。実際に、「そこまでして勝ちたいのか」と陰口を叩く教員もいた。


 我々教員は、皆、それぞれ正しいことを言う。子どもに嘘を教えてはいけないという職業柄、知らず知らずのうちに正しい答えを求めるように訓練されていくのだ。そう、子どもたちと同じだ。こうなったら、こうする。こう訊かれたら、こう答える。まるで正しい答えが書かれているマニュアルがあるかのようだ。その理由もわからないでもない。質問する生徒によって、与えられる答えが違ったり、生徒によって叱り方を変えては「不公平」だからだ。ただ、普遍的な正しい答えが(そんなものがあるとするならば)必ずしもその瞬間の真実を貫いているとは限らない。一般的には「正しい」答えが、その瞬間、目の前の子や周りの子どもたちのためになるとは限らないのだ。


 周りの教員がその子の扱いに対して言ったことは皆正しい。確かにあれは特別扱いであったし、普通にいけば甘やかすことになっていただろうし、他の子の影響も考慮しなければならなかった。しかし、誰がその子の今までの経緯を詳しく知った上で、その子の将来を考え、心から救おうと考えていただろうか。少なくとも、その子の面倒を全てみる気持ちでいたのは小関先生だけだった。結局、周りに対する悪影響も特に見られず、一人の生徒を本気で救おうとした小関先生の熱意が、周りの子たちにも伝わった形となった。そして、また不登校になってもおかしくなかった子が、中学生日本一になったのだ。


 小関先生は、一人一人の生徒に全く別のことを言い、応対もまた違う。その生徒、その状況、その生徒との信頼関係、その生徒の指導の経緯、はてはその瞬間によって、求めるものが変わってくるのだ。授業中、一人の生徒があることをして褒められたのに、次に別の生徒が同じことをしても叱られたりする。「差別だ!」 言われると、「ばかやろう、これは区別だ!!」 と言い返す。生徒たちはそんな小関先生が大好きだ。





 不登校だったその子が日本一になった時、一人の教員が小関先生にこう言ったそうだ。


 「どうやったら日本一になれるんだよ。一年生の時に授業出ねーで、部活だけやってればいいのか?」


 その人は、そんなに簡単に日本一になれると本気で思っているのだろうか。残念ながら、「部活だけやっているから当たり前」 と言ったり、彼女のちょっとしたミスを見つけては、「日本一になったからって偉いと思うな」 と陰口を叩きそうな教員も、中にはいるのではないかと思ってしまう。だがそうではない。部活だけやっているから勝てるというものではない(実際に彼女は、二年生になって休まず授業も受けられるように成長した)。


 それに何よりも、日本一 は 「偉い」 のだ。彼女は今後、どんな道に進もうとも、どんな仕事に就こうとも、間違いなく生きていけるだろう。文科省が目指す 「生きる力」 を彼女は既に身につけているのだから(実は文科省が提案することは、元々のアイディアは間違っていないことが多い。方法論が伴っていかないのが玉に瑕だ)。彼女がここまで来るのにどれだけの苦労があったか。どれだけの壁を乗り越えてきたか。友達と遊ぶ時間も削り毎日練習をし、自分の弱さと向き合うことを強いられ、けがを乗り越え、生活の全てを剣道に捧げ、決勝のセンターコートで戦う自分の姿を何千人が凝視する中で力を発揮する器を身につけ、常に反省すること感謝することを10代前半で学んだのだ。実にあっぱれである。


 県大会で個人優勝を果たして全国大会出場を果たした彼女が、団体では力を発揮できずに関東大会で涙した。その後、何が彼女の中で変わったのか、小関先生に訊いてみた。すると、自分がチームメイトや家族やあらゆる人々に支えられ、みんなの想いを背負っていることに気付いたのだと言う。全国大会の初日に、落ち着いた表情で彼女がこう小関先生に言ったらしい。


自分はこの中で一番弱い。でも、みんなの想いを背負って一生懸命やってきます。


 不登校だった彼女がそこまで成長したのか、と心が震えた。そして、小関先生が目指す、「一流の生徒を育てる教育」 の真髄を見せて頂いた気がした。

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