2012年7月31日火曜日

シングルファーザー日記⑥ ~ おねえちゃんといもうと ~

 

 変に思われるかもしれないが、今回シングルファーザーを経験して良かったことの一つは、自分のキャパが非常に限られたことだ。それによって、何が大事なのかがはっきりした。



 今回、僕にとって何よりも大事だったのは、母親がいないからといって子ども達に寂しい想いをさせないことだった。もっと前向きな言い方をすれば、3週間留守にしている母親の分まで子ども達に愛情を注ぐことだった。



 そういう目標設定の中、僕は省ける分は全て省いた。子ども達のリクエストの半分くらいは却下したかもしれない。



 例えば、「えほんをよんで」、「てんとをつくって」、「くまちゃんのおとうさんになって」などという遊びのリクエストは容赦なく断った。



ごめんね。今パパお料理しているからね。

ごめんね。今パパ美風達のおべんと箱洗ってるからね。

ごめんね。パパ用意しないとバスに遅れちゃうからね。



 でも、抱っこしてというリクエストだけは、ほんの少しの間だけでも応えるようにした。



 リクエストの多くは次女の美風からきた。自分のキャパが限られている分、美風の面倒はほぼ全て愛音に見させた。



朝の着替えを用意すること、服のボタンをとめること、(自分と一緒に)お風呂に入れること、飲み物を用意すること、ふたなどを開けること…。挙げだしたらキリがない。



お姉ちゃんにやってもらいなさい、というのが常になった。






これは、美風だけじゃなく、愛音にとっても良かった。



うちの子達は、2歳も離れていない。22ヶ月違いだ。だから美風は年の近いお姉ちゃんをよく観察して、お姉ちゃんがする全てのことを真似をする。次女らしく要領も良いし、運動神経も良い。まだ3歳前だが、高い所だってどんどん登るし、スクーターだって愛音と同じくらい上手に乗りこなす。



その分、自分はお姉ちゃんと同等だと勘違いするところがある。そんな美風は、今回の経験を通してお姉ちゃんの存在を認め、愛音はお姉ちゃんとしての自信をつけることができたように思う。



 そんな意味で、二人とも、少しだけ前よりたくましくなった。



(続く…)
 

2012年7月29日日曜日

シングルファーザー日記⑤ ~ 上下関係 ~



 この3週間の父子家庭体験は、僕に中学校教員時代の部活指導を僕に思い出させた。



中学校の3年間などあっという間だ。それは部活動の顧問としても同じこと。3年生の最後の夏が終わったと思ったら、もうその夏休み直後には次の代の新人戦が始まる。顧問としては、新チーム作りを通して、2年生との人間関係を深めていくことになる。1年生大会の準備も始めなければならない。



 自然、顧問は最上級生との関係が最も強くなる。中学校生活の集大成である第3学年という最後の年に、最上級生となった子達がどんな勝負をし、巣立っていくのかということが最重要課題の一つとなる。



(もちろん弱肉強食の勝負の世界だから、試合の起用は別の話だが) 1年も2年も3年も、学年に関係なくまんべんなく人間関係を築こうとしたら、勝負には勝てない。これがわかったのは野球部の指導を始めてから3年が経過してからだったかも知れない。



一代ずつ、丹念に育てていく。結果的にはそれが、下級生を育てることにも繋がる。



 21年生は無視するというわけではない。ただ、周りにはそう見えるかもしれないし、それでも一向に構わない。係わり方が違うだけだ。



 3年生はじかに係わるが、21年生とは間接的に係わる。3年生に2年生、2年生に1年生の世話を見させる。そして、叱る時も、下級生のミスは直接叱らず、世話役の上級生を叱る。褒める時も同じでいい。そうやって、上に立つ者としての責任感を養うのだ。



ポイントは、3年生しか見ていないように映る顧問が、実は常に全体に目を配っていて、下級生達も、常に先生の厳しくも愛情に満ちた眼差しに見守られているという安心感を覚えることだと思う。



下級生には時折、直接声をかけたり、ちょっかいだしたりすれば、それで良いのだと思う。



「今日先生に直接声をかけてもらった。」下級生がそう思ってくれれば大いに結構だ。



その意味で、3年生は特別待遇だ。ただ、特別待遇と言っても、それは決して楽をできるというわけではなく、その逆だ。ちゃんとした指導者であれば、直接指導をもらえるというほど大変なことはない。練習は厳しく、それに伴う結果も求められ、精神的に追い込まれるだろう。だから、下級生にとっては、自分達の代が来るということは、それが嬉しいと共に、大変な日々が待ち受けているという緊張感も伴って当たり前だ。



 指導者として、ここで書いていることを全て自分ができていたなんて思わない。この場で常に書いてきたように、僕が教員として過ごした6年半は、失敗の連続だった。ただそれは、出口の無い暗闇でもがき続けた時間ではなく、小関康先生という一つの理想像を追いかけ、泣き笑いした素晴らしい時間だった。



今回、シングルファーザーを体験しながら僕が思い出したのは、そんな頃のことだ。



(続く…)

シングルファーザー日記④ ~ 切ない ~

 


必死の弁当作戦をもってしても、埋められない心の穴はある。その度に工夫をし、何とかごまかそうとした。



 例えば食事時の静けさ。食卓に母親がいなくなるというのは何とも寂しいものだ。うちの子達は、いたずらしている時と食べてる時だけは静かだ。それでも、父子3人で食べている時の静けさは妙に気になり、音楽の力を借りるようになった。おかげで2人とも朝からたくさん踊り、多少近所迷惑だったかもしれない。



 ちょっとした女の子らしい格好も、工夫をしなければならなかった。母親がいなくなって急におしゃれじゃなくなったなんて思われたらかわいそうだ。可愛い服を常に洗濯しておくようにした。最初はさんざんだったが、髪の結び方も覚えた。カチューシャの便利さも知った。



 4日目くらいに、バスがなかなか来なくて、愛音を学校に迎えに行くのがいつもより多少遅くなった時がある。その時ばかりは、僕の顔を見ても「ママにあいたい~っ!!」と泣かれてしまった。きっと、友達の多くが、迎えに来たお母さん達と嬉しそうに帰るのを見て、母親の温もりを思い出してしまったのだろう。



次の日、次女の美風はアパートの管理人さんに預けて、僕は自転車で迎えに行った。自宅がある117th StreetからHarlem School of Artsがある140th Streetまでは上り坂がひたすら続くが、帰りは気持ちがいいはずだった。



一番に迎えに行き、今日は美風を置いてパパの自転車で迎えに来たよ、と愛音にヘルメットを渡すと、「ヤッターっ!!」と無邪気に喜んでくれた。頑張った甲斐があった。帰り道、愛音は両手を広げて風を体いっぱいに受け、「とりさんみたいだねぇ~!」と上機嫌だった。



その日から迎えは人よりも早く行くようにした。



 3週間目。愛音のサマーキャンプも終わり、美風と一緒に愛音も近所の日本人プレイグループ、『ココからKIDS』に良き友人であるしげみさんに連れて行ってもらった。その日の午後、愛音はしげみさんのひざをずっと独占していたそうだ。



その日は、グループの子達の中でも一番年上だった愛音(4歳半)。



想像すると、何だか切なくなってしまった。

 

 (続く…)

シングルファーザー日記③ ~ たどり着いた答え ~


次の日、僕は新米パパ丸出しのように、ワクワクして愛音を迎えに行った。学校に着くと、僕と美風を見つけた愛音が、「パパー!!」と言って僕の胸に飛び込んできた。お弁当の効果はてきめんだった。



おいしかった?と訊くと、愛音は「うん!!」と大きな声で答え、「でもね、少しだけ残しちゃった。ごめんねぇ。」と眉をしかめて申し訳なさそうな顔をした。



男なんて単純なものだ。次も頑張ろうとすぐに心に決めた。美風も喜んで食べてくれたようだ。



 結局、3週間、弁当はほぼ毎日作った。ただ、2週間目の真ん中らへんに、わざと一日休みを入れ、お弁当を持っていけることが当たり前じゃないことはちゃんと教えた。



最後の方はだいぶ手馴れてきた。ノリ弁当が意外に好評だったので、多少時間が節約できるようになった。子ども達のリクエストで、「手巻き寿司」なんていう変な弁当もやった。



なんてことはない、海苔、寿司ご飯、きゅうり、シーチキン、アボカド、蟹もどき、おかかを別々に容器に入れたものを持たせるだけだ。どうやら自分達で巻くのがどうにもスペシャルに感じるようだ。



ちょっと娘達のツボがわかってきた。



まずはお弁当包みがかわいいこと。中身の色合いがきれいなこと。いろんな種類のものが入っていること。デザート(といってもフルーツ)とスナックも入っていること。そのスナックは個別にパッケージされていること。(人気はスティックチーズやレーズンの小箱だった。)そして手巻き寿司のようにちょっとしたゲーム性があること…。



 なんだ、要はお子様ランチじゃないか。



(続く…。)

シングルファーザー日記② ~ 意地の弁当 ~


そんなわけで始まったシングルファーザー生活だが、一言で言うとするなら、二人の娘達を精一杯愛した3週間だった。



 たった3週間でこんなことを言ったら失礼なのだろうが、僕にとってはシングルペアレントの気持ちをたっぷりと考えさせられた時間だった。



 シングルペアレントになった影響は微妙な形で長女の愛音に表れた。最初の2週間は、愛音はマンハッタンのHarlem School of ArtsというSt. Nicholas Ave.140th St.あたりにある施設のサマーキャンプに通っていた。朝8:30 ~ 午後4:30というスケジュールだが、ランチは家からの弁当だと僕の負担が大きいので、給食を頼んであった。



しかし、通学初日の夜、愛音がボソッと僕に言った。



「ランチはおうちからもってくんだよ。」



お願いするわけではない、なんとも遠回しな言い方が、妙に切なかった。



母親がいないからといって子どもに寂しい想いをさせるわけにはいかないと思い、早速その夜からお弁当を作り始めた。美風の分も一緒に作ることにした。



お弁当なんか作ったことなかったので、最初はいろいろ考えた。夏場の弁当は、傷みやすいので難しい。



おにぎりにするか、チャーハンにするか。おにぎりは中に入れるものを考えるのが面倒臭かったので、結局チャーハンにした。



ピーマン、パプリカ、玉ねぎ、にんにく、ソーセージを入れた野菜たっぷりチャーハンを夜中に作った。



ちょっと味的には合わないだろうなとは思いつつ、周りをプチトマトで飾ってみたりした。サイドにはまたもやソーセージを少し大きめに切ったものを詰め、ちょっとした小物としてスティックチーズを2本添えることにした。別のタッパにフルーツを詰め、完了。



弁当を開けた時の子ども達の顔を創造しながら料理する時間は、なんだか悪くなかった。



(続く…)

シングルファーザー日記① ~ママは「ぼすとん」でがんばってる~



今日までこの3週間、僕はシングルファーザーだった。



妻の琴栄がこの夏からボストンで音楽療法のPh.Dを始めたのだ。ただ、現場を持つクリエイティブアーツセラピスト達を対象にしたプログラムなので、オンラインでの通信教育を主とし、ボストンでのスクーリングは7月の集中講座のみとなる。



ちなみに、うちの娘たちは二人ともママっ子だ。それがいいと思っている。



中学校で教員をしていた時、マザコンの男の子たちがゴロゴロいた。そんな中ですごく新鮮に、そして健全に僕の目に映ったのは、父親の匂いがする男の子達だった。そんな子達は純朴で、男気のある子達が多かった。



逆に、本来、力のある男の子達を、母親達がダメにするケースも嫌というほど見てきた。いつもは元気も良いし、男っぽくしているのだが、いざという時になると母親の後ろに隠れてしまうような子達が多かった。ただ、それはその子達のせいではない。いざという時にかばってしまう母親達のせいだ。



男の子たちが大きくなった時になるのは母親じゃないし、大人の女性でもない。僕は性別は無視できないものだと思っているし、将来男として生きていく道を示すのは、大人の男性が適していると僕は思う。



逆もまた然りだ。女の子達をファザコンに育ててはいけない。父親より、母親の匂いのする女の子達がいいと僕は思う。だから、父親の大きな仕事の一つは、娘達が母親を敬って育つよう手助けをすることだ。



そんな意味でも、この3週間は、大変でもあり、貴重な時間だった。ママっ子の娘達にとって、急にママがいなくなったというのは大変だったけど、その間ママは一人で「ぼすとん」で頑張って勉強しているんだというプライドにもなったのではないだろうか。



「ママ、頑張ってる?」電話越しの母親にきく愛音の姿が妙に印象的だった。


(続く…)

2012年6月22日金曜日

More Than a Number

バンクーバーで出会い、良き同志となったLong Island University-PostArnold (Arnie) Dodge教授。その彼が、8月後半にコロンビア大学にて計画されているEdu4の学会に、現在の「教育改革」を我々と同じように危惧するアーティスト達を招かないかと提案してきた。彼が紹介してくれた一つの曲をここで分かち合いたいと思う。


米教育界の過剰なテスト教育を、「僕は数字なんかじゃない」と子どもの視点から歌うプロテストソングだ。詩が美しい


冒頭にこんな説明が書かれている。

The minds and spirits of children will always rise above numbers. Let us hold this truth and use it to guide our policy and our decisions.

「子どもたちの考えと精神はいつの時も数字をしのぐ。この事実を抱きしめ、私たちの政策と決断を導かせよう。」



More Than a Number



Music by Barry Lane & Lyrics by Amy Ludwig VanDerwater (2012)
Cover art by Georgia VanDerwater (2005)

More Than a Number

I am quiet in the classroom.
I don’t always raise my hand.
I don’t always answer questions.
I don’t always understand.
But I always have ideas
when I stare up at the sky.
My sister likes to tease me
for always asking, “Why?”

I am more than a number.
I am more than a grade.
I know the constellations.
Here’s a painting that I made.
I read books in my closet.
I will not be a ‘2’.
I am more than a number.
I’m a person just like you.

I speak one language here
and another in my home.
I daydream in both languages
whenever I’m alone.
I’m good at climbing trees.
Mom’s teaching me to sew.
I am full of secrets
a test can never know.

I am more than a number.
Watch me fold this plane.
I snuggle with my beagle.
There’s music in my brain.
Someday I’ll go to Egypt.
I will never be a ‘2’.
I am more than a number.
I’m a person just like you.

If you think I can be measured
by numbers on a screen…
...if my whole school becomes a test
where will I learn to dream?
I love to do hard problems.
I write stories, and I laugh.
My gifts are so much greater
than the data on your graph.

I’m more than a number.
I invent things when I play.
I collect shells and fossils.
Please hear me when I say
I will not be a ‘1’--
a ‘2’, a ‘3’, or a ‘4’.
I am me. I’m a mystery.
I’m a child – not a score.

Edu4 ~ 一期一会 ~



*この投稿は、Edu4 ~僕らのビジョン~』の続きです。



バンクーバー2日目、パートナーのAndrewと僕は、朝から精力的に活動した。



僕らがバンクーバーで参加した最初の学会、American Association for the Advancement of Curriculum Studies (AAACS) の舞台となったのはUniversity of British Columbia (UBC)。宿泊させてもらっていた僕の友人Damian(デイミアン)の家からバスで20分くらいのところだった。Damianとは、僕が教えていた千葉市の中学校に、彼がAssistant Language Teacherとして赴任した時からの仲だ。日本にいた間はよく我が家に飲みに来ていたし、NYの家にも泊まりに来てくれた。



その日、最初に出たのは、昨日僕らのシンポジウムに参加してくれたRetaTheodorea、そして Edu4 のビデオインタビューに応じてくれる予定のJimだった。皆、アメリカ南部の大学で教鞭をとる教育学者たちだ。



プレゼン中、Retaが最後にこんなことを言った。



私達はこうして現体制を批判し、怒りを綴ることはできるけど、私達の学術的な取り組みからどんなアクションが生まれるのかということまで考えていく必要がある。



そう言い終わった後に、彼女は会場の後方にいる僕たちの方を指してこう言ったのだ。



「だからそこにいるDaiyuたちのEdu4という取り組みに深い感銘を受けている。」



皆が僕らの方を振り返った。突然のできごとに驚いたが、僕らは皆に軽く手を振った。



プレゼン中に僕らの活動を紹介してくれるという粋な計らいに、僕らは感激した。何という宣伝効果だろう。



Jimとは事前にメール交換はしていたが、実際に会ったことはなかった。Retaの紹介によって、僕の名前と顔がやっと繋がったという様子で、笑顔でアイコンタクトを取ってくれた。



プレゼン終了後、僕らは会場の前方にいるプレゼンター達に挨拶に行った。



最初にJimの所に行き、やっと会えたねと固い握手を交わした。彼は改めてEdu4の活動に敬意を表し、できることなら何でも協力すると言ってくれた。



次に、Retaにお礼を言い、逆に彼女からお礼と共に励ましの言葉をもらった。



そして、Theodoreaからは、驚きのオファーがあった。



それは、彼女が会長を務めるCritical Race Studies in Education Association (CRSEA) 5月にTeachers Collegeで行う学会に、我々Edu4を招待したいというものだった。



僕らは、喜んでそのオファーを受けた。







幸運な出会いはその日の午後も続いた。



UBCのキャンパスを歩いていたら、Teachers Collegeにおける僕のデパートメントアドバイザーのMolly Quinnと出会い、昼間だというのに一緒にいた彼女の友人たちと共に一杯引っかけに行くことになった。



MollyLouisiana State University時代の William (Bill) Pinar William (Bill) Doll の教え子。彼女と一緒にいたのは全て彼らを師と仰ぐ若手の学者たちだった。PinarDollは教え子を大事にすることでも知られている。長年をかけ、大きく、結束の強いファミリーを築いてきた。



飲みながら、一人一人とEdu4について話をすることができた。AAACSのウェブ担当のWalter, University of Ottawaで授業を使って学生による教育関連のサイト運営をしているNickなど、様々なアドバイスを受けることができた。



もう一人のSarah Prattからは、またしても願ってもないオファーをもらった。金曜日に、同じくバンクーバーで始まるアメリカ最大の教育学会AERAにて、彼女が代表を務めるChaos and Complexity Theories SIGの集まりに来て発表しないかというものだった。実は、彼女のSIGのメンバーの一人が、グループとしてのEdu4への参加を討議しないかと、既に彼女にもちかけていたのだ。



もちろん快諾した。



その日最後の活動として、僕らはAAACSの全体会議に参加した。そして、僕の博士論文のアドバイザーであるJanet Miller教授の取り計らいで、一番に発表させてもらえることになった。



部屋一杯の学者たちの前で僕らは熱くEdu4を語り、資料を配った。



この日は、僕らにとって本当に大きな一日だった。僕らは、自分たちのビジョンに対する確かな手応えと、コミュニティーの広がりを実感した。



Edu4が一つのムーブメントになる予感がした。



(続く…)

2012年6月21日木曜日

Edu4 ~ 僕らのビジョン ~




*この投稿は、Edu4 ~いざ、バンクーバーへ~』の続きです。



Maxineのビデオインタビューを放映した後、僕は彼女が触れた「public space(パブリックスペース = 公共空間)」と「自由」の関係性に絞って話をした。僕らが思い描くEdu4とは、一言でいえば教育者たちによる教育運動のためのパブリックスペースだ。だから、僕らが「パブリックスペース」をどう定義するのかは、このプロジェクトの方向性そのものを意味する。



ここでは少し端折って説明したい。



「パブリックスペース」と聞くと、人は何を思い浮かべるだろうか。おそらくそれは、公園、広場、公民館などではないだろうか。一般的には、国や行政によって与えられ、誰でも自由に出入りでき、皆で共有するための空間、という認識であるように思う。



しかし、それは間違っているとMaxineは僕に教えてくれた。



第一に、パブリックスペースは、公園などの単なる「箱」ではない。人なしのパブリックスペースはあり得ない。



第二に、パブリックスペースとは、国や行政が造り、人々に与えられるものではない。人と共に生まれるものだという。



「ただ」と、MaxineHanna Arendt教えを呼び起こす。



“It is not a space filled with individuals, but in between them.”

「それは単に人々で埋めつくされたスペースではなく、人々の間に生じるものだ。」



この考え方は、Maxineの自由の考え方と切り離して考えることはできない。なぜならば、自由も、国家によって保障されたり人に授与されたりするものではないからだ。また一人の人間が所有できるものでもなく、一人で完結できるものでもない。真の自由とは、自分自身の決断に従い、リスクを冒し、与えられた現実の変化を求める人と人との関係においてのみ生じるものだとMaxineは教えてくれる。



その意味で、『ウォール街占拠運動』のOccupiers(占拠者)がZuccotti Parkというウォールストリートの外れにあった公園を占拠し、共に暮らして行く中で “Liberty Plaza” と改名したことは注目に値する。



それは、紛れもなく、Zuccotti Parkがパブリックスペースとして正式に生まれ変わった瞬間だった。



僕らが構想するEdu4とは、組織ではない。教育学者、教員、親、学生、ジャーナリスト、弁護士、アーティスト、そしてその他の多様な「教育者」たちによる、教育運動のためのパブリックスペースだ。僕らが与えることはできない。ただ、そんな空間を演出することはできる。場所を造り、理念を打ち立て、人を集め、出会いをつくり、活動を仕掛け、会話を繋げることはできる。そして、その過程で、「自由」を分かち合えたらと思う。



あの日、プレゼンテーションの会場で、僕はいかにMaxineと出会い、彼女の哲学を生きようとした結果、こんなビジョンにたどり着いたということを、精一杯語ったのだった。



(続く…)

2012年6月18日月曜日

教員と親が団結する時


アメリカで3番目に大きい学区であるシカゴで、公立学校教員一斉ストライキの可能性が浮上した。実施されれば25年ぶりとなる。州法で求められる全教員の75%を遥かに上回る、90%近い割合でストが支持された。ビジネスマインドで教育を行う運営陣に対して教員の怒りが爆発したのだ。



面白いことに、教員達のこの決断を支持する署名が保護者の間で回っている(以下参照)。僕のところにも回ってきた。教員と保護者を繋ぐこのような動きは非常に面白い。



前にも書いたと思うが、教員組合の働きには実は重要なものが多い。教室における教師と生徒の割合の拡大防止や教育設備の向上などはわかり易い例だが、基本的に、教員にとっての労働環境の向上とは、子どもの学習環境の向上と比例するものが多い。



だから、アメリカも日本も教員組合はイメージがあまりにも悪く、やり方が下手だと思うが、個人的には教員組合というのは教育改善には欠かすことのできないピースだと思っている。



だから、「教育市場」にて大きな力を持つ保護者が団結して教員達と教育改善に取り組むことは、非常に有効な手段だと思う。



民主主義に参加できる、教養のある親の育成が求められている。





June, 2012
Chicago, IL

Dear Teachers,

As CPS parents, we are writing to recognize you for your work on behalf of Chicago’s children, and to offer you our support in the coming months and years. We share your sense of urgency and your aspirations, and we recognize the brilliant, difficult work you do every day, in the biggest and smallest moments of our kids’ lives. Parents and teachers are on the same side because we want the same things—better schools for all children, and a better system to support those schools. You see our children in all their complexity and curiosity, in their desire to learn, to be challenged, to be respected, understood, and seen. And we see you.

We know that the recent strike authorization vote received the support of 89% of CPS teachers. In our school, the rate was over 98%. We know that you are voting not for yourselves, but for all teachers, particularly those in schools with the least resources. We take that vote and level of consensus seriously; your independent, collective voice is indispensable to any sensible conversation about education. We want to say - to you and to everyone - that the recent steady drum-beat of contempt from politicians and pundits is unacceptable, and that we, as parents, do not and will not accept a narrative that vilifies or blames you. This is not simply a conversation about wages and benefits, but one about our shared goal of building a just and decent school system for both teachers and kids. 

The Chicago Teachers Union’s proposals represent a fair set of standards for everyone: smaller class sizes; more student access to music, art, gym, and libraries; more counseling time; and yes, adequate compensation and benefits for teachers, who are being asked to work longer hours next year. All of these are clearly essential to both good teaching and good learning. In our school, in all CPS schools, and in every school everywhere, good working conditions are good teaching conditions. And good teaching conditions are good learning conditions.

Yesterday, the last day of the school year, we watched you re-organize hundreds of books you donated personally to our school, all of them labeled by hand, by you. One was the first book a small student, in the room helping, had ever read “all by self,” with you cheering. She remembered; you remembered. We have watched you think through everything from questions about math, music, and literature – to the daily social and developmental challenges of childhood. We have heard you sing songs from your own childhoods, and seen you engage our kids with each other and the world, studying everything from bugs to berimbaus. With you, they wrote and signed their own books, traveled to D.C., choreographed and performed dances, solved fractions, slept at the nature museum, read life-changing books, cooked Brazilian cheese puffs, made documentaries, learned English, and sang with seniors at our neighborhood retirement community. You are teaching them to be engaged citizens, like you, people who care about others. That is the lesson we take from your work and your vote.

Seen up-close, the complexity of teaching is breathtaking and often unheralded; you guide our children through their days in more ways than it’s possible to quantify. So we are writing to say that we understand that teaching is deeply intellectual and ethical work. And that we see you doing it beautifully. We see you, and we stand by you.

Your Fans,

Rachel DeWoskin, Zayd Dohrn, Elizabeth Caya, Rob Caya, Dan Cohen, Beth Hobson, Scott Hobson, Julie Kosowski, Seth MacLowry, Stacy Markham (parents, please let us know if you'd like us to add your names!)


2012年6月16日土曜日

いかに上を目指すか


権力というのは魔物のようなもの。



映画 『ロード・オブ・ザ・リングズ』 を見て僕が受け取ったメッセージだ。権力は畏怖の対象であると共に憧れでもあり、時には麻薬となって手にした者を中毒に陥れる。



歴史上、何人が初心を忘れ、権力の虜となってきただろう。



「権力を得て、いかにうぬぼれずにいるか。」 



僕が提示したそんな課題に、小関先生は一言でこう答えた。



「そうじゃない。いかに上を目指すかだ。」

2012年6月15日金曜日

「どこに完成品を見るか」


長い目で成長を見つめることが難しい世の中になってきている。



社会ではどの企業でもすぐに結果が求められ、数字を出せない者はすぐに飛ばされる。



国や地域を治める政治でさえ、次の選挙で票を取るための目先の政策しかやらない。



教育でも同じ現象が起こっている。



アメリカでは、受け持った生徒のテストスコアの年間伸び幅で教員の評価が出されている。日本もこの先そうなるかもしれない。






3日前に日本に一時帰国し、昨日早速小関先生に会ってきた。



その彼がずっと僕に問い続けてくれた言葉がある。



「どこに(生徒の)完成品を見るか」



それは、一年のような短いもいのではないし、テストの点数のようなチンケなものでもない。



一年生として入学してきた生徒が、人として、卒業時、そしてその先社会に出た時にどのように成長していることを期待するか。



どこまで長い目で、大きいスケールで、そして辛抱強く、人の成長を見つめ、促すか。



教育者に求められているのは、壮大な 「未来」 を思い描くビジョンと、そのビジョンに基づいた 「今」 への執拗な要求なのだと思う。

2012年6月9日土曜日

テスト中心教育にNO!! NYで親と子どもらによる反対運動






木曜日、4歳の長女を連れて、あるデモに参加した。



集まったのは親、子ども、教育学者などおよそ300人。



場所は、教育系の会社では世界最大を誇るピアソンのマンハッタン本部だ。



No Child Left Behind (NCLB: 「落ちこぼれ防止法」)施行(2002年)以来、アメリカでは過剰なほどに試験が行われるようになった。今回のデモの内容は、大まかに言えばアメリカにはびこるテスト至上主義に反対するという趣旨のものだった。







『ウォール街を占拠せよ』が政治の中枢であるワシントンDCではなくウォール街を選んだように、今回のデモも、政治を金で動かすコーポレートパワーの象徴としてピアソンを選んだ。



小規模だったが、マーチングバンドまで登場して、多くの大人と子どもがお祭り騒ぎでピアソンの周りをグルグル回る姿は、多くの人々の注目を集めた。







また、メディアもたくさん来ていて、デモの様子はすぐに報道された。



(その他の報道は全てここにまとまっている)





このデモと同時進行で行われている一つのプロテストがある。ピアソンによる調査試験の一斉ボイコットだ。



今月、ピアソンは来年使うテストのための調査を、NY市中の小学校で行う。実に一週間まるまる授業の時間を使い、子どもたちに調査テストを受けさせるのだ。



しかし、3年生から8年生(日本での中学2年生)の子どもたちは4月に2週間も続いたテストを終えたばかり。しかもそれだけ時間がかかったのは、問題の中に既に来年の調査問題が含まれていたからだ。



テストにそれだけの時間をかけるぐらいだったら、もっと意味のある教育を子ども達に!というのが多くの親たちの願いだ。





しかも、この問題には莫大な利権が絡んでいるわけで、そのために子どもたちを実験用モルモットにするのかと親たちは怒っている。どのくらいの規模の利権かといえば、ピアソンがニューヨーク市のDepartment of Educationと結んだ契約は、実に5年間で32百万ドル(約255千万円)だ(Huffington post)。



そして今回、このデモを企画したNY3団体(Change the Stakes, Parent Voices New York and Time Out From Testing)が協力して運動を推進した結果、61校の親と子どもたちがピアソンによる調査テストをボイコットすることになった。



ガンジーの非協力の理念を思い出させるこの運動、教育における真のパワーは、実は親と子どもにあることを教えてくれる。



2014年には、ピアソンによる幼稚園児対象のテストが始まるそうだ(NY Times)。