PISAとフーコー
「そもそも何でOECD(経済協力開発機構)が
国際的な学力到達度調査を行うのか」
という根本的なところだ。1970年代から既に新自由主義の危険性に警鐘を鳴らしていたフランスの哲学者、ミシェル・フーコー[1]は、新自由主義は、社会のあらゆる活動を経済的に分析する全く新しい価値観を人々に提供したと捉えている。それは、人間を経済的合理性を行動の基準とする生き物として位置づけるため、人々のいかなる関係も、行動をも経済的に分析してしまう(p. 243)。そして、このような理解の原則を受け入れ続ける限り、私たちは新自由主義の呪縛から抜けられないと示唆している。
PISAを批判するオープンレターの中では、「新自由主義」(neoliberalism)という言葉は一度も使われていない。しかし、OECDが世界各国の公立学校を評価するということ以上に、新自由主義の世界的な影響力を象徴するものが他にあるだろうか。
オープンレターの執筆者の一人であるHeinz-Dieter
Meyer博士は、Global Policyに寄せた手紙で、「経済市場とITのグローバリゼーションの結果、市場経済の成長に献身する機関であるOECDが、今では世界中の公立学校の標準を定め、パフォーマンスを評価し、公教育の世界的権威として振る舞っている」と指摘。
なぜ私たちはこの歪んだ状況を当たり前のように受け入れているのだろうか。
教育の世界的権威となったOECD
勿論、OECDが勝手に世界の公立学校を評価するのは構わない。ただ、その評価が教育における世界的な権威となって各国の教育政策を誘導することは危険極まりない。
世界中で拡大するPISAの公教育への影響力は必至で、「PISAショック」という言葉にも象徴されるように、PISAに合わせて国の教育政策が動いていると言っても過言ではない。
例えば安倍政権は、PISAを利用して「グローバル人材の育成」の必要性を説き、公教育における英語、数学、理科、ICTのエリート教育を正当化した。このように、
OECDの学力観
PISAの土台をなすOECDが打ち出す学力観も同様に歪んでいる。それは、「学力」=「世界市場における競争力」といった、経済的競争力増強を目的とする、狭く、偏った学力観であり、人間の教育の経済的アジェンダへの服従といっても過言ではない。
PISAの対象となるのは、読解力、数学、科学のみ。
社会、外国語、美術、音楽、体育などの他教科はPISAの眼中にすら入っていない。
社会の経済的なニーズは満たしているものの、民主主義社会のニーズは、子どものニーズはどうなってしまうのだろうか。
私たちは、なぜこのように偏狭な学力観を、当たり前のように受け入れているのだろうか。これこそ、新自由主義が私たちの心の奥底まで浸透している証拠なのではないだろうか。
フーコーの理論は、30年の時を超え、今でも警鐘を鳴らし続けている。
フーコーの理論は、30年の時を超え、今でも警鐘を鳴らし続けている。
私たち自身が知らず知らずのうちに、新自由主義的な世界観を内在化していること。
私たちが、それに従って自らの行動を制御し、競い合うことによって新自由主義の歯車となっていること。
[1] Foucault, M. (2008). The Birth of Biopolitics: Lectures at the
College De France, 1978-79. Basingstoke, England: Palgrave Macmillan.
[2] Simons, M, Olssen, M, & Peters, M (Eds.). (2009). Re-reading
education policies: A handbook studying the policy agenda of the 21st century.
Boston: Sense Publisher. p. 44.
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