以前『優等生を考える』で、「自分」を持たない八方美人の優等生ではなく、最終的には自分の心で感じ、頭で考えて判断できる自主性のある子どもを育てなくてはいけないと書いた。その続きを考えてみたい。
1.自信
子どもはどうすれば自信がつくんだと思う? 答えを考えている僕に、小関先生がこう言った。
「信じることだ。」
それは自分を信じるということではない。自分がない子にいくら「自分の可能性を信じろ」と言ったところで、その子が急に自信を持てるようになるわけではない。自信をつけたいのだったら、まずは人を信じることだ。
何かを達成したという成果なんて脆いものだ。それはまぐれかもしれないし、誰かに軽々と抜かれるかもしれない。でも、もし自分が心から尊敬している先生に褒められたらどうだろう。「よくやった」という師の一言が、生徒に魔法をかける。
小関先生の剣道部の子たちを見ていれば良くわかる。あの子たちは、自分を信じているというよりも、小関先生を信じている。小関先生の教えに自分を委ね、言われるように精進すれば、先輩たちのように強くなれると心底思っている。大きな大会でも、小関先生自身が「負けるわけがない」と言えば、子どもたちはどんな強豪相手でも臆さずに闘うことができる。小関先生に対する信頼こそが、あの子たちの自信そのものなのだ。
2.自分の中の「絶対」
そんな剣道部の子どもたちと比べ、優等生は自分の中の「絶対」を持たない。権力があると見なせば、いろんな人の意見を「はい、はい」と聞くので、自分自身の基準がないのだ。前にも言ったように、いくら正しいことでも、その子その場面において真実を貫いているとは限らない。対立する「正解」の狭間で、優等生は自由を失う。
ふと思い出すことがある。『プライド』でも書いた5000のことだ。博士課程一年目、大変な授業を受けながら、クラスメートは皆、成績に振り回されていた。自分の意見は教授にどう評価されるのか、提出した論文にはどんな成績がつけられて返されるのか、不安でしょうがないのだ。そんな彼らを見て、僕は自分自身の強さを知った。
以前、『無知の知』でも書いたように、自分の学びだけを気にしていた僕にとって、成績はさほど関係なかった。成績なんていうものは、所詮他人に押し付けられる基準でしかない。学びのスタイルも、進度も、表現方法も一人ひとり全く異なる学びの成果を、一様にしかも正確に評価できる基準など、もともと可能なのだろうか?
自分自身の基準を持っていれば、むやみに不安に駆られることもない。僕の中の「絶対」は常に小関先生だ。だから、僕が気にするのは、今自分が胸を張って小関先生に顔向けできるかということだけだ。恩師という存在は、頼りない自分に一本の「筋」を通してくれる。先生を持っている人間は強いのだ。
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