2009年10月11日日曜日

君たちに伝えたいこと⑤ ~「友情」について~ 2005年作


 今回紹介するのは、初めてもたせてもらった一年生の子たちが2年生になった時に書いたエッセイだ。中学2年生というのは非常に難しい時期だ。一年生の新鮮な気持ちや初々しさが徐々に薄れ、先輩になると同時に後輩扱いもされる。部活でも勉強でも目の前の目標がなく、ことあれば不安になりがちな時期だ。そんな不安は友人関係に顕著に表れる。 「もっと大事なものがあるよ」 そんな気持ちで書いたのを覚えている。



 よく友達関係のいざこざを耳にする。やれどこのグループが誰を無視してるだとか、どこのグループが分裂しただとか誰がグループを移っただとか。話はいつも「グループ」単位。いつでもどこでも一緒にいる生徒たちや、トイレにまで誰かと一緒に行きたがる生徒たちを見ていると、「仲がいいんだな」と思うよりも、「いつも一緒にいないと不安なんだろうな」と思ってしまう。

 本当は逆なのに、と思う。もし、本当に大切に想い、相手にもそう想われる友達がいれば、いつも一緒にいなくても平気。それどころか安心して一人でいられるはず。だって相手がどこにいようが、どんな時であろうが、お互いに「つながってる」と感じるから。本当の友情とはそういうものだと思う。

 僕には一人の親友がいる。アメリカの高校で出会った一つ年下のテレンという女の子だ。今はアメリカと日本で離れてしまっていて、年に2回ほど、自分の誕生日と彼女の誕生日に電話で話すくらいだ。もう6年近く会っていないが、いつも話す時には高校時代から何一つ変わっていない親密さと安心感を覚える。最後に話をしたのは3ヶ月前。でも仮に今日テレンに電話をしたとしても、まるで昨日も電話で話したかのような錯覚を覚えるだろう。二人の友情は一日メールをしなかったり遊ばなかったりして揺らぐようなものではないのだ。

 テレンが昔教えてくれたことがある。

「お父さんが私に言ったことがあるわ。『人生で5人の真の友達を見つけることができたら、お前は幸せ者だよ』って。」

 その時は5人なんてすぐ見つかるだろうと思っていた。あれから10年以上経った今も、親友は彼女一人だけだ。でも、満足している。たった一人だが、1000人の「ただの友達」を持つよりも心強く感じる。

 テレンという親友の他に、僕にはずっと一緒に生きていこうと誓い合った女性がいる。その彼女もある意味、僕の親友なのかもしれない。夢を語り合い、他の誰よりもお互いの可能性を信じている、そんな仲だ。

 今は彼女が海外で自分の夢を追求しているため、よく電話はするが、実際に会うのは一年にたった2回だ。「会いたい」と思う。でも淋しくはない。いつもお互いに何しているかなと考えているし、何か嬉しいことがあった時、真っ先に伝えたいと思うのも、自分のことのように喜んでくれるのも彼女だ。特別な理由もなしに 「どこにいる?」 といつも気にかけてくれ、何の用もないのに 「ここにいるよ」 と伝えたくなる。

 愛も友情も、根底にあるのはそんなシンプルなつながりなのだと思う。どこにでもありそうだが、実際はどうだろう。 「ここにいるよ。誰か私を見つけて…。」 そう叫んでいる心も多いのではないだろうか。


 こんな話を聞いたことがある。小さな子を公園に連れて行く時、遊んでいらっしゃいと言っても、親が見ていないと子どもはなかなか離れようとしない。振り返る子どもは親がちゃんと自分の背中を見てくれていると分かって初めて他の子の輪に入っていける。

 滑り台やジェットコースターなどでも良く耳にする言葉がある。 「やってくるから見ててね。」 別に親が見ているからと言って急に滑り台が緩やかになるわけでもジェットコースターが遅くなるわけでもない。ただ、親が自分を見てくれているというそれだけで、その子は 「お母さんが見てくれているから大丈夫だ」 と安心するのだ。

 親友や愛する人を持つということも、そういうことなのだと思う。 「一人じゃない」 という安心感は勇気をくれる。自分が今、朝から晩まで、土日も休みなく教員の仕事に打ち込むことができるのも、テレンと彼女がいるからだと思っている。デートをする時間も、友達と遊ぶ時間もない。でも孤独だとは思わない。テレンも彼女も、自分とは遠く離れた所にいるが、二人との心の絆はいつも僕に教えてくれる。

   「一人じゃない。」

 「先生。どうやったら親友ってできるんですか?」 よくそんな質問をされる。簡単に答えられるものではないが、まずは真実の言葉で話すことだと思う。今の世の中、無意味な言葉で溢れ返っていると思う。テレビ、携帯電話、メール、あらゆるコミュニケーションツールを通して、聞いたらすぐ消えてしまう、どうでもいい言葉が発信されている。学校の休み時間も、たわいのない会話ばかりが聞こえてくるように思う。そのような会話から真の友情が芽生えるはずがない。悩みについて、恋愛について、夢について、将来について ― 自分の心に近いことについて話さないと。

 テレンとも彼女とも、どれだけ語ってきただろうか。「あの時にこんな話をしたよね」と何年経っても記憶から消えない会話の数が、僕たちの友情の深さだと思う。

 良い所も悪い所もお互いのことを本当に良く分かっていて、信じていて、大切に想い合える友達のことを親友と呼ぶのだと思う。親友をつくりたいのだったら、勇気をもって少しずつでも自分をさらけ出し、自分という人間を分かってもらわないと。

 半分の自分しか見せていないのに好きになってくれる相手は、半分の友達にしかならないよ。いくら「分かって」と言っても、それは無理な話。同時に、相手の嫌だなと感じる所を見つけても、もっと深く相手を知ろうとしないと。相手の良い所ばかり見ていても、結局好きなのはその友達の半分だけだよ。

 時にはぶつかることも必要だと思う。だって、ぶつかるということは相手を大事にすることだから。今後もずっと付き合っていきたい、そう思うからこそ、今、譲れないこともある。

 別に言葉で会話しなくてもいい。飾りも偽りもない心と心が触れ合えば、それでいいのだと思う。

 みんなと親友になれとは言わない。一人でもいい。一生涯付き合ってゆきたい、そう思える友達をつくって欲しい。

 「ここにいるよ」

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