ある時、剣道場の控室で、小関先生が剣道における「守(しゅ)」「破(は)」「離(り)」という概念について教えてくれた。
「守」は守る
「破」は破る
「離」は離れる
つまり剣の道を究めるための精進の過程を表しているのだそうだ。(これは最近知ったことだが、この概念は剣道以外の他の武道や、茶、能など日本古来の伝統芸能の世界でも使われるそうだ。)揆奮館という武道塾のサイト(http://www9.ocn.ne.jp/~kihunkan/syu_ha_ri.htm)には次のように書いてある。
「守」とは、師に教えられたことを正しく守りつつ修行し、それをしっかりと身につけることをいう。
「破」とは、師に教えられしっかり身につけたことを自らの特性に合うように修行し、自らの境地を見つけることをいう。
「離」とは、それらの段階を通過し、何物にもとらわれない境地をいう。
修行をする上で、心・技・気の進むべき各段階を示した教えといえる。
[参照]全日本剣道連盟居合道学科試験出題模範解答例、月刊剣道日本編集部
そして、
武道における修行が人生に深く関わっている以上その修行には限りがない。すなわち限りなき修行に没入することを最終的には求めている言葉である。
[参照]武道論十五講、不味堂出版
はたして、何もない所から自分の「型」を見つけることは可能なのだろうか。スポーツにしても芸能にしても、他に習い、他を徹底的に真似ることから自分の型ができていく。それは、人生においても言えることなのではないだろうか。人生における「型」とは先生に他ならない。誰かを信じ、自分を完全に委ねることから唯一無二の「自分」が生まれるのではないかと思う。
小関先生は剣道部の子どもたちに「守」の大切さを説く。剣道には「基本は極意である」という言葉もある。基本を「最初に習う簡単な技術」と捉えてはいけない。基本は己の剣道の根幹となるもっとも大事な技術だ。それは、人としての基本も同じことだ。
小関先生は言う。3流4流の剣道人である私は一生「守」の段階だ。
あとがき
人生の先生が学校の教員である必要はない。それに、教員は自分がクラスや部活の生徒全員の「先生」にならなくても良いのだ。もちろん、教員がそこまで教えに没頭できる環境があれば、そんな理想的なことはないし、それこそ我々が目指すべき道だと思う。だがそれは並大抵なことではないし、『不登校から日本一』でも書いたように、学校に来る前から既に自分の先生を持っている子も中にはいる。親が先生である子もいるし、習い事を通して師匠を見つける生徒もいる。自分ではなく、その子に合った「先生」を探してあげることも教員の大事な仕事だと思う。
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