大学のHonors Thesisで日本のマイノリティーの研究をしていた時に、日本の先住民族であるアイヌの生活を描く文献にいくつか触れ、その世界観に深く感銘を受けた。
それからというもの、アメリカ先住民、オーストラリアのアボリジニー、ニュージーランドのマオリ族など、いわゆる「原住民」と呼ばれる人々の歴史と生き方に興味を持つようになったが、彼らには考えさせられることが多い。これらの人々を「原住民」として一つのグループに閉じ込めるのは危険なことかもしれない。でも、彼らの世界観にはどこか通ずるものがあるような気がしてならない。自然と神の存在、運命の捉え方、伝説と歴史、コミュニケーションの在り方、そして日常生活における音楽の中心的な役割もその一つだ。
ニュージーランドで勉強していた時、特に人種と教育について興味を持っていたせいか、幸いにもマオリの人々と触れ合う機会が多くあった。授業によってはマオリの人々が3分の1ほどを占めるものもあった。彼らの中には若い人もいたが、おじいさんやおばあさんも少なくなかった。
一つのクラスでは、ゲストスピーカーを招いて授業が行われることがよくあった。そんな時は、教授によるゲストスピーカーの紹介から授業が始まる。すると、さも当たり前のように、マオリの生徒たちが誘い合ってぞろぞろと教室の前に出てくる。当初、わけがわからなかった僕は、一体何が始まるのかと困惑し、自分も前に出て行こうかと思ったくらいだ。後で、出て行かなくてほんとに良かったと胸を撫で下ろしたのを覚えている。
その中で、一番年輩と思われる長老的な男性が、話し始めた。
「我々マオリの文化では、客がある時にはスピーチで迎える。そしてスピーチの後には必ず歌が伴う。」
彼がマオリの代表としてゲストに感謝の言葉を述べ、その後マオリの人々によって歓迎の歌が歌われた。
毎回のように行われるそんなリチュアルが、授業という不自然な空間をよりリアルでコミューナルな学びの空間に変えてくれたのを良く覚えている。
今回はアボリジニーの<真実の人>と呼ばれる部族について書かれた本から、あるquoteを紹介したい。彼らには、いつの日か会いに行きたいと思っている。まだ先のことになりそうだが、とりあえずはオーストラリアで頑張っているハルと果林ちゃんにその想いを託そう。
<真実の人>族は、しゃべるために声があるとは考えていない。
会話は頭と心の中枢センターで行うのだ。
声が話すためにあるとしたら、くだらないおしゃべりに流れがちで
精神的な会話がしにくくなる。
声は歌うため、祝うため、癒しのためにある。
人はそれぞれ多くの才能を持っていて、
だれもが歌えると彼らは教えてくれた。
自分は歌えないと考えてその才能を無視したとしても、
私のなかの歌い手が消えることはない、と。
マルロ・モーガン 『ミュータント・メッセージ』 pp. 81-82
オーストラリアの大自然の中で神の存在を身近に感じながら、昔ながらの人間の生活を続ける<真実の人>族。彼らが我々に向けるこのメッセージを、我々はどこまで真摯に受け止めることができるだろうか。私たち一人ひとりが、「私のなかの歌い手」に耳を澄まし、共になって歓喜の歌を歌う…その先にはどんな世界が待っているのだろうか。
ブログを読み返していて、いま初めてこの投稿を読ませてもらいました。
返信削除今日、日本から1通の手紙が届きました。
船旅で出会った若い女の子から。
彼女とは船で1度だけゆっくり話す機会があり、
そのとき真剣に語ったことを
今でも大切に思って励みにしてくれている
メッセージをメルボルンまで送ってくれました。
連絡先を交換する機会も、サヨナラを言うチャンスもなく
ニューヨークで先に船を降りたのに、こんな風に自分との繋がりを大切にしてくれる人が世界にたった1人でもいるというだけで、とても勇気が出るし、幸せです。
「ひとりの役に立てれば、それはいい仕事」
謙虚で穏やかな気持ちになれます。
いつもありがとう。
今日も強くいられますように。