2015年1月6日火曜日

「ゼロ・トレランス」とアメリカ公教育の崩壊(予告)



今、アメリカは人種問題で揺れている。

ニューヨークとミズーリで相次いで起こった白人警官による丸腰の黒人殺害、そして加害者である白人警官の不起訴処分という大陪審の結論は、人種差別撤廃を訴えるデモとなって瞬く間に全米へと広がって行った。僕も、アメリカを代表するアフリカ系アメリカ人文化の中心地であるハーレムに住む一人の「有色人種」として、様々な想いを抱えながら、ニューヨーク市で行われた大規模デモに参加してきた。

残念ながら自分のようなアジア人は少なかったが、黒人やヒスパニック系に加えて、白人が多く参加していたことには感銘を受けた。もしかしたら、新自由主義の負のインパクトを感じている労働階級の白人らが、この事件を通して、社会的弱者を排除しようとする今の社会のあり方を問い直し始めているのではないだろうか。



大陪審は一般には公開されない。よって、証拠を見ぬままその結論が正しかったかどうかに固執することは有意義ではなく、逆により大事なポイントを隠してしまう。

これらの事件は決して独立したものでも、今日に始まったものでもない。ノーム・チョムスキーはこう指摘する。アメリカに最初の奴隷が連れて来られたのは1619年。我々は、アメリカ500年の人種差別の歴史を再現しているだけに過ぎない[1]。2012年だけで、少なくとも313人のアフリカ系アメリカ人が、警官、警備員、自警団などに殺されており、彼らは実に28時間に一人の割合で殺されていることになる[2]。よって、民衆の、特に黒人に代表されるエスニックマイノリティーの怒りは、人種等に基づく差別撤廃の象徴となった公民権法の成立から半世紀経った今なお、黒人が公然と国家権力に殺され続けているアメリカ社会の構造的な人種差別に向けられたものだと考えるべきだろう。

ただ、脈々と流れてきたアメリカの人種差別の歴史は、いつしか新自由主義と合流し、更に激しい流れとなり、黒人に代表されるエスニックマイノリティーだけでなく、低所得者、年金に頼る高齢者、そして障がいを持つ人々など、社会的弱者の切り捨てを加速させた。大人だけではない。1980年代の「薬物との戦争」に始まった「ゼロ・トレランス」政策は、公教育にも進出し、凄まじい勢いで子ども達に犯罪者のレッテルを貼り、教育を受ける権利と選挙権を剥奪することで社会から抹殺してきた。


僕が連載を続けている季刊『人間と教育』の次号(2015年3月発売予定)の特集は、「ゼロ・トレランス」だ。ゼロ・トレランスは、人種、階級、教育、人権、新自由主義、そして民主主義等の交差点に股がり、国家権力の統治の道具としての教育の姿をあらわにする重要な問題だ。今回は、ゼロ・トレランスのアメリカ公教育への影響を検証し、日本でのゼロトレランス検証の素材を提供したいと思う。

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