2015年1月22日木曜日

ゼロ・トレランスとアメリカ公教育の崩壊 No.2

 昨日、連載を担当させてもらっている『季刊 人間と教育』の次号をようやく書き終えた。前々回にも紹介したが、次号の特集は「ゼロ・トレランス」だ。いつもテーマは勝手に選ばせてもらっているものの、今回ばかりは、「アメリカのゼロ・トレランスの状況について書いて欲しい」と頼まれた。引き受けたはいいものの、テーマの複雑さに執筆は難航。最初は、新自由主義の流れにおける「使い捨て」の概念を用いてゼロ・トレランスを理解しようとしたが、新自由主義の枠組みだけでは理解しきれないと判断。昔から続く構造的人種差別に加え、最終的には、イタリア人哲学者、Giorgio Agamben第2次世界大戦中ドイツにおける、ユダヤ人強制収容所という、「例外の空間」の概念も取り入れた。

 僕は、社会の大きな流れが教育にどう影響しているか、それを検証せずに、教育情勢を理解することはできないと思っている。今回の特集のテーマであるゼロ・トレランスも同じで、「ゼロ・トレランス政策に教育的な効果はあるか否か」という教育学の中だけの狭い議論に執着することは、より根源的な問題や問いを隠してしまう危険があると思う。

 公共事業の規制緩和と民営化、年金や健康保険等の社会福祉事業の縮小、労働組合潰しなどの動きと平行して行われる、社会的弱者の積極的な排除と使い捨てを、民主主義の理想の中で私たちはどう理解すればよいのだろうか。経済や教育において勝ち組と負け組みの二極化が進み、社会的弱者が切り捨てられて行く中、ゼロ・トレランス政策は、基本的人権や公教育の理念にどう影響するのだろうか。そして、ゼロ・トレランスが生み出す「例外の空間」は、社会全体にいかなる影響をもたらすのだろうか。

 最後の一行を書き終えた後に選んだ題名、それは「アメリカのゼロ・トレランスと教育の特権化」だった。


(続く

0 件のコメント:

コメントを投稿