2014年5月12日月曜日

Facebookを読めても、現実は理解できない人たち!?

ある方にこんな記事を紹介して頂いた。


皮肉にも、この記事を紹介して頂いた方とは、最近Facebookで知り合った。友人の友人で、僕がFacebookにてシェアしたアメリカの教育「改革」の現状に興味を持って下さったのがきっかけだった。
非識字者とは、自分の名前は書けるし、Facebookで近況をアップロードできるけれど、「社会の中で能動的に活動するため、自身の目的を達成するため、自身の知識や能力を発展させるために、文章を理解し、評価し、利用し、関与していく能力をもたない人」のことでもある。最近のOECD(経済協力開発機構)のPIAAC(国際成人力調査)の結果が教えてくれたことだが、2つの異なる非識字が存在するのだ。後者は「機能的非識字」とよばれ、イタリアにおいては10人のうちほぼ3人がこれにあたる。そしてこれは、ヨーロッパで最も高い数字だ。


この記事を読んで、個人的には「びみょう」としか言えないmixed feelingsを抱いた。決してFacebookを擁護するわけではないが、その使い方は一概には言えない。記事のように、日常の出来事や些細な幸せを友達や家族らとシェアする人もいれば、私や彼のように、社会情勢に興味を抱き、同志を見つけることによって情報の収集と発信の場にする人もいる。大学院の教授でも、あえてFacebookをプライベートな空間として使っている人もいるし、それらの人々が現実を理解できていないかと言えばそうでもない。いつの時代も自分が置かれる「現実」を理解できない人はいたと思うし、それは今日に始まったことではない。

学校組織は定着度テストロッパの能力のための手段のみにを取られ教育のもつべき野を業計画のチェックと学年末へとえてしまったしかし定着度テストに寄りかかった学校の外に取り残されるのは何だろ
(中略)OECDの警告に答えるためにこの国は能力の概念そのものを倒させなければならないイタリアに根く残る教条主的な教育が生むのは生徒の声をする学校であり教育しているよえて実際は何も教育しない学校だ能力を育て上げする教育は受容して世界を理解するための道具を教える学校へと結実する

教条主的な教育が批判的思考をダメにするといのもわかる。ただ、記事を紹介して下さった方が懸念されていたように、その答えとしてOECDの「PIAAC型」字率を上げよとするのには矛盾を感じざるを得ないPIAACは数多くある中の一つの学力しかもそれは新自由主による教育におけるグロバリゼションを推するOECD経済開発機構)が打ち出すものだその学力では地域的な特性を表面的にめるだけで文化も言語も考え方もう、ありとあらゆる国々の人々の学力やきの能力がある一定の基にてられ化されされるそしてその果が今度はそれぞれの国の教育政策を定していくのだ日本でも、「ピサ型学力」を考慮した教育政策の流れは顕著にある。月刊『ジャーナリズム』(朝日新聞出版)4月号に寄稿した論稿でも書いたように、安倍政権は、「グローバル人材の育成」の必要性を説き、公教育における英語、理数、ICT(情報通信技術)のエリート教育を正当化した。また、民主党政権下で抽出方式にされた全国学力テストを、「きめ細かい調査」の名の下に、13年度は国公立全ての学校が参加する「悉皆方式」に戻した。

このよな世界模のデタの集とによる操作又はによるOECDを始めWorld BankUNESCOが1960年代から行ってきたものでベルギーのマーテン・シモンズ、イギリスのマーク・オルセン、アメリカのマイケル・ピーターズという教育学者らによれば、「このデータ収集は、パフォーマンスとベスト・プラクティスの情報の収集と拡散にフォーカスを置く近年のグローバル政策の流れの一部」であり(Simons, M., Olssen, M., Peters, M. 2009.Eds. Re-Reading Education Policies: A Handbook Studying the Policy Agenda of the 21st Century. Rotterdam,: Sense Publishers. p. 40)、「評価による操作」という、テストの点数を上げるために教育がデザインされる本末転倒な教育統治の在り方を世界的な常識にしつつある。


そして、これらを支えているのは新自由主義により「弱化」した教育のビジョンだ。これは他でも書いたことだが、数値化できる教育なんて大した教育ではない。また、アメリカだけでなく世界的に広がりを見せている、生徒を無視した「ベスト・プラクティス」や「最高の授業」は、教育の奥深さと難しさを知らない素人の発想だ。だからテクノロジーや即席教員がプロの教員を置き換えるようなことが可能になってしまう。また、そもそもなぜ「経済開発機構」の学力に世界が翻弄されているのかといこと自体が新自由主による世界模の支配とその危性を物っているのではないだろうか


あいだは空いたものの、僕は今年で、アメリカでの滞在は計14年になる。日本で生まれ育ち、高等教育はアメリカで受けた。そんな中、一つ思うことがある。日本のすごさと特異性は、世界に出た者にしかわからないのではないだろうか。日本には、グローバルな基準に「合わせる」のではなく、それに対抗し得る、新たな幸せの形を打ち出すことによって、世界における頭角を表して欲しいと願うばかりだ。


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