2011年8月25日木曜日

ごめんなさい ~ 丸 (完) ~


あなたは、大人である自分を遥かに越える子に会ったことがあるだろうか。



それは、教えながら、何かの拍子に生徒から教えられるのとはわけが違う。



今夏の最大の気付き、それは 「自分を越える子」 が、実は8年前の自分のクラスにいたということだった。



当時はなぜ気付かなかったのか。



今だからわかるが、それは当時の自分に子どもを見る目がなかったからだ。僕には丸という14歳の少女のすごささえもわからなかった。



以前、『不登校から日本一』 にこんなことを書いた。



小関先生がおっしゃることは、すぐにはわからないことが多い。時間が経った今、愛ちゃんのケースを考えてみると、彼女のように日本や世界の第一線で活躍する子には、既に先生がいるということだと思う。自分一人の力でそこまでになるような子はどこにもいない。やはり、誰か自分の才能を認めて、未知の可能性を信じてくれる人との出会いがあり、その人に完全に自分を委ねることで、子どもは一流になっていくのだと思う。だから、もし愛ちゃんが自分のクラスにいたとしたら、彼女に 「教える」 ということは、彼女の先生に勝たなくてはいけないということになる。



それを読んで下さった小関先生は、「そこまで繋げられるようになったか」 と驚いたと言う。



しかし、今回、改めてわかったのは、自分が何もわかっていなかったということだ。



10回に渡って書いてきた今回のシリーズの最初を飾った小関先生の問い…。



    「もし自分の教えるクラスに中学生の福原愛ちゃんがいたら…」



今だからわかる。



あの問いは、自分を越える生徒に出会ったことのある者にしか答えられない。



そして、多くの者は、そういう子に出会っていることすら気付かない。



だから 『8年の歳月を越えて ~ 丸 1 ~』 で僕が、「実は福原愛ちゃんが自分のクラスにいた」 と書いた時、小関先生は笑って言った。



    「おまえそんなこともわかってなかったのか?」



先生のそんなお叱りに、僕は 「はい!!」 と元気良く答えた。






ほんの些細なその一歩が、僕にとってはとてつもなく大きな飛躍だった。



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あの晩、一通り話した後で僕は丸に訊いてみた。



今だから言えることって何?



ケチョンケチョンに言われる覚悟をしていた僕に、丸は意外なことを言った。



    「ごめんなさい。」



あの時は生意気で。自分が働いて初めてわかる苦労がたくさんありました…。丸はそう付け加えた。



僕は、丸に完全に降伏した。



(完)

たった一言 ~ 丸 9 ~

学校では、小関先生がいたし、寂しいとは思わなかったが、一人ぼっちということは丸にとって紛れもない事実だった。



僕は今更ながら自分を恥ずかしく思った。



「丸にもっとこうして欲しい」 という担任としての自分のニーズはあっても、14歳の丸のニーズについては考えたこともなかった。



ただ、たとえ考えたとしても、当時の僕に彼女のニーズに応える力が無かったことを、丸は見抜いていた。



丸は、自分にお父さんがいないことを、人には言わないようにしていたそうだ。



「だって、そこで同情でもされたら、私、本当に可哀想な子になっちゃうじゃないですか。」



だから僕にも言わなかったのだと、彼女は正直に教えてくれた。



逆に、丸がいつから小関先生のことを慕うようになったかというと、一年生の時にその秘密を打ち明けた時だったそうだ。きっと、中一の彼女なりに、何か小関先生に感じるところがあったのだろう。






ちなみに、小関先生自身もお父さんのいない家庭で育ち、丸がそのことを知ったのはつい最近のことだ。


ある日、お父さんのことを訊かれた彼女は、思い切って言ったそうだ。



    「私、お父さんいないんです。」



でも大丈夫です、との内容を伝える彼女を見て小関先生は、ただ笑って「オーケー!!」 と答えたそうだ。小関先生を丸が信頼した瞬間だった。



    「己をもって和とする」



小関先生の言葉を思い出した。



4持っている子には教員が6を出す。代わりに9持っている子には、教員は1しか出さなくて良い。どんな時も、生徒の備え持った力を見極めて、教員は足りない分だけを出せばよい。



ただ、今回学ばされたのは、どれだけ生徒が力を持っていても、教員側の提示分が決して0にはならないということ。どのような意図をもって、己を介入するか。時にそれは、「オーケー!!」 というたった一言だったりする。



その一言すら与えられなかった自分が心から悔やまれた。


(続く…)

一流の子が抱える孤独 ~丸 8 ~

あの晩、僕と丸は、8年の歳月を越えて、色々な話をした。焼酎を飲みながら。



入ったのは丸が馴染みの焼き鳥屋。22歳になった丸の渋いチョイスが妙に嬉しかった。





話しながら、僕は初めて丸と会話しているような気がしていた。なんでもっと早くこういう風に会話できなかったのか…。苦笑いをするしかなかった。



あの晩一つ、気付かされたこと。それは丸の抱えていた孤独だった。



丸は、2年生のある日、ふと気付いたそうだ。



        「一人ぼっちだな。」



丸の孤独は、ある意味必然だった。それは、自分だけの世界を持った一流の子、そうでない子の違いから生まれるものであって、きっと中学生の福原愛ちゃんやイチローも経験した孤独なのだと思う。



丸は、周りの中学生には理解できないプレッシャーや悩みと一人で闘っていた。



それは、2年生にしながら関東でも強豪の剣道部のレギュラーを張り、そのチームを間もなく任されるアスリートとしての重圧に加え、友達にも言えぬほどの貧困の中で生きる彼女の家庭環境があった。



丸の家は、母に兄一人という母子家庭だった。もちろん僕もそれは知っていたが、丸の家がどこまで貧しかったかは知らなかった。



家には食べ物もろくになかったという。その頃から、夜遅くまで働く母親に代わって、丸が料理も洗濯もしていた。ただ、運動会の日などのお弁当は、お母さんが自分で作ると言って聞かなかったそうだ。



そんなある日、お弁当のふたを開けた丸は、中を見て驚いたという。すぐに閉めたその弁当箱の中には、パンの耳だけがきれいに敷き詰められていたのだ。



その晩、丸に問い詰められたお母さんは、笑って答えたという。



    「しょうがないじゃないの。あれしかなかったんだから。」



その、あっけらかんと答えるお母さんの姿を見て、丸は子どもながらに思ったそうだ。



「この人には勝てない。」



丸は、その時のことを振り返りながら僕に言った。



「だってあんな風に子どもに言われたら、ごめんねとか言うのが普通じゃないですか。それをあの人は笑って開き直れるんですからね。」



皮肉でも何でもなく、母の逞しさを心底尊敬する丸の姿を見て、僕は逆に丸のすごさを知った気がした。貧しくても、常に母親の愛情を感じながら育った丸の逞しさに、僕は唸らされる想いがした。






パンの耳がきれいに敷き詰められたあのお弁当…。丸は友達に見られないように、隠れて食べたという。

(続く…)

全てデタラメだった ~丸 7 ~

その頃の丸はと言えば、派手でちょっと危なっかしい女の子たちが集まったグループに入り、その子たちを中心にクラスの女子をまとめていた。



それは、僕の手伝いをしようというわけではなく、ただ小関先生の方だけを向き、自分の意志で勝手にやっていたのだと思う。丸にすれば、僕が邪魔だったに違いない。あのまま僕が手放しで丸のやりたいようにやらせていれば、きっとかかあ天下のクラスを作っていたのではないだろうか。実際、剣道で関東レベルの活躍し、クラスでは女子から信頼され、胆の据わった丸に男子も一目置いていた。2008年、僕が留学のために退職する時に、クラスだけじゃなく学校の番長格だった大山を引き連れ、花束を持って挨拶に来たのも丸だった。



今考えれば良くわかることだが、あの時の僕は自分が男子と勝負することによって、逆に彼らを勢いづかせていたに違いない。



もし、今、僕があの3年B組をやり直せるとしたら、きっと僕は丸に全てを任せていただろう。



「丸、全ておまえに任せたぞ。やりたいようにやってくれ!」



きっとそんな感じだ。そうしたら僕は一匹狼だった や不登校の子、元気の良い子たちの影に隠れて日頃目立つことのなかった子たちに集中できたことだろう。



自分はなんてバカだったのだろうか。



今考えれば、3Bは本当に面白いクラスだった。卒業間近になって、僕が親しみを込めて「暴れん坊3B」 と呼ぶようになったそのクラスは、こう言っちゃ悪いがバカを寄せ集めたクラスだった。ただ、その分他にはないバイタリティーと勢いがあった。お祭りごとが好きで、実は熱く、センチメンタルで、一生懸命何かをやりたい子が揃っていたように思う。彼らのエネルギーを抑えることではなく、生かすことに集中していれば、きっとものすごいクラスになっていたことだろう。



3Bのみんな、申し訳ない! 一生懸命やったつもりだが、全てデタラメだった!!



(続く…)

愛ではなく ~丸6 ~

せっかく 「救世主」 としてクラスにもらった丸を、僕は使おうとしなかった。



勢いと情熱だけでやっていた自分にとって、生徒の力を借りようなどという頭は最初からなかったのだ。また、仮に丸を使おうと思ったところで、当時の僕には丸を扱うことさえできなかっただろう。



「先生」 を持っている人間に教えることの愚かさ ~ 丸 3 ~ でも書いたが、当時の自分は、鈴木大裕としての本音、小関先生の教え、そして教員の建前の狭間でもがいていた。






そのような教師の価値観と自信のぐらつきに、子どもというものは驚くほど敏感だ。それまでは生徒の前で 「語る」 ことを大切にしてきた自分だったが、段々と語れなくなっていく自分に気付いていた。



小関先生が僕の目の前に丸を呼んで、「どうだ、丸。大裕先生は語ってるか?」 と探りを入れるのがどれほど嫌だったことか…。



そして、僕は彼らに勝つことだけを意識するようになっていった。



毎日が勝負だった。僕と特に男子生徒たちとの間には明らかなラインが引かれ、毎日ジワジワと自分たちの縄張りを広げようとする彼らと、それを食い止めようとする僕の攻防戦。



それには、3年の教員としての、周りからの重圧も大きく関係していたように思う。



3年生というのは、中学校の最上学年だ。下級生は皆、上を見て育つし、上がだらしなければ下の学年の先生たちも生徒指導し辛くなってしまう。だから、問題の多い上級生を抑えつけられる先生が、「生徒指導のできる先生」 と思われる節が学校文化にはある。職員会議などで自分のクラスの生徒の問題行動が議題として浮上するたびに、僕はとても惨めな想いをするようになった。そして、クラス編成時は、「大丈夫。みんなでサポートするから」 と言っていた学年の先生たちは、いつの間にかそっぽを向くようになっていた。



生徒をコントロールすることばかり考えていた僕は、いつしか生徒たちを愛せなくなっていた。



(続く…)

2011年8月24日水曜日

救世主 ~ 丸 5 ~

丸がいたのは3年B組。そう、昨夏この場で紹介した  のクラスだ。



丸の学年は、2年生の時にいろいろな問題があったため、3年生に上がる時にもクラス替えをすることになった。僕は教員1年目に当時2年生だった丸の学年に副担任として入り、3学期には病欠となった学年主任の代わりにA組の担任をし、次の年はそのまま同じ学年で3年生の担任をやらせてもらえることになった。



他の学校の先生は決まって、「お前の学校はとんでもない人事をするな」 と僕に言った。普通、問題のあったクラスや、受験を伴う大事な3年生を新採に任せるようなことはしないからだ。僕が期待されていたのもあるかもしれないが、学年に人材がいなかったのも確かだ。



クラス編成…。おそらく教員をしたことのない多くの人にとっては、子どもたちのクラスがどのように決められるのかは、未知なることの一つなのではないだろうか。もはや教員ではない自分の立場を活かして、遠慮なく書くことにする。



基本的には、生徒の性別に加え、学力が中心となる。学力が明らかに偏っていると、授業の進む速度が変わってきてしまうからだ。前の学年で行われた最後の学力テストか何かの点で一列に並べられた生徒の情報カードを、クラスの数だけ一気に振り分けていく。「A, B, C, D, E, E, D, C, B, A…」 といった感じだ。



大変なのはそれからだ。「公平」 なクラス編成にするためには、考慮しなくてはならない点が幾つもある。



それらの項目には例えば、ピアノ、欠損/生活保護、リーダー、不登校などがある。



最初の、「ピアノ」 というのは、多くの読者にとって意外かもしれない。たいていの中学校では、合唱コンクールのような音楽的な行事を行う。その時、クラスにピアノを弾ける子がいないと困ってしまうからだ。



欠損/生活保護というのは、字の通りだ。親が離婚していたり、どちらかが亡くなっている家庭、また生活保護を受けている家庭の子は、ニーズが高かったり、事務手続きが大変だったりする。だから偏りがないように各クラスに分散させる傾向がある。「不登校」 も同じ理由で分けられることが多い。



どのクラスにもリーダー格の生徒は必要だ。普通は男子1、女子1を各クラスに保障する。ただこれは、あてにならないことが多い。教員の価値観によっても誰を 「リーダー」 と見なすかは変わってくるし、多くの教員は、既に出来上がっている 「優等生」 を欲しがるからだ。優等生 についてはさんざん書いてきたからここでは書かない。でも、小関先生にとっては、いわゆる 「優等生」 はリーダーにはあてはまらない。だから小関先生のクラスには、傍から見れば扱いにくい、癖のある子が多く集まり、「リーダー」 はいないことが多い。ただ、小関先生本人からしてみれば、それはダイヤモンドの原石の集まりだったりする。



そこまで振り分けたところで初めてクラス編成の土台ができるといっても良いかもしれない。本当の駆け引きが始まるのはそこからだ。たいていは一番最後の項目として、特別枠が設けられている。いわゆる 「問題児」 だ。



丸の代の3年時クラス編成には、当時学校の生徒指導主任だった小関先生も参加することになった。それによって、クラス分けは皆の予想以上のスピードで進むことになった。



簡単に言えば、小関先生がそれら特別枠の多くを容赦なく僕に振ったからだ。



「こいつはおまえ。こいつやこいつもおまえ…」 といった感じだ。



そして最後に、「その代わりにこいつもおまえ。



そう言って僕の救世主としてあてがわれたのが丸だった。



(続く…)

2011年8月23日火曜日

したたかに、逞しく ~ 丸 4 ~


 何年か振りに再会した丸は、22歳にして大手マッサージチェーン店の店長をしていた。その晩は、小関先生の取り計らいで、飲みに行く前に彼女に足のマッサージをしてもらうことになっていた。



 入ってすぐのカウンターの所に3人ほどいて、そのうちの一人が丸だった。



    「7時から店長使命で予約を入れてあるんですけど。」



 僕がそう言うと、他のスタッフの手前、恥ずかしそうに 「お久しぶりです」 と会釈をし、「担任の先生です」 と仲間に僕のことを紹介した。職業柄、丸はおしとやかになっていた。…というか、そう振舞っていた。



 その時店には5人くらいのスタッフがいたのだろうか。丸よりも年上と思われる女性も多かった。



 僕がイスに座って待っていると間もなく丸が来て、普通のお客様と接するかのように、とても丁寧な応対をしてくれた。幾つか選ぶものがあるらしかったが、僕は、全て任せると丸に伝えた。



 マッサージの間中、僕は丸の仕事についていろいろな質問をした。



 彼女が始めたのはそんなに前のことではないそうだ。ただ、始めるとすぐに指名が絶えなくなり、半年そこらで店長に任命されたという。そして、今では指名件数が全国の従業員中5位だそうだ。



 さすが小関先生の愛弟子。小関先生の師匠である奥村先生から、話術に関して 「免許皆伝」 をもらっただけはある。施術ももちろん上手いが、誰とでも合わせて相手を楽しませられる彼女と会話したいために通う客も少なくないのだろう。









 丸が、一つ印象深い話をしてくれた。先日のこと、店に入って来て間もない若い子が、客の男性にメールアドレスを訊かれてショックを受けたと丸に泣きついてきたそうだ。



 「私をそんな対象として見ていたなんて。私はそんなためにマッサージ師になったんじゃありません!!」



そう主張する彼女に丸は言ったそうだ。



 「あんたね、だったら施術だけで客があんたの所に通うだけの腕があるの?第一お金を払ってまで会いたいと思われるなんて、女として光栄なことじゃない!」



さすが小関先生の教え子。したたかで、逞しい。



小関先生の言う、「生きる力」 を目の前で見せてもらった気がした。





(続く…)



「先生」 を持っている人間に教えることの愚かさ ~ 丸 3 ~

「正直言ってあの時は辛かった。」 僕が丸にそう言うと、彼女は何も言わずに頷いた。



僕は彼女に全部話した。当時、自分が小関先生という新たな兄貴分の言うことに耳を貸しながら、彼を信じ切っていなかったために、理解できていなかったこと。同時に、それぞれ違った価値観を持つ周りの先生たちからも、「一人前」 として認められようとしていたこと。その結果、自分の言動の一貫性を失い、生徒たちを戸惑わせてしまったこと…。自分の口から発される言葉が、次第に重みを失っていったあの感覚は、今でも忘れることができないということ。



ひとことで言うと、当時の僕には  というものがなかった。



中学生というのは、子どもが大人になるにおいて、特に中途半端で、不安定で、難しい時期だ。だからこそ、信じられる大人を子どもはこの時期特に必要とするのだと僕は思う。『伝えるのは人と信念』 でも書いたように、子どもにとって本当に必要なのは明確なルールなどではなく、いつも変わらぬ不動の人格と信念であり、それを持っている親や大人が、子どもにとっての安らぎ、そして自信を与えるのだと今だからわかる。だが、残念ながら、当時の自分にはそういう視点はなかった。



「当時の丸の目に、俺はどう映っていた?」 と彼女に質問した。



う~ん…と考えたあげく、彼女は言った。



小関先生から僕のことをいろいろ聞かされ、あの時もっと話を聞いておけばよかったなと思うようになったけど、正直言ってあの時は聴く耳を持っていなかった。



そうだよな、と僕は言った。



正直言って、丸は当時の僕にとって、非常に嫌な存在だった。今だからわかるが、それは彼女が僕を越えていたという何よりの証拠だった。



丸は、小関先生の指導の下、中学1年生の時から熱心に剣道の練習に取り組み、2年生にして強豪チームのレギュラーを張り、3年生になってからは部長及び不動の大将を務めていた。



「あいつが俺のことを一番良くわかっている」 と小関先生に言わしめたのが丸だった。



そんな丸が自分のクラスにいて、僕がやり辛いと感じないわけもなかった。



いろいろ考え、何か 「ためになる」 話をクラスにしても、丸には全てを見透かされている気がしていた。自分の弱さ、浅はかさ、そして偽り…。



今考えれば、丸は何よりも、既に 「先生」 を持っている人間に教えようとすることの愚かさを教えてくれていたのだった。



(続く…。)

どうか見ていて


 昨日、末期の脳腫瘍と闘っているMr. Walkerに手紙を出した。既に字を読めなくなった先生が、見て楽しめるようにと思って買った、金色の小さな扇子が飾られた和風のはがき。






 Mr. Walkerには、てきとうなことは書けない。Holderness時代に教わったように、一語一語、丁寧に言葉を選んだ。






Dear Mr. Walker,


What gives me the courage and strength to keep going is the responsibility I feel toward your teaching and the fact that you believed in me. Watch me where I take the baton passed by you.

Daiyu



(ウォーカー先生、


僕がこうして頑張れるのは、あなたが僕の可能性を信じてくれたから、そしてそんなあなたの教えに報いたいと僕が感じるからです。あなたから引き継いだバトンを僕がどこまで持っていくか見ていて下さい。


                          大裕)

 
 封を閉じる前、ふと思い、believedをbelieveに変え、最後のピリオドの代わりにビックリマーク(!)を二つ付けた。







近くの店で切手を一枚買い、1時の郵便回収に合わせて投函した。






 Mr. Walkerの息子さんから彼の死を伝える電話をもらったのは、その日の夕方のことだった。










2011年8月21日日曜日

どのような目線で ~ 丸 2 ~

卓球の福原愛ちゃんを担任した中学校の先生は、きっとやり辛かったのではないかと思う。



彼女は遠征等で学校を休むことも少なくなかっただろうし、帰ってきたと思ったら疲れていることもあっただろう。14歳の小さな世界の人間関係に葛藤する 「普通」 の子たちを30人以上抱えながら、世界の重圧と闘うスーパー中学生を受け持った担任は、どんな風に彼女に接したのだろうか。どこまで彼女と会話をし、どんな話を他の子たちにして、どんな居場所を彼女に提供し、どのように彼女を生かし、どこまで先生らしいことをできただろうか。



「先生らしいこと」 と言っても、その形は一つではない。それが一つに決まりがちな環境では、子どもの心はつかめない。「先生たちはみんなこう言う」 ― 子どもたちがそう愚痴るのは、教員たちが子どもたちの心に寄り添えていない証拠だ。



近年、「上から目線ではなく、生徒と同じ目線で生徒と接する」 のが 「良い先生」 と思われる傾向がある。



これは間違っている。



どういう目線で接するのかは、目の前の生徒によって変わってくる。それを、生徒を観察せずに自分の目線を決定するのは愚かというものだ。



多くの場合、先生という者は高いたかい所から、親の愛情をもって導かなければならないのだと僕は思う。



今年の夏、目線の話をしていた時に、小関先生が面白いことを言っていた。



以前書いた Hannah Arendt のことを引き合いに出し、親が赤ん坊にやる 「高いたかい」 という行為が象徴的だと言うのだ。大人が子どもを引き上げ、大人の高い目線から見える世界を見せてあげる…。そういうことだと僕は解釈した。



ただ、それは多くの場合であって、それだけではない。生徒と同じ目線で物事を見つめなければならない時も必ずある。






しかし、もっと大事なのは、それだけでもないということだ。生徒によっては、下から見上げなくてはならない子も中にはいるのだ。小関先生いわく、それは 「教員を越えてしまっている子」 だ。そして、この最後のケースが一番難しい。



丸という14歳の女の子は、僕にとって、まさにこれに当てはまるケースだった。



(続く…。)



2011年8月13日土曜日

8年の歳月を越えて ~ 丸 1 ~

 思い返せば、去年の夏もかつての教え子から大きな学びの機会をもらった。2008年に教員を辞めて早3年の月日が経過したが、今になってようやくわかること、今だからできることがたくさんある。教えにも学びにも完璧はない。



 前回再投稿した 『不登校から日本一』 に出てくる卓球の福原愛ちゃんの話、読んで頂けただろうか。



 あれを書いた僕の理解は不完全だった。小関先生が若手にあの話をする度に、僕はわかったつもりでいた。若手があきらかに間違った答えを返すと、小関先生は決まって僕に模範解答を求めた。僕はいつも、先輩らしく若手に正解を提示した。でも、今考えると、先生に振られる度に、模範解答と理由を記憶の中から掘り起こしている頼りない自分にどこかで気付いていた。



 おそらく、僕にとってこの夏最大の気付きは、「福原愛ちゃん」が実は自分のクラスにいたということだった。それは「丸」という8年前、僕のクラスにいた一人の女の子だった。









 8年…。この時間をどう理解したらよいのだろうか。



 僕にとってそれは、丸に会いたいと思えるようになるのに要した時間だった。今だったら、自分の至らなさを心から謝れる、今だったら「大人」の余計な見栄を張らずに素直に彼女から学べる…。初めてそう思えたのだった。



 今年の夏、丸と何年かぶりに再会し、飲みに行った。僕の方から連絡を取り、実現したものだった。丸と会った夜、小関先生から一通のメールを頂いた。



   「心洗われたか? -^_^-」



いろいろ考えたあげく、一行の短い返事を出すことにした。



   「今日、初めて丸と会話をしました。」


(続く…)

不登校から日本一 (再)


本校の校舎に飾られた横断幕。
写真は小関先生の良き理解者、関先生によるもの。


 今年の夏、小関先生の指導のもと、一人の女の子が中学校剣道女子個人の部で日本一になった。もともと不登校だった子だ。彼女は小学校の頃、担任の先生に算数ができないということでいじめられ、そのうち学校にも行けなくなった。彼女を支えたのは家族と、好きで続けていた剣道であり、剣道を本気でやれる学校環境が中学校に通うための絶対条件だった。そんな中、剣道の指導なら小関先生という評判を聞き、うちの中学校にやって来た。自分の学区からは程遠い中学校だった。


 日本一になるような子は、他の子にない何かを持っているのだと思う。それは必ずしろ、ある競技における卓越した技術ではない。例えば、北島幸助を育てた平井コーチが、何故北島を育てようと思ったか。それは彼が水泳でほかの子どもたちから抜きんでていたわけではなく、彼の眼がギラギラしていたからだという。その女の子も、他の子とは違うところがあったのだろう。そして、それが小学校の担任には気にくわなかったのだと思う。どうしたのかと言うと、手なづけることもできずに、彼女の苦手だった算数の授業を利用して、彼女を潰してしまったのだ。不幸なことに、これは画一的な教育を行う日本の学校ではよくあること。出る釘は打たれるのだ。




 小関先生は、よく過激なことを言う。以前、こんなことを訊かれたことがある。


「もし、卓球の福原愛ちゃんがお前のクラスにいたとして、授業中に寝ていたらどうする?」


 普通の教員だったら、「注意する」 と答えるだろう。でも、小関先生は、「そのままにしておく」 と言う。


 周りの子が愛ちゃんが寝ていることに対して何か言ってきたらどうするのかと訊くと、「きっと練習でへとへとになってるんだから寝かしといてやれ」と答えればいいと言う。代わりに、起きた時に彼は愛ちゃんにいろいろ教えてもらうそうだ。練習のこと、普段の生活のこと、試合での駆け引きのこと、大会前のコンディション作りのこと、そして彼女の先生のこと。そのような彼女の体験談が、同世代の子たちに与える影響は計り知れないと言う。生徒のことも知らずに注意をしたり可愛がったりするのではなく、その子を見極めること、その子の良さを認め、その子が人生において勝負できる物を持たせることが大事なのだと教えてもらった。


 小関先生がおっしゃることは、すぐにはわからないことが多い。時間が経った今、愛ちゃんのケースを考えてみると、彼女のように日本や世界の第一線で活躍する子には、既に先生がいるということだと思う。自分一人の力でそこまでになるような子はどこにもいないだろう。やはり、誰か自分の才能を認めて、未知の可能性を信じてくれる人との出会いがあり、その人に完全に自分を委ねることで、子どもは一流になっていく。だから、もし愛ちゃんが自分のクラスにいたとしたら、彼女に 「教える」 ということは、彼女の先生に勝たなくてはいけないということになる。多くの教員は、そんなことも知らずに、勝ち目のない勝負に挑もうとする。世界クラスの子どもを育てる人間に勝る指導力を持つ教員が、全国に何人いるだろうか。残念ながら今の現場の状況では程遠い。ただ、いつか世界クラスの指導力を持つ教員を国が本気で育てようとする日が来て欲しいと願うばかりだ。




 話を今年の夏に日本一に輝いた女の子に戻そう。中学に入り、部活も学校も頑張る日々が2、3ヵ月続いたが、徐々に授業に出るのが辛くなり、毎日遅刻するようになった。特に数学の時間になると、「こんなこともわからないのか!」と他生徒の前でプライドを傷つけられることを極度に恐れ、教室に入れなかった。小学校の時の担任によるいじめが、彼女のトラウマとなっていたのだ。そしてとうとう、放課後の部活しか来られなくなってしまった。


 彼女が部活だけ参加するということについては、職員の間から様々な批判の声が上がった。学区外の子なのに特別待遇をして良いのか、甘やかすことになるのではないか、他の子に悪い影響を与えるのではないか。それを必死にかばったのは小関先生だった。彼はきっと、周りの教員に「自分が勝ちたいから」と思われていたに違いない。実際に、「そこまでして勝ちたいのか」と陰口を叩く教員もいた。


 我々教員は、皆、それぞれ正しいことを言う。子どもに嘘を教えては言えないという職業柄、知らず知らずのうちに正しい答えを求めるように訓練されていくのだ。そう、子どもたちと同じだ。こうなったら、こうする。こう訊かれたら、こう答える。まるで正しい答えが書かれているマニュアルがあるかのようだ。その理由もわからないでもない。質問する生徒によって、与えられる答えが違ったり、生徒によって叱り方を変えては「不公平」だからだ。ただ、普遍的な正しい答えが(そんなものがあるとするならば)必ずしもその瞬間の真実を貫いているとは限らない。一般的には「正しい」答えが、その瞬間、目の前の子や周りの子どもたちのためになるとは限らないのだ。


 周りの教員がその子の扱いに対して言ったことは皆正しい。確かにあれは特別扱いであったし、普通にいけば甘やかすことになっていただろうし、他の子の影響も考慮しなければならなかった。しかし、誰がその子の今までの経緯を詳しく知った上で、その子の将来を考え、心から救おうと考えていただろうか。少なくとも、その子の面倒を全てみる気持ちでいたのは小関先生だけだった。結局、周りに対する悪影響も特に見られず、一人の生徒を本気で救おうとした小関先生の熱意が、周りの子たちにも伝わった形となった。そして、また不登校になってもおかしくなかった子が、中学生日本一になったのだ。


 小関先生は、一人一人の生徒に全く別のことを言い、応対もまた違う。その生徒、その状況、その生徒との信頼関係、その生徒の指導の経緯、はてはその瞬間によって、求めるものが変わってくるのだ。授業中、一人の生徒があることをして褒められたのに、次に別の生徒が同じことをしても叱られたりする。「差別だ!」 言われると、「ばかやろう、これは区別だ!!」 と言い返す。生徒たちはそんな小関先生が大好きだ。





 不登校だったその子が日本一になった時、一人の教員が小関先生にこう言ったそうだ。


  「どうやったら日本一になれるんだよ。一年生の時に授業出ねーで、部活だけやってればいいのか?」


 その人は、そんなに簡単に日本一になれると本気で思っているのだろうか。残念ながら、「部活だけやっているから当たり前」 と言ったり、彼女のちょっとしたミスを見つけては、「日本一になったからって偉いと思うな」 と陰口を叩きそうな教員も、中にはいるのではないかと思ってしまう。だがそうではない。部活だけやっているから勝てるというものではない(実際に彼女は、二年生になって休まず授業も受けられるように成長した)。


 それに何よりも、日本一 は 「偉い」 のだ。彼女は今後、どんな道に進もうとも、どんな仕事に就こうとも、間違いなく生きていけるだろう。文科省が目指す 「生きる力」 を彼女は既に身につけているのだから(実は文科省が提案することは、元々のアイディアは間違っていないことが多い。方法論が伴っていかないのが玉に瑕だ)。彼女がここまで来るのにどれだけの苦労があったか。どれだけの壁を乗り越えてきたか。友達と遊ぶ時間も削り毎日練習をし、自分の弱さと向き合うことを強いられ、けがを乗り越え、生活の全てを剣道に捧げ、決勝のセンターコートで戦う自分の姿を何千人が凝視する中で力を発揮する器を身につけ、常に反省すること感謝することを10代前半で学んだのだ。実にあっぱれである。


 県大会で個人優勝を果たして全国大会出場を果たした彼女が、団体では力を発揮できずに関東大会で涙した。その後、何が彼女の中で変わったのか、小関先生に訊いてみた。すると、自分がチームメイトや家族やあらゆる人々に支えられ、みんなの想いを背負っていることに気付いたのだと言う。全国大会の初日に、落ち着いた表情で彼女がこう小関先生に言ったらしい。


自分はこの中で一番弱い。でも、みんなの想いを背負って一生懸命やってきます。


 不登校だった彼女がそこまで成長したのか、と心が震えた。そして、小関先生が目指す、「一流の生徒を育てる教育」 の真髄を見せて頂いた気がした。

2011年8月7日日曜日

それでいいのだ

 昨日、12歳の甥っ子が帰国した。


僕は、卒業式当日の担任の心持で最終日を迎えた。



あの時ああしてればと考え出せばきりがないが、自分の未熟さの範囲で、できることは全部やった。最後、卒業生は何を胸に飛び立つのか…。



最初は軽く考えていた今回のホームステイだったが、実際にはかなり大変だった。それは、一流の指導者に学んだ者としての自身の責任感と、姉への恩返し、甥っ子への愛情が根底にあったからだと思う。



 僕が中学生を目の前にする時、常に彼らに言い聞かしてきたのは、 『今こそが未来』 ということ。「未来」なんて「今」の積み重ねに過ぎない。だから今この瞬間をどう生きるか、それが将来そのものだと思っている。「いつかきっと」なんてミラクルはあり得ない。



 今回もそのスタンスで甥っ子と係わった。だから、「ああ、楽しかった」で終わるただの観光旅行ではなく、普通ではできない色々なことに挑戦させ、それが良い想いでも悪い想いでも、何か強烈に心に残るような体験をさせようと心に決めた。もしかしたら自分の無力さを感じる悔しい旅になっても良いとも思った。



初日から彼の覇気の無さが気になり、一つのテーマを与えた。



「失うものは何もないから、リスクを冒して冒険すること」



 でもそれがなかなか難しい。いざ誰かに話しかけざるを得ない場面になるとモジモジモジモジ…。



彼にとっては自分の弱さと向き合う、大変な旅だったと思う。ここではとても書ききれないが、滞在中、実にいろんなことを彼にやらせた。




 進んで人に自分の写真を撮ってもらい、何か物を買う時は全部自分でやり、トイレの場所なども自分で質問し、コロンビア大学の図書館で世界の学生達と肩を並べて勉強し、学生食堂でも一人でご飯を食べ、「初めてのお使い in ハーレム」を遂行し、僕の視覚障害者の友人と2人きりでNY自然史博物館に行き、NYメトロポリタン美術館も2日に渡って一人で探索し、お粗末な公教育の現状を危惧する人々のデモに日本人中学生としてただ一人参加するためにワシントンDCに行き、わけもわからないまま人々と一緒にホワイトハウスに行進し、日本の大手学習塾の全国模試でトップ30人に選ばれた小学四年生たちの10日間のアイビーリーグツアー最終日の「決意表明」に立ち合い、世界の第一線で研究している日本人物理学者と食事をし、最後はブロードウェーミュージカルで他の客と一緒になってスタンディングオベーションをした…。






今回のホームステイ、二つ嬉しかったことがある。



一つは、日本で英語習ってるけど、実際にこっちに来てどう思った?との質問に対して彼が、「英語の問題じゃなくて気持ちの問題だってわかった」と答えたこと。



もう一つは、デモのことに対して感想を求めた時、「本当はあれが普通なんだと思う。日本ではテレビなんかでみんな首相の悪口を言ったりするだけで何もしない」との答えが返ってきたこと。それがわかっただけでも、ワシントンDCに連れて行って良かったと感じた瞬間だった。



この旅が彼の人生にとってどんな意味を持つのか…。彼がその答えを理解するのは、きっと何年も先のことなのだと思う。



それでいいのだ。