2010年5月27日木曜日

再投稿 ~「優等生」を考える~




   「優等生になってはいけない。」

そんなことを言う教師はそうはいない。
でもこれこそが、小関先生が新天地にて子どもに伝えようとしているメッセージだ。



 先日初めてこのブログにコメントを書いてくれた小関先生の新天地の教え子が、今回新たにコメントをくれた。小関先生とは4月からたった一カ月そこらの付き合いだというのに、彼女たちがどれだけ先生に影響を受け、悩み、教えが入りつつあるのかが伝わってくる。その証拠に、今まで 「優等生」 として通ってきた彼女たちが急に困り始めている。以前、 『不自由していないことの不自由さ』 でも書いたように、 「困ること」 こそが学びの条件なのだ。自分は分かっていると思いこんでいる人間には学びも進化もない。知っていることと分かっていることとは違う(「守・破・離」 の前の 「信」)。大事なのは何も分かっていない自分に気づくことだ(『無知の知』)。

 優等生を褒めるのは誰でもできる。求められているのは、優等生に本気でバカと言える器をもった指導者だと思う。

 でも、そもそも 「優等生」 のどこがダメなのか。
決して勉強のことを言っているわけではない。問題なのはそのメンタリティーだ。

 誰の言うことでもハイハイと聞くYesマンに魅力は無い。そして、しまいには誰からも信用されなくなるのだ。これは子どもに限ったことでも学校に限ったことでもないだろう。もっと言えば、誰の言うことでも 「そうか」 と信じているようでは一流にはなれるはずもない。




 初めて留学した時、16歳の僕はその学校での教育に衝撃を受けた。用意された答えを要求されるような授業は一つもなく、君はどう思うのか、何故そう思うのか、どういう証拠があるのか、それではこういう視点についてはどう考えるのかなどという訓練を徹底的に受けた。自分の主張を人前で発表したり、討論したりするだけでなく、授業で質問することも、先生の意見に異論を唱えることも良しとされた。これは大学院のレベルになると尚更だ。

 しかし、日本人留学生にはそのような教育を受けてきていない者がほとんどのため、日本人は残念ながら授業で発表をしないことで有名だ。そして、それでは世界のエリートたちとはわたり合えない。




 教育現場では、よく 「クセのある子」 という言葉を聞く。

クセのある子というと、ネガティブなイメージがつきまとうが、これは教育的に言うと間違っている。少し見方を変えてみれば、クセのある子とは自分を持っている子のことを言う。その場合の 「自分」 とは、簡単には曲げられない自分の信念だと思っていいだろう。仮にそれが間違っていたり不十分な信念であったりしようが、全てを鵜呑(うの)みにするような子よりよっぽど面白いし、見込みがある。

 教育において目指すべき理想は、学校のような狭い世界における肩書だけの 「優等生」 ではなく、世界で通用する一流の生徒なのではないだろうか。

 以下は2009年9月28日の投稿だ。
タイムリーだと思うのでもう一度シェアしてみたい。





「優等生」 を考える

1.すご腕茶師に学ぶ教育の心 

 テレビを持たない僕は、勉強の合間によくYouTubeを見て気分転換をする。よく見るのが歌手のライブ映像、そして実在の人物をテーマにしたドキュメンタリー番組だ。今日は 『プロフェッショナル』 の前田文男編を紹介したい。(2010年5月27日現在では残念ながらネット上から既に削除済み。)

 前田文男さんは日本屈指の茶師だ。前田さんが他の茶師と全く異なる理由、それは彼の茶葉の選び方にあるという。

 全国からお茶が集まる静岡の茶市場。たくさんの茶師で賑わう高級茶のセクションとは離れた人気のない所でお茶と向き合う前田さんがいた。

 そんな前田さんには、お茶を選ぶことにおいて一つの流儀がある。

     「良いお茶ではなく、伸びるお茶」

 年間50種類以上ものお茶を世に送り出す前田さんが一番こだわりを持っているのは、100グラム1000円の一番安いお茶だという。なぜか?彼は言う。

 お金を出せば良いものは提供できる。でも、作って良くなるお茶こそが茶師としての腕の見せ所だ。

 僕は知らなかったが、お茶は通常一種類の茶葉だけでできるわけではないそうだ。味はいまいちだが香りの良いお茶、見た目は悪いがコクのあるお茶、香りは良くないが色の良いお茶、特徴はそれぞれだが、何種類ものお茶を混ぜることによって極上の一杯ができるのだという。

 ではどうやって「伸びる」お茶を選ぶのか。前田さんはお茶の声に耳を澄ますのだそうだ。「お茶が何かを訴えている、そんな感覚」だという。誰にも相手にされなかったお茶を、心を込めて磨き、宝石に化けさせる前田さん。預かったお茶は絶対に最後まで面倒を見て、自信を持って世の中に送り出すという信念を持っている。



2.教員という仕事

 本題に入る前に一つ言っておきたいことがある。僕は教員という仕事は、人にできる最も尊い職業の一つであると思うし、自分が教員であったことを誇りに思っている。今、必死に勉強しているのも、将来、有能な人材が教員になりたいと願い、親は教員を心から信頼して子どもを委ね、委ねられた教員が真に教えに浸れる環境作りに貢献したいと思っているからだ。でも、そんな想いがあるからこそ、現場に立つ教員に求める要求も高くなってしまう。教員批判と取られる所もあるかと思うが、自分では逆に教員を弁護しているつもりだ。

 これは自分の教員組合に対する疑問も反映している。本当に先見性を持って教員の立場を守ろうとするのなら、弱い教員を守ることに奔走するより、頑張っている教員を守るべきだと思う。そうすることが教員の社会的地位を高め、質の高い教育を約束することにつながるのだと信じている。小作農のように、その場しのぎの問題解決を続けたところで明るい未来は拓けない。

 給料も良くない教員にわざわざなろうという人に悪い人はいない。少なくとも僕はそう信じている。ただ、良い人が良い教員になるのかといったら、それは全く別問題なのだ。



3.「優等生」を考える

 前田さんのお茶に対する姿勢は、小関先生の子どもに対する姿勢と通ずるものがある。小関先生も優等生には興味を示さない。

 優等生は、教員であれば誰の言うことでも、 「はい」 「はい」 ときちんと聞く。理由もわからずに大人たちに言われたことをうのみにしてしまうのだ。以前、 『不登校から日本一』 でも書いたが、教員は皆正しいことを言う。ただ、それがその子、その場面において最適な助言であるとは限らないし、それぞれの助言が食い違うことも少なくないのだ。 「あの先生はこう言っていたのに…」 と思ったこと、誰でも一度は経験あるのではないだろうか。最終的には、自分の心と相談し、頭で考えて判断することを学ばなければ、その子は自由に生きていけない。でも、不幸なことに、多くの教員はそんな、自分にとって都合の良い子どもを育てようとしてしまう。

 だいたい、 「優等生」 というのは、大人が勝手に押し付けるラベルに過ぎない。何かの拍子にそのラベルがはずれてしまった時、又は大人の号令なしには動けない自分に気付いた時、ふと自分の心にぽっかり空いた空洞に気がついた時、その子はどうするのだろうか。大人たちに裏切られた、と感じるのではないだろうか。自分の内なる声を押し殺し、ただ盲目に 「正しい」 大人たちの価値観の中で育つ優等生。そんな「自分」のない子どもを育てるのは罪だ。

 2008年に教員の仕事に区切りをつけた時に残してきた野球部の一年生が、今ではチームを引っ張っている。当時副顧問として僕をサポートしてくれた若手の教員が、僕の意志を引き継ぎ選んだキャプテンがいる。バカもたくさんして来たし、多くの教員にとっては扱いずらい子かもしれない。でも、子どもらしいエネルギーがあり、手をかければ間違いなく 「伸びる」 子だと、そう信じている。

10 件のコメント:

  1. 今回の記事をみて、私の大学時代の恩師の言葉を思い出しました。

    彼は、私の人生に大きな影響を与えてくれた人物の一人で、日本の大学を中退後、アメリカの学部・院を出て、国際機関の勤務、海外の大学で教授職、その後退官間近に日本の帰ってきたという、いわゆる『国際派』(こういう言葉は嫌いですが)の教授でした。彼が私と二人で話をしたり飲んだりする際によく以下のようなことをおっしゃっていました。

    『学生(ひいては人間)には、大きく分けて4タイプいる。
    1)A)真面目か、B)不真面目か
    2)あ)優等生か、い)劣等生か
    日本ではなぜか、A)かつあ)タイプ、つまり真面目な優等生がエリートとして持て囃されるが、世界のエリートとやりあわなければならない場面では、殆どこういうタイプは使い物にならない。またそういうタイプは総じて打たれ弱く、タフでない。
    これまで日本の教育制度では残念ながらそういうタイプばかり育ててきて、これからはそんな人材ばかりでは日本は発展していかないし国際的な場面でも引き離されていくばかりである。君には、B)かつあ)、つまり、「不真面目な優等生」を目指してもらいたい』

    また彼の経験によれば、海外で多くの日本人学生をみてきたところ、多くの『優秀とされる』学生は、小さい頃から先生の言うことをよく聞き、いい学校/いい成績、という枠の中で評価されることに慣れきっていて、海外での留学生活(特に大学院だと、与えられた答えをコピーするだけでは全く評価されず、どこまで自分の頭で問題設定・議論・回答できるかが勝負)になじめない、ということでした。

    詳しくはまた次の飲みの機会にお話しますが、私なりに解釈したところだと、真面目な優等生は、問題を与えられている場面やこれまで経験したことがあるような場面では滅法強いが、そうでない場合にはあまり対応ができない。
    そして、学校以外の場面、あるいは海外の生活だと、問題/解法のプロセスを最初から与えられている場合は殆どなく、そもそも何処が/何が問題なのか、問題設定できることや、未知の問題に対処できることが重要である。また絶対的に正しい回答も存在しないため、自分の頭を使って試行錯誤することが重要である、と理解しています。
    (日本語の語感だと、『不真面目』というのは、『怠惰』だったり、『(悪い意味で)いい加減』だったりするようなニュアンスを持ちがちですが、彼が意味していたのはそういう意味ではありません)

    多分、教授は、私が不真面目な劣等生であったため、せめて『優等生』になってくれ、という意味もこめて励ましてくれたのだと思っていますが、今でも仕事や留学において、彼の言葉をよく思い出します。

    また、私自身は、小学校・中学校と、いわゆる『問題児』であったので、全く真面目でもなければ優等生でもありませんでした。いろいろな幸運や出会いに恵まれ、楽しく仕事・勉強ができるようになりましたが、これも両親や何人かの先生(大学時代の恩師も含め)が匙を投げず、暖かく導いてくれたからだと思っています。

    大裕さんや小関先生のような先生方が一人でも教育現場で増え、一人でも多くの生徒さん達が、素晴らしい出会いを通じ、どんどん自分で問題を見つけ、試行錯誤していくことができるようになっていけばいいな、と思いました(私もどんどん精進していかねば、と気を引き締めたところです)。

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  2. masaさん、
     いつも僕の言葉を真剣に受け止めてくれてありがとうございます。恩師の「不真面目な優等生を目指して」という言葉、とてもよくわかります。masaさんのような一流弁護士からの言葉は、きっと多くの人たちに重みをもって伝わることでしょう。バックアップありがとうございます。来週にでも「バーチャルからリアルへ」の飲み会をしましょうぞ。

                  大裕

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  3. 大裕先生、こんばんは。3度目のコメントになります。今回もありがとうございました。

    「求められているのは、優等生に本気でバカと言える器をもった指導者だと思う。」
    の件では、とても共感できました。小関先生のように「勉強のできるだけの寂しい人間」に「馬鹿」と言える教員がもっと増えれば、私のような子が間違いに気付くのになぁ、と常々思っています。

    思い返すと、私に「馬鹿」と言ったのは宮原先生が一番最初でしたが、出会って最短で「馬鹿」と言ったのは小関先生でした。
    赴任してこられてから数日経ち、ようやく部活に顔を出された先生は、素振りをしている部員の中から私を呼び出し、「お前だけ周りの奴らと顔が違う」とおっしゃられました。私だけ、つまらなそうな顔をしていると言うのです。
    衝撃でした。「この人は宮原先生とは比べ物にならない位凄い」と感じたのもこの時でした。
    この時期私は勉強を捨てられず、剣道に全てを賭けられない自分と宮原先生に対して否定的な親、そして当たり前の行動ができない学校の生徒が大嫌いで、毎日を過ごすのが苦痛でした。
    それを誰にも指摘されなかったのに、会って数日の小関先生に見破られて思わず泣いてしまいました。
    (実はこの後にも私のことで見破られたり指摘されたり泣かされたりがたくさんあったのですが、長くなってしまいそうなのでとりあえずこのあたりで…)

    といったことで私は見事に小関先生にどっぷり嵌まり込み、「あんた本当に小関先生に洗脳されてるね」「お前は小関ロボットになりたいのか」などと親に言われている次第です(笑)
    けれど私は小関先生のおかげで将来の夢も決まってきて、1年前の自分より今の自分の方が遥かに好きです(今でも馬鹿な自分は嫌いですが“大”嫌いではなくなりました)。

    これからも大裕先生のブログから知識と元気をいただきたいと思います。頑張って下さい。

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  4. 久しぶりにコメントをつけてみました。

    官僚になっている人の多くは、
    学校で”優等生”とよばれる人でしょう。
    先週終わった事業仕分けでも、
    官僚が、たじたじの回答の様子を見ると、
    この人たちは、仕事の中身を、
    疑うことがなく、ただ言われるがまま、
    ”慣例”という言葉で、
    言い訳をして、日々こなしているんだろうな…と。

    学校の先生も、自分の子ども時代は、
    ”優等生”と呼ばれてきた人が多いはず。

    ”なぜ”と考えることは、訓練が必要なんだと思う。
    日本は、”察する”という文化が尊重されてきたし、
    歴史や文化は、アメリカとは違うから、
    長い間、日本の中では要求されてこなかった。
    だから学校でも、訓練をしてこなかった。

    ”慣例”となっている教育を変えることは、
    たやすいことではないけれど、
    現場にいる一人ひとり、
    気づいたものが変えていくしか、
    今は手段が無いように思う。
    あきらめずにやっていくことが、
    その先の未来につながるはずと信じて。

    大裕さんの言う優等生は、
    一見すると素直にもうつるのでしょうね。

    AKI

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  5. 優等生という言葉が何を意味するのか、大変興味深いですね。僕の経験から言えば、優等生とは成績が良く、素行にも全く問題のない生徒のことを指しているかのように思いますが、その段階で、価値を押しつけているだけのように思ってしまいます。

    価値というのは無論、押しつけなければならない物です。しかしそこからの反発が無い場合は、押しつけることを辞めなければならないのかどうか、いつも気になります。いわゆる優等生を指導していると、だいたい言ったことはすべてやってくるので気分は良いのですが、それでいいのかという後ろめたさは拭えなかったですね。だいたい、自分に教えるために必要な人格だとか哲学だとか、十分に備わっているとはまったく思えないのに、それに生徒が従うのはある意味恐ろしかったです。

    うーむ、上手く纏められませんね笑。

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  6. 理乃さん、
     いつも小関先生の逸話をどうもありがとう。アメリカにいる自分にとって、新天地での小関先生の様子を知るための貴重な情報源です。

     小関先生に叱ってもらえて幸せだね。楽しそうに「バカ!」と叱る先生の笑顔が目に浮かびます。愛されてるねぇ~。

                 大裕

     

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  7. AKIさん、
     忙しいのにコメントありがとう。
    「優等生は、一見すると素直にもうつる」という点、少し引っかかりました。もちろんそうなのだけど、他の子が素直じゃないかというと、それも違う気がする。「訓練されていない」といった方が正しい気がする。子どもは皆もとはまっさらだから、結局はまわりの大人たちがどんな付き合い方をしてきたのかによるのだと思うよ。

                 大裕

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  8. hoshinoさん、
     「いわゆる優等生を指導していると、だいたい言ったことはすべてやってくるので気分は良いのですが、それでいいのかという後ろめたさは拭えなかったですね。」

     良くわかります。小関先生も、「教育の力」とともに、その「怖さ」についてもよく語っておられます。

     少し考えてみました。もし、小関先生のこともろくに知らずに言うことを何でもハイハイと聞く子がいたら、先生はどうされるだろう?きっと何も教えないのでは、と思いました。

     「人の意見はどうでもいいからおまえはどう思うんだ?」 「バカやろ。自分で考えろっ!!」などと言って突き放すのだと思います。何も言われなくても行動できる、一つ言われたら5つやる、小関先生が生徒に求めているのはそんなことなのだと思います。

                   大裕

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  9. やっほう!ものすごく久しぶりに大裕のブログにきて、スポンジになったかのようにバーっと全部読んだよ。

    とくに「優等生」、いまちょうど私もキーワードにしていたから、シンクロに驚きました。いま、家では「ヤダヤダ」全盛期の怪獣桃が、どうも保育園ではスーパー優等生をしているようなの。先生に褒められまくっている。だけど、4月から入った保育園が、旧来型の「しつけ」系の保育園でね。親としてはフクザツな気持ちなのです。桃はなまじそこで頑張れちゃってる分、家で膿を出しているかのようなの。家で出せているからまあいいかと思いながらも、子どもが長い日中を過ごす場所について、日々考えるようになりました。

    集中力があって真面目な気質を持っている子が「面白い」子になるか、つまらない優等生に仕立て上がるかは、大人の責任。幼少時にどんな環境を用意するかにかかっている気がするよ。小さな子どもは、自分が育つ環境を選べないもんね。

    小学生、中学生になってから「優等生」の蓋を開いてあげられる恩師に出会えたらいいけど、学校に入ってからどんな出会いが待っているかはわからない。だから、せめて小さな頃に思い切り自由に、子どもの「やりたい」を応援してあげたい。遊び心のある優等生なら、素敵だもんね。

    保育園を出るということは自分が(少なくても今の)仕事を辞めるということでもあり、真剣に悩んでいる今日この頃です・・・

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  10. 愛さん、
     いっらしゃい。そしてコメントありがとう。

    桃ちゃんはさ、きっとどこにいても大丈夫な気がするよ。赤ちゃんの頃からあんなsocialな環境で育って、あんなに人が好きな子は珍しいと思うよ。それこそ小関先生の剣道部の子たちのように、人の良さを心から信じてる子だと思うよ。だから大丈夫。

    もしまだまだと感じているのだったら、お父さんお母さんが桃ちゃんの中の「絶対」になることが大事なんじゃないのかな。そうなっちゃえば、誰の言うことでもハイハイと聞く都合のいい優等生にはならないはず。基準(守破離の守の部分)さえ与えてあげればどこに出しても大丈夫だと思うよ。

                    大裕 

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