2010年5月25日火曜日

教員を評価することの難しさ 2 ~「良い子」と「一流の子」の違い~

 今回、またしても小関先生の新しい赴任先の剣道部の他の生徒から、このブログ上にコメントを頂いた。立て続けに中学生の純粋な心と勇気に触れることができて幸せだ。現場にいる教員たちを心から羨ましく思う。



 女子剣道部の部長をしているという彼女は、父親からの一通のメールがきっかけでコメントをくれたのだそうだ。このブログに書いてある小関先生の話を読んで感激して下さったという彼女の父親は、彼女が反対を押し切って塾を辞めたにもかかわらず、彼女が置かれた環境の有難さ、そしてこれからの彼女に対するエールを綴ったそうだ。そして、彼女のコメントからは、自分を信じて支えてくれる親に対する感謝の気持ちと、 「良い子」 になろうとするがあまりにずっと 「自分」 を持てずにきた自身に対する力強い決別の意志が伝わってきた。



 多少話がそれてしまうかもしれないが、関連付けて書いてみたい。



 その前に一つ、皆さんに知っておいて頂きたいことがある。このようなトピックになると、どうしても教員批判をしているように聞こえてしまうかもしれないが、それは僕が意図するところではない。自分はこれでも精いっぱい教員を弁護しているつもりだ。前にも書いたように、僕は教育を志す人にもともと悪い人はいないと信じている。ただ、教育への想いが強くなればなるほど、教員に対する目も厳しくなってしまうのだ。本気で教員を守ろう、教育を変えようと思うのなら、教員のダメなところも変えずには実現できないと思う。教員を守るということの先には常に子どもたちを守るという目的がなくてはならない。



 さて、前回は学級指導のことについて主に書いたので、今回は部活指導における評価の無さについて書いてみたい。



 全国クラスの剣道部の顧問を務める教員であれば、誰もが小関先生の価値を理解している。ただ、前任校では、小関先生が遠征から学校へ戻るとその理解は消えてなくなるのだった。



 どれだけ県外の全国クラスの招待大会に毎週末のように遠征しても 「好きでやってるのだから」 とねぎらいの言葉もなく、そこで優勝しても 「いい子が揃っているから」 とあしらわれる。県大会で優勝しても何のニュースにもならないほど、学校全体の感覚がマヒしていた。残念ながらその価値を分かっている教員は管理職を筆頭にほとんどいなかったのだ。



 小関先生がよく引き合いに出す一つのエピソードがある。前々任校時代のことだ。その学校は、千葉市でも 「ナンバースクール」 と呼ばれる古く由緒正しい学校で、歴任の校長は力のある大物ばかりだった。その中でも特に大物と名高かった校長が、ある日小関先生を呼び止めて言ったそうだ。


いつも学校と子どもたちのために遠くまで大会に行ってくれてありがとう。


小関先生は今でもその一言に感謝している。



 それと比べると前任校で経験した管理職の多くは、週末を使って他県に遠征するのがどれだけ大変でどれだけお金がかかるのかわかろうともしない有様だった。



 最初のうちは親御さん方の理解を得るのも大変だった。きっと何故そこまでしなければならないのか理解できなかったのだろう。 「良い子」 に育てばいいと思っている親と、 「一流の子」 を育てようとしている小関先生との温度差だったのだと思う。子どもに求めるところを「良い子」 に設定している親に小関先生の価値がわからないのは当然の話だ。だから、自腹を切ってでも全国クラスの子どもたちの姿を見せようと先生がしても、多くの親御さんが 「子どもが勉強する時間がない」、 「サポートしきれない」 などの理由で反対した。



 ちなみに、週末の部活指導は、やればやるほど教員にとって赤字が出る仕組みになっている。何故か。週末、6時間以上部活指導をした場合、千葉市で手当として支給されるのはたった1600円程度だ。仮に6時間きっちり部活をしたとしても、時給にしたら300円にも過ぎないのだ。交通費、昼飯代を考慮すればトントンというところだ。他県などに遠征をしても余分な交通費はおろか、宿泊費など支給されるはずがない。小関先生も最初は万単位のお金を毎週末のように自分のポケットから出していた。



 どのくらいの月日が経ってからだろうか。子どもの意識の変容に伴い、親御さんの意識が段々と変わり始めた。 「また行くのか」 から 「また連れて行って下さる」 となり、車出しも始まり、最低限の経費も親の方で何とかしますという好ましい形に変わっていった。



 「好ましい」 のは家庭にとっても同じだった。以前、 『人が育つ社会のあり方③』 でも書いたように、前任校の親たちのほぼ全家庭が、毎週末のように行われる遠征や大会にかかる費用を共働きをして支えていた。その上、つかの間の休暇のはずである週末も遠征のために車出しをして、会場に着けば 「可能性無限」 と書かれた剣道部のTシャツを着て、子どもたちに力強い声援を送り続ける。



 「自分たちにできることだったら何でもするからお前たちは精いっぱい勝負してきなさい。」



 子どもたちに伝わっているのはそんなメッセージなのだと思う。一丸となって子どもと共に勝負をし、子どもの成長に号泣する親御さんたちの姿を見るだけで、こちらまで感動してしまう。



 大会の翌日も自分たちのために弱音も吐かずに働きに出る親。小関道場の子どもたちは、そんな親の背中を見て、中学生の段階で既に親に対する感謝と尊敬の念を抱いていくのだ。本気で一流の子どもを育てようとする親は、気付かぬうちに自らが一流になっていく。



 僕は、一流の親は皆、自分の命よりも大事な子どもを教育者に委ねる器を持っている人間だと思っている。 『人が育つ社会のあり方①』 で僕は、教育において人に責任を持たせるということは、委ねることだと書いた。 「やりたいようにやってくれ」 と言われることは、教員にとって最高の贅沢であると同時に、それ以上ないプレッシャーと責任を与える。そのプレッシャーを困ると感じるようならば教員にならなければ良い。



 説明する必要もないかもしれないが、委ねるということは、親としての自分の責任を放棄することとは違う。今回コメントをくれた生徒の親御さんが良い例だ。



私はおまえの先生を心から信じているよ。

だからおまえも先生の下で一生懸命学びなさい。



 もし親がそんなスタンスでいるならば、子どもはその先生からスポンジのように吸収するだろう。でも、大事なのは、親がまず子どもの心の拠り所(よりどころ)となっていることだ。今回コメントをくれた彼女にとって、父親からのメールがそこまで心に響いたのは、両親が彼女の心の支えだったからに他ならない。



 きっと、彼女が 「良い子」 の殻を脱皮する日は、そう遠くはないだろう。

2 件のコメント:

  1. こんにちは、先日コメントさせていただきました、小林です。
    『人生の勝者となること』、読ませていただきました。
    私のように、どこにでもいるような普通の中学生に対して真摯に応えて下さったことに、とても驚きましたが本当にありがたいことだと思っています。
    今回のことで、やっぱり人と人との出会いって素敵だな、と改めて感じることができました。
    そう感じることができるようになったのも、小関先生と出会ったおかげだと思っています。
    小関先生と出会ったことで大裕先生とも出会えて(実際にはお会いできでいませんが…)、私は今、私が出会った全ての人との繋がりに感謝しています。


    私たちのキャプテン、部長である惣川さんの話と似てしまいますが、少しだけお話させていただきます。
    私も惣川さんと同じく、『ただの良い子』でした。或いは、まだ『ただの良い子』なのかもしれません。
    先生の話をよく聞き、テストでは学年でトップと取り、生徒会長を務めてクラスの不良を注意する…普通の教師にとっては都合の良い『優等生』です。
    型にはまっただけの、どこにでもいる『優等生』。私は今、そんな人間として生きてきた15年間を悔いています。
    私は小さな頃、引っ込み思案で人見知りが激しく、よくいじめられていました。周りの人間を信じることができず、とにかく勉強することで、他人より優位に立とうとしていました。
    一人でずっと本を読んでいた毎日だったせいか、勉強は人よりできるようになっていきました。先生に褒められることしかできない自分に、満足していました。
    ちっぽけな世界の中で、大きな自尊心だけが膨らんでいき、あっという間に『優等生』の完成、というわけです。
    今はその虚ろだった15年間を取り返そうと、一分一秒小関先生と長く話そうと努力しています。


    小関先生といえば、今日まで修学旅行で長野に行っていました。
    夕食の席で、先生方は離れた場所で食事をとっていたのですが、私はコップに水を注ごうと小関先生の席へ向かっていました。
    従業員さんに頼んで水をポットに汲んでいただくと、ポットいっぱいに水が入っていたのですが、私はそのまま注いでしまいました。
    当然、水は零れます。私はもう気が動転してしまって、ひたすら小関先生に謝ることしかできませんでした。
    ですが小関先生は特に何も言わず、「いいから、これで拭け。」とおしぼりを渡して下さいました。
    最近そうしたことが多かったので、「最近、何をやっても空回りしてしまうんです…」と話してみたところ、「そんなのはどうでもいい。やろうとすることが大切なんだ。」とおっしゃられました。
    なんだかその一言でスッと楽になってしまって、失敗することがあまり怖くなくなりました。
    大裕先生が聞いたら小さなことだと思うかもしれませんが、他の教師のように怒るわけでも笑うわけでも、ましてや手伝うわけでもなくそう言ってくださる小関先生を、改めて大きな人だと感じた一件でしたので、一応報告させていただきます。


    またしても長い文章になってしまい、申し訳ありません。
    長野から帰ってすぐに打った文章なので、所々おかしいかもしれませんが、お許し下さい。
    では、ご迷惑でなければ、またご連絡したいと思います。
    これからもブログを楽しみにしています。ありがとうございました。

    返信削除
  2. 理乃さん、
     おかげでまた小関先生の教えを振り返る良い機会になったよ。ありがとう。

     あと、今回は修学旅行の逸話までシェアしてくれてありがとう。その時の光景が鮮やかに伝わってきました。それを読んで、決して「小さなこと」だとは思わなかったよ。小関先生のおっしゃることやされることは全て繋がっているから、意味のないことは一つも無いよ。

     これは今度書こうと思っているけど、宮原先生にも感謝だね。こうして1カ月そこらの短期間でこれだけ理乃さんたちが小関先生の教えを吸収できているのは、宮原先生があなたたちの心をしっかりと耕してくれたからだと思うよ。「守破離」の前の「信」とはそういうことを言うんじゃないかな。夏の総体で宮原先生への恩返しができるといいね。遠くから応援しているよ。

               大裕

    返信削除