2010年11月2日火曜日

「枠」 ではなく 「芯」 ~「自由」 を捨てて自らを解き放つ 3~




型とは 「枠組み」 ではなく精神の 「芯」 である。


 ここ数回に渡り、 「守・破・離」 の教えにおける型と自由の関係について考えてきた。このテーマの最大のチャレンジは、真逆とも取れる 「型」 と 「自由」 が実は共存するということを言葉で説明することだ。いろいろ考えたあげく、難しさの一因は 「型」 が持つイメージにあるのではないかという結論に至った。


 型というと、一般的には形を決めるための「枠」のことを指すのではないかと思う。もし型を枠と捉えれば、確かにそれは自由と相対するものになる。こうしなければいけない、そうしてはいけない、これが正しい、それは間違っている、これが必要、それは不要…というように、自分の行動、思考、信念など全ての自由を制限するだろう。


 しかし、もし型を 「精神の芯」 と捉えたらどうだろう。その場合、型は行動、思考、信念の枠組みではなく土台を意味する。「守・破・離」 の教えにおいて、自由とは 「精神の自立」 を意味するのではないだろうか。



あとがき (2010年11月2日)

 前回も紹介した 『武の素描 ~気を中心にした体験的武道論~』 という本で、筆者である大保木輝雄先生は次のような結論に至っている。



技の歪みを正し、身体を正すことによって、

何物にもとらわれない自由な心の在り方を会得させる、

それが剣術の 『かた』 習いの本義であった。




 今度改めて紹介したいと思うが、この前も書いたように、先週の土曜日から約2週間の予定で、盲目の和太鼓奏者、片岡亮太君が日本から我が家に来ている。滞在2日目、Teachers Collegeの太鼓愛好会の練習会で彼のパフォーマンスを聴く機会があった。彼の演奏は、DVDでは観たことがあったが、ライブは初めてだった。音楽を言葉で説明するとどうしてもチープになってしまいそうなので避けたいと思うが、少なくとも、彼のビートが和太鼓が好きでそこに集まった人たちの心に鳴り響いたのは確かだった。


 演奏後、音楽療法師である僕の妻が言ったことの中で、一つの言葉が僕の頭から離れなかった。


   「軸がぶれないよね」


亮太君は嬉しそうに、意識しているんです、と答えた。


 そんな亮太君も、そこにたどり着くまでには相当の苦労があったようだ。最初のうちは、師匠である仙堂新太郎先生にいつも叱られていたらしい。


「おまえは太鼓の前に立つだけで体が硬直しているように見える。」


 自分ではそんなつもりは全くなかったらしいが、どうやら、目が見えないがために物にぶつかる恐怖心が体に染み付いてしまっていたらしい。思考錯誤を繰り返したが、先日ゲストとしてこのブログに登場してくれた、亮太君の良き兄貴分でもあるマサさんの助言で始めた 「ゆる体操」 という筋肉のマッサージが大きな転機となった。それにより、硬直していた筋肉の質が変わり、「軟体動物」 のようになったという。


 体をリラックスすること、そして体の軸だけに意識を持って行くようになってからというもの、驚くべき変化があったそうだ。


 まず、駅前などで停めてある自転車などにぶつかっても、それまでのように自分が倒れることが無くなった。古武術のように、体に衝撃を受けても、まるでカーテンのように体が衝撃を後ろに逃がすのだ。面白いことに、意識を体の末端から軸へと移すことによって末端は解放されるのであった。


 もう一つ、亮太君を驚かせたことがあった。それまでは、何台もの太鼓を使って演奏する時、意識は自然と体から遠い所にある太鼓に向かっていた。しかし、いくら遠くの太鼓を意識しようともなかなか正確には打てなかった。それが、逆に意識を中に、体の軸へと向けるようになってからは、亮太君のバチは不思議なくらい正確に、遠くの太鼓をとらえ始めたのだそうだ。


 何故僕がこんな太鼓の話を持ち出すのか。それは外から内へと意識のベクトルを変えることによって解放された亮太君の姿が、小関先生という自分の芯を持つことによって外に散らばる 「正解」 の呪縛から解かれた自分の姿と重なったからだ。


 型が 「枠」 から 「芯」 へと変わっていく過程、それは無秩序であった一つひとつの行動が軸を中心に回り始め、小宇宙としての摂理が生まれていく過程を表しているように思う。

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