2009年10月14日水曜日

形にできない想いを乗せて

Fulbright Enrichment Seminarにて (一番左がJana)


 去年、渡米直後に参加したフルブライトのセミナーで、チェコ人のヤナ(Jana)という親友ができた。心震える出会いだった。

 セミナー二日目。お楽しみアクティビティーとして、僕らはデンバーの郊外にある山に登り、そこからデンバーの街並みを見渡した。周り一面に広がる美しい平野。その真中には、人工的で醜いビル街が、空を主張するように競い合って立っていた。

 何台もの観光バスが乗りつけた展望台は、世界中から集まったフルブライターでごった返していた。肩を組み合って写真を撮ったり、双眼鏡を覗いたりして、見慣れない光景を前に皆はしゃいでいた。

 周りの皆と同じメンタリティーになれなかった僕は、同じようにつまらなそうにしているヤナを見つけ、声をかけた。


   「ねえ、ヤナ。ちょっと散歩しない?」


 舗装された駐車場の裏は、なだらかな丘になっていた。僕たちは無言で歩き始めた。
 少し歩くと急に人気がなくなり、つい先程までの喧騒が嘘だったかのように、静けさが僕たちを包んだ。


 横を見ると、ヤナもその心地よい静けさに聞き入っているようだった。


 沈黙を埋める無意味な言葉は必要なかった。

 
 そして、時計の針が止まった。


 時計の束縛から解放されて自由になった時間が、二人の心を膨らませた。僕はヤナと、以前 『時間について』 でも紹介したウィリアム・フォークナーの言葉をシェアした。

“Father said clocks slay time. He said time is dead as long as it is being clicked off by little wheels; only when the clock stops does time come to life” (「お父さんが時計は時間を殺すと言っていた。小さい歯車にカチッ、カチッとはじかれている限り、時間は死んでいる。時計が止まって初めて時間は命を得るのだよ、って。」『The Sound and the Fury』より.) 


 ヤナは僕が言わんとすることを、僕が選んで発する言葉以上に分かっていた。


 宇宙、無限、悠久、時間、命のサイクル、その一部である自分…。
 その後も、時を忘れていろいろな話をした。


 来た道を戻り、展望台の人ごみの騒音が聞こえてくると、思い出したかのように時計の針がまた動き始めた。


 ものの15分だったのだろうか。二人が分かち合ったその一瞬は、永遠のように感じられた。


 人生とは不思議なものだと思った。出会って間もないチェコ人のヤナと、アメリカのコロラド州デンバーの山で、魂が触れ合う経験をしたのだ。

 二人とも英語は母国語ではない。でも、お互い、共通の言語を持っているかのように感じている。彼女と対話している時は英語で話していることさえ忘れてしまうのだ。言葉はただのきっかけに過ぎない。

 だからこそ、なのだろうか。言葉の限界を感じる。今は既にチェコに戻っているヤナとの交流はメールのみなのだが、彼女にメールを打つ時、普段使わないエネルギーが必要となる。彼女に対する特別な想いを活字に綴ることに戸惑いを感じるのだ。自分が選ぶ言葉は、自分の感謝と喜びに値するのだろうか?自分の表情や形にできない想いを正確に運んでくれるのだろうか?

 心震える想いというものは言葉にし難い。形のない、何とも言えない想いだからこそ心が震えるわけであって、それを自分の祖先たちがつくり上げた言葉という形にはめるのは所詮無理な話なのかもしれない。

 自分自身にとっての「書く」ことの意味については 『人生の先生』 でも語った。少なくとも僕にとっては、書くという行為は妥協の連続である。自分の限られた言葉の選択肢の中で、ああでもない、こうでもないと繰り返し言葉を当てはめてみて、自分の真実に最も近いと思われる言葉を選ぶのだ。やっとの思いで選んだ言葉が、最初に感じた想いやイメージと完璧にシンクロすることはないように思う。その誤差は、形のないものに形を与えようとする者の宿命として受け止める他はない気がする。

 形にならない作者の複雑な想いをより正確に伝えるには、ドキュメンタリーより小説、小説より詩の方が適していると思う。言葉は少なければ少ない方がいい。数少ない言葉を手がかりにして、その言葉に含まれるニュアンスや、その言葉が背負う歴史や文化のイメージを彷彿させ、自らの想いを映し出すのだ。

 その意味で、僕は日本の俳句を心から誇りに思う。作者たちは、5、7、5の限られた枠からは想像もできないほどの大宇宙を描き出す。


   夏草や 兵どもが 夢の跡 (なつくさや つわものどもが ゆめのあと)


言わずと知れた松尾芭蕉の詩である。もちろん、間違っているかもしれない。でも、僕には芭蕉が目にした真夏の光景が鮮やかに見えるような気がする。

 高校時代の恩師に文学の面白さを教わった自分も、比較文学の博士号を追及しているヤナも、言葉の限界を感じつつも、そんなインパーフェクトな言葉を愛している。作者たちが、様々な言葉を紡ぎ、一生懸命自分の真実を伝えようとする。そんな人間臭さこそが美しくもあり、愛おしくもある。

2 件のコメント:

  1. 本やブログ、堂々と自分の想いを世間に発信し続けている友達を尊敬しています。

    眠るのも忘れるくらい考えているのに
    なかなか発信できずにいる自分は、
    想いと言葉をシンクロさせることにこだわりすぎているのかもしれません。

    書きかけては言葉の限界を感じて止め、書き上げても次の日には考えが更に進んでいたり、もっと違う表現を求めて消してしまう。

    だけど、自分の想いと向き合いながら、1つ1つの言葉のピースをパズルのように、はめ込んでは外し、はめ込んでは外し、一生懸命ようやくつなぎ合わせて書き上げた文章を、思いがけなく「Beautiful!」と言ってもらえた時、目の前の景色の色がパッと明るくなったように嬉しさがこみ上げてきて、次もがんばって書こう!って思います。


    色んな意味でもっと修行します。。

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  2. 果林ちゃん、変なこと言うね。
    もうこうして世界に発信してるじゃない。
    しかも実名で。なかなかできることじゃないよ。

    それに、自分が今こうして発信できているのは
    果林ちゃんみたいに、しっかりと心で受け止めて
    くれる人がいるから。知らなかった?

    果林ちゃんの溢れる想い、分かち合ってみない?
            
             大裕

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