Tuesdays with Morrie(邦題『モーリー先生との火曜日』)という本の中で、Mitch Albomがこう尋ねている。
「あなたには本当の先生がいますか。知恵で磨けば誇らしい輝きを放つであろう宝石の原石をあなたの中に見つけてくれた人が?」
幸運にも、自分にはそんな人生の先生が二人いる。
最初の先生は、16歳の時、初めての留学で出会ったニューハンプシャー州の高校の英文学教師、Walker先生だ。彼は自分が日本で出会ったどの先生とも違っていた。それは、彼がアメリカの高校生をも圧倒するくらい大柄で、ニューイングランドで有名なアメフトのコーチだったからではなく、彼が求めたのは、暗記よりも自分で考えること、用意された答えよりも僕だけの真実だったからだ。
「俺は今、生まれて初めて学んでいる。」
彼と会ってそう気づいた時のことを今でも鮮明に覚えている。
Walker先生は厳しく、生徒から常にベストを求める人だった。僕は決してそれが嫌ではなかった。彼の教えに対する姿勢は、その教室で僕たちが格闘していることが、この世で最も重要なことだと思わせてくれた。また、彼が僕に言葉の大切さを教えてくれた人でもある。今、これを書きながらも、ああでもない、こうでもないと、真実を伝えるために言葉に迷う自分がいる。
どんな言葉を選び、発するのかがその人物の人間性を物語る。そして、次の言葉を選ぶのに最善を尽くした時、我々はその一瞬に意味を見出すことができる。我々はそうして各々の人生を綴っていく。
Walker先生が教えてくれたのはそんなことだった。
たった数行の文章を書くのに幾晩徹夜したことだろう。彼に認めてもらい、自分がやっていることは間違っていないと知ることが、自分が存在する意味さえ教えてくれるような気がしていた。彼から容赦なく投げかけられる批判からは自分が期待されていることを知り、時折頂いた賛辞からは、僕でさえこの世に貢献できる大事な何かを持っている、そう思わせてくれた。Walker先生との出会いが、僕に教育の道を選ばせたのだ。
二人目の先生は、教員になってから出会った恩師、小関先生だ。彼からはここで語り尽くせぬ程のことを教えて頂いたが、そんな中でも、教えるということ、愛するということ、先生になるということの意味を教えて頂いた。
自分が生徒たちと分かち合いたい人生のレッスンはいくらでもある。でも、それら全て、一つのことに集約できるように感じる。
人生の先生を持つことだ。
それがどれだけ幸せなことか。
以前、生徒がいるからこそ頑張れると書いたが、その生徒を持たせてくれたのは、自分の二人の先生だ。人生の先生とは、頑張るためのモチベーション、無知な自分に対する謙虚さ、知らないことに対する敬意とそれに挑もうとする勇気、自分の未知なる可能性に対する前向きな姿勢、責任、そして愛、それら全ての源となる。
教員として、自分が目指したのはそんな人生の先生であるし、いつの日かそうなりたいと今でも願っている。
どんな言葉を選び、発するのかがその人物の人間性を物語る。そして、次の言葉を選ぶのに最善を尽くした時、我々はその一瞬に意味を見出すことができる。我々はそうして各々の人生を綴っていく。
Walker先生が教えてくれたのはそんなことだった。
たった数行の文章を書くのに幾晩徹夜したことだろう。彼に認めてもらい、自分がやっていることは間違っていないと知ることが、自分が存在する意味さえ教えてくれるような気がしていた。彼から容赦なく投げかけられる批判からは自分が期待されていることを知り、時折頂いた賛辞からは、僕でさえこの世に貢献できる大事な何かを持っている、そう思わせてくれた。Walker先生との出会いが、僕に教育の道を選ばせたのだ。
二人目の先生は、教員になってから出会った恩師、小関先生だ。彼からはここで語り尽くせぬ程のことを教えて頂いたが、そんな中でも、教えるということ、愛するということ、先生になるということの意味を教えて頂いた。
自分が生徒たちと分かち合いたい人生のレッスンはいくらでもある。でも、それら全て、一つのことに集約できるように感じる。
人生の先生を持つことだ。
それがどれだけ幸せなことか。
以前、生徒がいるからこそ頑張れると書いたが、その生徒を持たせてくれたのは、自分の二人の先生だ。人生の先生とは、頑張るためのモチベーション、無知な自分に対する謙虚さ、知らないことに対する敬意とそれに挑もうとする勇気、自分の未知なる可能性に対する前向きな姿勢、責任、そして愛、それら全ての源となる。
教員として、自分が目指したのはそんな人生の先生であるし、いつの日かそうなりたいと今でも願っている。
こうやってブログを通じて、
返信削除先生の熱意や想い、努力の姿を知ることができることは
生徒にとって、とっても幸せなことですね。
自分にとって「先生」とは、
人生の中のいろんな場面で
尊敬、理解、反省、同情・・・
歳を重ねながらも
無意識に何度も繰り返し思い出される存在。
"responsibility"と深くつながっている
人を導き、そして恩恵を返す。
別れたあとも、人のこころに足あととして残り続ける。
素晴らしく、そして尊い職業ですね。
改めて感じます。
「いい先生に恵まれなかった」
「いい上司に恵まれなかった」
こんな風にこぼす人もいます。
「師」との出会いも、
上司も、仕事も、友人も、
男女の出会いも、
「出会い」の質はすべて自己責任。
自分のこころや人生の歩み方、
日々の姿勢、周りの人への思いやり、
自分自身が「出会い」を導いているなと
思います。
「運」に依存して待っていても
良い出会いはやってこない。
ネガティブで無意味と思えた出会いも、
実は自分に欠けている何かを
気が付かせてくれる、
ステップアップさせてくれる感謝の出会い。
先生は、教壇を降りた場所でも
たくさんのことをおしえてくれている。
そんな愛情がこもった人生の教えが
たくさんあるから、
学問が豊かなものになっていくんですね^^
初めまして。教師を目指し、子育てをしながら勉強している27歳です。家庭や教育に対する愛や、様々な場所での経験を通して、人と人の繋がりや情を大切にしている、人柄が滲み出た素敵なブログですね。私は中学時代、小関先生のもとで剣道をしていました。先日、小関先生に教師を目指していると電話で報告をしました。その時、このブログを知ったのですが、このブログは私にとって衝撃的でした。中学生の私には見えていなかった小関先生の教師としての姿を見たような気がしたからです。小関先生は昔から多くを語りません。まさに、「背中教える教師」でした。でも、当時の小関先生の言葉一つ一つに意図するものがあり、自然に導かれていたのだと気づきました。その言葉を疑いもせず信じたのは、きっと剣道を通して小関先生の思いを感じていたからだろうと思います。 私は、当時根性もなければ、意志も弱く、いつも泣いてばかりいる生徒でした。だから、教師になるなんて、笑われそうでなかなか言い出せずにいました。でも先生は私が報告すると「大変だけどやりがいがあるし、本当にいい仕事だよ。頑張れ。」と言ってくれました。とても嬉しかったし、小関先生という恩師をもち、本当に良かったと思いました。私も、人生に「先生」を持つことは自分を見失わずに生きる励みになると思っています。今、子どもたちは、自分の居場所や生き方を見出しにくい時代にいます。そんな時代を強く生きる力を身につけさせることが教師の役割のように思います。私は、小関先生に信念を持って目標に向かって努力すること、それは周りに支えられて初めてできることを学びました。その生き方を、小関先生が背中で教えてくださったように、私も私の一生懸命生きる背中で将来子どもに示せる教師になりたいと思っています。
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