2009年12月3日木曜日

物では満たされることのない心の隙間

 以前紹介した、佐藤新吾という友人がブログを立ち上げた。ニュージーランドで一学期間共に学んだ仲間だ。その投稿の中で、彼が現代日本の病理について書いている。それを読みながら、僕の恩師である小関先生がいつも言っていたことを思い出した。



    「おなかいっぱいの子に食べさせるのは難しい。」



 中学校で教えていて、貧しかったり片親だったり、いわゆる「恵まれない家庭」出身の「荒れた」子の指導をする方が、裕福な家庭で育った優等生を教えるより、よっぽど簡単だということを知った。恵まれない家庭出身の子たちを見ていると、不足しているものは案外わかりやすいものだ。そして、それを補うことが教員の仕事に他ならない。もちろん、欠けているものは生徒によってまちまちだが、本当のところは、「妹の食事もおまえが作らなくちゃいけないなんて大変だろう」とか、「お母さん一人で頑張って立派だな」とか、その子に寄り添う気持ちだけで十分だったりする。愛情に飢えている分、ほんの一握りの気遣いも子どもの心に染み込んでいく。



 逆に裕福な家庭出身の子の多くは、最新の携帯を持つのは当たり前、ご飯は言わなくても出てくるし、洋服など何一つ不自由していない。あまりにも多くの物を与えられていて、物では満たされることのない心の隙間に自分さえも気付いていないのだ。裕福な子ほど、自分の心が発信するSOSに気が付いていないことが多い。



 今の日本の状況も、それと通ずるところがあるのではないだろうか。経済格差はもちろんあるし、年々広がっている。でも、国として見た時、日本が世界の大多数の国とは比べ物にならない程裕福であることも確かだ。



 今の日本、「恵まれない国」の人々のためにボランティアをする人も多い。僕は大事なことだと思う。でもそれは、それが人として正しいことだからと言うよりも、そのような経験がその人たち自身を救うからだ。助けなくちゃ、という気持ちで始める人間も、結果的に助けられるのは自分の方だったりする。ただ今日を生きのびることに懸命な人々を目の当たりにする時、我々は自分たちがいかに多くの物を持っているかだけではなく、いかに多くのことが見えていないかを知るのだ。



 僕が敬愛してやまないブラジルの教育哲学者、パウロ・フレイレが言いたかったのもそのようなことなのではないかと思っている。日本を「抑圧者」と見るか見ないかは議論の分かれるところだが、“haves” と “have-nots” が明確に分かれるグローバル化した市場において、日本が前者に入るのは否めない。そして、Oppressors(抑圧者)の悲劇は、oppressed(被抑圧者)の人間性を奪うことによって実は自身の人間性が奪われていることに気づいていないことだ。そして、抑圧者は被抑圧者の力を借りなければ、自分たちを解き放つことはできない。



 今の日本、僕は病んでいると思う。貧しい国々の助けを必要としているのは日本の方だ。

1 件のコメント:

  1. 「日本は病んでいる」、、、。
    残念だけど同感せざるを得ない気がします。
    でもそれを政治が悪いとか教育が悪いとかマスメディアが悪いとか言ってももう始まらないから、少なくともこのブログに集う仲間たちは、自ら「変化」を生み出す存在でありたいよね。我々の子供たちを今の日本の被害者にする訳にはいかないもんね。現状は現状として認識した上で、我々はどういう道を歩み、次世代の子供たちに託していくのか、そんな議論をたくさんしたいね。
    僕は今の日本の解決策はアジアに視野を広げることでたくさん見つかる気がしています。特に、今発展目覚ましい東南アジアの国々に日本が協力できることはたくさんあると思うし、そのことで日本が救われることが無限にある気がしています。まさに大裕が言うように、救う人が本当は救われるってことだよね。

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