2009年12月13日日曜日

子どもこそ大人、大人こそ子ども



 今日もあの花たちに会いに行ったら、皆、下を向いていた。

中には、大人になることなく、命尽きて茶色くなっているものもいた。



 そんな花たちの姿は、自分が見てきた中学生たちとかぶるものがあった。



------------------------------------



 思春期真っ盛りの中学生は、子どもと大人の世界の狭間で様々な苦悩を経験する。多くの子どもたちにとって、人生最初の挫折を味わうのもこの時期だ。自分の夢、明るい未来、「正しい」大人を疑うことなく過ごしてきた幼少期が終わりを迎え、受験、現実、社会や大人の矛盾が見え始める。その一方で、大人への憧れは強く、皆「大人」になろうとする。



 そんな生徒たちを相手にする中学校の教員にとって、一つの大事な役割は、どんな「大人」を提示するかだと思う。



 残念ながら、上級生になればなるほど冷めていく子どもたちも少なくなかった。それは、「大人」への成長を「子どもらしさ」の否定と勘違いする子たちだ。その子たちにとっては、先生の呼びかけに元気に返事をしたり、校則に従順に従うことが幼稚だったり、恥ずかしかったりする。



 でも、そうなのだろうか。







 担任として初の卒業生を送り出した直後、教員三年目にして初めて持たせてもらった一年生に僕は衝撃を受けた。



 「子どもって大人なんだな。」 これがその時の感想だった。



    誰かのふとした行為に、自然と出る「ありがとう」の言葉。

    自分の過ちを素直に認める「ごめんなさい」。

    頑張っている人を応援できる明るさと思いやり…。



 考えてみれば、これらは大人に求められることなのではないだろうか。





 子どもこそ大人であり、大人こそ子ども ― 僕がその子たちから学んだことだ。





 一年生から三年生に上級するに連れ、段々と素直さを失い人生に冷めていく子どもたち。一年生のこの素直さを保つことこそが自分の使命と強く感じた。 『今こそが未来』もその時の生徒たちに宛てて書いたものだ。





 僕は、野球や剣道の大きな大会で、「一流」と呼ばれるチームの中学生に会うたびに、心洗われる想いをしたのを覚えている。子どもならではの尽きることのないエネルギーに溢れ、屈託のない笑顔、大人の心を突き抜ける声、先生や仲間を信じる透き通った目…。彼らは大観衆を前に、支えてくれている人たちの想いを背負い、勝負しているのだ。そんな子たちを目の当たりにする度に、なんて大人なのだろうと心を震わせた。



 毎年夏の甲子園をテレビで見ていると、決まって陥る錯覚がある。

 大人だったはずの自分が、いつしか、自分より何歳も年上の高校球児にテレビの前で声援を送っているのだ。テレビの画面に映る高校球児が、とてつもなく大きな、大人な存在に感じるのだ。

    そんな経験、あなたにはないだろうか。



------------------------------------



 本当の大人は、現実をしっかり見据えつつ、子どものような真っ直ぐさを貫いている人だと僕は思う。だからこそ、我々「大人」と呼ばれる者の使命は、子どもたちの信じる力と、素直な心を大事に育てることなのではないだろうか。



 笑顔を忘れ、暖かい春が必ずやって来ると信じることを諦めつつある中庭の花たち。狂った環境に翻弄された、あまりにも残酷な運命だ。

3 件のコメント:

  1. 悪いことをしたなって思ったら素直に「ごめんなさい」ができる勇気、それから、その「ごめんなさい」を受け入れることのできる寛容さみたいなものって、大人になるほど難しくなるものなのかもしれないですね。
    私も以前働いていた場所で、子どもたちの素直さに心を洗われたことがありました。自分の業務に難しい課題を抱えていて何をやってもうまくいかなかった時期があったんですけど、ある日子どもが「大丈夫」って私の頭をナデナデしてくれたんですね。
    私は施設の子どもたちにまで心配かけるような表情してたのかなぁって、反省して、同時に肩の力が抜けて、その子に「ごめんね、今、もう少しだけ落ち込ませてね。もう大丈夫だから」って思わずギュッと抱きしめたのを覚えてます。
    そういう優しさ、思いやりの心、子どもたちから学ばせてもらうし、大切に守りたいですね。

    返信削除
  2. 経済成長と遂げた国ほど、
    ”子ども時代”を失う状況が生まれるのでしょうね。
    学ぶ意欲も、高い国は発展途上国に多く、
    先進国では学ぶ意欲が低いと言われるし。
    (フィンランドですらも学校への遅刻者が多かったり、
     意欲が低いことが課題となってるくらい)
    様々な感情に出会うことが少なく、
    だから気持ちの渇きにすら気づかず、
    SOSの発信の仕方すらもわからなくなってしまう。

    大人が次の世代のために残すべきものは、
    舗装された道路や高層ビル、
    効率化された日常ではなく、
    豊かな大地や海や大空や太陽、
    育まれた森や動植物ですよね。
    効率化を追求していくことだけでは、
    子どもが”子ども時代”を、
    自然と生きることが苦しくなることもあるでしょう。

    そうは言っても、
    ここまで技術の恩恵をうけ発展した東京は、
    人工的な環境に囲まれた生活。
    それでも子どもも大人も、
    日々喜怒哀楽をちゃんと感じる心は失いたくないね。

    大人は、あれこれと手をさしのべるだけでなく、
    子どもの中にある種の育つ力を信じたい。
    種が育てるために、
    大人がそれぞれが太陽の役、風の役、
    水の役、空の役…、与えられた役割を果たすことに、
    気づき全うしないと。

    AKI

    返信削除
  3. きのう友達と教会に行った。牧師さんの,「本当のクリスチャンとは」についての話を聞いていて思ったのは、本当のクリスチャンって「子ども」なんじゃないかということ。悪いことをしたら素直にごめんなさいという、そして人が悪いことをしていたら相手が誰でも立ち向かう、そして万人を許し万人を愛する。しかも本当のクリスチャンは「弱い」らしい。確かに計算ができてないという意味では、世渡り上手とは決して言えない。でもそういう人は、意外と強かったり、魅力的だったりもする。

    そう考えると、本当のクリスチャンどうこうというよりも、素敵な人間って「子ども」なような気がする。だから 小さな子やどこか「子ども」の部分を失っていない大人といると幸せを感じるのかもしれない。

    かおる

    返信削除