2010年2月18日木曜日

「自由」 を捨てて自らを解き放つ Part V ~ 信仰と自由の関係 ~

   神を信じる人間はきっと自由なのだと思う。

 

 僕は、神の存在を信じているが、信仰する宗教はもっていない。
そんな自分が宗教を語るのはおかしいかもしれないが、 「自由を捨てて自らを解き放つ」 というタイトルは、人が神を信仰するプロセスに通ずるのではないかと思う。神を信仰するということは、様々な欲望を抑え、厳しい神の教えに従うということだと思う。でも、それは自由を失うということではないように思う。



 宗教にはいろいろあるし、一概には言えないのは分かっているが、僕がイメージする宗教を語ってみたい。僕が思うに、宗教を信仰するということは神の教えを内在化させることであり、それによってもたらされるのは精神の自立だ。神の教えが自分の中の 「絶対」 となれば、それは周りに流されない信念を与えてくれるだろう。その信念は自分を神の教えに閉じ込めるのではなく、逆に新たな考えや世界へと踏み出す自信となるだろう。迷いは消え、自分の弱さとの葛藤のみが残るのではないだろうか。







 僕が言う 「先生を持つ」 という感覚は、きっと宗教家が 「神を信じる」 という感覚と似ているのだと思う。先生の教えを内在化させるということは、いつであろうがどこであろうが先生を意識して行動することに他ならない。アメリカにいる今でも自分に問いかける。 「今、小関先生がこの場に入って来られても、自分は胸を張っていられるだろうか。」 そう問い続けることが、自分を鼓舞し、正しい方向へと導いてくれるように思う。



 これを読んでくれている人たちの中でも、僕と小関先生の人間関係を理解できない人も少なくないのではないかと思う。そんな不安もあり、このブログで小関先生のことを書く時にはあえて敬語を使って来なかった。このブログの投稿記事数は今回で109になるが、少なくとも5回に1回は 『先生の教え』(計25本) について書いていることになる。



 『自分を持つということ③ ~周りに流されない信念~』 で、剣道部の生徒たちがいかに小関先生に洗脳されているように周りに映るのかを書いたが、間違いなく自分も周りの教員からはそう見られていた。生徒の前であろうが呼ばれればダッシュで駆け付けたし、夜中だろうが何をやっていようが携帯で呼び出されればすっ飛んで行った。夏休み中、長野の山奥の山小屋に妻を一人残して、 「いざ鎌倉!!」 と言わんばかりに埼玉まで関東大会の応援に駆け付けたこともあった。



 もしその人が間違った方向に導いていたら…、そこまで一人の人間を盲目に信じることは危険なのでは…、と思う人もいるかと思う。だが、僕にとってそんな不安はさらさらない。これはいつか書こうと思い続けてきたことだが、実は小関先生にも二人の先生がいるのだ。一人は大学時代の剣道部の先生である塩入先生。もう一人はまだ船橋市の教員だった頃から師弟関係のある奥村先生だ。二人とも超一流の教育者だ。



 小関先生は言う。



    「俺が言っている言葉は全て先生たちの言葉だ。」



 僕が小関先生に絶対の自信を持てるのは、小関先生自身が自分の先生に学び続け、自分を問い続けているからだ。自分はこれで良いのか。先生だったら何とおっしゃるだろう?



 また、奥村先生も同じことをおっしゃっていた。小関先生の道場の控室に飾ってある奥村先生の師匠の写真を見ながら、 「俺が語っているのは全部爺さんの言葉だ。」 そうおっしゃる先生の目は何とも優しかった。



 だから、こうして僕が崇拝している教えは、歴代の先生方によって、何十年、何百年と受け継がれ、磨き継がれてきた 約束のバトン だと思っている。それは決して完成されたものではない。でも、未完全で、満足されることなく追い求めてこられた教えだからこそ、自分は身を委ねることができるのだと思っている。



 小関先生は生徒にも平気で自分が打たれる姿を見せる。
奥村先生は、よくうちの中学校の道場に顔を出される。大会前などになると、防具をまとい剣道部の生徒に稽古までつけて下さる。そんな時、小関先生は決まって自身も防具をつけ、真剣勝負を挑む。そして無惨に打たれる生身の姿を生徒に見せるのだ。



    「お前たちだけじゃない。自分だって修行中の身だ。」 



そんなメッセージを生徒に送り続ける小関先生の教えには、何にも勝る説得力がある。

0 件のコメント:

コメントを投稿