2010年2月6日土曜日

自分を信じるために人を信じ、自由を捨てて自らを解き放ち、自由になって不自由を楽しむ

まえがき ~ 一つが全部 ~



    「一つが全部」



 この言葉を何度小関先生から聞かされてきたことだろう。
その度に、 「はい」 と答えてはきたものの、今になってようやく 「そうだよな」 と思う自分がいる。「一つできる奴は全部できる」 という言葉も今だから納得できる。


 小関先生に教わったこと、自分が先生のもとで経験したことを振り返りつつ、 『先生の教え』 というカテゴリーで実に様々なことを書いてきた。でも、読み返せば読み返すほど、全てが繋がっているのが見えてくる。いろいろな状況でいろいろな言葉を聞いてきたが、先生が教えたいことはみんな同じことで、それはまさに「守・破・離」そのものなのだと思う。


 「守・破・離」 の教えは矛盾に満ちている。小関先生の言葉を道しるべに 「守・破・離」 を考えていくと、一つのメッセージが見えてくる。


自分を信じるために人を信じ
自由を捨てて自らを解き放ち
自由になって不自由を楽しむ


 3回に分けて、これらを一つひとつ考えていこうと思う。



1.自分を信じるために人を信じる

① 「信じる」 ことの意味


人は、他人を知ることなく自分のことを知ることができるのだろうか

誰も深く知らずして、自分を深く知ることができるのだろうか

誰も信じることなく、自分を信じることができるのだろうか



 小関先生が頑なに 「信」 そして 「守」 の大切さを中学生に教えるのは、彼の哲学の根底にこのような問いがあるからではないだろうか。小関先生はきっと、人を信じることを通して生徒に自信を持たせ、人を信じ抜いた時に見える世界を生徒たちに見せたいのではないかと思う。



 小関先生にとって、 「信じる」 こととは心を全開にすることを意味している。中途半端に信じることは 「信じる」 うちに入らない。例えば、剣道部の生徒が完全に小関先生を信じた時、生徒は自分がした良いことだけでなく、悪いことや普通だったら言い辛いことまで先生に報告するようになる。隠していてもすぐに見透かされてしまうからというのもあるが、先生が心から自分のことを考えていてくれていることを生徒は分かっているし、先生に叱られることが自分のためになると知っているからだ。上級生になればなる程、自分から先生に叱られに行く。叱られるのが嬉しいのだ。彼らは言う、 「先生に叱ってもらった。」



 もう一つ。小関先生にとって、「信じる」ことは決して一方通行ではない。なぜならば、 『勝って己の愚かさを知る Part II ~可能性無限~』 でも書いたように、子ども一人ひとりが無限の可能性を持っていると信じている小関先生を信じるということは、自分の無限の可能性を信じるということでもあるからだ。だから、信じるということは、同時に先生の想いを背負うことでもある。これが大変なのだ。自分は一生懸命やっていると思っている生徒に先生はさらりと言う。 「お前はまだ10%の力しか出してない。」



② 自信は 「他信」

 中学校で部活の顧問などをやっていると、試合で、 「自分を信じて思いっきりやってこい!!」 などと激励する監督を目にすることがよくある。実際、自分もその一人だったのではないかと反省している。でも今になって、これは非常に無責任なことなのではないかと感じる。試合の命運が分かれるような大事な場面になればなるほど、このような激励は選手にとって酷である。




 中学生に 「自分を信じろ」 と言っても、どこまで信じ切ることができるだろうか。自分に対する自信など脆いものだ。自分の強さを知っているだけでなく、自分の弱い部分も知っているのだから。最後の最後で迷いが生じるのではないだろうか。



 その意味では、自分を信じるよりも他人を信じる方がよっぽど楽だ。  『自分を持つということ① ~信じること~』 でも書いたが、小関先生に対する信頼こそが、剣道部の子たちの自信そのものだ。普通だったら名前を聞いただけでも震えあがるような全国の強豪相手にも、小関先生が 「負けるわけがない」 と言えば、臆さずに闘ってくるのだ。それでも負けた時には、先生が全責任を負うのだ。「自分を信じろ!!」 などと言って子どもに責任をなすりつけたりはしない。



 前に、 『勝って己の愚かさを知る Part III ~人々の想いを背負って~』 で紹介した子が良い例だ。中学校女子個人の部で日本一になった子だ。

全国大会女子個人の部、優勝候補とのベスト8懸けの試合。 「水入り」 を挟む10分を超える死闘に決着をつけて帰ってきた彼女の言葉が全てを物語っている。





   「だって先生笑ってたから…。自分の感覚信じろって言ったじゃない。

   先生が笑ってたから自信持って打てた。」





 最初から自分を信じ切れる人間などいないと思うし、もしいたとしたらそれはただの傲慢でしかない。人は努力をし、失敗を積み重ね、人に認められて初めて自信をつける。



 小関先生の教えは我々にこう問いかける。


人は、誰も信じることなく、自分を信じることができるのだろうか?

8 件のコメント:

  1. んーなんか考えてしまいました。(自分の今の状況にあてはめて)。
    三番目の自由になって不自由を楽しむというところまで行き着いたらきっと幸せなんだろうなーと思います。新自由主義の中での自由じゃ、自由を求めれば求めるほどなんか業績はあるけどなんか味気ない人になってしまう気がします。ブログの続き楽しみにしてます。

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  2. んー考えてくれてありがとう。 -^o^-
    きっと宗教と通じてるのだと思うよ。
    一つの宗教を心から信じている人間は、神の教えと
    その厳しい規律の中で生活しなくてはならないけど、
    ある意味とても自由だと思う。次に書こうと思って
    いる内容と深く関わっているよ。

    Neo-liberalism(新自由主義)について。
    今日、Campaign for Fiscal Equityのコンフェレンス
    に行って来たけど、そこでもNeo-liberalismの影響
    をもろに感じた。各州の憲法が全ての子どもに保障
    している"sound basic education"も、結局はいくら
    の教育予算が必要かというお金の話になり、お金を出した
    ところで成果はあるのかという議論では、子どもの学びが
    統一試験という非常にundemocraticなものさしで計ら
    れる始末。民主主義的な教育を勝ち取るための闘いを
    非民主主義的なアリーナで闘っている感じ。民主主義の
    概念自体がconsumer capitalismによって歪められて
    いるのだと思う。Maxineが闘い続けているように、
    俺たちも「自由」や「パブリック」、そして「民主主義」
    といった概念の再構築をしていかなくてはならないの
    だと思う。やるっきゃないでしょ!!

              大裕         

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  3. ここまで来てしまったらもうやるしかないね。でも、新自由主義について知れば知るほど、この闘いは長く厳しいものになるだろうなというのが実感。いやー、逃げれないのはわかっていても、勇気と覚悟がいるね。今更ながらはっきりとした形のある成果やお金やモノについついしがみつきたくなるのも現実。
    だからこそ信が大事なのかもね。基本の「信」から始めてみるね。

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  4. 世界的な大不況を受けてアメリカ主導の資本主義がやり玉に挙げられている今がチャンスなんじゃないのかな。全てのことに意味があるのだと改めて考えさせられる今日この頃。
             大裕

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  5.  高校生だった頃、テストや受験のたびに、幾度となく『自信を持ってね』と言われてました。でも、その時ふと思ったんです。「『自信』って一体何なんだろう…?」って。
     しばらく考えて、それからは、【「自」分を「信」じること】が『自信』なのかなぁって思ってました。だって、テストや受験の時、対話できるのは自分だけだし、目の前にある答案用紙に書きだされる答えを信じてあげることが、その時の自分にできる精一杯だと思っていたから。
     けれど、しばらくしてから、これまでの一瞬一瞬、私が自分を信じてこれたのは、自分を信じることを教えてくれた他人がいたからだったんだ、と気付いたことがあります。(まさに、今回大裕さんがお話されている感覚に似ているものがあったと思います。)そして気付かせてくれたきっかけは、振り返ってみれば、家族であり、友人であり、学校の先生でもあり、出会った人一人ひとりからでした。
     人が他人を通して自分を知ることがあるように、きっと、「信じること」も、自分ではなく他人から学び得ること、あるいは教えあい、分かち合うことなのかもなぁ、とこの記事を読んで思いました。そして私も、誰かを信じてあげることで、相手に信じることの魔法のような素敵な感覚、勇気や希望のような感覚を与えられる人でありたい…とも、改めて考えました。

     

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  6. 寺澤さん、
     コメントありがとう。話を聞いていると、寺澤さんが人間の良さを信じることを学んできたことがよくわかるよ。自分が受けた人生の恩恵を人と分かち合いたいという気持ちが伝わってくる。だからきっと、どんな職業にせよ、この人は教える仕事をするのだろうな、と勝手に思っているよ。
     今回のコメントを読んでいて、少し違和感を感じたので正直にシェアしたいと思います。きっと、何よりも大事なのは「信じてあげる」ことなのではなくて、自分が生徒に信じられる人間であることなのだと思うよ。信念も根拠もなしに生徒の力を信じていると口にする先生はたくさんいるから。それに、いくら自分のことを信じてくれていても、その先生のことを生徒が何とも思っていなかったら何の価値もないからね。自らが生徒の心の拠り所となることができれば、そういう人間関係を通して生徒は自然と自信をつけていくのだと思う。自分の放つ一言が、生徒にとって世界中の全ての意味を持つような人間になることが、教える者の目指すべきところなのではないかな…と書きながら今の自分に言い聞かせています。
     いつもありがとう。

              大裕 

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  7. >「信じてあげる」ことなのではなくて、自分が生徒に信じられる人間であること

     上記の文章に深くうなづきました。「信じてあげる」というのは捉え方によっては一方的で、(他の日記でも書いてらっしゃいますが)こちらの「傲慢」なのかもしれませんね。
     補足するとしたら、私の場合は、高校生のときに、あることがきっかけで、先生の生徒に対する信頼の根拠も信念も感じられるできごとがあったので、すごく恵まれた(といったら少し語弊があるかもしれませんが…)環境だったのだと思います。
     ただ、きっと誰でも私と同じように感じるチャンスはあったと思うのですが、周りの友人たちが私と同じように感じていなかったことが当時はすごくさびしかったし、悲しかったのを覚えています。
     他の記事でも小関先生が「ここまでしなければ…」というようなことを大裕さんがおっしゃっていた内容があったかと思うのですが、私が子供ながらに感じていた「先生がここまでしてもあの子は信頼感じられないのかなぁ…」という感覚も、それに近いものがあるのかなぁ、とふと考えました。

     最後に、いつもとても良いテーマを深く考える時間をいただけてとっても嬉しいです。ここでの出来事を友達に話すのが私の楽しみの一つになっています。言葉足らずな私のコメントに丁寧にお答えしていただいて光栄です。こちらこそ、いつも本当にありがとうございます。

    追伸
    東京は今日(02/18)雪が降りました。暦の上では春ですが、まだまだ寒いです。お体に気をつけてください。

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  8. 寺澤さん、
     いつもちゃんと読んでくれてありがとう。
    今からもう一つ、書こうと思っています。
    頑張るぞ~!!

            大裕

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