2010年11月13日土曜日

宗教における守破離 ~「自由」を捨てて自らを解き放つ 6~

 前回再投稿した 『信仰と自由の関係』 に対して、マサさんがコメントを下さった。彼の真っ直ぐな人柄が伝わってくる、真摯で批判的なコメントだった。彼のコメントを読みつつ、自分が何故、「宗教」 を持ちだしたのかを思い返してみた。そして、そうすることが、小関先生との出会いが僕の宗教観を如何に変えたかということを確認する機会を与えてくれた。


 僕にとって、『信仰と自由の関係』 を書くこと、それは自分の過去の宗教観を問い正すことだった。


 僕の宗教に対する考えは小関先生に出会って完全に覆された。


 冒頭の、「神を信じる人間はきっと自由なのだと思う」 というあの言葉、小関先生に会う前の自分だったらきっとこう言っていただろう。


 「神を信じる人間はきっと心が弱く、不自由だと思う。」


 小関先生も僕と同じように、ある特定の宗教をいらっしゃるわけではない。ただ、宗教に対する深い理解を持っていらっしゃる。それはご自分が、自分自身の先生を信じる感覚と宗教家が神を信じる感覚は似ているのではないだろうかという推察からだ。


 ここで僕が取り上げているのは 「何を」 信じるかではなく、信仰される対象の説得力の問題でもない。僕の興味の中心にあるのは 「どのように」 信じるかということであり、「信じきる」 ことから生まれる精神の自立だ。


 そして、それは宗教にも守破離を見出すことができるのではないかという一つの可能性を示唆している。


 世界中に散らばる無数の宗教を、「宗教」 という名目の下ひとくくりにするのはある意味馬鹿げているし、だからこそ前回の投稿で誤解を生んでしまったのだと思う。


 なので、ここでは 「宗教」 という institution ではなく 「神」 として、神の側からではなく個人の側から、人が神を如何に信じるかという個人的な体験として考えていきたい。





 先ほども述べたように、僕は、神を信じるという行為にも守破離という道筋があるように思う。


 意味も分からずにただハイハイと教えを守るだけの 「守」 から始まり、自分の行動を制限するだけでしかなかった 「枠」 が、いつしか精神の 「芯」 として内在化されていく。初めは困った時だけ、注意した時だけ守っていた神の教えは、いつしか自分の生活における全ての軸をなすようになるだろう。


 自分の弱さとの葛藤が消えることはないが、もはや迷いは消え、目指すべき所、今なすべきことが自ずと見えるようになる。教えには書かれていないことにも神の意志を問うようになり、神との対話から自分の行動を決定するようになるだろう。

 そしていつの日か、神の教えに挑む時が来るのではないだろうか。「挑む」 と言うと傲慢で挑戦的に聞こえるかもしれないが、根本にあるのは謙虚さと共に、我々人間にどれだけ神の言葉や行いを理解することができるのかという問題意識でもある。よって、挑むということは神の意志を真に理解しようとする、譲れない信仰心を持つ者にしか為せないことだ。


 僕の大好きな作家の一人に、パウロ・コエーリョというブラジルの作家がいる。『アルケミスト』、『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』、『星の巡礼』など、数多くの素晴らしい作品を世に送り出してきた作家だ。彼の作品の中に、『第五の山』 という宗教と深く関わる本がある。最後に、その中の一節を紹介して終わりにしたい。そこに描かれているのは宗教における守破離のプロセス、そして信仰と自由の関係であるように思えてならない。



 時には、神と争うことも必要なのだ。
人間は誰でも、その人生で悲劇に見舞われることがある。
住む町の崩壊、息子の死、誤った告発、病気による体の障害などだ。
その時神は、自分の質問に答えるよう、人間に挑戦するのだ。


「なぜ、お前はそんなにも短く、苦しみに満ちた一生に
しがみついているのだ?お前の苦闘の意味は何なのだ?」

 この質問にどう答えるかわからない者は諦めてしまう。
一方、神は公正でないと感じて、存在の意味を求める者は、
自分の運命に挑戦する。天から火が降りてくるのは、その時である。
それは、人を殺す火ではなく、古い壁をひき倒して真の可能性を
それぞれの人に知らせる火なのだ。臆病者は絶対に、
この火が自分の胸を焼くのを許そうとはしない。彼らが望むのは、
変わってしまった状況がすぐにまた、元通りになって、
それまで通りの考え方や生き方で生きていくことだけなのだ。
しかし、勇敢な者は、古くなったものに火をつけ、たとえ、
どんなにつらくとも、神をも含めてすべてを捨てて、前進し続けるのだ。


 「勇敢な者は常に頑固である。」


 天界では神が満足の笑みを浮かべている。
なぜならば、神が望んでいるのは、一人ひとりの人間が、
自分の人生の責任を自らの手に握ることだからだ。
主は自分の子供たちに、最高の贈り物を与えているのだ。
それは、自らの行動を選択し、決定する能力である。


 心に聖なる炎を持つ男や女だけが、神と対決する勇気を
持っている。そして彼らだけが、神の愛に戻る道を知っている。
なぜならば、悲劇は罰ではなくて挑戦であることを、
彼らは理解しているからである。 pp. 219-220




1 件のコメント:

  1. Takeshi Sakamoto2016年2月6日 8:09

    私たちの社会に生じている一つひとつの現象は、多くにおいて構造的でありながらその反面、観念的(意味の塊)であるのかもしれません。言語、文化、政治、経済、国家、人種、民族、男と女、子供と老人、幸福と不幸等々どれをとっても固定的に推し量れそうな存在でありながら、その反面恣意的な個々人の解釈の集まりであるという脆弱性も持っています。
    つまり私たちの社会現象が常に意味の集合体であるということは、僅かながら揺らいで変化するものであるともいえます。
    目の前の確固たる構造を覆す「新たな意味」を手に入れた瞬間に社会に変化が起きます。既存の宗教であっても同じです。

    大裕さんのいうように、私たちはよりよい社会に向けて常に「神に挑戦」しているのかもしれません。「神と対決」しているのかもしれません。時には実力不足で打ち負かされて、ボロボロになりながら、下を向くこともあるけれど、その中で勝ち取ったものも多くあるはずです。それらが僅かながらも社会に揺らぎを起こしていきます。
    今回の大裕さんのロジックは大変分かり易く気に入っています。ありがとうございます。

    また浦安でお会いできることを楽しみにしています。

    追伸:FBの友達登録ありがとうございました。

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