卓球の福原愛ちゃんを担任した中学校の先生は、きっとやり辛かったのではないかと思う。
彼女は遠征等で学校を休むことも少なくなかっただろうし、帰ってきたと思ったら疲れていることもあっただろう。14歳の小さな世界の人間関係に葛藤する 「普通」 の子たちを30人以上抱えながら、世界の重圧と闘うスーパー中学生を受け持った担任は、どんな風に彼女に接したのだろうか。どこまで彼女と会話をし、どんな話を他の子たちにして、どんな居場所を彼女に提供し、どのように彼女を生かし、どこまで先生らしいことをできただろうか。
「先生らしいこと」 と言っても、その形は一つではない。それが一つに決まりがちな環境では、子どもの心はつかめない。「先生たちはみんなこう言う」 ― 子どもたちがそう愚痴るのは、教員たちが子どもたちの心に寄り添えていない証拠だ。
近年、「上から目線ではなく、生徒と同じ目線で生徒と接する」 のが 「良い先生」 と思われる傾向がある。
これは間違っている。
どういう目線で接するのかは、目の前の生徒によって変わってくる。それを、生徒を観察せずに自分の目線を決定するのは愚かというものだ。
多くの場合、先生という者は高いたかい所から、親の愛情をもって導かなければならないのだと僕は思う。
今年の夏、目線の話をしていた時に、小関先生が面白いことを言っていた。
以前書いた Hannah Arendt のことを引き合いに出し、親が赤ん坊にやる 「高いたかい」 という行為が象徴的だと言うのだ。大人が子どもを引き上げ、大人の高い目線から見える世界を見せてあげる…。そういうことだと僕は解釈した。
ただ、それは多くの場合であって、それだけではない。生徒と同じ目線で物事を見つめなければならない時も必ずある。
しかし、もっと大事なのは、それだけでもないということだ。生徒によっては、下から見上げなくてはならない子も中にはいるのだ。小関先生いわく、それは 「教員を越えてしまっている子」 だ。そして、この最後のケースが一番難しい。
丸という14歳の女の子は、僕にとって、まさにこれに当てはまるケースだった。
(続く…。)
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