2011年11月27日日曜日

Occupy Wall Street と Maxine Greene教授 Part 2

ティーチャーズカレッジの日本人の仲間と始めた『世界から日本へ1000のメッセージ』に寄せてくれたMaxineのメッセージ。




ある時、Maxineが僕にこう訊いた。(*ちなみに彼女はDr. Greeneと呼ばれるのを嫌い、多くの人々に親しみをもってファーストネームで呼ばれている。)

“What do you hope to do when you finish your dissertation?”

 「博士論文を終えた後あなたは何をやりたいの?」
“Well, I’m not sure, but I don’t want to be an academic. I want to be an activist.”
「ええ、まだはっきりとはしてないのですが、学者にはなりたくないと思っています。活動家になりたいですね」、と僕は正直に答えた。

すると、Maxineはこう応えた。

“I hope an academic can be an activist as well.”
「学者でも活動家になれると思いたいわ。」

 唸る想いがした。

確かにそうだ。それはMaxine自身が身をもって示している。学者である前に一人のアクティビスト(活動家)である彼女は、アメリカ社会を蝕む無関心を危惧し、既に1970年代から哲学を通して人々の麻痺した意識の改革に取り組んできた。

1973年出版の名著、Teacher as Stranger(日本語にしたら『よそ者としての教師』という訳が一番近いように思う)では、「哲学をすること」(“to do philosophy”)の重要性を次のように説いている。


“To do philosophy, then, is to become highly conscious of the phenomena and events in the world as it presents itself to consciousness. To do philosophy, as Jean-Paul Sartre says, is to develop a fundamental project, to go beyond the situations one confronts and refuse reality as given in the name of a reality to be produced.”


「哲学をすることとは、世界が自分の意識の前に姿を現す時、そこで起こる現象や出来事に対して高い意識をもつことだ。哲学をすることとは、ジャン=ポール・サルトルが言うように、根源的なプロジェクトをつくることであり、対峙する日常を超え、創られるべく現実の名の下にあたりまえの現実を拒むことだ。」*強調は僕のもの。)


『よそ者としての教師』とは何とも妙なタイトルだと思うかもしれないが、「よそ者」というのは意識の状態を指している。

「よそ者」には変化の無い日常にどっぷりとつかった地元の人間には無い意識の高さがある。我々は、新しい土地に行く時、馴染みのない文化や制度、新しい人々や生活スタイル、見慣れない地形や物事に触れ、何もかもが新鮮に見える。その土地の良い所もたくさん見つかれば、気に入らないことも見つかるかもしれない。そして必然的にたくさんの「なぜ?」という疑問が生まれる。よそ者にとって、目の前の現実とは、地元の人にとってそうであるように、あたりまえなものとは程遠い。
きっとMaxineはこう言いたいのだと思う。

もし我々が、大人には予想もできない子どもの無限の可能性を本当に信じるならば、彼らと接する教師がそのような高い意識で日々の生活を送らねばならない。目の前の現実を、ただ当たり前と受け入れるのではなく、一時的な、これから創られるべく現実としての未知なる可能性を信じ、生徒に教えなくてはならない。

僕が今、Occupy Wall Street (OWS) に参加しているのは、Maxineの影響が強い。
残念ながら今学期初めに肺炎を患い、今でも外部から鼻に入る管によって酸素を摂取している状態のため、彼女は自宅から出ることができない。でも、OWSのような運動を前にして、Maxineの活動家の血が騒がないはずがない。

 もし彼女が元気だったら、すぐにでもLiberty Plazaに駆け付けているだろう。彼女の視点に立って「現実」を見てみたい…。そんな想いが僕の背中を押した。





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