2011年5月23日月曜日

公立学校の解体 ~日本への警告 7~

(5月22日アメリカ教育最前線から)

 ハリケーン・カトリーナ後のニューオーリンズの教育政策で明確なのは、従来の学校システムの解体が、極端な規制緩和と民営化を可能にしたということだ。もともと州の不十分な教育予算のために貧しいコンディションにあったニューオーリンズの公立学校だが、その80%は、カトリーナにより壊滅的な被害を受けた(Buras, 2009)。しかし、瀕死の状態であった従来の学校システムが求めていた支援の手は、いつまで待っても来ることはなかった。 

 カトリーナ直後、ミルトン・フリードマン(Milton Friedman)を始め、Heritage Foundationなどの保守的シンクタンク等に所属する彼の崇拝者たちが、システムが完全にダウンしているその機会に、民営化、規制緩和、そして公的部門の大幅財政カットという、ショック・ドクトリンのトレードマークとも言うべき3本柱を軸とした劇的な教育改革に取り組むべきだと主張したことは既に書いた。カトリーナから5か月後の2006年1月、教育民営化論者として知られるUrban InstituteのPaul T. Hill and Jane Hannawayは、The Future of Public Education in New Orleansニューオーリンズの公教育の未来というレポートにて、全国の学校システムのモデルとして新しいニューオーリンズ市学校システムのビジョンを描き、以下の点を主張した(Saltman, 2007)。

1. 従来の公立学校の再建を拒否
2. 教員の一斉解雇
3. 教員組合の解体
4. 教育における中央集権の撤廃
5. エジソンスクールなどの営利目的の教育企業及びその他の組織などによる学校運営の承認

 結果的に、ニューオーリンズ市の学校システムはこの主張の通りに再構築される形となった。2005年11月、カトリーナ後3カ月というスピードで、Act 35という一つの法がルイジアナ州政府によって採択された。“the state takeover bill”(州乗っ取り法)との異名をとるこの法案は、復興支援法案であるにもかかわらず、「成績不振」校の基準を上げることにより、ニューオーリンズ市のほとんどの学校を成績不振校として州教育委員会の管理下に置くことに成功した。Act 35以前の基準であれば、該当はたった13校であったはずなのに、2005年11月には全128校のうち107校が州の管理下に置かれることになった。

 また、これと時を同じくして4000人の教員(そのほとんどは黒人、ベテラン、組合員)が、災害による財政カットの名目で一斉解雇され、最終的には2006年1月までに7000人いた職員のうち61人以外全員が解雇されるに至った。この同じ月に、ニューオーリンズ市長が、世界レベルの教育を目指すべく完全チャーター制学区の形成を提案したところ、そしてブッシュ政権が$488 million(約400億円)もの予算をバウチャー制度導入に提示したところを見ると、従来の学校システムの再建は、新しいニューオーリンズ市の教育ビジョンには最初から含まれていなかったことがうかがえる。


実際に、カトリーナから4カ月が経過したこの時期に、再び開校にこぎつけた学校は市内128校のうちのたった20校、学校に復帰できた生徒は62,227人中10,000人強に過ぎなかったCapochino, 2007。その後、十分な数の座席が確保されなかったこと、貧しいアフリカ系アメリカ人や障害を持った生徒など、一部の生徒が学校に受け入れられなかったことで数多くの訴訟が発生した。しかし、これらの学校の再建は一向に進まず、カトリーナ後1年経ってもまだ、これらの学校の生徒たちの多くは、教えてくれる先生はおろか、本や勉強するための施設さえも与えられない状態が続いた(Buras, 2009)。

ここで、先に紹介した保守的シンクタンクの一つであるUrban Instituteが発表した「ニューオーリンズの公教育の未来」レポートで掲げられた5つの主張が、今日アメリカの多くの州で現実となっていることを指摘しておくべきであろう。

まず、今のトレンドは、従来の公立学校の「解体」であって、成績の伸び悩む学校を「改善」することではない。連邦政府教育長官のArne Duncan(アーン・ダンカン)は、よく “school turnaround” という言葉を口にするが、彼の理念は実際には学校を一度閉鎖し、チャータースクールとしてリオープンすることで、“school takeover”と呼んだ方がふさわしい。現に、シカゴ市の教育長を務めていた時代に彼が主導したRenaissance 2010というプロジェクトは、成績の悪い100の公立学校を閉鎖し、営利・非営利目的のチャータースクール、コントラクトスクール、マグネットスクールとしてリオープンし、学区の規制に捉われずに運営することを承認するものだった(Saltman, 2007)。アメリカ教育界を翻弄している連邦政府主導のNo Child Left Behind (NCLB)も基本的には同じ路線だ。NCLBは、成績の悪い学校に対してはサポートではなく、段階的な罰を与える。そして、最終的には学校閉鎖、そしてチャータースクールとしてのリオープンに至る仕組みだ。また、NY市でも今年だけで合計27の学校が閉鎖されていて、そのほとんどは来年度からチャータースクールにとって代わられることになる(Gotham Schools, April 29, 2011)。

 NCLBに関して、Alfie Kohnが次のような指摘をしている。

“NCLB itself appears to be a system designed to result in the declaration of wide-scale failure of public schooling to justify privatization.”[1]

NCLBは、民営化を正当化するために、公立学校教育が広範囲で成績不振の結果を生みだすようにデザインされたシステムのようだ。」


 言うまでもないが、これは先に紹介したAct 35の説明そのものであり、Saltman (2007)やTaubman (2009)が、NCLBを教育政策におけるショック・ドクトリンの適用 ― つまりアメリカの教育が危機的状況にあるということをNCLBが証明することによって劇的なショックトリートメントを可能にすること ― と分析するのは、まさにこのような理由からだ。フリードマンの言葉が思い出される。



「現実の、あるいは仮想の危機だけが真の変化を生む」


変化は確実に起こった。現在、既に都市としてアメリカで最多のチャータースクールを誇るニューオーリンズだが、2012年までにはおよそ75%の公立学校がチャーター化されるという。


あとがき
ここまで、いかに従来の公立学校システムの解体がバウチャー制度やチャータースクールの大規模な導入による劇的な教育改革を可能にしたかを述べてきた。今後、これらの取り組みが生む教育機会の不平等を考えていきたい。


[1] NCLB and the Effort to Privatize Public Education, in Many Children Left Behind, Deborah Meier and George Wood (Eds.), Boston: Beacon, 2004, pp. 79-100.

2011年5月22日日曜日

公教育における「公」と「私」の境界の不透明化 ~日本への警告 6~

(5月23日 アメリカ教育最前線から)


「本当に危機に瀕しているのは教育における
真の“パブリック(公共)”という概念そのものだ…。」

(“In fact, the very concept of
a truly ‘public’ education is at stake…”)



 これは、Kristen Burasの2009年の論文(We have to tell our story’: Neo-griots, racial resistance, and schooling in the other south.)からの引用だ。「公教育」とその「概念」とを区別しているところが実に興味深い。

 2005年のハリケーン・カトリーナ後、ルイジアナ州ニューオーリンズでは、州政府だけでなく、連邦政府やその他学校選択制及び民営化の実現を追求する様々な組織の支持を受け、アメリカ史上最大の公立学校チャータースクール化が進められた。非営利団体だけでなく、営利目的の会社も広く招かれ、公的資金により実に多くの学校が新設された。それにより、学区制は廃止され、選別されることなく誰でも地元の学校に入れるという伝統的な公立学校の概念はもはや過去のものとなった。

 あれから6年、今ではチャータースクールのない学校システムを想像する方が難しいほど、チャータースクールは着実にアメリカの教育システムの中で市民権を得てきた。チャーターの他にも、私立学校に通う子どもを持つ家庭に公的資金からの補助金や免税が与えられるバウチャー制度なども、公教育のディスコースの中でよく語られるようになった。つい昨日も億万長者によって展開されるバウチャー制度のこんな記事があったばかりだ。まさにここに見られるのは「公教育」という概念の変遷と拡大であり、「公」と「私」の境界の不透明化だ。これは、今日のアメリカ教育を支配する新自由主義的市場型教育改革を分析するにあたり非常に重要な視点だと考えている。これ念頭に置き、話を進めていきたいと思う。


(続く…)

2011年5月21日土曜日

今日の教育情勢を読み解く鍵 ~日本への警告 5~

(5月21日 アメリカ教育最前線から)

社会を取り巻く大きな流れが、
      教育という場でいかなる形にて表現されるか。


 教育を社会から切り離して考えることはできない。だからこそ、ある教育政策や教育問題を見つめる時、それを取り巻く社会的、政治的、文化的、歴史的背景の中に位置づけることが必要となってくるのであり、時空から独立した一つの点として教育だけを抽出してみても、問題の本質もわからなければ、その解決にもならない。

 過去4回、カナダ人ジャーナリスト、ナオミ・クラインの世界的ベストセラー、『ショック・ドクトリン』をレンズとして、1973年のチリのクーデターに始まり、2003年のアメリカによるイラク進出、2004年のスマトラ沖地震、2005年のアメリカ本土を襲ったハリケーン・カトリーナなど、一見「アメリカ教育最前線」とは何の関係もなさそうなことについて書いてきた。『ショック・ドクトリン』の最大の意義は、これらの事件を通して見えてくる新自由主義の世界的な広がりを綿密な調査と膨大なデータに基づき、実に約600ページに渡って描き出す(引用されたデータは全てウェブにアップされている)ことで、教育など、今日のアメリカ事情をその大きな流れの中で分析する術を与えてくれることだ。

 現に、クラインのセオリーはノーベル経済学賞受賞経済学者のJoseph E. Stiglitz(2001年受賞)やPaul Krugman (2008年受賞)を始め、様々な学術分野で広く引用されている。教育学も例外ではない。若手のKenneth Saltmanや2010年のAmerican Educational Research Association (AERA)並びにAmerican Association for Teaching and Curriculum (AATC)両団体の年間最優秀賞を受賞したPeter Taubmanも、受賞作品Teaching by Numbersの中でショック・ドクトリンがいかにして教育の場で用いられてきたかを綴っているし、クラインの分析はHenry Giroux(Beyond the biopolitics of disposability: Rethinking neoliberalism in the New Gilded Age)やCameron McCarthy(The new neoliberal cultural and economic dominant: Race and the reorganization of knowledge in schooling in the new times of globalization)などの巨匠の研究をもインフォームしている。

 ちなみに、過去4回の投稿が、過激すぎる!偏っている!日本の人々の不安を煽っている!最初の主旨からずれている!アカデミックじゃない!一緒にされたくないっ!!とのお叱りをこのブログの編集仲間たちから頂戴し、この一週間、人知れず大いにへこんでいたところだ。また、「ニューオーリンズに行ってから変わった」との指摘も受けた。確かに心当たりはある。今回そこら辺から始めようと思う。ただ、シリーズタイトルの「日本への警告」に関しては、色々考えたがそのまま残しておきたいと思う。実際、少しでも日本の人々の危機感を高めることができたなら、という気持ちでこれを書いている。書かずに後で後悔するくらいなら、オーバーリアクションと取られた方がよっぽどましだ。ナオミ・クラインは、ショック・ドクトリンに立ち向かうには、我々が「ショック・レジスタンス」(ショックに耐え得る力を持つこと)になることだと言っている。そして、インフォメーションこそがその鍵なのだと。少しでもインフォメーションの共有に貢献できればと思う。

 では、忘れる前に…。

*ここに書かれている意見は、完全に筆者個人のものであり、このブログやティーチャーズカレッジを代表するものではありません。

 およそ一か月前、学会発表のため、ニューオーリンズに行ってきた。自分の発表の他、著名な学者たちの発表を見るだけでなく、2005年のハリケーン・カトリーナが残した爪跡を見学したり、このブログから始まった「世界から日本へ1000のメッセージ」のメッセージを地元の人々から集めたりと忙しく動き回ったが、自分にとっての最大の山場は意外なところにあった。

 滞在最後の夜、ニューオーリンズの教員組合とAmerican Educational Research Association (AERA)のSocial Justiceグループが合同開催したイベントに参加したのだ。University of Wisconsin-MadisonのMichael Apple教授が参加するセッションを探していて偶然見つけたものだった。(実際には彼は当日欠席となってしまった。)そこには地元の教員たち、彼らと密接に仕事をしているKristen Burasという一人の若い教育学者(Appleの弟子でもある)、それにAERA参加のためにニューオーリンズを訪れていた大学院生やごく少数の学者たち、およそ40名が集まった。

 前半は地元の教員たちとKristen Buras教授が、カトリーナ後のニューオーリンズにおける教育政策について一人ずつ話をしたのだが、そこで聞いた話はどれも耳を疑うような悲惨なものばかりだった。まずはカトリーナの翌年早々に、“disaster unemployment”(災害解雇)と称して、ニューオーリンズ市の教師が4000人一斉に解雇されたこと。そして解雇されたうち4人に3人は黒人であったこと。どうしても復職を希望する教員は、8つの異なるテストをパスすることが条件として求められたこと。そのような屈辱を受けることを拒否し、他の都市で教えることを選んだベテラン教員が数多くいるということ。運良く解雇を免れた者も、それまでの倍以上のお金(月々$790)を自己負担しなければ福祉の手当ても受けられなくなったこと。損害を免れ再び開校した学校も、成績が悪いとの理由で次々と閉鎖、チャーター化され、その度に教員は一斉解雇されたこと。自分が以前勤めていた学校がチャーター化された場合、定年者は福利を受ける権利を剥奪されたこと。それらの理由により、ニューオーリンズでは何歳になっても安心してリタイアできない状態であること…。

 これらの実体験を教員たちの口から聞くのは、非常にパワフルな体験だった。5週間前に第一子を出産したばかりというニューオーリンズ出身のKristen Buras教授も、2005年以降ニューオーリンズで「改革」の名のもとに実施されてきた政策を感情露わに批判していた。そのようなことを一つも知らなかった自分は愕然とし、「伝えねば」という強い想いが自分の中に芽生えるのを感じていた。この、「日本への警告」シリーズを書き始めたのは、まだ興奮冷めやらぬニューヨークへの帰りの飛行機の中だった。ニューオーリンズに行ってからトーンが変わったと言われても仕方のないことなのかもしれない。

 ニューヨークに戻り、カトリーナ後のニューオーリンズの教育政策をリサーチし始めると、二つのことがわかってきた。一つは、壊滅的な被害を受けたニューオーリンズの学校システムが、市場型教育改革(又は新自由主義的教育改革)の実験場として絶好の機会を提供したこと、二つ目はその「改革」の手法―ショック・ドクトリンの教育政策における適用―が今日のアメリカの至る所で使われており、結果的に公教育の危機を招いているということだ。その意味で、昨年のロードアイランド州に始まった教員一斉解雇の動き、ウィスコンシンから広まった今日の公務員団体交渉権剥奪運動、全国で広がりを見せる教育の民営化運動を正確に読み解く鍵がニューオーリンズにあると思っている。
(続く…)

2011年5月7日土曜日

誰のため、何のための復興なのか? ~日本への警告 4~

(4月30日 アメリカ教育最前線から)

 ここ数回に渡り、ミルトン・フリードマンとその崇拝者たちがクーデターや自然災害などの社会危機に乗じて推し進めてきた市場原理主義的経済改革の恐ろしさを、社会危機のさなかにある母国日本への警告として綴っている。

一つ注意しておきたいのは、私は規制緩和や民営化という概念自体が問題だと言っているのではないということ。ただ、1973年のチリのクーデター、2003年のアメリカによるイラク進出、2004年のスマトラ沖地震、2005年のアメリカ本土を襲ったハリケーン・カトリーナなどで、市場原理主義者たちが経済改革の手法として用いてきた「ショック・ドクトリン」(ナオミ・クラインによる命名)は、国の利益を第一に考えたものであり、その「国」そして「利益」のビジョンの大部分を占めるのは一部の企業とエリートだけであり、それ以外の人々、特に被災者や貧困層などの社会的弱者は必然的に恩恵の外へと追いやられることだ。

現に、1973年のクーデター以降、独裁者ピノチェトに経済アドバイザーとして迎え入れられたフリードマンと彼のシカゴスクールの教え子たちによる経済政策によってチリの経済は活性化したものの、現在チリは南米で最も貧富の差が大きい国の一つになってしまった。

イラクでも間違いなく一番恩恵を受けたのはブッシュ政権から様々な事業を委託された大企業たち。そして、彼らが銃弾の飛び交う危険地帯(レッド・ゾーン)の真ん中に造り上げた安全地帯(グリーン・ゾーン)の利権を買えるのはイラク人以外の外国人とイラク人政治家たちだけだ。ほとんどのイラク人はいつ撃たれてもおかしくない状況で暮らすことを余儀なくされた。

スマトラ沖地震でも同じことだ。津波で壊滅した海岸沿いの無数の漁村が、今では一大ビーチリゾート地になっている。パニックに乗じてそれら全ての土地が、地元の人々との交渉もないまま海外の企業家たちにタダ同然の値で手渡されたのだ。それもその筈、スリランカ政府が復興事業を委託するために立ち上げた外的機関Task Force to Rebuild the Nation (TAFREN)のメンバー10人のうち、5人が観光産業の要人だったのだ。(詳細はTourism Concernレポートを参照のこと。ちなみに、現在ミシガン州で新知事スナイダーにより初の「非常事態宣言」が発令され、町全体が企業の管理下に置かれようとしているBenton Harbor。知事によりそこの非常事態マネージャーに任命された人物は、何年もの間、町の人々の唯一の財産であるビーチラインの公園を一大ゴルフリゾートにするために立ち上げられたNPOの理事を務めてきた人物だ。詳しくはこちら。)

『ショック・ドクトリン』の中で、ナオミ・クラインがスリランカ政府の声明を引用している。

“In a cruel twist of fate, nature has presented Sri Lanka with a unique opportunity, and out of this great tragedy will come a world class tourism destination”

「残酷な運命のいたずらで、自然の力がスリランカにまたとない機会をもたらした。この未曾有の悲劇から世界有数の観光地が生まれることだろう。」

このような地上げ行為はハリケーン・カトリーナが襲ったニューオーリンズでも起こった。一大観光地であるフレンチ・クウォーターのすぐ隣には、幾つもの公団が立ち並んでいて、カトリーナ以前から企業家たちがそれらの土地を狙っていたのだ。カトリーナがそれらの地域に壊滅的なダメージを与えた時、ニューオーリンズ有数の共和党議員がロビーイストたちにこう言った。

“We finally cleaned up public housing in New Orleans. We couldn’t do it, but God did it.”

「とうとうニューオーリンズの公団を片づけることができた。我々はできなかったが、神がやってくれた。」

 復興作業がいつまでたっても進まないために避難したニューオーリンズの多くの人々が戻れない状態が続き、空き家になっている家々は次々と没収されていった。カトリーナから一年が経過した2006年9月には、St. Bernard Parishの4000の家が壊され、一年半後の統計ではニューオーリンズの人口はカトリーナ前の約半分の444,000人に減っていた。明らかにアメリカ政府が貧困層の人権を守る努力をしていない状態を見て、とうとう国連が2006年7月28日に非難声明を出したほどだった。(詳細はTeaching the Leveesから。)

 前にも書いたが、このように世界中で同じようなことが繰り返される状態を見て、知識人やジャーナリズムにいる多くの人間が訴えている。


 これはもはや「ミス」ではなく、実は緻密な計画に基づいたものでる。


(続く…)

*ここに書かれている意見は、完全に筆者個人のものであり、このブログやティーチャーズカレッジを代表するものではありません。

2011年5月5日木曜日

災害を喰いものにする政治家と大企業 ~日本への警告 3~

(4月29日 アメリカ教育最前線から)

1970年代から自然災害やクーデター等による社会危機を利用して市場原理主義を推し進めてきたミルトン・フリードマンとその崇拝者たち。2005年のハリケーン・カトリーナによって壊滅的な被害を受けたニューオーリンズは、アメリカにおける彼らの絶好の実験場となった。

 ニューオーリンズの堤防が決壊してから2週間後、ワシントンDCにおいて最も影響力を持つ保守的シンクタンクの一つであり、フリードマンの崇拝者が数多くいるHeritage Foundationが会合を持ち、“Pro-Free-Market Ideas for Responding to Hurricane Katrina and High Gas Prices”(ハリケーン・カトリーナと石油高騰対策としての自由市場推進案。別名Opportunity Zone。)という合計32もの政策から成るリストを発表した。

それらは民営化規制緩和、そして公的部門の大幅財政カットという、ミルトン・フリードマンとその崇拝者たちが、チリ、イラク、スリランカなどで使ってきたショック・ドクトリンのトレードマークとも言うべき3本柱を要求する内容だった。そしてそれは復興支援とは名ばかりの、人道支援や民主主義とはかけ離れた市場原理主義推進政策だった。

 良く考えて欲しい。この民営化、規制緩和、そして公的部門の大幅財政カットという3本柱は、今まさに共和党が実権を握っているほとんどの州で行っていることだ。プリンストン大学のノーベル賞受賞エコノミスト兼NY Timesの人気コラムニストであるPaul Krugmanが、ウィスコンシン州から始まったこの一連の動きを、“Shock Doctrine USA”と分析したのも納得だ。もう一点。約一週間前、アメリカの有力経済誌The EconomistJapan's disaster and business reform: A good place to start(日本の災害と経済改革:良きスタート地点)という、上の自由市場推進案と非常に類似した提案を日本の指導者に向けて発信している。「まさか日本でも」と危惧して調べていたら遭遇した情報だった。Shock Doctrineが日本でも使われる可能性は無きにしも非ず、その危機感が、今私にこれを書かせている。これらの二点に関してはまた機会を改めて書こうと思う。

話を元に戻そう。先の自由市場推進案は、Heritage Foundationで持たれた会合に出席していた共和党保守派の政策研究グループが提案し、一週間も経たないうちにブッシュ大統領によって採用された。



民営化
 カトリーナ後の復興政策で際立っているのは、復興のあらゆる側面における民間企業への委託だ。被災した軍隊基地や橋などの建築、暴動対策などの警備、仮設住宅作り、死体処理に至るまで、災害のどさくさにまぎれて入札なしに委託された。その多くはイラクでもブッシュ政権に委託されて事業を展開している企業で、全てがブッシュの選挙に貢献した大企業だった。入札無く委託されたため、それらの企業は各事業に信じられない程高額な請求書を書く一方で、仕事はなかなか進まなかった。ブッシュは再三追加予算を国会で迫り 、カトリーナ上陸2週間後の9月13日には、実に一日$1 billion(約817億円)ものお金を復興に費やすまでになっていた。イラクの時と全く同じ展開に、スパイク・リー、ナオミ・クライン他、知識人やジャーナリズムにいる多くの人間が、カトリーナの「対応のまずさ」は、実は緻密な計画に基づいたものであったと考えている。

もう少し具体的に見てみよう。仮設住宅作り一つをとっても、入札なしに委託された4つの企業の予算は、当初の$400 millionを遥かに上回り、最終的に$3.4 billion(約2778億円)となった。また、死体処理に関しても、委託された企業は1体あたり平均100万円以上ものお金を州政府に請求した。にもかかわらず、その仕事は驚くほど遅く、1週間経っても炎天下の下で死体が放置され、NGO職員または地元の人間が死体処理した際には、彼らの利権を侵害したという理由で罰金が科される始末だった。

この企業だけではない。驚くことに、ブッシュ政権に委託された企業の多くが、地元のボランティアや救済のために駆け付けたNGO、送られてくる支援物資などが彼らの利権を侵害していると政府に不満を呈した。また、本来であれば被災地で仕事を失った人々を雇用するべきところだが、代わりに多くの企業が非公式に最低賃金以下で違法移民を雇用し、地元の人は手をこまねいて見ている他なかった。(これは、先に述べた自由市場推進案によって、Davis-Bacon prevailing wage lawsという、政府に仕事を委託された人間には生活可能な賃金を支払う義務があるとする法案を被災地においては撤廃するという新たな法案ができたからだ。)これらのカトリーナ復興事業に関わった民間企業の数々の汚職に関しては、約一年後に公表されたレポートに詳しくまとめてある。

(続く…)

*ここに書かれている意見は、完全に筆者個人のものであり、このブログやティーチャーズカレッジを代表するものではありません。

2011年5月3日火曜日

これがアメリカなの? ~日本への警告 2~

*この記事は、元々もう一つのブログ『アメリカ教育最前線!!』に載せたものです。一人でも多くの日本人にこの事実を知ってほしいと願い、この場でシェアさせてもらっています。



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【主張】教育政策担当: 鈴木


 ニューオーリンズがハリケーン・カトリーナによって水没してから約半年後の2006年2月、メディアや民衆、上院・下院など、国のあらゆる側面から圧力を受けたブッシュ政権は、The White House Katrina Reportを公表し、その未曾有の被害は国の対応のまずさから起きたものであったことを認めた。

 しかし、カトリーナ後、一週間経ってもまだ被災者が崩壊した家の屋根から救助を求め、避難所となったスーパードームの外では死体がそのまま放置されているテレビの映像には、「対応のまずさ」だけでは理解できないものがあり、世界中を驚かせた。CNNのレポーター、Sanjay Guptaは「これがアメリカなの?」と問い、ボストンの有力紙、Boston GlobeのDerrick Z. Jacksonも、

“Here’s the wealthiest nation in the world—gave a Third World response to a major catastrophe”
「世界で最も裕福な国が大災害に対して第三世界並みの対応をした」と酷評した。

 では実際にどのような状態であったのか、アカデミー受賞監督、スパイク・リーの2006年作のWhen the Levees Brokeというドキュメンタリーフィルムが見事に映像として残しているので是非機会がある人は観て欲しいと思う。




そうでない人は以下の抜粋で我慢して欲しい。ちなみにこのフィルムは、George Polkテレビドキュメンタリー賞を始めとした、ジャーナリズムで最も権威のある賞の多くを受賞している。



 では、何がそのような「対応のまずさ」に繋がったのか。前回紹介したナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』は、ブッシュ政権の最大の狙いは人的救助にはなく、この社会危機をビジネスチャンスとして利用することにあったことを指摘する。

(続く…)

*ここに書かれている意見は、完全に筆者個人のものであり、このブログやティーチャーズカレッジを代表するものではありません。

2011年5月2日月曜日

オサマ・ビン・ラディンの死を考える




アメリカは朝から祝福ムード。


テロリストとはいえ、一人の人間の死を国を挙げて祝福する様子に


違和感を覚える。


もしこれが日本であったら、同じ光景になるのだろうか。


小関先生だったら何と言うだろう?


    勝って反省、負けて感謝


アメリカ人の多くは、「反対じゃないの?」と訊き、理解に苦しむ


小関先生の武士道。


今は祝福ではなく、沈黙の時。


我々に残されたのは、答えではなく、新たな問い。

2011年4月25日月曜日

ショック・ドクトリン ~日本への警告 1~

*この記事は、元々もう一つのブログ『アメリカ教育最前線!!』に載せたものです。一人でも多くの日本人にこの事実を知ってほしいと願い、この場でシェアさせてもらっています。


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【主張】教育政策担当: 鈴木


まえがき

 2005年、カリブ海諸国並びにアメリカ南部を襲ったアメリカ記録史上最大級のハリケーン・カトリーナをあなたは覚えているだろうか。被害総額も史上最大の99億ドル(今日の換算で約7兆6000億円)の損害を出した。中でも壊滅的な被害を受けたのがルイジアナ州ニューオーリンズで、市内の陸上面積の8割が水没、カトリーナによる死者1836人のうち、約86%がニューオーリンズで発見された。

 カトリーナ以降、「改革」という名目でニューオーリンズにてどのような恐ろしい政策が施行されてきたか、それが今日のアメリカ全体にどれだけ影響を及ぼしているかを知っている日本人はどれだけいるだろうか。約一ヵ月半前、カトリーナを遥かに超える災害に見舞われた日本。多くの市町村が壊滅的な被害を受け、学校システムも一から造り直す必要がある所も少なくないだろう。ポスト・カトリーナのニューオーリンズが発するメッセージ…。それは復興の険しい道を歩み始める日本にとって、警告に他ならない。



ショック・ドクトリン(The Shock Doctrine) 

 カナダ人ジャーナリスト、ナオミ・クライン(Naomi Kleinの世界的ベストセラー『ショック・ドクトリン』(2007)が今、アメリカで再び注目を集めている。




ショック・ドクトリンとはいったい何のことか。一言でいえば、ショック療法の経済的適用だ。ショック療法とは精神病患者に電気ショックを与え、まずは患者を子どものようなまっさらな状態に戻してから好ましい状態へと導いていくことを目的とする「療法」で、1950年代にはアメリカの秘密諜報機関であるCIAが目をつけ、拷問や洗脳などにも使われてきた。




では、ショック療法の経済的適用とは、何を意味するのか。それは、上のビデオでもあるように、自然災害あるいはクーデターなどで社会全体が麻痺に陥った時、人々がショック状態から立ち直る前に、過激で後戻りの効かないシステムを一気に構築することだ。具体的に言えば、市場原理主義に基づいた自由市場の構築で、教育、医療、郵政、電気やガス等のエネルギー資源、警察や地方自治体の行政に至るまで、政府が担ってきたあらゆる機能が民営化されることを意味している。もちろん、このような極端な政策は、社会が正常な状態であれば猛烈な反対に会う。だからこそ自然災害等の社会危機が必要なのだ。

社会危機の利用価値に目をつけ、ショック・ドクトリンを最初に提唱したのは、「新自由主義の父」とも称されるノーベル賞エコノミスト、ミルトン・フリードマン(Milton Friedman)だ。

フリードマンは言う。
“only a crisis—actual or perceived—produces real change”
「現実の、あるいは仮想の危機だけが真の変化を生む

驚くことに、このショック・ドクトリン、実はハリケーン・カトリーナの30年以上も前から存在していたという。最初の「実験舞台」となったのが1970年代のチリのクーデターで、フリードマンが社会危機の利用価値に最初に気付いたのも、クーデターによりチリの独裁者となったアウグスト・ピノチェトのアドバイザーとして彼がチリの経済改革に関与した時だったとクラインは指摘する。(ちなみに、チリではフリードマン及びシカゴ・スクールで彼のもとで学んだ数多くの教え子たちによる経済改革により、政府のあらゆる機関の民営化が行われ、瞬く間にフリードマンが夢見た自由市場を作り上げたのだ。教育に関しても、国全体でバウチャーを導入し、世界を驚かせた。)そして、その後もイラク、スマトラ沖地震などで磨きあげられ、30年もの間ずっとフリードマンと彼の崇拝者たちが待っていたアメリカ本土における危機こそがハリケーン・カトリーナだったのだ。

 カトリーナがニューオーリンズを水没させた3ヶ月後、93歳で衰弱していたフリードマンは、最後の力を振り絞ってウォールストリートジャーナルに寄稿したそうだ。その中で彼はこう言っている。

“This is a tragedy. It is also an opportunity to radically reform the educational system.”
「これは悲劇だ。しかし教育システムを劇的に改革する機会でもある。」

このフリードマンの言葉通り、ニューオーリンズはその後、アメリカにおける新自由主義的市場型教育改革の実験場としての道をまっしぐらに突き進むのであった。

(続く…)
*ここに書かれている意見は、完全に筆者個人のものであり、このブログやティーチャーズカレッジを代表するものではありません。

2011年4月20日水曜日

再投稿: 校舎の影 芝生の上 吸い込まれる空

「今日初めて授業をサボってしまいました…」と罪悪感に苦しむ友達からメールをもらった。そりゃ良かったね~。I've been there, done that ♪  なんくるないさ~。ハクナマタタさ~、と心から言いたい。エールっ!!






 今日、一つ授業をさぼってしまった。統計学の授業だ。

 担当の教授がモゴモゴ、しかも早口でしゃべる人で、正直僕にとっては何を言っているのかさっぱりわからない。まるで教授の中にもう一人の存在がいるかのように、生徒たちにというよりも自分自身と会話している(映画『ロード・オブ・ザ・リングズ』に出てくるゴラムのようだ)。そんな彼のトークが僕にとっては面白く感じられて仕方がないのだが、授業の内容はちんぷんかんぷんになりつつあった。いろいろ考えたあげく、今日は授業に行かずにインターネットにアップされる彼の講義ノートをじっくり図書館で読み返すことにした(はっきり言ってそうした方が良く理解できる)。

 授業が始まる30分前まで授業に行こうか迷っていた僕は、同じ授業を取っている友達に電話をし、ノートを取ってくれるように頼んだ。



 ランチを買いに外に出た。空が急に広くなったように感じられた。11月中旬にしてはとても暖かく、とても気持ちのいい天気だ。心の中に新鮮な空気がいっきに入って、知らぬ間に僕の胸を縛っていたロープを解いてくれた気がした。

 自然と僕の足取りもゆっくりとなり、何か得した気分だ。大きくなった空を見上げながら、尾崎豊が校舎の影芝生の上で見上げた空もこんなんだったのかなぁと思いを馳せた。



 教室の窓から見える空と同じ空には到底思えない。



 ゆっくり歩いていると、いろいろな記憶が蘇ってきた。







 風邪をひき、初めて幼稚園を休んだ土曜の朝。僕の中に残っている、父親との最初の記憶の一つだ。家に父親がいるのをとても不思議に感じた。幼稚園でコマまわしが流行っていること、まだ僕がまわせなかったことを母親から聞き、父親が教えてくれることになった。

 僕が何回やってもまわせなかったコマを、いとも簡単にまわした父親を、僕は尊敬の眼差しで見上げたものだ。そして特訓した結果、昼ご飯前には僕もまわせるようになったのだ。

 その時父親が言った言葉、そして見せた優しい表情を今でもはっきりと覚えている。



   「どうだ。たまには幼稚園を休むのもいいだろう。」





 中学校で英語の教員をしていた時、ほぼ毎年、千葉市中学校英語発表会の指導、引率をさせてもらった。夏休み中、参加する生徒を部活の合間に学校に呼んで指導するのだが、9月初頭に稲毛海浜公園近くの会場で行われるその大会に行くことは、僕の楽しみでもあった。

 午前の部と午後の部の間に少しまとまった時間がある。僕はいつもその時間を大事にしていた。引率した生徒たちと近くの砂浜にエスケープするのだ。普段なら教室で他のクラスメートたちと勉強している時間、そんな時に見る海は格別にきれいだ。

 学校という枠組みから一歩出るだけで、景色は全く違って見える。ただの道路もいつもと同じように見えないし、体に入ってくる空気でさえ、どこかいつもと違う味がする。

 目の前に広がる砂浜、そして海。工業地帯に囲まれている海でさえ、どでかく見え、ゴミが点在する砂浜でさえ美しく見える。恥ずかしがりながらも、波打ち際まで走ってみたり、大声(本人いわく。実際はそうでもないが…)で海に向かって叫ぶ中学生の姿を見るのが大好きだった。







 学級に「T」といういわゆる「問題児」を抱えていた時にも同じような経験をしたことがある。実質、両親とも不在の状態で4人の兄弟だけで暮らすTは、学校に来たがらなかった。いつものように自分の空き時間に彼を家まで迎えに行った時のこと。



   「朝飯食ったか。」

   「いや。」

   「学校行く前に食ってけよ。」

   「食うもん何もねーし。」

   「そうか。…じゃあ吉野家でも行って朝飯食うか?」

   「え…?」


 驚いたことに、Tは席に着くと何も言わずに僕の箸とナプキンを取ってくれた。それに、店を出る前には頭を下げて「ごちそうさまでした」と言ったのだ。

 朝10:00、中学生などいるわけもない駅前の松屋で、二人で並んでかき込んだ牛丼はめちゃくちゃうまかった。


11/16/2009

2011年4月17日日曜日

ニューオーリンズからの祈り ~ 今しかできない教えと学び 2~

 

 ニューオーリンズから帰って来て、ちょうど今日で一週間が経った。学会に参加するための一週間ほどの小旅行だったが、とても刺激的な時間を過ごしてきた。学会発表の他に、1000のメッセージのチラシを配ったり、スケッチブックにメッセージを書いてもらったり、ローカルの教員組合の会合に参加して、2005年のハリケーン・カトリーナによる被害に便乗して進められた公教育の民営化及び教員の集団解雇の悲惨な実情を聴いたり…。また、希望者のために、ハリケーン・カトリーナの爪跡が未だに残る廃墟化した町並みや復興の最前線を周るバスツアーも企画されており、自分にできることのヒントを求めて僕も参加してきた。


 ハリケーン・カトリーナによって、市内の80%が水没するという未曽有の被害を受けたその地で、強く感じたこと…。それはニューオーリンズの人々が、日本の苦しみを心の底から分かち合っているということだ。


 旅行3日目の朝、印象的な出来事があった。同じく学会に参加していたかおるさん、シンガポールから来たシュリーンとフレンチ・クウォーターを歩いていた時のこと。反対側の歩道で、70代くらいのシスターが立っているのが見えた。車が通るのを待って道路を渡ろうとしているのだろうか。僕らが道路を横断して、彼女の横を通り過ぎようとすると、ふと彼女が話しかけてきた。
 
    あなたたちは日本から来たのですか?


 不意を突かれ、一瞬言葉が出なかったが、慌てて、「そうです」と答えた。シンガポール出身のシュリーンのことを忘れて…。すると彼女は、


   “At our church, we are praying for your country every day.”


   「私たちの教会では、毎日あなたの国のために祈りを差し上げています。」


と、背後にある教会を指差して教えてくれた。ただそれだけを伝えるために僕たちのことを待っていてくれたんだ…。そう思うと、妙に心動かされるものがあった。


 あまりにも短かった会話の余韻に浸りながら、僕らはまた歩き始めた。ふと振り返ると、元気に走ってきた子どもたちを教会に入れてあげているシスターの後姿が見えた。

2011年4月12日火曜日

いつか東北で ~ 今しかできない教えと学び 1~

 2005年、カリブ海諸国並びにアメリカ南部を襲ったアメリカ記録史上最大級のハリケーン・カトリーナ。




 被害総額も史上最大の99億ドル(今日の換算で約7兆6000億円)の損害を出した。中でも壊滅的な被害を受けたのがルイジアナ州ニューオーリンズで、市内の陸上面積の8割が水没、カトリーナによる死者1836人のうち、約86%がニューオーリンズで発見された。



 そのような未曾有の被害を受け、未だに復興の途中にあるニューオーリンズを、一か月前にカトリーナを遥かに超える災害に見舞われた日本出身の自分が訪れることに、何か運命的なものを感じていた。



 カトリーナから約5年半後の2011年4月初旬、American Educational Research Association (AERA) による年一度の学会が開かれた。参加者は少なくとも13,000人。研究者、教員、大学院生等、世界中の教育関係者がニューオーリンズに集まった。ダウンタウンの各有名ホテルの会議場では一日中様々な会議が行われ、客室はどこも満室となり、フランス領だった時代の面影を300年以上もの間大切に守ってきたFrench Quarter(フレンチ・クウォーター)のレストランやギフトショップも、AERAのトートバッグを持った人々で賑わった。



 経済効果はいったいどれくらいになるのだろうか。意図的にニューオーリンズを選んだかどうかはわからない。でも、こんな形の災害支援もあるのかと非常に感銘を受けた。訪れた多くの店では、学会のために来たことを伝えると、“Thank you so much for coming!!” (来てくれてどうもありがとう!)などと歓迎され、普通の客と店員以上の絆を感じた。



 「同じようなことを東北でやりたい」と、ふと思った。未だに不安定な原発の恐れはある。だが、時期を見計らってこのような大きなイベントを東北でできないものだろうか?



 また、わくわくしてきた。

2011年3月27日日曜日

世界から日本へ1000のメッセージ

この度、コロンビア大学ティーチャーズカレッジの同志と共に始めた 『世界から日本へ1000のメッセージ』 プロジェクトが朝日新聞の27日付朝刊国際面に掲載されました。


『世界から応援メッセージ続々 米の日本人留学生がサイト』





2011年3月26日土曜日

生きること 7 ~寺澤美帆さんから~

たくさんのメッセージをありがとうございます。


とても胸を打たれます。



いてもたってもいられない、今はみんなそうだと思います。

けど私は、この想いのともしびが、

いつか忘れ去られてしまうのではないか、

消えてしまいそうになっていくことがとても怖いです。

それは、もちろん自分に対してもですし、周りの人たちに対しても。



大裕さんのブログのタイトルから引用するわけではないですが、

だからこそ、今こそ本当に、あらゆるツールを駆使してでも、

いろんなことを分かち合うことが大切だと、痛感しています。



どうか、1日でも早く、一人でも多くの方に笑顔と希望が届きますように。

2011年3月25日金曜日

生きること 6 ~ 福島からのメッセージ

3月12日、いても立ってもいられなくなって始めた 『世界から日本の人々へ1000のメッセージ』。地震後、僕らのもとに届き始めた世界の友人たちからの励ましのメッセージを、ティーチャーズカレッジの同志で運営している教育ブログに載せたのが始まりだった。

現在、Facebookに書きこまれたメッセージは既に1000に迫ろうとしていて、ブログへのアップロードが追い付かない状況だ。少なくとも49カ国、5大陸の国々からメッセージが届き、それを少なくとも47名のボランティアとTCの仲間が日本語への翻訳、そして各サイトの運営をしてくれている。

このプロジェクトは、長期的なビジョンのもとに運営されている。世界からの声が被災地で最も苦しんでいる人々にずっと先のこと。日本がしっかりと復興の道を歩み始めた時、くじけそうになった時、背中を後押ししてくれるようにとの想いを込めて、皆が一つになって頑張ってくれている。

そして、いつか、世界から日本へという矢印が、日本から世界へと変わっていけばと願っている。



先日、被災地から初めてのメッセージが届いた。



「私は福島に住んでいます。

祈る想いで、原発の動向を見守っています。

そして、メディアを通して世界中からの応援を受け取り、

深い深い感謝と感動、

そして勇気をいただいて、

涙が止まりません。

私達は頑張ります。

世界中の皆様、本当にありがとうございます。

小さな子供を抱え、不安ばかりです。

でも、頑張ります。

皆様本当にありがとうございます。

この感謝の気持ち、

どうか世界中の方に届きますように。」

             じゅんこ


2011年3月17日 9:08 PM に投稿

世界の想い、日本へ。

日本の想い、世界に届け。



生きること 5 ~元同僚からのメッセージ~

想いを行動に移せるかが勝負ですね。


「あら、今日は学活を見に来てくれている」 と思ったら

後で 「ブログ読んだので、これは行かなくてはと思いました」

と伝えてくれたS氏。

同じ職場に私がどのような言動をしているかと見てくれている同僚がおり、

日々ほどよい緊張感が保たれています。何とも幸せなことです。



生徒と話していて今日気付いたこと。

切実に思ったのは

今、家族の絆があまりにも弱い。

何でもないときに関係をしっかりっと築くことが

とても大切だと感じました。



震災の時は厳しく、誰もが苦しい環境で過ごします。

このときにどれほど大人がしっかりとしているか、

希望を捨てずに、自分たちを守ろうと必死で動いているかを子ども達は

見つめていると思います。



恵まれた環境の中で守れていないことを

究極の状態で行動に移すことは並大抵ではありません。



まずは家庭、そして地域、学校

人とのつながりが生きる力になる。

そんな関係、互いの信頼、愛し愛され

生きていこうという思いが常に溢れていること



仲間がいると実感して生きていること

自分が生きていることを嬉しいと思ってくれる人が

確実にいると実感していること

そんな生きる力を高めていくことが

本当に必要だと思いました。


                        里枝

2011年3月24日木曜日

生きること 4 ~元同僚からのメッセージ~

生きていること

普通に過ごせていることに

感謝の思いを持って

出来るときに出来ることを精一杯に取り組む

そんな姿勢を自分も持ち、

子ども達に伝える時ですね。


喜びも悲しみもつらさも 

人ごとではなく自分のことのように

感じ取れる心を持てるようにと願います。

人として本当の意味で

 「生きる」 ことができるように

熱く生きている大人が

色々な場にいることを日々伝え

生徒や娘、息子の一番近くにいる自分も

そんな大人を目指さなくてはと改めて思いました。

里枝

生きること 3 ~小林美恵子さんから~

卒業シーズンですね。

私自身も、本当に久しぶりの卒業式で、学長先生から手渡された学位記に、特別な重みを感じました。

生きること、いのちを支える現場に飛び立つ私たちです。

こんな時代だからこそ、こんな時だからこそ、福祉・医療の現場に身を置けることを私は尊く感じています。

迷いも、不安もありません。

私は目の前にいる人の健康を支え、一人でも多くの人を笑顔にしたい。

今の自分にできること、それはこれまでの学生生活で学んだたくさんのことを、社会に還元することだと思っています。

そして、無関心にならないこと。

自分の身に降りかからなかった出来事を、我が身のように思い続けることは、きっと難しいことかもしれません。

でも、思い続けること。

寄り添い、考え、行動し続けます。

2011年3月23日水曜日

今後を見据えて 2


*以下は、日本の災害支援活動をしている中で出会った各国の日本人留学生リーダーたちとのメールのやり取りにてシェアさせてもらったものです。『今後を見据えて 1』に続く、今僕が大事にしようとしている長期的な問題意識です。





皆さま、

 Action for Japanの鈴木大裕です。(なんかみんなを繋げる合言葉になりそうでいいですね。)
以前、「今後を見据えて」というタイトルで、We are with JapanのGoogle Groupに、一世紀かかるかもしれない日本の復興を視野に入れた、一つの長期的な視点をシェアさせてもらいました。今日はその続きです。


 以前シェアさせてもらったのは、日本の災害がまだまだホットな話題である今のうちに、ドナーをする側、される側といったラインを引いた関係から、「これは私たちみんなの問題」と思えるような、ラインのない関係を築いていくこと。つまり、早い段階で日本人以外の人々をいかにdonorとしてだけではなく、participantとして巻き込んでいくかがsustainableな支援活動を展開する一つの鍵になるのではということでした。


 その後、我々の大事な使命の一つは、次に起こるであろう災害に備え、災害支援のためのインフラを造ることなのではないかと考えるようになりました。今、我々はそれぞれの活動に携わりながら、多くの壁にぶつかり、学んでいます。その成長の記録を、精査された情報として、またすぐにでも使えるシステムとして残すことこそ、人々の記憶の中に日本の苦しみを深く刻むことになり、将来的に日本をも生かすことに繋がるのではないかと思っています。


 先日、NYUとCUNYの日本人会代表の方たち、Action for JapanのDC大学連盟の人などとお話しをする機会がありました。そこで、上のような投げかけをしたところ、では、災害支援活動のノウハウに関するwikiを作ったらどうかという意見が出てきました。そして、その日のうちにNYUの方が米国における震災支援活動方法に関する情報共有wikiを立ち上げて下さいました。是非ご覧になって頂き、共有できる情報をwikiにてシェアして頂ければと思います。誰でも書き込みのできる状態になっていて、NYUとCUNYの方に情報管理・精査をお願いしてあります。地域情報、大学ごとの情報や、注意を要する点などの項目がありますので、現時点では大学ごとの情報を集約したものを僕の方に連絡頂けると助かります。使い易さ、様々な団体がこれを使えるよう長期的なsustainabilityとflexibility、English Speakerにも使える言語の変換機能を重視していますが、あらゆる面でのコメントをお願いします。ご協力お願いします。


 また、今日、コロンビアに勤める友人たちと話していたところ、とても良いアイディアを出してくれました。僕が、「長期的なフレームで日本を生かす支援活動、しかも学生にしかできないことは何か?」と振ったところ、基金を設立するのはどうかという答えが返ってきました。次に起こるであろう大規模な自然災害のために、今回の日本の大震災をメモリアルにした基金を設立する…。これをAction for Japanの一つの目玉にできたらと思うのですが、いかがでしょうか。現時点では、日本の政府は資金的な援助を国際社会に対して要請していません(http://goodintents.org/)。新聞などでも書かれていますが、海外のNGOからの援助オファーなどに関しても、混乱を避けるために非常に制限した受け入れをしております。だとしたら、この時期に基金を設立するのは非常に理にかなっていますし、様々な企業を巻き込むこと、そして大学の知的財産を活用することにも繋がると思います。災害時の通信用アプリやその他の災害にまつわるInformation Technologyの開発、地震に関する更なる研究、津波情報システムの向上など、基金の規模によっては貢献度も相当高くなり得るかと思います。いかがでしょうか。


 今、日本が世界中の人々から受けている優しさ…そのバトンを次の被災国に繋ぐことが、日本をも生かすことになるのではないかと信じています。

生きること 2 ~元同僚からのメッセージ~

原子力発電所では命をかけて皆のために作業してくれているたくさんの人々がいます。

自分の身を犠牲にして多くの人の命を守ろうと懸命に仕事をしてくれています。

本校では募金活動が始まりました。

しかし、多くの生徒は日々の生活にほぼ変化はなく、勉強、部活がない時間の過ごし方も緊張感や現状への感謝の思いも十分とは言い難いと感じます。

日本に住んでいてもdonorの域です。

私も含めここから抜け出すことが必要であると読んでいて改めて感じました。

何かを伝えなくてはいけない。

今しかできないことを伝えなくてはと思います。

未来を担う子ども達の心が育つように 自分の場で出来ることを精一杯していきたいと思います。

多くの人々がつながり、活動の参加者が増え、持続的な支援活動となることを心から願っています。

2011年3月22日火曜日

生きること

 自分が勤務していた中学校だけじゃなく、今年もいろいろな地で、教え子たちが卒業を迎えた。



そんな中、東北大地震が起こり、多くの方の命と大切な物が奪われた。



 今取り組んでいる日本復興支援活動の中、いろいろな人に優しさと勇気をもらっている。命という最も根本的なところで、我々は皆同じだと教えてくれる。



 今回の活動を通して強く思ったこと、それは、学生、教師、主婦、看護婦、会社員、フリーター…、社会における立ち位置に関係なく、やれることは実はたくさんあるのだということ。もっと言えば、自分にしかできないことが実はたくさんあるのだと思う。そして、それを見つけ、全身全霊で行動した時、人は、「生きている」と感じる。



 先日、野球部の教え子の母親が亡くなったとの知らせを受けた。何度も顔を合わせたことのあるお母さんだった。去年の夏に僕が日本に帰った時、野球部の時の仲間たちが、母子家庭である彼の家に度々立ち寄り支え合っていると聞いた。



 「死」の存在があまりにも身近にある今日、その生徒だけでなく、全ての教え子たちと分かち合いたいこと、それは生きることだ。

2011年3月20日日曜日

今後を見据えて 1

*以下はロンドンで日本の災害支援活動をしているWe are with Japanという団体のメーリングリストにてシェアさせてもらったものです。様々な活動を展開する中で、今、大事にしようとしている長期的な問題意識です。




皆さま、


 NYコロンビアの鈴木大裕です。

今後の展開を見据えて考えていることがありますので、この場でシェアさせて下さい。



 我々が世界全土、様々な形で行っている日本支援活動は、地震と津波だけでなく原発の損壊による放射能漏れの影響も考えると、長期戦になることが予測されます。となると、我々の活動をいかにsustainableなものにするかが一つの大きな課題となるかと思います。



 メールでのやり取り、もしくはネットやメディアによる情報を見ていますと、私がいるコロンビアを含め、現在は日本人が主導となって活動を行っていることがうかがえます。それは至って自然で、望ましいことなのだと思います。しかし、今後はいかに日本人以外の人々をdonorとしてだけではなく、participantとして巻き込んでいくかが大事になると思うのです。このような活動に自分自身が係わって初めて味わうsense of agencyや高まるconsciousnessがあるかと思います。もし、日本復興に何年、何十年とかかるのであれば、今この時期にいかに多くの、幅広い人々に問題意識を共有してもらえるかがキーとなるでしょう。ドナーをする側、される側といったラインを引いた関係から、「これは私たちみんなの問題」と思えるような、ラインのない関係を築いていくことがsustainableな支援活動に繋がることでしょう。“They”から“We”への転換を視野に入れ、日本人以外のボランティアを幅広く巻き込んだ活動していけたら素晴らしいと思います。


鈴木 大裕

日本からのメッセージ

大裕、




3/20(日)16:00。風がおだやかでいい天気です。もう春です。



新浦安の自宅から現状のご報告です。



新浦安地区は断水が続いております。

復旧の目処はたっていません。

電気とガスは使えます。

道路は波打ち、フェンスは倒れ、信号は傾いています。

街中でホコリがたち、泥で学校の校庭も道路も埋め尽くされています。

液状化現象です。

救急車のサイレンが鳴り響いています。



幸い新浦安地区の建物は問題ありません。

建物の倒壊や窓ガラスが割れる等の情報は聞いておりません。



生活ですが、

お風呂は入れませんし、洗顔や歯磨きもできません。手も洗えません。

物がなくて、食事も一日一食から二食、ちゃんとしたあったかい食事は食べられません。

私ひとりですので、給水や食料、食事(炊き出しへの参加)は最小限にして、

多くの人に物が行き渡るようにと思っています。



給水には多くの人が並び、1時間以上、待ちます。

近所の中学校のプールへ水をくみにいって、お風呂にためて、

下水に使っています。水汲みは何往復もします。

お年寄りには辛い作業です。。。

外には、不安そうな子供達やお年寄りがたくさんいます。。。



実家が兵庫県ですので、大地震は2回目になります。

阪神淡路大震災のとき、私は19歳になったばかりでした。

炎に消えてゆく神戸長田の町をみて、涙が止まらなかったことを思い出します。



会社に職場近くの六本木のホテルをとってもらい、六本木のホテルと新浦安を

往復する毎日です。



気持ちは明るく元気にしています。

ちょっと疲れていて、頭痛がしますが、

大丈夫です。ご心配要りません。



ただ、今日をどう過ごすか、私だけでなく、多くの方が精一杯です。

これから、スコップで泥をどけるお手伝いをします。



この地震にあわれたすべて方の心の回復を切に祈っています。



松原 由和

2011年3月17日木曜日

本当の仕事

 随分ご無沙汰してしまった。

 東北大地震が起こってから、こちらNYでも怒涛の日々が続いている。
基本的には我がコロンビアティーチャーズカレッジの日本支援活動の取りまとめ、コロンビアの他のスクール、他大学、他国大学との連携に毎日奔走している。

 たまたま今は春休み中だ。勉強など一切していない。

昔、職員室で事務仕事をしていた僕を見つけるたびに小関先生が必ず放っていた言葉を思い出す。

   「こんなのは仕事じゃない。作業だ。子どもと係ることが俺たちの仕事なんだ。」

 このような惨事がある度に僕らは気付くのだ。

本当の仕事とは何か、生きている意味は何なのか。

小関先生からのメッセージ

 ここ千葉市では、海岸地区に液状化と工場地帯の火災があった程度。
大裕さんの実家周辺も液状化の被害はあったんだと思う。

直接的には、ガソリンの不足は生々しいものがある。

電車も動いたり動かなかったり。

コンビニやスーパーに行っても何もない状態がようやく改善してきた感じ。

原子力発電所の事故に関しては、かなり不安な状態。



 そんな中、学校は給食が配給不可能ということで毎日3時間授業で終わり。

本校は部活動も21日まで中止。

 余震の心配も合わせてということだけれども、こんな時こそ、本当の教育活動をしたいと思う。現状を様々な角度から教師が語り、子どもたちに考えさせたい。

地震や津波など、人間に力ではどうにもならない自然の力について、

今、自分達がやるべき事について、できることについて…



人間が人間のために努力する姿、協力する姿。

我慢すること、希望を捨てないこと…。

弁当持ちにしてでも、勉強をさせたいと思うべきじゃないのか?そう思う。

2011年3月13日日曜日

海外にいる我々にできること

現在海外で学ばれている日本人留学生の皆さま、




 大震災のことが気になっていても立ってもいられない人も少なくないことと思います。アメリカにいる我々にできることは限られていますが、何かできることをしませんか?



 今、コロンビア大学ティーチャーズカレッジの日本人留学生を中心に、様々なイニシアティブを立ち上げています。賛同して頂けるようでしたら是非参加下さい。



1. World's 1000 Messages for JapanというFacebookページを作りました。これからはこのサイトではなく、そちらのページで東日本大震災に関することを発信していきます。



皆さまのもとにも世界中の人々から日本の人々へのお悔やみと励ましのメッセージが届いていることかと思います。それを自由に書き込んで日本に向けて発信しましょう。



海外の地震関連の報道で、donationの動きなど、encouragingなものもたくさんあります。そのようなリンクをシェアして頂ければありがたいです。ご友人たちにも広くinvitationを出して頂きますようお願いします。



2. Twitterアカウントを作りました。Facebookのページに書き込まれた世界中の人々からのメッセージが一つひとつfollowerに届くようになっています。Twitter accountをお持ちの方は是非フォロー頂き、リツイートお願いします。これらのメッセージは、『世界から日本の人々へ1000のメッセージ』というブログでもご覧になれます。



3. 他に、アメリカに限らず、海外の大学で勉強される友人や、その他の在外日本人ネットワークを持っていらっしゃる方は、このメッセージを自由に転送して下さい。他の組織との連携等、やれることをやりましょう。募金等、新しいアイディアも募集中です。



4. Fundraisingイベントを行います。企画、運営、パフォーマンス等、どのような形でも良いので、参加頂ける方は連絡下さい。



海外にいる我々にもできることはあります。日本の人々と心を一つにしていきましょう。

2011年3月9日水曜日

卒業する君たちへ

熱く生き、感動に満ちた人生を!!

君たちの卒業を遠くから祝福しています。

おめでとう。

 

                                  鈴木大裕






2011年3月5日土曜日

3年生を送る会、ニューヨークからのメッセージ。

MHG中学校3年生の皆さん、

 ご卒業おめでとうございます。この度、ビデオメッセージを送ることができないので、この場を使って僕からの祝福のメッセージを贈りたいと思います。


 僕は今、アメリカのニューヨークにある大学院にいます。日々、世界中から集まった学生や有名な教授たちと、どうやったら教育を良くできるのかということについて考えています。僕が体育館のステージで君たちにサヨナラを言ってからもう3年が経とうとしています。


 僕が君たちと過ごしたのは2008年の4月から8月までのたったの4ヶ月間。そう思うとちょっと信じられません。英語の授業や、給食、昼休み、委員会や部活動などで、とても密の濃い時間を共にできたような気がしています。一人ひとりのこともよく覚えています。






 さて、君たちも良く知っているサッカー日本代表の本田圭佑選手が、


 「どうして不動のポジションを築いていたオランダからわざわざロシアに移ったのか?」


と訊かれてこんなことを言っていました。


 「常に自分にとって厳しい環境に身を置くことが大事だと思うから。」


 これは、言いかえれば、ちっぽけな想いをたくさんすることなのではないかな、と僕は思っています。一つの環境で一番になれたところで、上には必ず上がいます。自分にとって居心地の良いその場所でぬくぬくと過ごすのと、あえてもっと厳しい環境に移って一から始めるのとでは天と地の差があります。


 僕は、そうやって、ちっぽけな想いをたくさんすることが人を大きくするのだと信じています。自分に与えられた環境で満足することなく、厳しい環境を追い求め続ける。きっとそんな問題意識を持っている人は一生謙虚でいつづけ、走り続けられるのではないかなと思います。


 中学校卒業後、君たちは、それぞれの道を歩みます。新しい環境にて、ちっぽけな想いを楽しんでください。そして、いつかどこかで、ひとまわりもふたまわりも大きくなった君たちと会えることを楽しみにしています。






2011年3月吉日、 鈴木大裕。

2011年1月22日土曜日

先生という仕事


自由の女神から見た虹


先生という仕事


世間では、先生の仕事は教えることだという

でも、おそらくそれは間違っている

人は人のために何ができるのか

教えることなんてできやしない

教員だった私が、年月をかけ

子どもたち、一人の先生、そしてその娘さんから学んだこと

それは愛することだった

子ども一人ひとりの無限の可能性を信じ

妥協せずに愛すること



あとがき

書きながら、過去に小関先生から頂いた一通のメールを思い出した。

去年2月、このブログ上で精力的に自分の教員時代の回想をまとめていた時のこと。

小関先生から、「今だったらあの子たちともっと違った係りができただろう」 という内容のメールを頂いた。

僕が、「愛してやれなかったのだ、と反省ばかりです。」 と応えたところ、こんな返信があった。


「愛してやる」 のではなくて、ただ、「愛する」 だな。


この、ちょっとした言葉の違いには天と地の差があった。

一年経った今、自分はようやくそれに気付いた。

2011年1月13日木曜日

Something beautiful 8 ~街角のプロフェッショナル~

 バーを出たら外は大雪だった。

一軒目を出た時に降り始めた雪は、いつしか10cm程積っていた。

夜10:30をまわっていただろうか。

その日出会ったばかりの素晴らしい友人に別れを述べ、雪の中を歩いていたら無性に腹が減った。

さっき食べたあの肉厚バーガーはどこへ行ってしまったのか。

途中、一瞬迷ったが、わざわざ110th とColumbusの大きな交差点を渡り、開いてるか開いてないかもわからないピザ屋に立ち寄った。

客は誰もいなく、イスは全て机に上げられていた。



   “Are you guys still open?” (まだ開いてるのか?)



と僕が訊くと、二人いた店員の一人がジャケットを脱ぎながら、“OK.”と気のない返事をした。

スライスをオーダーすると、その店員が一枚切ってオーブンに放り込んでくれた。

白人の30代かと思われる兄ちゃんで、アクセントから察するところではイタリア系の移民だろうか。ハーレムでは珍しい。

何時に閉まるんだ?と訊くと、壁の時計を見て、あと2分だと言った。

住んでるのがここら辺だといいけど、と雪を心配して僕が言うと、ブロンクスだと教えてくれた。

この雪の中ブロンクスまで帰るのかと思うと気の毒になり、それは悪かったと言ってピザをオーブンから出すように伝えた。

すると、彼は迷わずNoと断り、こう言った。



   “Either you do it right, or you don’t.”
(やるんだったら正しくやる、そうでないんだったらやらない、そのどちらかだ。)



 外に出た僕は、歩きながら熱々のピザをほおばった。

 そのピザのおいしかったこと!

2011年1月11日火曜日

Something beautiful 7 ~All god’s children~

 最近、日曜日によく子どもたちをゴスペルに連れて行く。間違いなく、ハーレムに住む醍醐味の一つだろう。僕が行くのは、116thとAdam Clayton Powell Jr. Blvd (7th Ave)の交差点にあるバプティスト教会。次女の美風をスリングに入れ、長女愛音はベビーカー。急いで歩けば10分もかからない。



 この前の日曜日も行った。着いた時には既にミサが始まっていたので、僕らは2階席へ。係の人が気をきかせて、子どもでも見やすい席へ案内してくれた。来ている人たちはほとんど黒人で、白人もパラパラいるが、いかにも観光客らしくキョロキョロしている。アジア人などほとんどいない。僕が愛音の手を引いて入って行くと、皆優しい笑顔で歓迎してくれた。



 音楽が始まると愛音はいつも釘づけになる。盛り上がってくると自然に立ち上がり、拍手したり踊ったりしている。美風も僕の膝の上で敏感に音楽に反応する。



 いつも教会の中はすごい熱気だ。ど迫力のゴスペル隊のエネルギーがすぐに観衆に伝染し、皆歌ったり踊ったり両手を上げて神を崇めたり。牧師の話も、徐々に上がり調子になり、しまいにはマシンガンのようになる。ああ、黒人のラップはここからきたのかとさえ感じさせる。




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 一週間に一度、こうして一堂に集まって、歌を歌い、聖書を読み、神に感謝する…。何度も言うように、僕は特定の宗教を信じてはいないが、こうしてゴスペルに来る度に思うのだ。何てすてきな休日の過ごし方だろう。



 ミサが終わり、3ドルを寄付の封筒に入れ、外に出た。



 帰り道、教会でもらったマーティン・ルーサー・キングJr.牧師のうちわを楽しそうに振る愛音を見て、黒人のおばちゃんが優しく言った。



              “All god’s children.”


2011年1月9日日曜日

おとうさま

愛音はよく意味のわからないことをする…



 うちの愛音はなかなかの悪女だ。
最近の愛音のヒットは、クリスマスにサンタさんにもらった 『若草物語』 のビデオ。中でも、4姉妹がお父さんお母さんのことを、「お父様」「お母様」と呼ぶのが愛音にとって新鮮だったらしい。

 新しい言葉はすぐに使うのが愛音の主義。

昨日、こんなことがあった。

僕が食器を洗っていた時、玄関から愛音が、サイズ28cmの僕のブーツをはいてキッチンにドタドタ入ってきた。かと思ったらそのままはき捨てて走り去ろうとする。おいおい、ちゃんと直しておいて、と僕が言うと、愛音はおすましして、

 「はいはい。おとうしゃま❤」



そう答え、足で直して走って行った…。
3歳にて男の気持ちをもてあそぶ我が娘。末恐ろしい…。
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2011年1月7日金曜日

どんな走りを




 明けましておめでとうございます。
随分ご無沙汰してしまいましたが、みなさん良い年越しをされましたか?
最新ポストがずっと『討死に』であることがずっと気にはなっていたのですが、僕にとっては師走の忙しさも一緒に年を越してしまった感じです。学会のプロポーザル、新たな奨学金のアプリケーション、妻と始めた音楽療法関係の本の翻訳、子どもたちとの遠足などなど、やることは山積みです。
 本当は年初めに去年一年の反省と今年の抱負から始めたかったのですが、それを書き終えるのを待っていると日々の感動が消化されないまま過ぎていきそうなので、とりあえず今日みなさんとシェアしたいと感じたことから2011年、始めたいと思います。


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 今日、自分にとって最初の 「先生」 であるMr. Walkerに年初めのご挨拶をした。以前、『いつの日か ~ 繋いでいくこと(完) ~』 でも書いたように、Mr. Walkerは脳に癌を患っている。8月後半に彼のもとに駆け付けた時には、もういつ死んでもおかしくないと言われていたが、「闘うんだ」 と言った言葉通り、彼は2011年も迎えることができた。

 電話越しの彼の言葉は、意外とはっきりしていた。

僕は、訊かれるままに、自分の研究のことやら家族のことやらいろいろ話をした。そして、最後に、無駄と思いつつ彼に感謝の言葉を述べた。今までに何度試みたことだろう。僕の第二の人生は、彼との出会いから始まった。彼と出会っていなければ教育を志していなかっただろうし、間違いなく今の自分はない。しかし、言語というものが、そんな感謝の気持ちをこぼさず運んでくれた試しはない。

 いつものように、Mr. Walkerは 「わかっている」 と応えた。



 苦笑いをしたら、涙が出てきた。


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 恩師に挨拶することほど新年を始めるにふさわしいスタートはないと思う。これは、もしかしたら僕が特定の宗教をもっていないからかもしれない。僕にとって、新しい年の始めに恩師に挨拶をすることは儀式のようなものだ。過ぎて行った一年を恩師に報告する自分を見て、去年一年の自分の生き様を問い直すのだ。まっすぐに恩師の目を見つめられているか?堂々と胸を張れているか?それができて初めて次の一歩を踏み出すことができるのではないだろうか。

 新年早々、もう一人の恩師、小関先生にも電話でご挨拶することができた。またしても新たな気付きを頂いてしまった。これに関してはまた改めて書きたいと思う。

 自分が受け継いだバトンの重さを確認し、今年も素晴らしいスタートをきることができた。

 2011年、自分はどんな走りを恩師たちに見せることができることができるだろうか。

2010年12月19日日曜日

進化論

生徒は先生の器の中でしか育たないという。



確かにそうだ。



「それでも、自分を超える生徒を育てなければいけないんだ。」
と久し振りに電話で話した小関先生が言った。



「進化論だよね。進化してなんぼだから。」



  それが教員にとっての 「破」 なのだろうか。

2010年12月13日月曜日

「どぉじょ~!!」

 美風 (みかさ) が得意なことの一つに



    「どぉじょ~」 がある。



本や洗濯袋を見つけては、次から次へと 「どぉじょ~」 と持ってきてくれる。



使い方が少し間違っているのが気になるところだ。



美風は自分が何か欲しい時も、やっぱり 「どぉじょ~」 なのだ。



赤ちゃん用のイスに座り、食事が出てくるのを待つ美風。



食べ物がテーブルに運ばれてくると止まらなくなる。



「どぉじょ~、どぉじょ~っ!!」


2010年12月12日日曜日

「ばてぃこぃ ばてぃこぃっ!!」



 我が家の次女、美風 (みかさ) はもう14カ月になった。

どこだって歩いていくし、言葉もしゃべる。

    「まんま」 「ぱぁぱ」

の他にも、絶妙なタイミングでいろいろな言葉を上手に真似る。

NYでは英語に触れる機会も多いので、かなり怪しいが一応バイリンガルだ。

    「るっく!!( “look!!” )」 だって言えるし、

この頃のお気に入りは、「まいんっ!!( “mine!!” )」 だ。

そう、下の子は強いのだ。

お姉ちゃんが何か物を取り上げようとしても、

    「まいん、まいんっ!!」 を連発して応戦。負けてない。




美風は良くわけのわからない言葉もしゃべる。

    「ぶりっかぶりっかぶりっか!」

    「あ~ぢこ~ぢこ~ぢ!!」




中でも傑作なのが一つある。

    「ばてぃこぃばてぃこぃっ!!」 だ。

自分が野球部顧問をしていたからか、長女愛音 (あいね) の攻撃に

泣きながら応戦する美風が発するその言葉は、どうしても自分には、

    「バッチこい!」 と言っているように聞こえて笑えてしまうのだ…。
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