2010年6月11日金曜日

聞く姿勢

 生まれて間もない雛が親鳥から餌をもらう姿を想像して欲しい。雛たちはどんなおいしいものがもらえるのだろうと、競って前にせり出し、首を伸ばして口を開く。雛たちの泣き声は、まるで 「ちょうだいちょうだい!!」 と言っているようだ。



 あれは、教えの入った生徒が先生の話を聴く姿勢そのものだ。



 稽古中、道場の端っこで稽古を見ていた小関先生が太鼓を鳴らす。

      ドン。  

すると、子どもたちはいちもくさん先生の所に走って来る。そして我先にと先生の目の前のポジションを争うのだ。異様な光景だ。イスに座る小関先生の周りに、30人ほどの生徒たちが正座する。小関先生の足が一番前の生徒たちに触れる程、生徒たちが詰め寄っている。今度はどんな話が聴けるのだろう、とみな前のめりだ。







 小関先生が新しい生徒を前にした時、最初に始めるのは、その子の 「聴く姿勢」 を引き出すことからだ。それというのは人が人に強要できるものではない。聴く気がない子は、体や目が斜に構える。いくら態勢を無理強いしたところで、肝心な心が斜に構える。



 だから、小関先生は始め、子どもの聴く姿勢を引き出すことに必要な時間とエネルギーの全てをかけるのだ。生徒をじっと観察し、その子を知ろうとする。この子は何を持っていて、何を必要としているのか。己をもって和とするために、その子に何を足せばよいのか。会話をし、信頼関係ができてくると、機会を狙ってその子の心の扉を開けるのだ。



 聴く姿勢さえできてしまえば、後は乾いたスポンジに水を注ぐようなものだ。こう考えてみると、聴く姿勢を引き出すというのは、 「守破離」 の前の 「信」 の段階に当たるのだと思う。







 僕は以前から、 「教える」 ということに関しては、中学校の教員を務めるよりも大学院の教授をする方がはるかに簡単だと思ってきた。少なくとも、大学院に集まるのは勉強したいという想いをもって自主的にやって来た人たちだ。それに、皆、知識とキャリアを重ねてきた教授たちにどんなことを学べるのだろうと思っている。



 それに比べ、思春期まっさかりの中学生を教えるのは難しい。学校に来たくない子、 「大人」 が言うことに対して疑問を持ち始める子、反抗期を迎える子も少なくない。だからこそ、この時期に心から信じられる大人に出会えることが大事なのではないだろうか。



 このブログを読んで下さっている人の中には、自分と同じように、幼い子を抱える親御さん方もいらっしゃる。我々親が担う仕事も変わりはないのではないかと思う。聴く姿勢を引き出すこと、きっとそれはその子がどのように世界に出会い、人とかかわっていくのかという人生に対する姿勢の基盤を作ることなのではないかと思う。

2 件のコメント:

  1. 「聞く姿勢を引き出す」
    ばっさりと切られたような気がします。
    聞く姿勢ができない子ではなく、
    聞く姿勢を引き出せない自分がそこにいます。
    自分の信条の1項目に追加しなければなりません。

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  2. musapooさん、
     『言葉に意味を与えること』で書いたように、僕はこの間2歳半の娘に無視されたばかりです。こうして小関先生の教えを思い出しながら精進する毎日です。失敗を繰り返しながら、日々、子どもに親にしてもらっているように思います。
     
                     大裕

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