2010年3月15日月曜日

尊敬できない先生からは子どもは学べない

 こちらでは先週中間試験が終わったところだ。勉強にかまけて随分とご無沙汰してしまった。一週間という短い間だが、この春休み中に、書きたいと思ってきたことを一つでも多く書けたらと思っている。


 さて、最近の僕はといえば、博士課程2年目が終わりに近づくにつれて、自分が残りの数年間をかけて追い求めたい博士論文のテーマを考え続けている。



 紆余曲折を繰り返し現在に至っているが、一つだけ変わらないのは、教員の社会的地位の向上に関する興味だ。



 僕は、学校に通う子どもにとって最も幸せなことは、自分が心から尊敬する先生に教えてもらえることだと考えている。 「先生すごい!」 と思っている生徒は、その先生からスポンジのように吸収するだろうし、尊敬できない先生からは子どもは学ぶことはないだろう。間違っているだろうか。



 こう考えると、少なくとも今の日本の初等、中等公立教育で教える教員は難しい立場にあると思う。難しくしている一つの大きな要因は塾の存在だ。



 平成20年度発表の文部科学省 「子どもの学校外での学習活動に関する実態調査」 によると、平成19年の通塾率は小学生25.9%、中学生は53.5%に達している。小学生4人に1人、中学生は2人に1人が塾に通っている計算になる。



 僕が教えていた東京近郊の地域では、この通塾率は更に上がる。そして、高校受験が中学校における学びの集大成として位置付けられている現在のシステム、そして学歴主義が根強く存在する社会では、子どもや親にとっては、能力別で受験準備のためにカリキュラムを組んでくれる塾の勉強の方が、学校で学ぶことよりも遥かに価値がある。 「勉強は塾でやりなさい。」 と親が子どもに言うのも無理はない。学校の教員の悪口を子どもの前で平気で言う親も少なくない。



 このような塾への依存そして学校軽視の風潮がもたらす悪影響は計り知れない。学級崩壊 (多くのケースは優等生によって引き起こされる)、大人を尊敬しない子どもの増加、精神性疾患を理由に休職する教員の増加 (2009年の文科省の発表では16年連続。教員が鬱病になる確率は一般企業の2.5倍。)、教育機会の差によって生まれる格差の拡大(東大生の親の平均収入は年間1千万円。)…。



 しかし、教育の価値観が消費資本主義によって支配される中、塾が無くなることは考えにくい。そうだとしたら、塾を必要としない教育システム及び教育観の再構築を考えて行かなければならないと思う。



 『教員のモラル低下について』 でも紹介した大村はまさんの言葉を借りると、今求められているのは、尊敬され、教育に情熱を燃やす教員が教えに浸り、子どもが学びに浸れる教育の環境を整えることだと思う。



 「先生の言うことをしっかりと聴いてきなさい。」



そう自信を持って親が子どもを送り出せる教育環境の整備に、いつの日か携わることができたらと願っている。

2 件のコメント:

  1. 塾についてはいろいろ思うことがあるのですが(元塾講師♪)、いくつか自分が思っている仮説について。

    (1)受験制度仮説

    日本の教育はペーパーテスト以外を全く評価せず、その内容もほとんど固定されており、いわば完全にマニュアル化できてしまう。そのため、どの学校に行っても学ぶ中身が一緒のため、塾はどの学校でも同じ中身を教えれば良いだけなので、事業化しやすい。

    なので、ペーパーテストの比重を少なくして、受験制度に学校の先生からの評価を必ず含むようにすれば塾はいらなくなるはずである。

    (2)文化の違い仮説

    北米の移民の多いところに行くと、どこもエイジアンの街には塾の宣伝だらけである。SATのような完全にテクニックでナントカなってしまうようなテストの準備も他の人種は塾に通わせないが、エイジアンはやたらと塾に通わせる。他方、韓国、台湾、香港はじめ、塾に通っている率は
    ほぼ100%である。これは東アジアの文化的な問題で、公共部門の介入によって解決できない。

    (3)労働市場仮説

    日本は新卒で一括採用というレールから外れると、その後やり直しがきかない。そのため、必要以上に大学の入学に熱が入り、その結果受験戦争へのプレッシャーがかかって、塾へ行かなければならない状態になっている。もし、会社・役所(コイツはホントにタチが悪い)がいつでも年齢や前職に関係なく、採用を柔軟化すれば塾に対する需要が減り、塾の社会的プレセンスが低まるはずである。


    と、いくつか思いつく(かつ割と世間で流布している)仮説を書いていみましたが、いずれも反例があっさり見つかります。

    (1)バンクーバーや、アメリカでもチャイナタウンは塾だらけ。SATは受験で少しだけしか評価されないのに、それでも塾に通わす。フランスでもカリキュラムは非常に硬直的で、ペーパーテストだけで決まるが塾はない(ただしグランゼコールは別)

    (2)フランスには、グランゼコール志望者対象の予備校があり、ほとんどのグランゼコール受験者は予備校に通う。(ただし塾はない)

    (3)韓国、台湾、香港は非常に労働力の流動性が高く、新卒一括採用の文化もないが、塾は日本よりも遙かに多い。

    ということで、塾が流行る理由にはこれといった決定的な一つの要因はありそうになく、政策によって介入することはきわめて難しいというのが私の今の印象です。だからこのテーマの研究やめたんだよな~~~~

    ただ、塾システムを改良する方法はあって、

    (1)子供手当を現金給付から現物給付に換えて育児・教育サービス以外に使えないバウチャーの形にする

    (2)内申書の重視により、塾での指導を画一的なものから、より実質的な家庭学習のサポートに変質化させる。

    というのが考えつきます。ただ、どれも聞こえは良いが、現実的な行政の手段は非常に繊細な問題が多く、実施には相当の困難が伴うでしょう。

    と、いろいろ政策的なことを書きましたが、私自身は塾自体は善でも悪でもないというのが今の感想です。日本の文化、教育制度が所与である限り、塾は存在するし、また形は変えても増えていくのだと思います。しかし塾には仰るように、学力格差→所得格差を助長しているのではないかという批判があることも事実ですが、そもそもこの二つは塾がなくても存在する物ですし、教育制度の中だけで語るにはあまりにも荷が重すぎると思います。(所得格差は、税制度、労働市場改革の方がずっと重要)

    やはり教育の問題として決定的に重要なのは

    「学力、所得の差が、人間のwell-beingの差を決める物ではない」

    ということを、教育の中で大人が真剣に教える覚悟がない、ということではないでしょうか。いきなりアナログな話になりましたが、結局は個人個人の人生に対する考え方が最後に物を言う、そして、それは教育の重要な機能の一つであると言うことをなくして、政策を考えるのは非常に大きな間違いだと思います。世間の塾に対する意見を聞いていると、この点が抜けていることが多く、失望することが多いです。

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  2. ごぶさたです。

    尊敬、確かこの前食事をご一緒したときにこのお話しましたよね。僕も同感です。

    もう一点。僕が中学生のときに感じていたのは『先生は幸せですか』問題です。

    僕が中学生だった当時感じていたことは、『幸せそうじゃない』先生の意見には従えない、ということでした。

    いやな言い方になりますが、中学生くらいになると、誰が本当に楽しそうな人生を送っているのか、誰が(表向きはいい人生にみえても)実際はつまんなそうな人生を送っているのか、というのは見えてきたりするような気がします(誤解だったりもするのですが)。

    なので、『あなたの意見に従って、あなたみたいな(つまらなさそうな)人生を送りたくない』、あるいは逆に『あなたみたいな幸せな人生を送りたい。だからあなたみたいになりたい。あなたの話は聞きたい』ということは起こりうるように思います。

    なので、尊敬できる先生であればもちろん申し分ないのですが、何よりも先生自身が人生を楽しんでいる(ことを伝える)ことも、子供がいろいろなことを吸収するためには大事なような気がしています。Daiyuさんみたいに本当に教育ということに情熱を持って、楽しそうな(辛いことももちろんあると思いますが)人生を送っている先生の言葉は響くのではないか、と思います。

    また、塾の話につなげると、この点で、塾の先生にはアドバンテージがあるようにも思います。私のショボイ経験からなのですが、塾の先生は、PM6時以降の限られた時間しか付き合いがありませんが、実際は先生一人辺りの生徒数は学校よりも少なく、個人的なところまで話し合えたりします。しかも、場合によっては当時の私のように副業(アルバイト)だったりするので、いかに大学生活が楽しいか、(本当の意味での)勉強が楽しいか、みたいなところを伝える場面は多いように感じます。また、立場上、学校の先生よりも自由を謳歌している(?)ようにもみえ、楽しい人生を送っているようにみえたりするようにも感じます。
    なので、この点でも、生徒たちは、ときに学校の先生よりも、塾の先生に強い影響を受けることがあるように思います。

    以上素人意見ながら。

    Masa

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