2010年3月27日土曜日

Revisiting 『今こそが未来』



 目的と手段、仕事と人生…。
このテーマの根底にあるのは最終到達点という幻想に思えてならない。

 考えれば考える程、今まで書いた数多くのテーマとの繋がりが見えてくる。既に終わったものと思われているかもしれないが、「(信)守・破・離」のシリーズも、 「消費資本主義と教育の商品化」 のシリーズも、まだ僕の中では終わっていない。でも、この 「目的と手段」 を考えることによって前に進めそうな気がしている。

 さて、前回書いた 『目的と手段 Part II ~仕事と人生~』 と深く関係していると思うので、今一度、既に紹介したエッセイを振り返ってみたい。 『君たちに伝えたいこと』 というシリーズで、自分の教え子たちに宛てて書いたエッセイの一つだ。






 自分は高校でアメリカに行ってから、第二の人生が始まったと思っている。毎日が未知の連続だったし、分からない英語で、どうやって自分という人間を表現しようかと必死だった。慣れてきてからも、幸福なことに、自分の才能を本気で信じてくれる数多くの素晴らしい先生に出会い、常に新たな課題を与えられ、自分の可能性に挑戦させられた。何かとてつもないことに挑戦することの楽しさを知り、自(みずか)らの無限の可能性を信じられるようになった今も、挑戦は続いている。だから毎日が失敗、反省の連続だし、自分が日々進化しているように思う。普通、社会に出て職を持った時が「将来」と言うのだと思うが、30歳を超(こ)えた今も、自分の将来にワクワクしているし、「将来の夢」もある。今、こうして今までのことを振り返ってみて言えること ―― それはいつの時も自分が懸命に生きてきたということ。無駄なこともたくさんしたし、遠回りもいっぱいした。でもいつもがむしゃらだった。

 人は、現在からはまったく創造もつかないような生活を思い浮かべ、自分の「未来」に期待を膨(ふく)らませる。でも、今日なしに明日はない。何が起こるか分からない未来に期待を膨らませる前に、何が起こるか分からない今日という新たな一日に胸を躍(おど)らせるべきだと思う。「未来」なんていつまで待ってもやって来やしない。やってくるのは「今日」だけだ。 

 じゃあ未来とは何なのか。それは灼熱(しゃくねつ)の砂漠の向こうに突如現れ、一人で旅する少年を誘惑する湖の蜃気楼(しんきろう)のようなものだと思う。追っても追っても辿(たど)り着けない幻(まぼろし)。来る日も来る日も懸命に歩き続けた少年はふと立ち止まる。自分自身を見つめた時、少年はいつしか知恵も勇気もある、たくましい男に成長している。そして、鏡を見つめる自分が、小さい頃夢に現れた旅人であることに気付く・・・。未来とはそんなものなのだと思う。あるのは「今」だけであって、その現在とは過去の自分にとっての未来なのだ。

 将来自分は何をしたい?どんな人間になっていたい?もしそれを本気で考えて、本気で実現しようとしたら、そのために自分は「今」というこの瞬間に何をすべきなのか、きっと分かるはず。ある朝、目が覚めたら急に自分が強くなっていた、なんてことある訳(わけ)がない。ふと起きたら自分が大人になっていた、なんてあり得ない。だから結局は、一日一日を自分がどう過ごすか、何を学んでどう成長していくかが、その人の未来を決定するのだと思う。今日という一日を精いっぱい、命いっぱい生きよう。今こそが未来。


1 / 1 / 2005  鈴木 大裕



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