2010年10月29日金曜日

「自由」 を捨てて自らを解き放つ 1 ~不自由なくして自由は生まれない~ (再)

 小関先生はよく過激なことを言うが、その中でも特に過激な名言がある。

「生徒に服従することを教えなければならない。」

もしこの部分だけが全国ネットのTVや新聞で報道されたら、彼は間違いなくパブリックエネミーに祭り上げられるだろう。だが、 『自分を持つということ② ~「守」「破」「離」~』や、 『叱るとは愛すること』や、 『守・破・離の前の信』を読んでくれた人は分かるだろう。小関先生にとって 「服従することを教えること」 とは 「人を信じることを教えること」 であり、 「背負わせること」 であり、 「愛すること」 である。


 それに、もし、 「何のために服従させるのか?」 と訊かれたら、きっとこう答えるだろう。


「彼らを自由にするためだ。」


 矛盾している、と思うかもしれない。でも、僕が解釈するに、これはまさに 「守・破・離」 の哲学そのものだ。 「型こそが自由の前提」 と 「守・破・離」 の教えは説いているように思えてならない。




無から自分独自の型は見つからない。

人を知らずして自分を知ることはできないのと同様に、

人は、型を守ることを通して初めて自分独自の型を持つ。


不自由なくして自由は生まれない。




あとがき (2010年10月29日)


 小関先生が言う、「服従させること」 というのは、ドイツ出身のユダヤ人哲学者、Hannah Arendt (ハンナ・アーレント) が言う 「権力を持って教える」 というのと通ずるものがある。彼女は言う。大人は自分たちの世界を、権力を持って子どもに教え込むのだ。その過程において、大人と子どもが平等の関係にあってはならない。

 Arendt は Crisis in Education (教育における危機) という論文でこう書いている。大人の代表である教師は、子どもたちを前にしてこう言って教えるのだと。


"This is our world." 「これが私たちの世界だ。」


 この言葉には、自らが歩んできた道や築いてきた世界に対する大人たちのプライドと共に、「さあ、おまえたちはここからどこに向かう?」 という子どもの未知なる可能性にかける親の愛情と期待が感じられる。


 また、「不自由なくして自由は生まれない」 という守破離の解釈も、Arendt に見ることができる。彼女の哲学は、リベラルか保守かのどちらか一方に陥りがちな現代教育理論に一つの問いを投げかけているように思う。
 
 
限界を知らずして、どこに自由を求めることができるのか?

3 件のコメント:

  1. なんかいろんなことがつながってきてるねー。
    このシリーズすごい面白いなーと思って読みました。なにがすごいかというと、自由の再定義、保守と革新の融合にフォーカスをおいているということ。でその視点は実は新自由主義と重なっている(新自由主義のパワーはそこにあると思う)んだけれど、大裕君は、この二つを全く違う視点でとらえている。ハンナ アーレント 小関先生、マキシーンの間のダイアログがあるというのも面白い。新しいディスコースが始まってるねー。Very Exciting.

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  2. 確かに。新自由主義のパワーとの関連か。言われてみればそうだね。新自由主義の強さはcoalition of strange bedfellowsとか言われるもんね。ただ、きっとArendtは新自由主義の中に保守と共生しているものを「革新」とは言わないのだと思うよ。ついこの前読んだどっかのブログ記事で、現在主に教育テクノロジーなどで良く使われている「革新」のほとんどは革新でも何でもない!っていうようなことを言っていた。うんうん、と思いながら読んだのを覚えてるよ。

    あと、新自由主義における保守と「革新」を結び付けているのは、liberal individualismであり、突き詰めればgreedだと思う。少なくともArendtの中でconservatismとrevolutionaryを繋げているlove for the world, love for the childrenではないよね。

    そうそう、"Strange bedfellows"というキーワードで検索してたらこんな記事があったよ。面白そう。"Creating Difference: Neo-Liberalism, Neo-Conservatism and the Politics of Educational Reform." by Michael W. Apple

    Check it out!!
    Thanks always for your stimulating input!!
                    
                         大裕

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  3. 70年代終わりに始まり、まだ30年の歴史しかない現代和太鼓演奏というのは、甚だ新しい芸術で、鼓童というグループが作った「和太鼓」というイメージを追って、和太鼓音楽は行き詰まりをみせています。その大きな理由には、多くの人々がそれまでの古典・伝統邦楽(祭囃子・能囃子・歌舞伎黒御簾音楽を含む)を学ばばないため、伝統楽器である和太鼓の可能性や意味に気づいていないというのがあると思います。亮太と僕の師匠である仙堂新太郎先生は「汝の足下を掘れ」と常におっしゃり、古典を学ぶ重要性を説きます。能には四拍子と呼ばれる、笛・小鼓・大鼓・締め太鼓の囃子方が舞台後方に並びます。その締め太鼓の打ち方は独特で、正座し、両腕を前方に延ばし、短いバチを手のひらの中に収める形で握ります。それはunreasonableな打ち方に見えるのですが、熟練者の太鼓から響く澄んだ音、そして持ち方からは想像もできない信じられないスピードがそこで生まれます。入門者がその持ち方をすると数時間で肩がばりばりに固まり、腕が上がらなくなる。ただ、それを毎日続けていると、次第に解きほぐれてきて、いつしか音が鳴るようになる。そして、それは腕先だけではない、肩甲骨と肋骨を使ったすばらしいストロークであり、どんな打楽器にでも応用が可能な普遍的な打法だということを理解するのです。「不自由無くして自由は生まれない」、そのアナロジーとして、古典的奏法から得られる身体運動の無限の可能性を思い浮かべました。

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