2010年10月28日木曜日

自分を信じるために人を信じ、自由を捨てて自らを解き放ち、自由になって不自由を楽しむ (再)

まえがき 


     「一つが全部」


 この言葉を何度小関先生から聞かされてきたことだろう。
その度に、 「はい」 と答えてはきたものの、今になってようやく 「そうだよな」 と思う自分がいる。「一つできる奴は全部できる」 という言葉も今だから納得できる。


 小関先生に教わったこと、自分が先生のもとで経験したことを振り返りつつ、 『先生の教え』 というカテゴリーで実に様々なことを書いてきた。でも、読み返せば読み返すほど、全てが繋がっているのが見えてくる。いろいろな状況でいろいろな言葉を聞いてきたが、先生が教えたいことはみんな同じことで、それはまさに「守・破・離」そのものなのだと思う。


 「守・破・離」 の教えは矛盾に満ちている。小関先生の言葉を道しるべに 「守・破・離」 を考えていくと、一つのメッセージが見えてくる。


自分を信じるために人を信じ

自由を捨てて自らを解き放ち

自由になって不自由を楽しむ


数回に分けて、これらを一つひとつ考えていこうと思う。



1.自分を信じるために人を信じる
① 「信じる」 ことの意味


人は、他人を知ることなく自分のことを知ることができるのだろうか
誰も深く知らずして、自分を深く知ることができるのだろうか
誰も信じることなく、自分を信じることができるのだろうか


 小関先生が頑なに 「信」 そして 「守」 の大切さを中学生に教えるのは、彼の哲学の根底にこのような問いがあるからではないだろうか。小関先生はきっと、人を信じることを通して生徒に自信を持たせ、人を信じ抜いた時に見える世界を生徒たちに見せたいのではないかと思う。


 小関先生にとって、 「信じる」 こととは心を全開にすることを意味している。中途半端に信じることは 「信じる」 うちに入らない。例えば、剣道部の生徒が完全に小関先生を信じた時、生徒は自分がした良いことだけでなく、悪いことや普通だったら言い辛いことまで先生に報告するようになる。隠していてもすぐに見透かされてしまうからというのもあるが、先生が心から自分のことを考えていてくれていることを生徒は分かっているし、先生に叱られることが自分のためになると知っているからだ。上級生になればなる程、自分から先生に叱られに行く。叱られるのが嬉しいのだ。彼らは言う、 「先生に叱ってもらった。」


 もう一つ。小関先生にとって、「信じる」ことは決して一方通行ではない。なぜならば、 『勝って己の愚かさを知る Part II ~可能性無限~』 でも書いたように、子ども一人ひとりが無限の可能性を持っていると信じている小関先生を信じるということは、自分の無限の可能性を信じるということでもあるからだ。だから、信じるということは、同時に先生の想いを背負うことでもある。これが大変なのだ。自分は一生懸命やっていると思っている生徒に先生はさらりと言う。 「お前はまだ10%の力しか出してない。」



② 自信は 「他信」
 中学校で部活の顧問などをやっていると、試合で、 「自分を信じて思いっきりやってこい!!」 などと激励する監督を目にすることがよくある。実際、自分もその一人だったのではないかと反省している。でも今になって、これは非常に無責任なことなのではないかと感じる。試合の命運が分かれるような大事な場面になればなるほど、このような激励は選手にとって酷である。


 中学生に 「自分を信じろ」 と言っても、どこまで信じ切ることができるだろうか。自分に対する自信など脆いものだ。自分の強さを知っているだけでなく、自分の弱い部分も知っているのだから。最後の最後で迷いが生じるのではないだろうか。


 その意味では、自分を信じるよりも他人を信じる方がよっぽど楽だ。 『自分を持つということ① ~信じること~』 でも書いたが、小関先生に対する信頼こそが、剣道部の子たちの自信そのものだ。普通だったら名前を聞いただけでも震えあがるような全国の強豪相手にも、小関先生が 「負けるわけがない」 と言えば、臆さずに闘ってくるのだ。それでも負けた時には、先生が全責任を負うのだ。「自分を信じろ!!」 などと言って子どもに責任をなすりつけたりはしない。


 前に、 『勝って己の愚かさを知る Part III ~人々の想いを背負って~』 で紹介した子が良い例だ。中学校女子個人の部で日本一になった子だ。


 全国大会女子個人の部、優勝候補とのベスト8懸けの試合。 「水入り」 を挟む10分を超える死闘に決着をつけて帰ってきた彼女の言葉が全てを物語っている。


「だって先生笑ってたから…。自分の感覚信じろって言ったじゃない。
先生が笑ってたから自信持って打てた。」


 最初から自分を信じ切れる人間などいないと思うし、もしいたとしたらそれはただの傲慢でしかない。人は努力をし、失敗を積み重ね、人に認められて初めて自信をつける。


 小関先生の教えは我々にこう問いかける。


人は、誰も信じることなく、自分を信じることができるのだろうか?

(続く…)

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