2010年3月3日水曜日

僕は怒っている

 ランチブレークに何気なくインターネットを開けたら、 『5歳長男餓死、「愛情わかなかった」夫婦逮捕』 というニュースが目に飛び込んできた。リーディングに追われているのに、かれこれ2時間ほど何もできていない。これを読んでくれているあなたは、このニュースを見て何を思うのだろうか。心を落ち着けて夜にでも書きたいと思う。  
                          大裕


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 自分にも子どもが産まれてからというもの、ちまたに流れる子どものニュースが自分のことのように気になるようになった。今回のように、読みながら思わず首を振ってしまうもの、行き場のない怒りが込み上げてくる事件も少なくない。




 今回、虐待によって餓死した智樹ちゃんは、死亡当時、5歳にして6.2kgしかなかったそうだ。6.2kg…。どの位の軽さかといえば、生後5か月になった我が家の美風よりも軽い。そして2歳2カ月になった愛音の半分もないのだ。



 勉強を終えて夕食前に家に戻ると、いつも二人をいっぺんに抱っこする。だから、左腕には美風、右腕には愛音の体の重みがしみついている。会ったこともない智樹ちゃんを抱っこしている姿を想像してしまう自分がいる。愛音よりも体は大きく、美風よりも軽い智樹ちゃんを抱っこする感覚は、想像するだけで確かな違和感がある。



 日頃から、世の中で起きるどんな些細なことでも自分にとって何らかの意味があると信じているが、このような事件はいったい自分にとって何の意味があるのだろうか、と考えさせられてしまう。 「またか」 と言って流すのは罪だ。



 智樹ちゃんはどのような気持ちで家族の食事を見て、

 会話を聞いていたのだろう。

 逮捕された両親は、どのような心持ちでご飯を食べていたのだろう。

 「体調に問題はない」とされた3歳の妹は、どんな気持ちで衰弱していく

 お兄ちゃんを見ていたのだろう。両親もお兄ちゃんもなく、

 これからどんな人生を歩んでいくのだろう。



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 人の親として、なぜこのような仕打ちを子どもにできるのか、僕には到底理解できない。

今回の事件を聞いた時、レバノン出身の詩人、 Khalil Gibran (ハリール・ジブラーン) の言葉が頭をよぎった。15年も前、大学生時代に出会った言葉だ。



預言者は言う、

Your children are not your children.


They are the sons and daughters of Life’s longing for itself.


They come through you but not from you,


And though they are with you yet they belong not to you.


(あなた方の子どもはあなた方のものではない。

彼らは生きようとする生命の子どもたちだ。

彼らはあなた方を通して産まれて来るが、

あなた方から来るのではない。

そしてあなた方と一緒にいるが、

あなた方の所有物ではない。

    『The Prophet(預言者)』 より (訳責:鈴木大裕)



 子どもを虐待できる人は、きっと子どもを私物化しているのだと思う。 「自分のものだ」 と勘違いしているに違いない。これも時代の流れなのだろうか。自分の命、自分の人生に対しても同じことが言えるのではないだろうか。きっと、自分の人生は自分だけのもの、命は自分が決めるものと思っている人間も少なくないのではないだろうか。



 もし、そうだとしたら、そんなに可哀想なことはない。僕は小さい頃からずっと親に教えられてきた。



どんなに辛いことがあっても自殺だけはしてはいけない。

あなたを愛している人たちが悲しい想いをするから。

生きていれば必ずいいことがあるから。



 人生に関しては、自分が出会った恩師たちからこう教わった。



 お前はもう一人じゃない。

 私たちの想いも一緒に背負って生きていくのだ。



 また、妻や子どもたちからも同じようなメッセージを日々もらい続けている。今、目の前にある学びと自分がどう向き合うのかが家族の明日を左右する。だから中途半端なことはできないし、今を大切に生きられるのだと思っている。



 人の間で生かされているという気付きの根底にあるのは、愛なのだと思う。

8 件のコメント:

  1. 小林美恵子2010年3月4日 1:04

    大裕さん、
    「虐待」については私も怒りなのか、悲しみなのか、無力感なのか上手く自分の気持ちを表現できない思いになります。児童福祉に関わっていた以前の職場では、家庭で虐待をされて保護されてきた子どももいて、私たち職員はその子ども達と日々を過ごしました。
    新採用の頃の私は、親が実の子を愛せないという事実をどうしても受け止められず、理解できず、何度も何度も上司に質問を投げかけました。

    「なぜ」「どうして」

    でも、その度に帰ってくる言葉は
    「私たちの仕事は、これから育っていく子ども達の未来を守ることだ」ということでした。私たちの職業は大人を変えることではなく、子ども達の未来を守ること。若いあなたにはまだまだ分からないかもしれないけど、自分が一番にするべきことがあるのだと。虐待をしてしまう親をケアする場所は、私たちの場所ではないと。

    4年間勤めたその職場で、まだまだ新人の域を越えなかった私ですが当時の上司が繰り返し伝えてくれた私たちの責任が何となくわかりました。
    そして、虐待をしてしまう親の気持ちは理解はできないけど、親を責めても何の解決にもならないことが分かりました。「この世に生まれてくる全ての命は歓迎され愛されて育つべきだ」と今でも思っています。自分には何ができるのか、今でも考えています。
    だからこそ私も大裕さんが言ったように「今、目の前にある自分の学び」を大切にしたいと思っています。

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  2. 美恵子さん、
     早速のコメントありがとう。
    1時間ほど編集し続けていたら、いつの間にか美恵子さんのコメントが入っていて嬉しかったよ。最終版気付いてもらえたかな?

     美恵子さんが言ってること、良く分かる。俺はある意味この親たちも被害者なのだと思う。琴栄が言っていたけど、きっと彼らも親からそのような接し方をされてきたんだろうね。そうとしか思えない。いずれにせよ、怒りと共に、「可哀そう」という気持ちがこみあげてくるのも本当のところ。尚更、この怒りはどこへ向かうべきなのか、考えてしまうよ。

     抑えきれない気持ちを受け止めてくれてありがとう。

              大裕 

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  3. 愛情の喪失。
    人間性の欠落。
    色々な言われ方をすると思いますが、
    とにかく理解できないことが増えてきています。
    でも、理解できないで終わらせてはいけないと思います。
    自分にはまったくそんなところはないのか。
    陥らないようにするにはどうしたらよいのか。
    防ぐためにはどうしたらよいのか。

    価値観の拡散はどこまで進んでいくのでしょう。
    考え始めると怖いです。

    初めてのコメントがこの記事になり、
    脳みそをグルグル使いながらキーボードを打ちました。
    私のところへのコメントありがとうございました。
    今後ともよろしくお願いいたします。

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  4. 小林美恵子2010年3月4日 10:00

    大裕さん、
    最終版、今見ました。子どもの私物化、確かにそうなのでしょうね。でも、虐待という行為には、それだけではなんだか腑に落ちないものがあります。琴栄さんがおっしゃるように、虐待をする親達も、そのまた親からそのような扱いを受けてきたのかもしれないですね。
    加害者もまた被害者であり、今回の場合残された娘さんも加害者の娘として生きていかなければならない事実。彼女が大きくなった時、背負わなければならないものがたくさんあるのだろうなと。

    「子どもを嫌いな親がいたとしても、親を嫌いな子どもはいない。」

    ずいぶん昔に観た、名前も知らない劇団の演劇の中のセリフです。子どもはいつだって、親の愛情を求めているのに。帰りたくても帰る場所のない子ども達を見てきた私は、やっぱり今でも答えを見つけられずにいます。

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  5. musapooさん、
     コメントありがとうございました。
    そうですね。自分に問い続けることが我々の
    一つの使命なのかもしれませんね。
     先日ふらっとmusapooさんのブログに
    立ち寄ってから、ちょくちょく訪れ写真を
    楽しませて頂いています。シャッターチャンス
    を狙ってカメラを構えているmusapooさんの姿が
    目に浮かぶようです。

             大裕
            

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  6. 美恵子さん、

     「子どもを嫌いな親がいたとしても、親を嫌いな子どもはいない。」

     なんか悲しいね。
    今日見つけた記事に書いてあったけど、亡くなった智樹ちゃん、週末になると妹を連れて外出する両親の姿をいつも窓から見ていたって。
     今自分にできることは何かと思い、今日はいっぱい自分の子を抱きしめた。今から続きを書こうと思ってるよ。
              
               大裕

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  7. 先ほどは下らないことを書いたので、真面目にレスします・・・。

    さて、「子供の私物化」とのことですが、なかなか難しい言葉ですね。(詳しくは知らないが)法律上も、社会慣習上も親は特別な権利と役割(義務?)を持っています。これは社会から要請なり期待されているという点もあると思いますが、そもそも家庭の中に社会的な要素が入り込みすぎないようにしている点もあるのではないかと思います。「私物化」というのはおそらく親の快楽なり都合なりが優先されすぎていて、子供に対する配慮がないという意味で大裕さんは使われているのではないかと思いますが、そもそも子育てには他人が口出しできない私的な要素が大きいように思いました。

    僕も今まで親からの虐待やneglectにあっている生徒を持ったことは何度もありますが、その度思ったのは所詮家族でない他者には何もできない、ということでした。今回のように目に余るケースの場合行政が介入するのは正当化されると思うのですが、親に毎日ひっぱたかれる程度では他人は口出しできない場合がほとんどだと思います。

    じゃあどうすれば良いのかというと、行政の権限を増やせ、とか、道徳を強化するような教育を行なえ、ということを言う人が多いように思うのですが、(わたしも昔はそう思っていた)今はどちらもほとんど効果がなかろう、と思っています。今回のような刑事事件にまで発展するケースは少なくなるかも知れませんが。

    あー、話が長くなりすぎですね。また合ったときに親子関係とか虐待とかについて大裕さんの意見を伺いたいです。

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  8. hoshinoさん、
     自分が書いたことに対して、こうして真剣に考えて下さって嬉しいです。

     急に忙しくなっちゃってPart IIを書けずにいます。僕がPart IIで明確にしたかったのはそのようなことについてです。今の社会、子どもは親のもの、子育てに他人は口出せないという風潮が確かにあるのだと思います。でも、個人的には、「それってどうなの?」と思ってしまう。親それぞれの子育てがあっていいと思う。でも、それは、自分が産んだのだから自分が好きに育てていい、という理由ではなく、自分を通して生れてきたのだから、自分がこの子の一次的な責任者を「任されている」という理由からそう考えたい。社会に、又はGibranが言うように「命」そのものに、親を任された一人ひとりの個性豊かな人間が、責任を持って子育てをするのが大事なのではないかな、と思います。でも、同様に大事なのは、子育ての一翼を担うことを親たちにお願いしている、という社会や周りの人間の自覚だと思っています。「私たちの子ども」という観点から、社会の一人ひとりが子どもを温かくみつめる目が失われつつあるのではないかな、と危惧しています。
     今度酒でも飲みながら熱く語りたいですね。

              大裕

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