2010年3月4日木曜日

僕は怒っている Part II

 昨日の5歳児餓死のニュースに続き、今日も虐待関連の記事が載っていた。



『食事与えず4歳児死亡…両親逮捕、虐待の疑いも』


『衰弱死の4歳児、児童相談所が強制保護断念』


『相次ぐ児童虐待、昨年は最多の335件』


 昨日、子どもの私物化について書いていて、ふと思ったことがある。子どもを 「自分のもの」 と考える親が増えている背景には、そのように考えさせる社会の風潮もあるのではないか。


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 論文に追われ、随分ごぶさたしてしまった。

さて、本題に戻ろう。僕はPart Iで、 「子どもの私物化」 について書いた。それは、全くその言葉の通りで、 「子どもは親のものだけでない」 という僕の考えを表している。僕は、子どもは社会の財産であると同時に、前回紹介したGibranの言葉のように、何にも属することのない、生きようとする命そのものだと考えたい。



 うちの二人の子どもたちが自分と妻から産まれてきたのではなく、僕らを通して生まれてきた、というGibranの考えが僕は好きだ。長女の愛音は2歳2カ月、次女の美風は5カ月になるが、いつになっても二人を見ていると不思議な感覚におそわれる。それは、二人とも、明らかに僕と妻に似ている所があるのと同時に、全く違う子ども一人ひとりのエネルギーを感じるからだ。この子は将来どんな人になるのだろう、いつも妻とそんなことを話しているが、正直全く分からないし、だからこそ面白い。



 先ほど、 「子どもは社会の財産」 とも書いた。そんな子どもの社会的な捉え方が、自由個人主義の歯止めが効かなくなっている今の時代こそ、大事なのではないかと思う。以前、 『人が育つ社会の在り方③』 でも書いた 「米百俵の精神」 と現代日本の 「年金問題」 を比べると、今の日本社会の、目先の事しか考えない小作農的なメンタリティーに愕然とする。



「大人が年金年金と言っているような社会では
子どもは育たない。」



 小関先生の言う通りだと思う。社会全体で子どもの将来を本気で考える…、今の日本に欠けているのはそんな風潮なのではないかと思う。



親には、 「子育てを社会全体で行っている」 という認識はないだろうし、 「委ねられている」 という認識もないだろう。



「別に頼んで産んでもらったのではないのだから…」

「あなたが産みたくて産んだのだから…」



 親に伝わっているのはそんなメッセージなのではないだろうか。



「いつも社会のためにありがとう」



 もしそんなメッセージが親たちにひしひしと伝わっていたら、はたして児童虐待のような問題は今のように起こっていただろうか。



 子育ては社会の健康の基盤を支える尊い仕事。そしてそれを一次的に担うのが親なのだと思う。そんな大事な仕事を担っている親に対して、もっともっと社会的な敬愛の念があったら、そしてサポート体制があったら、親の責任感もついてくるのではないだろうか。



 親も子どもも、背負わせてないから育たないのだ。


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p.s. 今日の記事 

『相次ぐ児童虐待…動かぬ行政、希薄な人間関係』

4 件のコメント:

  1. 久しぶりにコメントです。

    人間は社会的な存在。
    子どもだけでなく、
    大人自身も”私”的な存在だと考えがち。
    自分を”私”的存在と考えるから、
    家庭という私的空間内で行われる子育ても私物化する。
    空間は私的であっても、
    社会や見ず知らずの人ともつながってるはず。

    以前にもコメントつけたことあるけれど、
    高齢者への虐待も起こっている。
    高齢者は、家族との交流もなく、
    アパートで何日も亡くなったことすらきづかれない。
    福祉施設にもお金がなければ入所できない。
    入った福祉施設でも虐待が起こり…。
    家族の訪問がなかったり…。

    どんなに法律整備や福祉政策が整えられても、
    そこにどんな理念(哲学)が描かれ、
    どんな社会や未来があるのか、
    人間が生きることの意味が込められていないと、
    表層的で場当たり的になりがち。
    (教育もおなじだと)

    法整備や福祉政策は、
    愛情を育てられないけれど、
    法も政策も、無機質なものではないはず。

    NYでは、おひな祭りはやりましたか?
    折り紙でお雛様・お内裏様を折ったり、
    あられを食べたり。
    子どもの成長を祝うお節句。
    お節句っていう行事をやることも、
    近所の人や親戚が集まって、
    みんなで子どもの成長を祝う。
    そんなお節句の祝い方も変わってきているから。

    AKI

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  2. AKIさん、

    >どんなに法律整備や福祉政策が整えられても、
    >そこにどんな理念(哲学)が描かれ、
    >どんな社会や未来があるのか、
    >人間が生きることの意味が込められていないと、
    >表層的で場当たり的になりがち。
    >(教育もおなじだと)

    >法整備や福祉政策は、
    >愛情を育てられないけれど、
    >法も政策も、無機質なものではないはず。

    共感します。結局は今の日本の教育も法も政策も
    核となる理念が見えてこないんだよね。今年の冬、
    日本で会った時にAKIさんが言っていた、哲学の
    大切さ、日々痛感しています。

    p.s. 体調回復したようで良かったね。

           大裕

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  3. AKI さんおひさしぶり。

    私もなんか似たようなことを考えていました。

    法整備や福祉政策は、
    >愛情を育てられないけれど、
    >法も政策も、無機質なものではないはず。

    大裕君もコメントしていたけれど、私もこのポイントが
    気になったかなー。

    やっぱり解決の鍵はLOVEかなー。私自身 愛情がなんなのか、どう実践したらいいのか、専門家(宗教や精神医学)の知識に頼りすぎたり、なんかそれも気味が悪くて、とりあえずあんまり触れないようにしてきたけど、なんか結局は人と人との関係、その総体としての社会は愛を抜きには考えられない気がしている今日このごろです。


    最近アメリカのネオコンサバティブの人たちの説いている「正しい家族の形」そこで想定されている”正しい愛の形”、それを押し付けるような連邦政府が支持してきた性教育のことを考えると、ちょっと怖くなるくらい、いろんな愛やそういう愛に基づいた関係が消されている気がしてしまいます。

    愛の形をコントロールすることが、今の社会体制を維持するストラテジーの一つなのだとすれば、この体制のなかで発生しつつある問題を解決する鍵は、きっといろんな愛をいろんなところで表現することなのかなーと思ったりします。きっとこういうことは、いわゆる「専門家」よりも子どもや赤ちゃんが教えてくれるんだろうなーと思ったりもします。

    かおる

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  4. 日本はまだ見てみぬふり、というのが多いのかな。
    ソーシャルワーカーとかもあまりいないみたいだしね。
    もちろん、イギリスでも虐待とかあるけど、
    こっちはなんか変だなと思うと
    隣近所の人が平気で警察とか、
    ソーシャルワーカーとかに通報するから、
    どちらかというと、虐待から子供を守れなかった場合、
    親(加害者)の責任とともに、
    ソーシャルワーカー等の責任も問われる場合が多い。
    特に虐待から守れなかった子供は
    要注意リストに載っている場合がほとんどだから。

    それから、イギリスに来てから痛感していること。
    子供の権利が確立しているということ。
    日本と比べて、子供を一人の人間としてみていること。
    日本では、子供の意思より
    親の意思が尊重されている気がするけど、
    こちらでは未成年であっても、
    子供の意思が全く無視され親の意思のみが通されることは
    あまりない(もちろんケースバイケースではあるが)

    日本では、親がもっと子離れする必要があるな、
    とずいぶん前から感じていた私。

    日本でも子供が親の付属品としてでなく、
    一人の人間として扱われる日が早く来ることを
    祈っています。

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