2010年8月23日月曜日

ルーツ ~繋いでいくこと 4~

 この夏の僕のテーマは、自分の恩師である小関先生のルーツを学ぶことだった。自分の信仰が深まれば深まるほど、その教えの出処を知りたいと思うのは当然のことであり、僕にとっては巡礼のようなものだった。



 思えば2002年、教員として4月からの正規採用が決まった時も、自分にとっての聖地とも言える、アメリカのニューハンプシャー州にある Holderness School を訪れた。その高校は、僕にとって初めての留学先であり、第二の人生が始まった場所であり、教育を生涯の仕事にしようと志した場所であり、僕を発見してくれた Mr. Walker と出会った場所であった。教員としてのスタートを切るにあたって、今一度そこを訪れることが必然のように思われた。


僕が過ごした寮

Dininghallへの道


秋は紅葉が美しい


お土産にプレゼントしたじんべいを着るMr.Walker



 今回の巡礼も似たような位置づけだったのかもしれない。博士課程2年目を終え、必修単位もほぼ履修した今、いよいよ博士論文へと突入していく。大勝負を前にして自分の原点を探ろうと思ったのもまた必然だったのだろう。







 話を帰国2日目に戻そう。あの日、岩井君の次に僕が出会ったのは、前回再投稿した 『自由を捨てて自らを解き放つ Part V ~信仰と自由の関係~』 でも紹介した小関先生の師匠である奥村先生だった。自分の孫弟子にあたる岩井君の剣道部の指導にいらしたのだ。



   「おう。帰って来たのか。」



 Tシャツに短パン姿の奥村先生がその大きな目を少し細めて微笑みかけて下さった。今年退官されたとは思えないほど若く見える。良い指導者になればなるほど、体と言葉にミスマッチが生じるような気がしてならない。見た目は若いが、放たれる言葉はまるで仙人のようだ。ちなみに、もはやこのブログの主人公のようになっている小関先生も若い。どうやら多くの読者が相当ご年配の老人を想像しているようだが、実はまだ47歳、見た目は40いくかいかないかといったところだろう。



 奥村先生を象徴する面白い逸話がある。



 小関先生は、自分の空き時間中によく校舎をぶらぶらする。授業中のクラスを廊下から覗いては生徒の様子を見て楽しむのだ。ある年、もし剣道をやっていなければ極悪人になっていただろうと思われる男子生徒が剣道部の主将を務めていたことがある。その彼は、どんな授業でも、自分が下を向いてノートをとっている時でさえ、廊下側の後ろの窓から覗く小関先生の気配を感じ、バッと振り向くのだった。



 生徒の意識をそこまでもっていくのは相当なことだ。僕などは逆に、自分の野球部の部員に気付いて欲しくとも気付いてもらえないことがほとんどだった。だから、そのことは小関先生も少し嬉しそうだった。



 後日、小関先生がその話を奥村先生に話したところ、奥村先生独特のゆっくりとした口調でこうこたえられたそうだ。



   「気配を消せないようじゃぁ 小関もまだまだだな。」



 あれには参ったと小関先生も大笑いをしていた。



 もう一つ、小関先生が全国制覇をした時の話も面白い。



 優勝直後、小関先生は会場にいらしていた奥村先生に挨拶をした。どんな言葉をかけてもらえるのだろう、そう期待した矢先の一言。



   「やっと勝ったか。」



 剣道6段の小関先生が蛇に睨まれた蛙のように奥村先生に打たれるのもそんなところなのだろうか。素人目から見ればいくらでもよけられそうな奥村先生のスローモーションの面に、小関先生は為す術もない。不思議な世界だ。


(続く…)

2010年8月21日土曜日

再投稿:「自由」 を捨てて自らを解き放つ Part V ~信仰と自由の関係~

   神を信じる人間はきっと自由なのだと思う。


 僕は、神の存在を信じているが、信仰する宗教はもっていない。そんな自分が宗教を語るのはおかしいかもしれないが、 「自由を捨てて自らを解き放つ」 というタイトルは、人が神を信仰するプロセスに通ずるのではないかと思う。神を信仰するということは、様々な欲望を抑え、厳しい神の教えに従うということだと思う。でも、それは自由を失うということではないように思う。


 宗教にはいろいろあるし、一概には言えないのは分かっているが、僕がイメージする宗教を語ってみたい。僕が思うに、宗教を信仰するということは神の教えを内在化させることであり、それによってもたらされるのは精神の自立だ。神の教えが自分の中の 「絶対」 となれば、それは周りに流されない信念を与えてくれるだろう。その信念は自分を神の教えに閉じ込めるのではなく、逆に新たな考えや世界へと踏み出す自信となるだろう。迷いは消え、自分の弱さとの葛藤のみが残るのではないだろうか。


 僕が言う 「先生を持つ」 という感覚は、きっと宗教家が 「神を信じる」 という感覚と似ているのだと思う。先生の教えを内在化させるということは、いつであろうがどこであろうが先生を意識して行動することに他ならない。アメリカにいる今でも自分に問いかける。 「今、小関先生がこの場に入って来られても、自分は胸を張っていられるだろうか。」 そう問い続けることが、自分を鼓舞し、正しい方向へと導いてくれるように思う。


 これを読んでくれている人たちの中でも、僕と小関先生の人間関係を理解できない人も少なくないのではないかと思う。そんな不安もあり、このブログで小関先生のことを書く時にはあえて敬語を使って来なかった。このブログの投稿記事数は今回で109になるが、少なくとも5回に1回は 『先生の教え』(計25本) について書いていることになる。


 『自分を持つということ③ ~周りに流されない信念~』 で、剣道部の生徒たちがいかに小関先生に洗脳されているように周りに映るのかを書いたが、間違いなく自分も周りの教員からはそう見られていた。生徒の前であろうが呼ばれればダッシュで駆け付けたし、夜中だろうが何をやっていようが携帯で呼び出されればすっ飛んで行った。夏休み中、長野の山奥の山小屋に妻を一人残して、 「いざ鎌倉!!」 と言わんばかりに埼玉まで関東大会の応援に駆け付けたこともあった。


 もしその人が間違った方向に導いていたら、そこまで一人の人間を盲目に信じることは危険なのでは…、と思う人もいるかと思う。だが、僕にとってそんな不安はさらさらない。これはいつか書こうと思い続けてきたことだが、実は小関先生にも二人の先生がいるのだ。一人は大学時代の剣道部の先生である塩入先生。もう一人はまだ船橋市の教員だった頃から師弟関係のある奥村先生だ。二人とも超一流の教育者だ。


 小関先生は言う。


    「俺が言っている言葉は全て先生たちの言葉だ。」


 僕が小関先生に絶対の自信を持てるのは、小関先生自身が自分の先生に学び続け、自分を問い続けているからだ。自分はこれで良いのか。先生だったら何とおっしゃるだろう?


 また、奥村先生も同じことをおっしゃっていた。小関先生の道場の控室に飾ってある奥村先生の師匠の写真を見ながら、 「俺が語っているのは全部爺さんの言葉だ。」 そうおっしゃる先生の目は何とも優しかった。


 だから、こうして僕が崇拝している教えは、歴代の先生方によって、何十年、何百年と受け継がれ、磨き継がれてきた 約束のバトン だと思っている。それは決して完成されたものではない。でも、未完全で、満足されることなく追い求めてこられた教えだからこそ、自分は身を委ねることができるのだと思っている。


 小関先生は生徒にも平気で自分が打たれる姿を見せる。


 奥村先生は、よくうちの中学校の道場に顔を出される。大会前などになると、防具をまとい剣道部の生徒に稽古までつけて下さる。そんな時、小関先生は決まって自身も防具をつけ、真剣勝負を挑む。そして無惨に打たれる生身の姿を生徒に見せるのだ。


    「お前たちだけじゃない。自分だって修行中の身だ。」 


そんなメッセージを生徒に送り続ける小関先生の教えには、何にも勝る説得力がある。

2010年8月20日金曜日

先生の教え ~繋いでいくこと 3~

 野球部の部員たちと再会した後、僕は剣道場に向かった。誰かが道場の入り口に立っている僕を見つけて挨拶をすると、全員が元気な声で 「こんにちは!!」 と言ってくれた。小関先生が育てた剣道部らしい、形だけではなく心のこもった挨拶だ。



 大会前の練習の邪魔をしないように控室に行くと、今年から小関先生の後を任されている岩井君が防具をつけようとしていた。実は彼、小関先生の教え子だ。



 小関先生の指導の下、9年間で全国区として定着しただけでなく、個人ではあるが全国制覇まで果たした剣道部を誰に任せるかというのは、千葉市の剣道界にとっては非常に切実な問題だった。首脳陣がさんざん悩みぬいた果てに、彼しかいないだろうということで抜擢されたのが岩井君だった。子どもたちが全国レベルであれば、親もまた全国レベルだ。一家を挙げて子どもの剣道に懸けている親たちが勢揃いして待っている所へ、中途半端な指導者が来ようものならその指導者自身が潰れてしまうだろう。



 僕は以前何度か岩井君に会ったことがある。その時は会話は交わさなかったが、最初に会ったのは5年前に小関先生にとっての母校である、埼玉大学剣道部の寒稽古に参加させてもらった時のことだ。小関先生は毎年自分の剣道部を連れて参加していたが、お誘いを受け、僕も自分の野球部のリーダー達数人を連れて行った。岩井君は当時の埼玉大学エースにして主将を任されていた。



 一年生が 「大将」 やら 「大当たり」 やら、わけのわからない印をわざと防具につけて上級生やOBのしごきを受けていた。どうやら埼大剣道部の恒例らしい。



 そこはまさに修羅場だった。大体育館にて何百人という剣道家たちが剣を交えている。奇声が飛び交い、大学生たちがそこら中にのたうちまわっていた。馬乗りされて最後には面を剥がれている者も少なくなかった。そんな修羅場で君臨していたのが主将の岩井君だった。



 小関先生は数年前から、 「ここを任せられるのは岩井しかいないだろう」 と僕に漏らしていた。しかし、そのように小関先生にも認められた岩井君でさえ、この夏会った時には大学時代の自信に満ち満ちている面影は全くなかった。



 僕が、 「大変だね。」 と言うと、



 「いや~。もう本当に何もわからなくて。昨日も女子にこてんぱんにやられてしまって…。」 と答えた。



 そう言う彼の表情からは、彼が心底悩んでいることがうかがわれた。



    無知の知ってやつだね、と僕は言った。



 「ほんとにもっと早く小関先生にいろいろ聴いておけば良かったです。」 と言う彼からは、ここ数年間、小関先生から距離を置いていた自分を悔やんでいるように感じられた。

 

 実は、小関先生は、彼のことを認めながらも、この数年間ずっと彼のことを心配していた。



    「あいつは俺に寄って来ない。」 そう言っていた。



 やはり大学の剣道部で主将をやるということは王様になるようなものだし、教員としては部活だけでなく生徒指導もできるだろうし、ちやほやされてわかった気になってしまってるのだろうとのことだった。



 その岩井君、今では毎日のように小関先生に電話しているそうだ。



 最初に小関先生の後釜が岩井君に正式に決まったと聞いた時、僕は全身に鳥肌が立ったのを覚えている。岩井君が小関先生から距離を置いていたことも、小関先生が彼を心配していたことも、いざ始まれば彼が相当苦労するであろうことも知っていた。



   これが俺が築き上げてきた財産だ。全部お前にやる。好きなようにやってみろ。



 小関先生から岩井君へと繋がれたバトンには、そのようなメッセージが込められていたように思う。



 ちなみに、これもまたすごいめぐり合わせなのだが、小関先生が新しく赴任した中学校の剣道部の前任顧問もまた、彼の直の教え子だ。俺は感謝の心を宮原から学んだ、と小関先生が言っていたことがあり、今でも彼の机には彼女の最後の試合の写真が飾られてある。



 自分の後釜に自分の恩師が来ると知った彼女はいったいどう思ったのだろうか。想像を絶するプレッシャーだったのではないかと思う。彼女にとってもまた、最高の教えの機会となったことは間違いない。現に、この夏彼女に会った時、小関先生に毎日のように叱られてあげくの果てに見放されていると嘆いていた。



 2010年7月下旬のある日、千葉市中学校総合体育大会剣道女子団体の決勝戦が行われた。勝ち上がってきたのは、小関先生の前任校と新任校の両校だった。そして、前年度関東大会出場を果たし、今年度は全国大会出場を狙う小関先生の前任校が優勝という結果となった。小関先生にしてみれば、市内大会は勝って当然というチームを作ってきたつもりだったし、それに最後の最後まで食らいついた新任校の子たちは良くやったと言える内容だった。



 数日後、千葉県大会があり、岩井君率いる小関先生の前任校は決勝まで駒を進め、勝てば全国大会という所まで行ったが、あと一歩及ばなかった。試合後、小関先生は岩井君に惜しみない賛辞を贈った。



    「ジュンは良くやった。」


(続く…)

どれだけ真っ直ぐでいられるか ~繋いでいくこと 2~

教員時代の写真


 今年の夏の学びは、日本帰国2日目のできごとに集約されていた気がする。何の前ぶれもなしに訪れた以前の勤務校。そこで見つけたのは世代を超えた人の繋がりだった。



 日本に帰国すると、たいていは家族4人で調布にある妻の実家でお世話になる。ただ、そうすると久しぶりに日本に帰っていながら僕自身の実家に挨拶することもできないので、長旅で疲れている子どもたちを連れまわさないように、自分だけ帰国した次の日には必ず千葉の実家に顔を出すことにしている。



 千葉に向かう電車の中、2年前まで勤めていた中学校にむしょうに行きたくなった。 「少しだけ顔を出そう。」 そう決めて進路を変更した。



 学校近くになって、教務主任の関先生に電話した。まだ僕や小関先生がその学校にいた頃、僕たちの仕事をさんざんバックアップして下さった先生だ。名を名乗ると、 「おおー!お帰りなさーい!!」 と大きな声で歓迎して下さった。 「今どこにいるの?」 という問いに、実は校門まであと20メートルくらいだと伝えると、 「しょうがないな~」 と大笑いして、わざわざ玄関口まで出迎えに来て下さった。



 校舎の中に入ると、懐かしい緊張感に包まれた。



 教員というのは、人に見られる職業だ。学区を歩くだけでもそうだが、学校の中では特に自分の一挙一動が見られていると思った方がよい。つま先から髪の毛、そしてTシャツの裾まで神経を行き届かせ、一つひとつの行動に意味を与えることが求められている。自然と背筋が伸び、気持ちが引き締められる。気持ちの良い緊張感だ。



 もう自分が知っている生徒は3年生だけになってしまったなと少し寂しく感じていた矢先、2階の廊下でその日偶然母校を訪れていた卒業生2人に出くわした。両方とも僕が良く知っている生徒たちだった。そのうちの一人は、一年生の時に僕が彼女にdyslexic (失読症という学習障害) の可能性があることを親に指摘した子だった。デリケートな問題なので、指摘するにあたっていろいろ悩んだが、彼女が小学生の時からバカ扱いを受けていたこと、彼女自身も自分のことを頭が悪いと思い込んでいたこと、以前彼女の姉を僕が担任させてもらっていて親御さんとも親しかったことなどを理由に思い切って母親に相談してみたのだった。



 ちょうど帰国するちょっと前に、 Like Stars on Earth という彼女と同じ障害を持つ子どもを主人公にした素晴らしい映画を観ていたので、彼女に会いたいと思っていたところだった。そのことを話すと、高校一年生になった彼女も興奮気味にいろいろなことを話してくれた。あの時僕に指摘されて良かったということ、僕が学校を去ってからいろいろ自分の障害のことについて調べて全部ノートにまとめたこと、そのノートをいつか僕に見せたいと思っていたこと、将来自分のような学習障害を持った子どもと係る仕事をしたいということ…。心から嬉しかった。



 次に、どこから聞きつけたか、僕が去った時に野球部を任せてきた後輩が挨拶に来てくれた。今野球部がどんな状態なのかなどを話しながら、筋トレをしている部員たちの所に案内してくれた。あの時一年生だった彼らは三年生となり、皆ひとまわり大きくなっていた。



 その三年生たちが僕を取り巻くように整列したので、一言二言話をした。僕の話を聴く部員たちを前にして、ああ確かにこんな感覚だったと懐かしく感じた。彼らの前で嘘は言えない。真っ直ぐでないものを子どもたちは信じないし、まやかしを言っても自分が惨めな想いをするだけだ。子どもを前にしてどれだけ真っ直ぐでいられるか - 問われるのは自分の生き様であり、子どもが鏡となって今の自分を映してくれる。

(続く…)

2010年8月19日木曜日

繋いでいくこと 1

 このブログを始めたのが2009年の8月9日。旅行中に一周年を迎えてしまった。その間、様々な感動体験や出会いに恵まれ、大学院の勉強の合間に180本の投稿をすることができた。

久しぶりに、 「最初に…」 というこのブログの一番初めの投稿を読み返してみた。一年経った今、伝えたくてたまらなかった当時の心境とあまり変わらない自分がいる。ありがたいことだ。

この夏たくさんの感動を経験して得た溢れんばかりの想い。それをこのブログに注いでいこうと思う。

(続く…)

2010年8月6日金曜日

答えは子どもが持っている

 教育のこと、社会のこと、考えれば考えるほど複雑になってしまう。でも本当はもっとシンプルなのかもしれない。




    大人になるということは想いを背負って生きるということ



 先日、7回に渡って書いた翼のシリーズを読んだ愛さんがこのように感じたとコメントしてくれた。その通りだと思う。子どもは背負うことによって大人になっていく。



 物、お金、経験、命…。背負うものはいろいろあるけれど、最後は人の想いだ。だから周りの大人たちにできることは自分の想いを背負わせるのに値する生き方をすることだと思う。



 子どもにどれだけ持たせることができるのか…、突き詰めると全部自分に返ってくる。子どもを大人にするのが大人であるのなら、「大人」を大人にするのもまた子どもなのだと思う。



 
 

2010年7月30日金曜日

いつか必ず返ってくる ~ 翼7 (完) ~

 僕が後悔の念を口にする時、小関先生が必ず言って下さる言葉がある。



    「下手クソでも一生懸命やっていればいつか必ず返ってくる。」



新米教師として、いつもこの言葉を励みにやってきた。教員の仕事は知識ではなく、経験やセンスに頼るところが大きい。そして経験やセンスの無さは、もがいてもどうにもならない部分がある。失敗から学ぶ他ないのだ。失敗を重ねる中、受け持たせてもらった生徒たちに対しては、



    「下手くそだったけどあれが当時の自分の精一杯だった。申し訳ない!」



という開き直ることしかできない。内容はどうあれ、とにかく一生懸命やったと言える自負のみが最後の拠り所となる。









 今回、21歳になった翼が、冒頭で紹介した小関先生の言葉が本当であることを改めて教えてくれた。



 中学校生活最後の日、前日まで金髪だったのをなんで黒くしてきたかという僕の問いに対して、21歳の翼はこう答えた。



 「あれだけいろいろやってもらったのに、最後の最後まで俺が変わらなかったら(大裕が)やってきた意味ねーじゃん。だから髪とか制服とか俺がカッコいいと思ってたことを崩しても最後はちゃんとやろうと思ったんじゃないの。」



 翼は15歳だった自分の心をそう分析した。



ああ、そうだったのか。僕は衝撃を受け、眉間を竹刀で突かれたような目まいを感じた。



 翼は隣に座る嫁さんに語るように続けて言った。



 「だってあきらめなかったもんね。自然教室で俺が教頭殴った時も、(担任)は体調わりぃとか言ってバックレたけど、担任でも何でもなかった大裕が代わりにやってくれたもんね。その後も大裕だけは俺の話聴いてくれた。」



 僕は全身に鳥肌が立つのを感じつつ、そこまで感じていたか、そこまでわかっていたか、と心から感動した。と同時に、自分は何て愚かだったのだろうと思った。







 
 立派な姿で式に出るということは、翼自身にとって大いに意味のあることだった。それは、それまでの人生で何も背負うものを持っていなかった翼が、僕の想いを背負った瞬間だった。



    「偉かったな。」



6年の歳月が経ち、結婚し、子どもにも恵まれ、己の器の小ささも全部受け入れた僕の心からの言葉だった。

~ 完 ~

2010年7月29日木曜日

卒業式当日 ~ 翼6 ~

 いよいよ卒業式当日。

教室に現れた翼は、髪を黒くしてきちんと制服を身にまとっていた。これは、前夜の説得に失敗したと感じていた僕にとっては予想していないことだった。もう一つ、予期せぬ幸せが起こった。翼と同時進行で働きかけていた不登校だった女の子が意を決して登校したのだ。中学校生活最後となるこの日に、それまでほとんど揃うことがなかった我が3年B組は全員集合した。整列前からクラスの雰囲気は最高潮に盛り上がっていた。



 卒業式の練習の時から、自分の中で決めていたことがあった。一つは学級の生徒の名前を一人ずつ読み上げる時にマイクを使わないこと。もう一つは、呼名表を使わず、何も見ずに生徒の名前を呼ぶこと。簡単そうに聞こえるかもしれないが、これがそうでもない。便宜上ステージの両端に男女分かれて並ぶ生徒たちの名前を、卒業式という厳粛な場で出席番号順に正確に読み上げなければならない。男子が2人続くこともあれば、女子が4人続くこともある。生徒にとって一生に一度の中学校の卒業式において失敗は許されない。そんな不必要なことをやることが僕のクラスの子たちにとっての愛情表現だった。



 着々と式が進む中、翼はどんな気持ちでいるのだろう、と気になって翼を探した。



皆と変わらない服装で、小さくなって自分を押し殺している翼の横顔を見ると、僕の気持は晴れなかった。



 以前にも話したが、後で小関先生に、翼をちゃんとした格好で卒業式に参加させたのは偉かったと褒められたが、正直ピンとこなかった。きっとそれは、翼がきちんとケジメをつけてきたことに対して僕が感じたのは充実感よりも後ろめたさだったからだ。当時の自分にとって、翼をまともな格好で卒業式に出すということは、翼のためというよりも自分のためだったように思う。卒業式という披露の場において、自分のメンツを保ちたかったのだ。



 卒業式の翼は本当に偉かった。前日まで学校唯一の金髪であった翼は、完全に他の生徒に溶け込んでいた。皆と同じように座り、同じように礼をし、卒業証書を受け取った。あの空間に黒染めした翼がいたことに気付かなかった教員も少なくなかったのではないだろうか。



 僕自身のメンツを守るために犠牲になった翼に対して、僕は 「偉かったな」 というより 「悪かったな」 と感じていた。



 でもそれは間違っていた。そう教えてくれたのは21歳になった翼自身だった。

(続く…)

2010年7月26日月曜日

15歳の翼 ~ 翼5 ~

 翼。僕にとって最も印象深い生徒の一人だ。比較的裕福なうちの学区において、翼のような複雑な家庭環境で育った子は珍しい。祖父が近くに住んでいたものの、基本的には10代の兄貴2人が親代わりをしていた。



 4人兄弟の3番目で、兄貴たちはうちの学校が千葉市で一番荒れていた時代の中心的人物として地元では有名だった。今でこそ何人もの部下を使う立派な塗装職人をしているが、当時は高校に行かず、地域の不良たちを束ねるような存在だった。



 翼はと言えば、背は小さいがキレると何をするかわからない、学年の目玉的存在だった。上の兄貴たちが中学時代も卒業後もデタラメ放題にやっていたので、翼自身、学校に来ることに意味すら感じていなかった。部活もやらず、勉強や進学にも興味を示さない翼の意識を学校に繋いでおくのは至難の業だった。



 今考えればよくわかる。一番の問題は、翼が何も背負っていなかったことだった。以前から、 「背負うこと」 というテーマで何度か書いてきたが、翼も、 「これだけは何がなんでも失いたくない」 という 「何か」 を持っていなかったのだ。部活でも、勉強でも、人間関係でも何でもよかった。一つでも、翼を引っ張れるものが必要だった。そして、本来なら翼に背負うものを持たせてやることが担任としての自分の急務だったのだ。当時の自分にはそれがわからなかった。



 人に譲れない何かを持っている人間は頑張れるものだ。例えば、もし翼が本気で何かのスポーツに取り組んでいたなら、その練習や試合を常に観に行き、監督と連携を密にし、生活の全てのことをそれに繋げるようにサポートしていけばいい。それを中心に会話をし、褒め、叱り、鼓舞することができたはずだ。翼は、自分がそのスポーツに懸ければ懸けるほど、他のこともがんばれただろう。



 でも、不幸なことに、翼にはそういうものが何一つなかった。 (後に、 「美容の専門学校に行きたい」 と言い出したが、それは3年生も終わりに近づいた時のことだ。) だから授業を聴かなくても、成績が悪くても、学校に来なくても、彼にとっては痛くもかゆくもなかった。



 背負うものを持ってないということは、失うものが無いということでもある。だから、翼は他の生徒がやらないようなことも平気でやるような子だった。



 まずは、学校で唯一、髪を染めていた。時間通りに登校することはまずなく、登校しても携帯電話を持参し、学校の中で一人だけ白のキャップをずっとかぶっていた。泊りがけの自然教室では、禁止されていた携帯電話を堂々と首から下げて来て、しまいには宿泊先で教頭を殴ってしまった。



 そんな中、担任だった僕はと言えば、21歳の翼も認めたように、彼にとっては眼の上のたんこぶのような存在だった。いつも監視し、勝手なことをやろうとする彼のことを追いかけ回した。



 最初は朝電話をかけたりだとか呼んで話をしたりだとか、ありきたりのことしかしてなかった自分だったが、翼のことに対して本気になればなるほど、僕の行動はより過激に、よりパーソナルになっていったように思う。毎朝のように家まで迎えに行ったり、兄貴と会って話をしたり、おじいちゃんを学校に呼んで話をしたり、授業時間中に駅前の松屋に一緒に行って朝飯を食わせたり、東京の美容専門学校に見学に連れて行ったり…。



 1年間はすぐだった。翼は翌年度から通信制の美容専門学校に通うことになった。3月に入ると連日、卒業式の練習が行われるようになった。翼は相変わらずだった。髪は金髪、帽子もかぶったままで、学校に来ない日も増えていた。


(続く…)

2010年7月25日日曜日

卒業式前夜 ~ 翼4 ~

 酒をビールから日本酒へと移した頃、翼に6年間ずっと訊きたかった質問をぶつけてみた。



    「卒業式の時のこと覚えてるか?」



翼はふと考えてから言った。



    いや、あまり。



そうだろうな、と思った。続けて訊いた。



   「あの朝、なんで髪を黒くしてきたんだ?」



質問をしながら、頭の中では当時のことがフラッシュバックとして脳裏に蘇ってきた。







 卒業式前夜。僕は、駅構内の喫茶店に翼を呼び出した。ちゃんと翼が現れたことに僕は安堵を覚えた。そこでもし現われなかったらもはや打つ手がないという、ぎりぎりのラインだった。目的は一つ。ちゃんとした格好で卒業式に出るように説得すること。



 それまでの歩みを振り返りつつ、僕は懸命に話をした。いつものように、翼がへそを曲げそうになったら適当に話題を変えつつ、細心の注意を払いながら会話をリードした。既に夜10時をまわっていたので、他の保護者に見られたらやっかいだなという気持ちが時折頭をよぎった。



 2時間ほど話したのだろうか。確かな手応えも得られぬまま、翼の集中力が限界に達した。結局、テーブルの下に隠しておいた黒のヘアスプレーを渡して別れたものの、それさえも帰り道に捨てられる可能性があった。失敗した、と感じていた。


(続く…)

6年の歳月を経て ~ 翼3 ~

   「俺の奥さんも連れてっていいかな。」



電話越しの翼がそう訊いた。 「奥さん」 と言う口調に初々しさが見られた。あの大バカだった翼が嫁さん同伴で来るのかと思うと、妙に感慨深いものがあった。 



もちろんだと答え、翼にとって翌日仕事がない土曜日の夜に会うことになった。







 夜8時。JR稲毛駅の改札で会った。



一目でわかった。背が伸び、少し大人になった翼と力強い握手をした。とてもいい笑顔をしていた。



後ろには高校生くらいに見える元気の良さそうな女の子。一緒にいる二人からは仲の良さが伝わってきた。歩きながら、お腹に赤ちゃんがいると教えてくれた。翼は嬉しそうだった。



 行ったのは、JR稲毛駅近くにある 『くうひな』 という、僕が惚れ込み通い続けた店の大将が初めて自分で開いた飲み屋だった。あったのは3年ぶりくらいだが、しっかりと顔も名前も覚えてくれていた。予約した席に着くと自分の名前が筆で書かれた来店歓迎のカード。やはり心の通ずる店がいい。



    「プロだな。やっぱり最後は人だよな。」



 そんなところから会話は始まった。







 6年の歳月は翼を変えていた。
今は塗装会社に勤め、最近になって現場の頭を任されたそうだ。



積み荷の確認も、部下に渡すお金の手配も、他の業者との段取りも全て自分でやらなければいけないこと。わからないことだらけで、最初は鬱病になりそうだったこと。初めて自分の甘さに気付かされたこと。今は19歳の新妻と安アパートで暮らしていること。2月は仕事がなくて生活が大変だったこと。そして、仕事で文書を書く機会が多くなったが、漢字が書けなくて恥ずかしいから本気で習いたいということ。そう笑顔で話す翼は、社会人の顔をしていた。



(続く…)

2010年7月23日金曜日

ずっとわからなかったこと ~ 翼2 ~

 以前も書いたように、小関先生にまともに褒められたことはほとんどない。



その数少ない中に、最初に担任させてもらったクラスの卒業式のことがある。



 問題の多い学年で、3年生に進級するにあたってクラス替えを要した学年だった。特にやんちゃな生徒が何人かいたが、その多くを教員2年目の自分がまとめて受けもつことになった。



 卒業式当日、クラス36人全員が揃うのかという、極めて初歩的な心配があった。しかし、ふたを開けてみれば、我が3年B組としては立派すぎる程の卒業式だった。



髪を金髪にしてさんざん学校をさぼっていた生徒も、その日だけは黒髪で式に出席し、数週間にわたる卒業式の練習ではさんざん周りに迷惑をかけていた生徒も立派な態度を貫き、それまでずっと不登校だった子も当日になって登校し、全員が晴れて卒業することができた。



 小関先生に褒めて頂いたのはその時だった。



   「あれは偉かった。」



 前回の投稿で、失敗ばかりの教員生活だったと書いたが、特に最初に持たせてもらった生徒には申し訳ないという気持ちしかない。教員にとって、最初に送り出した生徒というのは特別な想いがあるものだ。だからこそ僕にとっては、気持ちに伴わない自分の未熟な指導に対する自己嫌悪感もひとしおだった。

 

 そんな僕には、小関先生の言葉の意味がわからなかった。その後も、教員としての経験を重ねるに連れ、 「今だったらわかるだろ」 と小関先生に言われるようになった。でも、ずっとわからないで来た。



 もちろん、全員が揃って立派に卒業できたのは嬉しかったし、何人もが先生のクラスで良かったと言ってくれたのも嬉しかった。ただ、そこに至るまでの過程に対して自分の至らなさを痛感していた自分としては、複雑な気持ちだった。正直、最後だけ良くても、という気持ちも強かった。



 その子たちが、今年21歳になった。



 翼に会いたい、と僕は思った。会ってあの時のことを訊いてみよう。そんな想いで僕は受話器を手にした…。



(続く…)

2010年7月22日木曜日

「先生」 になるために ~ 翼1 ~

 教員という仕事の目的は 「先生」 になることだと思う。人の先生になるということは容易なことではない。知識だけではどうにもならない。求められるのは、全くの他人を人として育てるだけの人間としての器だ。植物と一緒で、いくら成長する要素があったとしても小さな鉢植えの限られた養分の中では植物は大きく育たない。教員自身が成長しなければ生徒も成長しない。



 自分は、高校生だった頃からの夢を追求するため、教員生活の途中で区切りをつけた。離任式では、小関先生の助言もあり、多くを語らなかった。話自体はものの15秒で終わったのではないだろうか。僕を知る生徒や教員はさぞ驚いたことだろう。それまでずっと、 「語ってなんぼ」 というスタイルでやってきた。鈴木大裕は最後に何を語るのか、そう思っていた人間も少なくないと思う。



 その場で言ったことは今でもよく覚えている。



   「短い間でしたが、がむしゃらにやり、失敗ばかりの7年間でした。」



 これが僕の素直な気持ちだった。手を抜いたわけではない。自分としてできる限りのことはしたつもりだが、自分のキャパがあまりにも限られていたのだ。







 このブログでは、自分や自分の教え子のことよりも小関先生や彼の教え子のことについて多く書いてきた。小関先生には、 「いつになったら翼や大山、米倉のことについて書くんだ?」 と言われてきた。書かなかったのではない。書けなかったのだ。




 今までは、小関先生の教えを振り返りつつ、少しずつ自分の体験を整理してきた。そして数日前、21歳になった翼と酒を飲んだ。



 最初の卒業生と酒を飲むということだけでも、教員にとっては一つの節目だが、僕にとってはそれ以上のものがあった。やっと一つ、書けそうな気がする。


(続く…)

2010年7月13日火曜日

「選ばれる」 ということと 「責任」 ~かおるさんから~



 新自由主義の社会は個人の 「選ぶ自由」 と 「責任」 を原動力に動いている。その社会の中で、実はみんな自由に選んでいるように見えて、私たちの選択は見えない力に支配されている。しっかり人生設計を立てて、中学・高校時代には受験勉強、偏差値順にきれいにランクづけられている大学のリストのできる限り上位の大学に入り、大手の会社に入り、女性ならしっかり稼いでくれる人と結婚、出産、家のローンを払いながら子どもを育て、そしてできれば仕事もしっかりこなしていく。それが正しい生き方だと私たちの多くは教えられてきた。10代で妊娠なんてとんでもない、そして私のようにこの年になっても 「結婚も仕事もせずに」 自分の好きな勉強ばかりしている女性もとんでもない。

 よく考えるとおかしな話だとは思う。世の中では個人の選ぶ権利がさんざん強調されているのにもかかわらず、 実際には絶対的に 「正しい選択」 と 「間違った選択」 があるのだから。そして、これもおかしな話だが、自分の選択したことに対しての責任を個々人が負うように私たちは教育されている。そしてそれが自由主義社会の常識だと思ったりもしている。

 ふと最近、気になるのは、自由とはなにか、そして責任とはなにかということだ。このところあまりに個々人が選択し、その選択に個人的責任を持つ、ということが強調され過ぎて、 常に誰かに選ばれているということ、そして選んでくれた人にきちんとお返しをする責任が一人一人にはあるということを忘れがちだと思う。私自身、個人主義に影響されて、成功も失敗も全て自分次第みたいな気になってしまう時もあるけれど、実際自分の過去10年いや20年を振り返ってみると、私がしてきたことは実は私個人の選択の結果ではなく、私を選んでくれた人たちの言うことに素直にしたがってきた結果だと思う。



 「選ばれる」 というとなんかちょっと偉そうに聞こえる。学級委員に選ばれるとか、市長に選ばれるとか、選ばれるというと特別な能力が認められて人の上に立つことになると考えがちだからだろうか。 でも私のいう 「選ばれる」 というのは、そういうのとはちょっと違っている。確かに 「選ばれる」 というのは名誉なことではあるけれど、私が選ばれたが故に与えられた 人や、場所や、役割は必ずしも人が羨ましがるようなことではなかったし、自分が一番欲しかったものでもなかった。どちらかというと、それはもう他に選択肢がなくてしょうがないからそうせざるを得ないことだったり、お世話になっている人に頼まれて、どうしてもノーと言えなかったからしたことだったり、時には強制的にさせられたことだったりもした。またある時は、ちょっと怪しいけれど ふと頭に浮かんだり、偶然出会った人の口を通して伝えられた 「——するべきだ」 というはっきりしたメッセージだったりした。

 最近の話で言えば、私の博士論文のリサーチに参加してくれた女の子達は私を選んでくれていたのだと思う。本当はリサーチでは研究者がきちんとした科学的根拠をもとに参加者を選ぶことになっているので、私の研究のように、他に誰も参加者が見つからなくて、困っているときにたまたま廊下で出会って、しょうがないから参加してもらうようにお願いしたなどというやり方は、根本的に間違っていると言われてもしょうがない。それでも私は科学とは違う別の大きな力が働いていて、この特別なリサーチができたと思っている。 私は伝えるべき大事なメッセージを持っている彼女達とは結局3年間もつき合うことになった。 (今でも時々連絡を取り合っているが) 数々のインタヴィューの中で、彼女達が私に教えてくれたことは、どこにも書いてないような ことばかりだった。結果的には最初には予想もしていなかったような論文になった。論文を書き終え博士号をもらえたのも彼女達のおかげだと思う。そして ちゃんと彼女達にお返しをする責任が私にはあると思う。変な言い方だがそれは、彼女達が困っている時は何がなんでも助けること。そして彼女達が教えてくれたことを他の研究者達に伝えることが私の責任だと今は思っている。



 ちょっと話はそれるが、このブログの持ち主大裕君との出会いも不思議だ。前回のブログで大裕君が書いていたように私たちも偶然13年前に出会って、不思議なご縁で、ティーチャーズカレッジで一緒に勉強することになった。思い出してみると、彼と最初に会った時、彼はスタンフォードに行く寸前だというのに、なぜかジョンデューイーについて熱く語り、デューイーの伝統を引き継いでいるティーチャーズカレッジを褒めまくり、帰り際にはティーチャーズカレッジのカタログまでくれた。家でカタログをみながらカリキュラムの学部があることも知り、なんとなくそこにいくのかなーなどと思うようになった。それでもそのときはまさか自分が本当にティーチャーズカレッジで勉強するとか、しかも大裕君と同じ時期に同じ学部で勉強することになるとは思ってもみなかった。無意識だけど、お互いがお互いを選び合っていてそうなったのだと思う。そしてそこには個人を超えたもっと大きい力が働いていると思う。

 いくつか例を出したが、人生の大きな転機はみんなこんな風に予期せぬ形でおきてきた。この世の中に生まれた人はみな 一人一人なすべき大事な使命を持って生まれていると思う。そして常に誰かに選ばれて特定の場所にいて、特定の人と特定の時間を特定のことをしながら過ごしているのだと思う。 自分が今やっていることは必ずしも自分が選びたかったこととは違っているかもしれない。自分がいる場所も自分では決して選ばないような場所かもしれない。しかもそれは世間一般の常識からは外れていて、家族や友人からとことん批判をされるかもしれない。でも、本当に自分が選ばれている時は、不思議となんかすーっと与えられたことを受けいれられる気がする。この感覚はうまく説明できないけれど、なにか納得のいかないことをいやいややっているときとか、 「なんか違うなー」 と思いながらやっている時とは全然違う感覚だ。そして選ばれたら誰に何を言われようが、その 場所で与えられたことを淡々ときっちりこなすことが責任なのではないかと思う。

 5月に無事博士課程を卒業し、次の行き先は、南北戦争のリンカーン大統領の演説で有名なペンシルバニア州ゲティスバーグとなった。まさかそんなところに行くことになるとは思っていなかったが、これもまた選んでくれた人たちのおかげだ。選んでもらえたことに感謝をしつつ、果たすべき責任を想像している。

2010年7月12日月曜日

オフ会に参加して9 ~照美さん~

オフ会で出会った皆さんへ




あいさつが遅れてすみません。

オフ会でお世話になった照美です。

オフ会では、皆さんから沢山の刺激や新しい発見をもらったので、

ありがとうを言いたくてコメントを送ります。



本当に、沢山の事を教えてもらいました。

NGOとして活動する喜びや、美術の先生の心に秘めた熱い想い。

1つのサービスに込める限りない優しさに、コカコーラに隠された汗と涙のお話。

大学1年生が抱える焦りや不安は、まるで少し前の自分を見ているようでした。

そうだ!これからパチンコ屋さんを通る度に、「この中に、将来の日本経済をリードする人が隠れているかも」って、きっとすごくワクワクした気持ちになります:)



一緒に話せなかった人もいるけれど、その一人一人からも多くを学びました。

その人の表情、話をするときの目。何気ない心気遣いや、出会って数時間とは思えない、親しげで優しい笑顔。どんな小さなしぐさにも、その人らしさが溢れてる。

だから同じ場にいるというだげで、何か、その人の歩んできた道をすこしだけ見れたような、特別なメッセージをもらったような気がするのですよ。

皆さんからもらったメッセージを、大切に大切にします。



心からのありがとうを込めて



                 照美

オフ会に参加して8 ~住谷君~

 今回、オフ会に参加させていただいて、本当に有意義な時間を過ごすことができました。



本当に、ありがとうございます.





 大学に入ることにあんなにエネルギーを使ったのに、入ったあとのこの日々の虚しさ、まさに大裕先生の言う "持続しない快楽" を求めて生きている大学生に埋もれてしまい、胸の痛む毎日でしたが、同じように大学生の方をはじめ、大学院の方、社会人の方、あそこに集まった方はみな非常にエネルギッシュに努力と実践を積み重ね、人生にチャレンジなさっている方ばかりで、自分の環境を勝手に理由付けの種にして何も踏み出さなかった自分に、大きな勇気を与えてくださいました。



 美恵子さんに "住谷くんからはすごく焦りと迷いを感じる" と言われやはり気づいたのは、焦りも迷いも、いま自分が踏み出せる一歩を踏み出していないからだなと、まったく反省の瞬間でした。





 帰ってからしばらく考え、調べた結果、大学生として夢に向かってできることはいまそこら中にあったということ、逆に夢から遠ざける誘惑も回りには信じられないほど多かった、ということを理解しました。



    「いま頑張らなくちゃ夢には届かない。わかってる。でもできない。」



というのは、本当に "わかって" はいなかった。



 本当にわかっている人間は既にもう行動している。



そしていま目の前にいるみなさんは、そうやって行動されてきた人たちなんだと思ったら、悩んでいただけの自分が非常に恥ずかしくなりました。





 夢に向かって、常に "今" を自分の人生の一番の一瞬にできるように、理想の実践に向けてがんばっていきたいです。





    今こそが未来。





 最後に、ぼくが悩んでいることを本質的に理解し、適切な機会を与えてくださった先生に、心から感謝します。



 不出来な教え子ですが、本当に先生に教われてよかった。



 日本の教育を変える、その目標に向かって努力する姿勢を自らの人生をもってぼくたちに示してくれるあなたは、本当に偉大な教育者だと、一人の教え子として思います。



 きっと今、他の1年C組のみんなも大裕先生に会いたいはず。会って、きっと色んな話をきいてもらいたいんだろうなと思ったら、懐かしさに胸が押し潰されそうになりました。





 なんだかまとまりのない形になってしまいましたが、これで終わりにしたいと思います。



   本当に、ありがとうございました。

オフ会に参加して7 ~小林美恵子さん~

 昨日、今日と2日間ありがとうございました。

出会おうと思わなければ出会えなかった方々にお会いして、

お話をできたことがとても楽しかったです。



 今の思いも含めて、大裕さんがお勧めしてくださった

「息を引き取る」ことについて近々書いてみますね。

海に対する思いとかも、書けたらいいなぁって思います。

やっぱり、自分の中に伝えたいことはぎっしりなんだと

改めて気付かせていただきました。



 
そういえば、住谷くんにメールしてみました。

自分の知らない世界をいっぱい見て、いっぱい失敗したらいいよって。

後悔しないように生きるんじゃなくて、

私の場合は 「もっとああすれば良かった」 「こうすれば良かった」

っていう思いがあるから、信念を持ち続けられる気がするよって。

私の人生は、後悔と悩みだらけですって。



住谷くんにメールしながら、自分にも言い聞かせた言葉でした。



それでは、またメールしますね。おやすみなさい。

                

          美恵子

2010年7月7日水曜日

オフ会に参加して6 ~さっちゃん~

 私は今回のオフ会には参加できないはずだったのが、不思議にも急に可能な状況に変って参加できてしまいました。意識的にも無意識的にも不可能を可能にするのはよくあることですが、今回は無意識に参加すると決めていたようです。


 15年位前に読んで私の人生に大きな影響を与えた 『聖なる予言』 という本がありますが、いつも参考にしている数多くのメッセージのひとつに

 『進化の流れに乗るには、今直面している人生の問題をしっかり心に留めて意識する事。すると、直感という形で何処へ行けば良いか、何をすれば良いか導きを受け取る事ができる。』という一説がありました。

 私の今の問題はこれから仕事の中で英会話が必要になると判っていながら勉強を先送りしていた事と、仕事ややりたい事で無理をし過ぎたり、罪の意識を感じた時自暴自棄になったりする癖が時々出て自分を病気にしてしまう事。それから中学2年の甥っ子が反抗期で妹の手をやいている状況を近くで見ていて自分にどんな手助けができるか考えていた所でした。

 オフ会に参加して見事に私の問題に応えてくれるメッセージを沢山受け取ることが出来ました。

 てるみちゃんは唯一先回のオフ会で一緒だったので、再会出来て本当に嬉しかった。先回から半年しか経ってないのに見違えるくらい垢抜けてきれいになっていたのでびっくりしました。大裕の紹介では 「てるみちゃんは中学生の時に英語の先生の所に通いつめて英語がペラペラになった」 と聞いたので、実際どうやって英会話を学んだのか彼女から直接体験談を聴いているうちに、私にも出来そうだというワクワク感とヤル気が湧いてきました。今まで外国人の宿泊客が来ると気構えて敬遠しがちだったけれど、てるみちゃんの話を聴いているうちに彼女の 「英語を話せるようになりたい」 という意欲が私の中にも強く宿って 「やらなくちゃいけない」 という意識から 「すごくやりたい」 という意識に変わり、早速買ったままになっていたNHKのシンプル英会話術のテキストを毎日一言ずつ覚えています。てるみちゃん、ありがとう!



 大裕の教え子のスミや元同僚の辻先生との会話からは、大裕の熱血教師ぶりの話を聴きながら 「中学生の時期は急激な精神的肉体的変化の狭間で本人が一番戸惑っているのだから、とにかくちゃんとその子を見てあげることだ。反抗されるとつい言っても無駄だと思って放任しがちになってしまうけれど、それは逆効果なのだ。どんどん踏み込んで良いのだ」 というメッセージを受け取りました。帰ってすぐに、甥っ子と真剣に向き合ってモヤモヤの原因は何なのか?一緒に探ったりお奨めの本について話したりしているうちに 「さっちゃんと話すと気持ちがスッキリする」 と言って以前の様に何でも話してくれる様になりました。やはり踏み込んで話してヨカッタです!スミ、辻先生、ありがとう!



 看護大学生で看護師を目指している美恵子さんとは一番長く話したような気がします。自分が抱えている最も困難な問題とリンクしていたからかも知れません。

 彼女の話から彼女の癌で亡くなったお父さんに対する深い想いや愛、またお父さんの彼女に対する大きな愛が伝わってきて、その想いが彼女の夢の実現への大きなバネになっているということが理解できて、とても感動しました。私にも1歳半で手放して以来まだ1度も会えないでいる娘がいます。食道癌から奇跡的に復活できたのは、きっと娘に対する役割を果たす使命が残っているからなのでしょう。美恵子さんとの会話の中で、そのことを強く感じて 「自暴自棄になっている場合ではないだろう!」 と叱咤激励された気持ちになりました。美恵子さん、ありがとう!



    『宇宙はエネルギー。エネルギーは私達の期待に反応する』 

    『私が質問を持っている時は必ず誰か答えを持った人が現れる』

                  (『聖なる予言・第3の知恵』より)



 私は1次会だけしか参加出来なかったので、まだまだ他の人とも色々分かち合いたかったけれど、ほんの2時間の間にこんなにも沢山大切な情報や力を得ることが出来て大感謝です。

 大裕のオフ会には自分の役割や仕事や夢を明確に意識できている人が集まってくる様ですね。だからすごいエネルギーを感じます。ありがとう!これからも期待してます!



                四万十川のさっちゃんより

オフ会に参加して5 ~辻さん~

参加して、すごいエネルギーを持った方々だと感じました。

世界を舞台に自分の出来ることは何かと問い続け、
変化し続けていることを感じました。

周りの人からみたら今のままで十分と感じる環境をあえて変え、
自分を磨き、自分の持てる力を最大に生かそうとしていることを
感じました。

いかに楽して生きようかと考えがちな世の中において
宝のような人が集まっていると感じました。

年齢も仕事も異なるけれど真っすぐな志、向上心が話していて
伝わってきました。

またお会いできるときまでに自分もしっかりと生きなくては、と思いました。

可能性無限

という文字が浮かびます。

楽しい時間をありがとうございました。

              辻 里枝

2010年7月6日火曜日

オフ会に参加して4 ~由和さん~

今日はありがとうございました。

大変貴重な時間を過ごす事が出来ました。

何かしら、価値を創造出来る力を身に付けようと思います。