2009年9月28日月曜日

「優等生」を考える

1.すご腕茶師に学ぶ教育の心 
 テレビを持たない僕は、勉強の合間によくYouTubeを見て気分転換をする。よく見るのが歌手のライブ映像、そして実在の人物をテーマにしたドキュメンタリー番組だ。今日は『プロフェッショナル』の前田文男編を紹介したい。

 前田文男さんは日本屈指の茶師だ。前田さんが他の茶師と全く異なる理由、それは彼のお茶の選び方にあるという。

 全国からお茶が集まる静岡の茶市場。たくさんの茶師で賑わう高級茶のセクションとは離れた人気のない所でお茶と向き合う前田さんがいた。

 そんな前田さんには、お茶を選ぶことにおいて一つの流儀がある。



     「良いお茶ではなく、伸びるお茶」



 年間50種類以上ものお茶を世に送り出す前田さんが一番こだわりを持っているのは、100グラム1000円の一番安いお茶だという。なぜか?彼は言う。

 お金を出せば良いものは提供できる。でも、作って良くなるお茶こそが茶師としての腕の見せ所だ。

 僕は知らなかったが、お茶は通常一種類の茶葉だけでできるわけではないそうだ。味はいまいちだが香りの良いお茶、見た目は悪いがコクのあるお茶、香りは良くないが色の良いお茶、特徴はそれぞれだが、何種類ものお茶を混ぜることによって極上の一杯ができるのだという。

 ではどうやって「伸びる」お茶を選ぶのか。前田さんはお茶の声に耳を澄ますのだそうだ。「お茶が何かを訴えている、そんな感覚」だという。誰にも相手にされなかったお茶を、心を込めて磨き、宝石に化けさせる前田さん。預かったお茶は絶対に最後まで面倒を見て、自信を持って世の中に送り出すという信念を持っている。


2.教員という仕事
 本題に入る前に一つ言っておきたいことがある。僕は教員という仕事は、人にできる最も尊い職業の一つであると思うし、自分が教員であったことを誇りに思っている。今、必死に勉強しているのも、将来、有能な人材が教員になりたいと願い、親は教員を心から信頼して子どもを委ね、委ねられた教員が真に教えに浸れる環境作りに貢献したいと思っているからだ。でも、そんな想いがあるからこそ、現場に立つ教員に求める要求も高くなってしまう。教員批判と取られる所もあるかと思うが、自分では逆に教員を弁護しているつもりだ。

 これは自分の教員組合に対する疑問も反映している。本当に先見性を持って教員の立場を守ろうとするのなら、弱い教員を守ることに奔走するより、頑張っている教員を守るべきだと思う。そうすることが教員の社会的地位を高め、質の高い教育を約束することにつながるのだと信じている。小作農のように、その場しのぎの問題解決を続けたところで明るい未来は拓けない。

 給料も良くない教員にわざわざなろうという人に悪い人はいない。少なくとも僕はそう信じている。ただ、良い人が良い教員になるのかといったら、それは全く別問題なのだ。


3.「優等生」を考える

 前田さんのお茶に対する姿勢は、小関先生の子どもに対する姿勢と通ずるものがある。小関先生も優等生には興味を示さない。

 優等生は、教員であれば誰の言うことでも、「はい」「はい」ときちんと聞く。理由もわからずに大人たちに言われたことをうのみにしてしまうのだ。以前、『不登校から日本一』でも書いたが、教員は皆正しいことを言う。ただ、それがその子、その場面において最適な助言であるとは限らないし、それぞれの助言が食い違うことも少なくないのだ。「あの先生はこう言っていたのに…」と思ったこと、誰でも一度は経験あるのではないだろうか。最終的には、自分の心と相談し、頭で考えて判断することを学ばなければ、その子は自由に生きていけない。でも、不幸なことに、多くの教員はそんな、自分にとって都合の良い子どもを育てようとしてしまう。

 だいたい、「優等生」というのは、大人が勝手に押し付けるラベルに過ぎない。何かの拍子にそのラベルがはずれてしまった時、又は大人の号令なしには動けない自分に気付いた時、ふと自分の心にぽっかり空いた空洞に気がついた時、その子はどうするのだろうか。大人たちに裏切られた、と感じるのではないだろうか。自分の内なる声を押し殺し、ただ盲目に「正しい」大人たちの価値観の中で育つ優等生。そんな「自分」のない子どもを育てるのは罪だ。



 2008年に教員の仕事に区切りをつけた時に残してきた野球部の一年生が、今ではチームを引っ張っている。当時副顧問として僕をサポートしてくれた若手の教員が、僕の意志を引き継ぎ選んだキャプテンがいる。バカもたくさんして来たし、多くの教員にとっては扱いずらい子かもしれない。でも、子どもらしいエネルギーがあり、手をかければ間違いなく「伸びる」子だと、そう信じている。


You Tube リンク ~プロフェッショナル 前田文男~
http://www.youtube.com/watch?v=tkpKnrq6FFA

2009年9月26日土曜日

愛音と美風

 既に知っている人もいるかと思うが、実は我が家には二人目の女の子が産まれる予定だ。しかも予定日は明日だ。出産を控えた妊婦は医者に歩くことを勧められるが、今日も妻と長い散歩をした。

 現在21ヶ月の長女も、何となくだが妻のお腹に赤ちゃんが入っていることをわかっているようだ。僕が妻のお腹に顔をつけて「おーい!」と言うと、決まって愛音も「ぅおーい!!」と言いに来る。自分自身のまん丸なお腹にも呼びかけているのが若干気になるが…。

 名前ももう考えてある。長女の愛音(あいね)という名前は、音楽療法士である妻と僕の人生を常に支えてくれた音楽にちなんだ名前だ。2歳も離れずに産まれてくる次女は、お姉ちゃんになる愛音と一生をかけて支え合い、補い合うようにという願いを込め、美風(みかさ)と決めた。愛の音を美しい風が世界に運ぶ。どうだろう、本人に気に入ってもらえるだろうか。

 名前のことを考えていると、前にも何度か紹介した、Paulo Freire(パウロ・フレイレ)の、他人が名付けた世界に生きるのではなく、自分で名付けた世界を生きるのだという言葉を思い出す。人の名前にも通ずるものがある。親からもらう名前であっても、その名前をどのように生き、どんな意味を見出すのかは本人次第だ。はたしてこの子はどんな美風になるのだろう。


 愛音の時もそうだったが、まだお腹でぬくぬくしている美風に話しかけることがある。

「早く出ておいで。いい世界が待ってるよ。」

 そう囁くたびに、身が引き締まる想いがする。

2009年9月25日金曜日

Love the questions...

  自分には高校の頃から大切にしてきた宝物がある。Quote Bookと呼んでいる物だ。元はと言えば、16歳で留学を決意した僕に母がくれた自由日記だった。

 『人生の先生』で紹介したMr. Walkerとの出会いは、僕の文学に対する情熱を開花させてくれた。いろいろな文学に触れ、ああ美しいな、この言葉忘れたくないなと思う言葉を日記に綴るようになった。それがQuote Bookの始まりだった。

 今2冊あるQuote Bookには、文学だけでなく、教育学や、詩や、街で見かけた言葉などから集められた名言が綴られている。それをパラパラと読んでいると、自分がいつどのような言葉に影響を受けたのかが分かり、当時のことが鮮明に思い出される。だから自分にとっては言葉のアルバムのような物で、成長の証しでもある。

 言葉は、時に何にも変えがたい贈り物となる。誰かを心から祝福したい時、感謝の気持ちを伝えたい時、大切な友が新たな決意を胸に旅立つ時、誰かに不幸が起こった時、誰かを勇気づけたい時…。そんな時、言葉は自分の代わりに、その人にそっと寄り添ってくれる。



 前回の『科学、デューイ、照美』を書きながら、一つの言葉が頭をよぎった。Rainer Maria Rilke(ライナー・マリア・リルケ)というオーストリアの詩人の言葉だ。

Love the questions…
I want to beg you, as much as I can,
To be patient toward all that is unsolved.

Try to love the questions themselves.
Do not now seek the answers
Which cannot be given you
Because you would not be able to live them.

Live the questions now.
Perhaps you will then gradually,
Without noticing it,
Live along some distant day
Into the answer.

Rainer Maria Rilke


疑問を愛しなさい
私の心からの願いだ
解決できないもの その全てを許すのだ

疑問そのものを愛しなさい
自分に与えられない答えを今求めるのではない
あなたはその答えを生きられないだろうから

今は疑問を生きるのだ
そうすれば 少しずつ
知らないうちに
答えの中に生きている
自分を見つける日が訪れるから

ライナー・マリア・リルケ

訳責:鈴木大裕

2009年9月24日木曜日

科学、デューイ、照美



 僕はJohn Dewey(ジョン・デューイ)という教育哲学者が好きだ。教育学を勉強するものは必ずどこかでこの名前に出くわすという程有名な学者で、アメリカでは教育学の代名詞のような地位にある。そのために彼に対する批判も多いし、敬遠されがちな部分もあると思う。

 僕自身、何度もデューイから離れようとしたが、新しいことを勉強すればするほど彼の哲学に戻ってくる自分がいる。実際に、日本のマイノリティーと多文化教育を扱った大学の卒業論文(Japanese Minorities and Democratic Multicultural Education, 1997)、アメリカの公教育における道徳教育の可能性をテーマにしたマスター時代の修士論文(American Liberal Democracy and Moral Education: Finding a Way Out of the Conflict between Liberals and Communitarians, 1999)の両方でデューイを取り上げている。

 確かデューイは93歳まで生きたはずだ。その長い学者人生において、出版した本は40冊、雑誌などに発表した論文は実に700本を超えると言われている。取り上げるテーマが多岐にわたっているだけでなく、それらのテーマが彼の頭の中では見事なほど有機的に結びついているところが、彼の哲学をまた難しくする。ある部分だけを解剖しようとすると、それがまた別の部分の一部であり、その構造を理解しようとするとまた別の部分が見えてくる…。だから、博士課程に入った今でも論文でデューイを引用することがあるが、その度に後悔するのだ。ああ、また蟻地獄にはまってしまった…と。

 あまり話すと自分がどれだけデューイを理解していないかがバレてしまうので簡単にしておこう。僕が何故デューイの哲学を好むのか、理由は幾つかある。その一つとして彼の哲学には常に動きがあることだ。デューイはダーウィンの進化論の影響を強く受けたと言われている。以前『自由について』でも話した彼の「自由」の定義もそうだが、「民主主義」の定義、「知識」の定義など、彼が扱う概念の多くが、完成を目指し常に変化し続ける不完全なものと捉えられているように思う。自由は我々が変われることに、民主主義は政府形態などではなくコミュニティーの構成過程に(*彼はどこかで民主主義のことを“community in the making”と捉えている)、知識はその追求過程にそれぞれの本質を見出している。

 何故こんな話をするのかと言うと、デューイが考える「科学」も、常にon the move(動いている)だからだ。彼にとっては、「科学」は完成形ではなく、変わりゆく知識そのものなのだ。それは「科学」という定義や意義さえも、常に裁きを受け続けるべきであることを意味している。だから、前回の『科学の囚人』でも書いたように、どのような研究手段が科学的でどれがそうでないか、科学的とはそもそも何を意味しているのかなどということを、一つの決まった形に閉じ込めること自体がおかしいのだ。デューイがそんな口論の場にいたら、きっと笑うのではないだろうか。そもそも、科学が本当に良いものであるかどうか、子どものためになっているのかどうかも問うべきであるし、誰が正しい、誰が間違っているとか、答えにこだわることに何の意味があるのか。こうして議論していること自体に真の意味があるのではないかね?

 1916年に出版されたDemocracy and Education(邦題:『民主主義と教育』)の中で彼はこう言っている。

"The undisciplined mind is averse to suspense and intellectual hesitation; it is prone to assertion. It likes things undisturbed, settled, and treats them as such without due warrant" (Dewey, J. 1916. Democracy and education. New York: Macmillan, p.188).

ざっと訳せばこんな感じだ。
「訓練されていない頭脳はあやふやなことや知的な迷いを嫌い、断言したがる。また、物事がかき乱されず、確定されている状態を好み、然るべき根拠もなしにそれらを正当化する。」


真実などは蜃気楼のように儚いもの。答えを出すことだけに囚われていても見つかるわけがない。なぜならば迷いの過程そのものが答えなのだから。

2009年9月23日水曜日

科学の囚人

 日々の宿題に追われ、だいぶごぶさたしてしまった。新たな投稿もないのに日に日に増えていくアクセス件数を見ると申し訳なく感じると同時に、「がんばらなきゃ!」という新たな勇気が芽生えてくる。みなさん本当にありがとう。


 昨日(火曜日)は、以前『プライド』で紹介した5000という授業がある日だった。自分が今学期初めて教授のアシスタントとして参加している授業だ。今その授業で扱っているトピックがとても面白い。

 アメリカでは、2001年にNo Child Left Behindという制定法が施行された。「落ちこぼれを作るな」と訴えるキャッチーな法律だが、これがこちらの教育界では随分評判が悪い。その理由はたくさんあるが、主なものとしてそれが推進するStandardized Testing(日本語では何と言うのか分からないが、要は基準化された学力試験だ)、結果的に最も貧しく最もサポートを必要としている地域がテスト結果によって罰せられるという歪んだアカウンタビリティーのシステム、そして教育学界に対する「研究の在り方」の押し付けなどがある。

 今5000で取り扱っているのは、この「研究の在り方」だ。政治家たちが教育学界に物申す。

 教育研究者たちは議論をし合うばかりで何も解決しない。
科学的な根拠に基づき明確な結果を提示する量的研究にしか資金提供をしない!

 それに対して、アメリカの教育学界でも権威のあるNational Research Council(NRC)という独立法人が論文を発表し、待ったをかける。方向性は正しいが、もう少し幅広く教育研究を定義しようではないか。今度はそれに対して何人もの研究者が待ったをかけるのだ。

  おい待て、方向性は正しいのか?
  
  政治家が研究の在り方に口を出していいのか?
  
  結局はNRCも質的研究を軽視しているのではないか?質的研究だって立派な科学である!
  
  その定義では、そこに含まれていないあれとこれとこの研究方法は科学ではないのか? 
  
  教育にこれほどまでに多様化した研究方法や理論が存在するのは、教育こそが最も難しい科
  学という証拠なのではないか?

 ふと思う。なぜ皆科学にこだわるのだろうか。

2009年9月19日土曜日

Something Beautiful ~花~




 今日は歌を一曲紹介しようと思う。

 中孝介(あたりこうすけ)の『花』を知っているだろうか。2007年に発表されたものだが、僕がこの曲に出会ったのはつい最近のことだ。YouTubeで彼がなんとも丁寧にこの曲を歌う姿に心打たれた。中孝介は、鹿児島県奄美大島の民謡出身の歌手だ。

 奄美民謡と言えば、元(はじめ)ちとせのあの独特な歌声を思い浮かべる人も多いのではないだろうか。奄美のシマ唄は世界的な大ヒットを飛ばしたフランス出身のグループ、Deep Forestが元ちとせをサンプリングしたことでも注目されたが、日本が世界に誇ることのできる民謡だと思う。

 音楽は、奏でる人の想いと共に、その音楽を創り出した環境や大地を再現してくれる。
元ちとせや中孝介の歌声に僕が感じるのは、奄美大島の大きな空、そして優しい潮風だ。これは琉球の島唄やハワイアンにも感じることだ。他にも、バグパイプの音色はスコットランドの一面に広がる草原と突き抜けるような空、ラップは爆発的なエネルギーを閉じ込める貧しい都市部の建物群、カントリーは南部の赤土を照らす悲しげな夕焼け…。

 僕が『花』を好きな理由は、その歌詞にもある。御徒町凧(おかちまちかいと)という詩人が書いた詞だが、随所に日本語の美しさと奥深さが表れている。と同時に、花の儚さとさりげない強さを愛する日本の心を歌っているようにも思う。

 このブログを読んでくれている人の中で、進むべき道に悩み、もがいている人もいると思う。そんな人にこそ、この歌を聴いて、体いっぱい奄美の潮風を浴びて欲しいと思う。

 こんな一節がある。

 
   「花のように ただそこに咲くだけで 美しくあれ」

 
 あまり難しく考えるな、裸の自分を見つめてみろ。そう歌っているように僕には感じる。


あとがき
 残念ながら僕が見たバージョンの動画は既に削除されてしまっていた。ここに掲載されているものは別バージョン。ピアノ伴奏だけで歌う彼の姿には何とも心打たれた。
歌詞リンク(goo)
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND51864/index.html

2009年9月17日木曜日

トラウマ

昨日、トラウマになりそうな出来事が起きた。思い出すのも辛いが、何とか意味を見出さなくてはと思う。

コロンビアのLaw Schoolで受けている教育と法の授業中の事だった。突然教授が僕の名前を呼んだ。

 「この段落はいったい何を言っているのかね?」
 「え…?」

予想しない出来事に、気が動転した。

「君が今日のディスカッションリーダーをやってくれると前回言っていたから。」

どこだどこだと慌ててその箇所を探し、なんとか一言二言で曖昧な答えを返した。
答えた後も、今起こった出来事が頭を駆け巡り、異常に速い鼓動を感じていた。
確かに最初の授業で、ディスカッションリーダーをやることを自分で志願した。法学部の生徒たちに囲まれる中、ためらいも感じたがやりたい人が他にいなかったし、早い段階で教授に名前を覚えてもらうことは大事なことだと思った。だからこそ、今回の授業のために皆で議論するための質問を長時間かけて考えてきてあったのだ。きっと良いディスカッションができるという自信もあった。それがあんな風に質問されるなんて…。

その時だった。

「Daiyu、この文はどういう意味かね?」

もう完全にパニックである。

正しい答えを探そうとすればするほど焦りばかりが先走り、同じ活字の上を眼が行ったり来たり。まともに考えられるような状態ではなかった。

今までこれほど沈黙をうるさく感じたことはあっただろうか。講堂の最前席に座っていた僕は、40人近くの視線に背中を撃ち抜かれるかのような錯覚さえ覚えた。

同情した教授が、これはとても曖昧な文章だと言ったり、ヒントをくれようとしたりしたが、それが僕の惨めな気持ちに拍車をかけた。

完全な誤解だった。Law Schoolでは、ディスカッションリーダーとは、最初の質問を投げかける生徒のことを指すのではなく、教授の質問に答える生徒のことを指すらしい。この文は何を意味しているのか、このケースではどのような事柄が最終判決を左右したのか…。そのような教授との一対一のやり取り(Socratic dialogueと言われるらしい)をきっかけにして、他の生徒たちも次第に議論に参加していく。法学部では、勉強する内容も違えば、授業のスタイルも教育学部とは全く違うのだ。

今思うと、自分はなんて器が小さかったのだろうかと情けなくなる。分からないなら分からないなりに、自分が理解に苦しむ箇所を指摘すれば良かったわけだし、答えられないなら代わりにジョークの一つでも言えば良かった。結局周りに気を遣わせてしまうという最悪の結果となってしまった。

こうなってしまうと、レベルの低い不安が頭をよぎり始める。
自分は授業貢献度のポイントが1点ももらえなかったのだろうか。
今後どうやったらポイントを稼げるだろうか。
教授は自分のことを二度と指してくれないのではないだろうか。
クラスメート達は自分のことを軽蔑しているだろか。
それともかわいそうとおもっているのだろうか。
どうやったら自分の名誉を挽回できるだろうか…。
こんなことを考えていると、次に教室に入るのさえ恐ろしくなってくる。

さあ、この体験をどう生かすか。
まさかこの年齢にもなって、こんな中学生のような体験ができるとは思ってもいなかった。ある意味、非常に貴重だと思う。

自分が中学生に教えていた頃が思い出される。彼らはどういう気持ちで僕の英語の授業を受けていたのだろう。英語の授業があることが苦痛に思っていた生徒はいなかっただろうか。僕にいつ指名されるのかとビクビクしていた生徒はいなかっただろうか。成績ばかりに目を向けさせられ、テストで点を取ることだけに喜びを覚えるようになってしまった生徒はいなかっただろうか。

今回、改めて教員が生徒であり続けることの大切さを感じた。それは目の前の生徒たちから学び続けるというだけでなく、学校、教室、成績と無機質な枠にはめられた教育を体験し続けることも意味している。いろいろな意味で非常に不自然なこの学びの環境において、学ぶことについて学ぶだけでなく、生徒たちの気持ちを知ることも教員に求められている。生徒たちはどのように怯え、何に喜びを見つけるのか。

話を自分に戻そう。さんざん不安に浸かったあげく、教育と法の交差点における可能性を探るという最初の目的が、良い成績をとらなくては、というあまりにもちんけな目的にすり替わってしまっていることに気がついた。原点に戻ろうと思った。

学びたい。それでいいじゃないか。

良い経験をさせてもらった。
「失うものは何もない」 - そう言い切った自分の真価が問われている。
さあ、勝負はこれから!!

2009年9月15日火曜日

君たちに伝えたいこと④ ~今こそが未来~ 2005年作

             長野のお寺で見かけた言葉


 自分は高校でアメリカに行ってから、第二の人生が始まったと思っている。毎日が未知の連続だったし、分からない英語で、どうやって自分という人間を表現しようかと必死だった。慣れてきてからも、幸福なことに、自分の才能を本気で信じてくれる数多くの素晴らしい先生に出会い、常に新たな課題を与えられ、自分の可能性に挑戦させられた。何かとてつもないことに挑戦することの楽しさを知り、自らの無限の可能性を信じられるようになった今も、挑戦は続いている。だから毎日が失敗、反省の連続だし、自分が日々進化しているように思う。普通、社会に出て職を持った時が「将来」と言うのだと思うが、30歳を超えた今も、自分の将来にワクワクしているし、「将来の夢」もある。今、こうして今までのことを振り返ってみて言えること ― 無駄なこともたくさんしたし、遠回りもいっぱいした。でもいつもがむしゃらだった。

 人は、現在からはまったく創造もつかないような生活を思い浮かべ、自分の「未来」に期待を膨らませる。でも、今日なしに明日はない。何が起こるか分からない未来に期待を膨らませる前に、何が起こるか分からない今日という新たな一日に胸を躍らせるべきだと思う。「未来」なんていつまで待ってもやって来やしない。やってくるのは「今日」だけだ。 

 じゃあ未来とは何なのか。それは灼熱の砂漠の向こうに突如現れ、一人で旅する少年を誘惑する湖の蜃気楼のようなものだと思う。追っても追っても辿り着けない幻。来る日も来る日も懸命に歩き続けた少年はふと立ち止まる。自分自身を見つめた時、少年はいつしか知恵も勇気もある、たくましい男に成長している。そして、鏡を見つめる自分が、小さい頃夢に現れた旅人であることに気付く・・・。未来とはそんなものなのだと思う。あるのは「今」だけであって、その現在とは過去の自分にとっての未来なのだ。

 将来自分は何をしたい?どんな人間になっていたい?もしそれを本気で考えて、本気で実現しようとしたら、そのために自分は「今」というこの瞬間に何をすべきなのか、きっと分かるはず。ある朝、目が覚めたら急に自分が強くなっていた、なんてことあるわけがない。ふと起きたら自分が大人になっていた、なんてあり得ない。だから結局は、一日一日を自分がどう過ごすか、何を学んでどう成長していくかが、その人の未来を決定するのだと思う。今日という一日を精いっぱい、命いっぱい生きよう。
 今こそが未来。
                     1 / 1 / 2005 鈴木 大裕

2009年9月11日金曜日

約束のバトン

   最後の授業 - Dr. Sobolを囲んで(椅子に座っているのがSobol教授)


1.発信すること
 今年の自分の課題、それは発信することだ。このブログももちろんそうだが、その他でも積極的に発信しようと、いろいろな所に顔を出している。新入生のためのオリエンテーションのボランティア、キャンパスツアーガイド、自分のような留学生のアドバイザー、教授のティーチングアシスタント…、昨日は将来のフルブライターへのビデオメッセージの収録に出かけた。

 そう考えると、去年の自分とのメンタリティーの違いに驚かされる。『納得の一年』という内容で初めに書いたが、去年の自分のキャパシティーでは、自分自身が吸収することで精一杯で、自分の学びを発信することまではできなかった。それを今、一生懸命しているところだ。


2.人間は一人だけ自由になれるのか?
 前回、『Responsibility』というタイトルのエッセイを掲載したが、僕の中では「学び」というものは「責任」と深くつながっている。学んだ者には教える責任があり、そうして恩返しすることにより一つのサイクルが完結し、また新たなサイクルが始まるのだと思っている。だからこそ、たくさん学んだ者、多くの出会いや感動に恵まれた者には教えて欲しいと思う。それは必ずしも教員になるということではなく、分かち合うということだ。

 学びは人のために生きて初めて意味を持つ。以前にも紹介したブラジルの教育哲学者Paulo FreireはPedagogy of the Oppressed(邦題:『被抑圧者の教育』)という本の中で次のように言っている。

   全ての人々を解き放たずして自分を解き放つことはできない。

これは『自由について』でも紹介したMaxine Greeneのbreaking free(システムから自分だけ逃れること)とbreaking through(システムを打ち破ること)の違いに相違ない。この二人の賢人は問う。人間は一人だけ自由になれるのか?


3.二人の巨人
 去年の秋、今年の春に一つずつ、心震える授業を受けた。それらの授業を教えたのはThomas Sobol とMaxine Greeneというアメリカ教育界において「巨人」とされる二人の教授だ。Maxineについては前述の通り。Sobol先生は学者でありながら、ニューヨーク州の教育長を何年にも渡って務めた政治家でもある。Sobol先生は77歳。Maxineにいたっては91歳である。

 彼らの授業は、いつも儀式のような雰囲気の中で始まった。時間になると、付き添いの人に連れられ、Sobol先生は車いす、Maxineは歩行補助の器具に捕まりながら登場する。生徒たちが静かに見守る中、声を出すことに支障のあるSobol先生は20人程度の生徒たちに声を届けるために胸にマイクを付け、Maxineはいつもの電動イスに腰をかけ、角度を調整する。

 彼らが万全の体調でないことは生徒誰もが知っていたし、その二人の教授が次の世代を育てることを使命とし、我々こそが次の世代なのだと、身が引き締まる想いがしていた。授業が始まると、二人の巨人が発する一言ひとことには彼らが生きてきた人生の重みがあった。全ての生徒が先生の話を食らいつくように聴く、あんな授業はかつて経験したことがなかった。しかし、言葉よりも重かったのは、我々の可能性を信じてやまない二人の純粋さだった。

   あなたたちが世界をより愛しやすい場所に変えるのだ

Freireの願いに重なった二人のメッセージに、彼らによって引き継がれてきた約束のバトンを渡された想いがした。

君たちに伝えたいこと③ ~Responsibility~ 1999年作

 昨日、KAPLAN[1]で生徒にTOEFLを教えていた時、responsibility という単語に出くわした。生徒に、「この単語の意味知ってる?」 と聞くと、知らないと言う。『責任』 という意味なのだが、何か良い教え方はないものかと思い、いつものようにこの単語を分解してみることにした。


 Responsibility は単純に大きく分けると、response と ability に分解することが出来る。Response は 「応答」、「反応」 等の意味を持つ。いずれにせよ、漢字の 「応」 という字がその意味に最もふさわしいイメージを持つように思う。そして ability は 「能力」 という意味。


 おや? Responsibility…応える、能力?それが 『責任』?予想外の発見に僕は驚くと同時に不思議な説得力を感じていた。その場は responsibility の持つ、『責任』 という意味、そしてそれを構成する要素を教え、それらの関連性については僕と生徒の次回までの宿題とした。
 

 家に帰った僕は早速、自分の持つ一番大きな英英辞典を開いた。それによると、responsibility の元となる respond (応える) という単語はラテン語の respondere という単語に語源を持つ。


    re は 「返す」

    spondere は 「約束する」


つまり、respond は元々、"to promise in return" (約束をもってお返しをする) という意味なのだ。よって、responsible は 「約束をもってお返しをすることが出来る」 という意味を持ち、その能力を持つ者を描き出す。そして、論理的には responsibility の持つ 『責任』 とは、「約束をもってお返しをする、その能力」 ということになるのだが、これがそうではないのだ。


 面白いことに、それは 「能力」 自体を指すのではなく、その能力を持つ者に 「課せられるもの」 を指すのである。僕の持つ辞典には responsibility の説明の一つとして次のようなものがある ―― 


“a particular burden of obligation upon one who is responsible”
(Random House Webster’s College Dictionary, 1997). 


Responsibleの意味を踏まえて訳すと、このようになる。


「約束をもってお返しをする、
その能力を持つ者に課せられる義務という負担。」


 能力を持つからこそ義務を背負う。こうして語源を考えると、それは世間一般に考えられている、「責任がある」 という意味が持つ、外部から強制的に背負わされるイメージとはかなり異質なものであることが分かる。それは本質的に自発的であり、恩恵を受けた人やものに対する約束であると同時に、何よりも自分自身に対する約束、けじめであるように思う。


教育を受ける機会を得た者として、親や友人に恵まれた者として、人や大地の温もりに触れた者として、学生として、教育者として、大人として、母親として、父親として、女として、男として、人間として、そして一つの生命として、僕達が持つ 『責任』 とは何なのだろうか。僕達はどんな素晴らしいことを約束し、お返しすることが出来るのだろうか?


そこには、しばしば 『責任』 とは遠いところに位置付けられる
 『自由』 が顔を覗かせているように思う。


[1] KAPLANとは自分が教員になる前に努めていた留学予備校。留学を希望する社会人や学生に英語(TOEFLやTOEICなど)を教えていました。

2009年9月9日水曜日

教育と法の交差点で




 今日から本格的に授業が始まった。幸先よく、今学期最も楽しみにしていたクラスから始まった。Michael Rebell教授のLaw and Educational Institutions: The Issues of Authority(法と教育機関:権力にまつわるイシュー)と名付けられたクラスだ。Rebell教授は我がTeachers Collegeの教授でありながら弁護士という異色の肩書を持つ。実は、今学期取る授業のうち、2つはコロンビアのLaw School(法学部)で行われる法律の授業だ。

 僕の教育と法の接点に関する興味は今日に始まったことではない。スタンフォード時代に書いた修士論文も、『アメリカの自由民主主義社会と道徳教育』というテーマで、益々多様化するアメリカにおける道徳教育の難しさを、過去の判例をとりあげながら論じたものだった。今年の夏、日本にいる良き同志の晶子さんと教育について語るうちに、博士論文の方向性が見え始めた。

 自分が今最も興味あること、それは教育と法、教育と政治の交差点で起こりうる改革のためのアクティビズムだ。

 ここでは教育と法のことだけに絞って話そうと思う。なぜ、教育と法が関係あるのか。僕は、修士号取得の勉強をしていた頃からずっと、一つの裁判で教育は変わる、と信じてきた。例えばこんなのはどうだろう。近年、学級崩壊という現象は珍しくも何ともなく、社会現象とまで言われるようになった。もし、学級崩壊を起こしているクラスに子どもを持つ親たちが、授業妨害をしている生徒の親を訴えたらどうなるだろうか。

 「あなたの子どものせいで、私の子どもの教育を受ける基本的権利が侵害されている!すぐ妨害を止めさせて欲しい!!」

 親としっかりした人間関係をつくっている教員がいる学校であったら、これくらいのことを扇動するのはさほど難しいことではないだろう。このような主張に、はたして法廷は妥当性がないと言い切れるだろうか。もしこの主張が勝訴し判例となれば、学級崩壊などなくなるのではないだろうか。

 教員の部活手当はどうだろうか。今年から部活動が学習指導要領にて学校における正規の教育活動として明記されるようになったと聞いた。だとしたらそれは教員の正規職務と見なされるわけであり、土日やそれ以外の勤務時間外の部活指導には、正規の報酬があって当然だ。少なくとも千葉市では、日曜日に部活指導を6時間以上行ったとしても、部活手当として教員に与えられる給料は合計1400円にも満たない。これを時給にしたらどうなるのか、計算して欲しい。これはもはや時間外労働などの次元を超えているし、労働基準法にも反しているのではないだろうか。もし教員組合が有能な弁護士をつけて県や国を訴えたら、問題は部活でとどまることなく、教員の時間外労働の多さにも光が当てられるだろうし、究極的には学校が担わされている社会負担にまで議論が及ぶのではないだろうか。

 『教員のモラル低下について』でも書いたが、自分が追求したいのは、法を使った教員のエンパワメントだ。それが、教員が教え浸り生徒が学び浸る環境づくりにつながると信じている。

2009年9月7日月曜日

「無知の知」

1.後輩たちへのアドバイス
 実は先日、今年C&T5000(『プライド』で紹介)を受ける博士課程一年生のためのキックオフミーティングがあった。去年5000経験した先輩として声を聞かせて欲しいという教授たちからの呼びかけに応え、同期の仲間7人と共に参加させてもらった。こんなに前年度の生徒が集まった年もなかったようで、学部の教授たちは大いに喜んでくれた。僕としても、ひと声で集まってくれる同期のかたい絆と、5000をappreciateする共通の想いが嬉しかった。

 教授陣が話し終わり、今年5000のTA(ティーチングアシスタント)をする自分に順番がまわってきた。教授たちによる授業紹介を聞き、不安を隠せない一年生を前にこんな話をすることにした。

 去年一年5000を経験して感じること、それは今、「自分は何も知らない」と自信を持って言えること。最初は皆、自信の無さから自分が何を知っているか、何を経験してきたかをアピールし、牽制し合いがちだ。でも、自分たちは知らないから、学びたいからここに来たはず。それに、これは一人の教授も言っていたことだが、知れば知るほどもっとわからない自分がいる。だから、「自分は何も知らない」と認めることには不思議な心地よさがあるし、そう言えることこそが自信の表れでもある。だから心配することは一つもない。ただ楽しむだけだ。


2.「無知の知」
 以前にも『不登校から日本一』で書いたが、小関先生の言うことは、すぐにはわからないことが多い。教員時代も、得意げに「世紀の大発見」を報告する僕に対して、「だから最初から言ってんじゃん!」と言うのが小関先生の口癖だった。(だいたいその後に、「あ~、情けない!」とか「お前と付き合ってると自分の指導力の無さを反省させられるっ!!」などのドラマが続くのだが…。)

 今、小関先生から離れてコロンビアの図書館で理論と格闘していると、不思議なくらい先生の言葉が蘇ってくる。なるほど、小関先生が言っていたのはそういうことだったのか、と今になって頷くことが度々ある。

 今回も、後輩たちに向けた言葉を話しているうちに、また小関先生の言葉を思い出した。



「無知の知」って知ってるか。

知りません。

自分が何も知らないってことを知ることが大事なんだ。



 僕の教員としての成長は、小関先生からの「バカ」を受け入れることから始まった。大人になると、人から「バカ」と言われるのは屈辱だし、それを受け入れるのは誰でも難しい。特に自分の場合は、それなりの大学、大学院を出たという自負があり、学歴という空虚なプライドが邪魔になった。部活指導くらいのことはちょっとやればできる、と信じ込んでいたのだ。

 今考えると、教員になりたての頃の生徒たちには申し訳ないことをしたと心から思う。形だけにこだわり、締ったチームを作っていた気になっていた。しかし、練習試合で強いチームに勝てても、大事な試合で勝てないのだ。その頃も、小関先生に誘われ、理由もわからないまま剣道部の練習を見学に行くことがあったが、所詮違うスポーツと思い、そこから学べることがあるとは思っていなかった。気づくことといったら、良く声が出ていること、長い時間練習していること、礼儀正しいこと、その程度だろうか。

 ある時から、同じくらい練習量を積んでいるはずなのに、小関先生の剣道部はなぜ大切な試合で必ず結果を出すのだろう、自分の生徒たちは大舞台になると萎縮してしまうのに、彼らはなぜ何千人の注目を浴びながらも自分の力を発揮できるのだろうと真剣に考えるようになった。剣道部の練習や大会を進んで見学しに行くようになったのはそれからだ。きっと小関先生としては、「やっとか」という気持ちだったのだろう。

 すると、それまで見えなかったものが段々と見えてきた。一番の違いは、剣道部の子どもたちは顧問がいなくても真剣に練習に取り組めることだった。見学に行くと、小関先生が道場にいないこともよくあった。チームの強さは顧問不在時の練習の質に表れると思う。驚いたことに、いつも練習は自然に始まり、自然に終わった。ただ単純に、制服を着替え防具を身に付けた者から練習を始めるのだ。練習が始まると、彼らは新しいことをやってみたり、お互いを観察し合ったり、アドバイスを求めたりしていた。たいていは、子どもたちは各自の課題に取り組んでいるようだった。休憩さえも本人任せであった。彼らは、休みが必要な時に休み、疲れがとれたら練習に戻るということを当然のことのようにやっていた。一人ひとりが、強くなるためになすべきことを考え、実践していた。小関先生がいる時は、彼に質問しに行く生徒も少なくなかった。そんな練習の流れには、いかなる無駄もないように感じられた。

 剣道部の練習に比べ、僕が率いる野球部はこんな感じだった。
第一に、練習はいつも僕かキャプテンの号令で始まり、休憩も、終わりも、子どもたちは号令に従って動いていた。練習内容も、僕に言われたことだけをやるだけで、勝手に実験することなど許されていなかったし、観察したりアドバイスし合うこともなく、僕に質問に来る子などほとんどいなかった。彼らは完璧に僕に依存していた。生徒を抑えつける僕のやり方がそうさせてしまったのだ。だから僕がいない時に手を抜くのも無理はなかった。

 野球部には他の先生の手をやかすような元気の良い子も多く、そんな彼らを勢いで抑えつけている僕のことを指導力があると勘違いしていた教員も多かった。だからこそ、この気づきはショックだった。

 自分は何もわかってない。

僕が小関先生の「バカ」を受け入れ、成長し始めた瞬間だった。

プライド

    今年のC&T5000のキックオフミーティングに集まった同期たち


 僕が今所属しているコロンビア大学教育大学院(Columbia University Teachers College)のCurriculum and Teaching (C&T)というプログラムの博士課程には、5000(Five Thousand)と呼ばれる一年生の関門のような必修授業がある。『納得の一年』でも書いたが、授業について来られずに脱落する者が何人も出る悪名高い授業だ。秋学期に2コマ、春に1コマある授業で、これが何とも激しい。授業を受ける前から他のプログラムの人に「大変だね」と同情されたり、通常1学期12単位分の授業を取らなくてはいけないところを、「5000を取っているから」とインターナショナルオフィスの人に言ったら、何も言わずに9単位でOKとの特別許可をくれたりした。先輩たちも、「5000さえ終われば後は楽だから」としっかり脅かしてくれた。

最初のミーティングには、学部の教授たちが勢ぞろいし、我々はあなたたちを、将来世界に貢献できる研究者(researcher)、教育政策作成者(policymaker)、教員養成を専門にする大学教授(teacher educator)、カリキュラム開発者(curriculum designer/developer)にするために全力を尽くす、と言い切った。いざ、学期が始まり、教授たちの本気がひしひしと伝わってきた。内容も実践的で、興味深いものが多かった。以下に幾つか紹介したい。

- 一つの教育現象に対して異なる視点からアプローチしている論文を読み比べ、その上で自分自身の視点で議論し合う。


- ある歴史的事件を様々な人種や職業の観点から議論し合う。

- 一人の著名な研究者になりきり、あるテーマについて会議を行う。

- 書いた論文をクラスメートと交換し、批判しあった上で論文を仕上げる。(どのように批判したかも評価の対象となる。)

- 個人でLiterature Reviewを分析、批判する。(Literature Reviewとは、簡単に言えば一つのテーマについて過去にどのような論文が書かれ、現在に至るまでにどのような議論が研究者の間で行われてきたかを書いた論文のことだ。)

- グループに分かれ、Literature Reviewを書く。(どのようなキーワード、データベースを用いて文献を探し、どのようにして文献を絞ったのかも正当化しなくてはならない。)

- 実在の教育政策の分析。

 このように、授業の内容も充実していたと思うが、5000に集まった生徒たちもまた、とても面白い人たちだった。C&T博士課程プログラムには一つのこだわりがある。それは、教員経験者しか入学させないことだ。皆、理論や政策を学びながらも、現場に立った自分の経験に根ざした議論ができるので、これがとても良かった。また、最初いた19人のうち、フルタイムの学生は僕を含めて5人だけだった。その他は皆、日中は仕事を持っていた。幼稚園、小学校の教員、中学校の副校長、大学の講師など、多様な人材が集まった。自分を含め、子どもがいる人も少なくなかった。夜に多くの授業が行われるTeachers Collegeだからこそ可能な多様性だと思った。授業で様々な視点を持つ仲間たちと議論ができるのはとても興味深かった。

 大変だったことは間違いないが、授業の前には必ず仲間同士でスタディーグループを行い、リーディングノートなどもインターネットでシェアし合い、助け合った。その甲斐あって、春学期が終わった次の日から行われたDoctoral Certification Examという博士課程認定試験では、受けた全員がパスすることができた。今では皆が親友のようだし、他の学部には絶対に負けないと言うプライドさえ分かち合っている。

 プライドは厳しさの中にしか生まれない、そう感じた。

2009年9月5日土曜日

人が育つ社会の在り方 ③

1.年金と子ども
 この夏、小関先生がこんなことを言った。

 「日本はテレビや新聞なんかで年金のことばかり言っている。大人が年金年金と言っているような社会では子どもは育たない。」

 ドイツから帰って来たばかりの僕にとって、この言葉はとても響いた。確かに多くの人々にとって、年金は死活問題だ。でも、年金問題がクローズアップされる度に、我々大人の意識は子どもから離れていっていないだろうか。これを毎日同じように聞かされている子どもたちはどう思っているのだろう。どうせ俺たちが払うんだろ、とひねくれてはいかないだろうか。 こうして、人が育つ社会の在り方について真剣に考え始めるようになった。

2.子どもを育てる大人の姿勢
 思い出すことがある。教員時代のことだ。毎年夏の総体の時期になるときまって、管理職と小関先生を応援する先生方の間でこんなやり取りがあった。

「教頭先生、剣道部の関東大会出場にあたって横断幕くらい作ったらどうですか。」
「そんな金ねぇよ!」

 こんなことが何回繰り返されただろうか。全国制覇した今年はどうだったのだろう、とふと思い、小関先生に訊いてみた。やはり。全国大会出場が決まった時どころか、日本の頂点に立って初めて平成21年度全国中学校剣道大会優勝(写真は『不登校から日本一』に掲載)の横断幕、そして、「ついで」のように関東大会優勝の横断幕が校舎にかけられた。関東大会で個人優勝した選手は2年生の別の選手である。この子は、先輩が全国優勝しなければ忘れられていたのだろうか、と怖くなる。他にもあるのだ。実は今年、小関先生が率いる剣道部は、個人選手の活躍だけでなく、男女ともに団体の部でも関東大会出場を果たしているのだ。この成果は、未だに横断幕にもされていないそうだ。がんばっている子どもがいたらそれを褒めて励まし、成果を出した子どもがいたら、その成長を認め、讃える。ごく当たり前のことだと思う。
 
 学校に自由に使えるお金がない、というのも事実なのだと思う。不幸なことに教育費はどこでも削減の道を突き進んでいる。ただ、管理職を務める方々には、それなりの器の大きさをもって欲しいと思うのも正直なところだ。以前、とても気前の良い教頭がいたことがある。横断幕はもちろん、学年の職員で飲みに行く時も、自身のポケットからお金を出してくれた。こちらが遠慮すると、「いいんだよ。管理職手当っていうのはそういうことのためにあるんだから」と言ってくれた。最近は管理職手当も減らされているのだと思う。その状況で、なおかつお金を出そうとしてくれる人がいたら、周りの部下たちはどう思うだろうか。その人に気を遣い、その人のためにがんばろうと思うのではないだろうか。ここで問題にしているのはお金と言うよりも、人としての姿勢だ。結果的に横断幕のお金が都合つかなくても構わない。もっと大事なのは子どものために懸命に努力する大人の姿勢なのだ。「わかった。何とかする。」その一言で子どもは育つ。

3.米百俵
 このようなことを考えていると、頭に浮かぶ話がある。長岡藩に伝わる『米百俵』の話だ。聞いたことのある人も多いのではないだろうか。長岡市のホームページには、『米百俵の精神』が次のように書かれている。「明治初め、戊辰戦争に敗れ困窮を極める長岡藩に、支藩の三根山藩(新潟市巻)から見舞いの百俵の米が送られました。大参事・小林虎三郎は、「食えないからこそ教育を」とその米を売り、学校建設の資金に充てたてたことに由来。」この話は山本有三の戯曲『米百俵』で広く世に知られるようになったそうだ。その中でこんなシーンがある。米百俵が送られ、飢えていた藩士たちはたいそう喜んだ。しかし、そのお米を皆で分けるのではなく、国漢学校の資金にしようと言われ、藩士たちは虎三郎に刀を抜いて詰め寄った。それに対し、佐久間象山の門下生であり、当時は藩の大参事を務めていた虎三郎は、こう言う。

「この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。国がおこるのも、ほろびるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。……この百俵の米をもとにして、学校をたてたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかりしれないものがある。いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。その日ぐらしでは、長岡は立ちあがれないぞ。あたらしい日本はうまれないぞ。……」 (http://www.city.nagaoka.niigata.jp/kurashi/bunka/komehyaku/kome100.html)

こうして建設された国漢学校には、藩士の子弟だけでなく町民や農民の子どもさえも入学を許可されたそうだ。そして後年、東京帝国大学総長の小野塚喜平次、解剖学の医学博士の小金井良精、司法大臣の小原直、海軍の山本五十六元帥など、ここから新生日本を背負う多くの人物が輩出されたそうだ。米百俵の精神に誇りを持って人々に伝えている長岡市のホームページを是非訪れて欲しいと思う。

4.親の背中を見て育つ剣道部の子どもたち
 小関先生の剣道部の生徒の親たちが子どもの教育にかける熱意も、米百俵に通ずるものがある。今年の夏、日本に一時帰国した時に剣道部の県大会の応援に駆けつけた時のことだ。開催地は大網で、帰りは剣道部の親御さんたちが僕を学校の近くまで車で送ってくれることになった。その車の中、お母さん方の話題は自分たちのパートの話に及んだ。訊いてみることにした。剣道部ではどのくらいの親が共働きをしているのか。驚いた。ほぼ全員だと言う。共働きでやっと子どもの剣道を続けさせることができるそうだ。週末くらいは疲れた体を休ませたいはずなのに、毎週末のように剣道部の遠征に車出しをする。皆、「可能性無限」と書かれた本校剣道部のTシャツを着て、子どもたちに精一杯の声援を送る。剣道部の子たちはちゃんとわかっている。自分のために弱音も吐かずに働いている親の背中を見て、感謝と責任を感じながら、しっかり育っている。

人が育つ社会の在り方 ②

           古城からみた城下町



              白鳥のお城

1.ドイツ社会と「自己責任」  
 今年の夏、生まれて初めてヨーロッパに上陸した。妻の友人の結婚式に呼ばれ、ドイツに行ったのだ。衝撃だった。驚くことは多々あったが、何よりも驚いたのはドイツ社会の成熟度だった。    最初に訪れたのはベルリン。繁華街の中心を堂々と、しかも歩行者や車をかき分けるように走るトラムに目を見張った。道路に埋め込まれた線路があるのみで、その前を歩行者が平気で歩いているのだ。よく事故が起こらないなと不思議だった。地下鉄の駅を見つけ、地下にもぐった。どこを探しても改札らしきものもなければ駅員も見当たらない。階段を下りるとすぐにプラットフォームがあり、あるのは2台の券売機だけだった。訊いてみると、自分で切符を買って、それで来た電車に乗るのだと言う。言われた通りにしてみた。もちろん電車の中で車掌さんが切符を確認しに来るのだろうと思っていたら、甘かった。全て自己責任なのだ。みんなが買わなかったがどうなるのだろうと心配になったが、現地の友人に尋ねるとそんなことはあり得ないらしい。実際、ごく希に切符のチェックがあるそうだ。ただ、そんな時に切符を持っていないのは旅行者だけだと教えてくれた。小さい頃からそのような環境で育つわけだから、ドイツ人にとって切符を買うことは当然のことらしい。日本で同じシステムをとったらどうなるのだろう、ふと考えてしまった。皆ちゃんと切符を買うのだろうか。何よりも電車への飛び込み自殺に歯止めが効かなくなるのではないだろうか。田舎町ではなく、首都のベルリンでこのような社会形態を見つけたことは、驚きの一言だった。  「自己責任」 この言葉が気になりだした。
2.ドイツとアメリカの警察官の違い   
 そのようなレンズでドイツ社会を観察すると、他にも気づくことがたくさんあった。ベルリンを去り、ハイデルベルグ、ウルム、ミュンヘンと旅を続けたが、警官がいないのだ。もちろん、全くいないわけではない。ただ、3週間の旅行で警官またはパトカーを見かけたのは、計3回だけだった。こんなにも警官の存在感の無さが気になったのは、自分がニューヨークから来たことも大いに関係している。ただでさえ警官の存在感が強いアメリカで、9.11の舞台となってしまったニューヨークの警官の数は半端なく多い。今、僕はハーレムの南端に住んでいるが、ハーレムの中心部である125丁目など、ブロックごとに警官が立っているようにすら感じる。もちろん、けん銃やこん棒を携え、非常に威圧的な格好をした警官たちだ。地下鉄の改札では、そんな警官たちが無銭乗車をする人を取り締まっている。 警官のいないドイツの街並みをゆっくり歩くと、とても優しい気持ちになった。

3.ビアガーテン
 僕は、旅行をするとその土地の地ビール工場に見学に行くほどビールが大好きだ。だからドイツのビアガーテン(ドイツ風の発音)に行くのを楽しみにしていた。無ろ過のビール、ハーフバイツェンの美味しさにも驚いたが、どのビアガーテンにも子どもがいることにびっくりした。それもそのはず、ほとんどのビアガーテンは中に子どもが自由に遊べる公園があるのだ。子連れで来園し、子どもは公園で遊び、親はビールと会話を楽しむ。なんて健全なのだろうと感心した。大人と子ども、子持ちの親とそうでない親、皆で子どもを見守ろうとするドイツ社会を支える信頼のようなものを感じた。

4.ドイツとアメリカ
 それに比べ、アメリカはどうだろう。道端でビールを飲むだけで警官に取り締まられてしまう。子どもが遊ぶ公園は、安心確保のために高い柵で囲まれている。まるで檻のようだ。自宅の前にも大きな公園があるが、夜10時以降は犯罪防止のために封鎖されてしまう。ドイツと比べ、基本的に社会が市民を信用してないように感じるし、「信頼されていない」というメッセージが警察に対する市民の反発を生んでいるようにも思う。そんな環境で育つ子どもは、「いつかは国のために」と思うのだろうか。

5.大人なドイツ、若いアメリカ
 確かにアメリカは、ドイツとは比べ物にならないほど歴史が浅く、多民族国家であるし、それに伴う差別、貧富の差、犯罪率の高さなどという多くの問題を抱える。だから、短絡的にもっと市民を信頼して警官を減らそう、なんて議論は通用しないだろう。それに、ヨーロッパとは全く違うアメリカの良さは、その若さゆえの爆発的なエネルギーでもある。
 ただ、今回の旅行で一番考えさせられたこと、それは信頼する社会と抑えつける社会、それぞれが人間の教育にどのような影響を及ぼすのかということだった。

人が育つ社会の在り方 ①

               この代の生徒達は今、高校2年生だ。



 ブログを初めてまだ一ヵ月経ってないが、このような頻度で更新できるとは思ってもいなかった。いざ書き始めると、教員時代から背負ってきた想いがとめどなく溢れ出てくるかのようだった。教え子や、自分を応援してくれている人たちが読んでくれているということも、自分にとっては何よりの励みだ。以前、生徒指導主任になったためにクラス担任を外れた小関先生が、語る場がないと嘆いていた。自分も教員を辞め、その辛さが身にしみてわかった。自分の話を聞いてもらえることの喜びを噛みしめながら、今、書いている。皆さんに心からお礼を言いたい。ありがとう。

 今週からコロンビアも新学期が始まり、いよいよ戦闘モードに突入する。このブログも、今までのような頻度で更新することはできなくなるだろう。その前にかけるだけ書いておきたいと思う。

 以前にも所々書いてきたが、自分は教員時代、野球部の顧問をやらせてもらっていた。小関先生の影響が多分にあり、部活という勝敗がはっきりする場所で、自分の教員としての指導力を試してみようと思った。自分は大学までバレーボールをやっていたので、本当は男子バレー部を創設し、その顧問を務めたかったが、結局は教員一年目に配属された野球部でその魅力にはまり、最後まで務めさせてもらうことになった。

 野球はやったことがなかったわけではない。実は父が、幸町リトルインディアンズという少年野球チームの創始者だったこともあり、自分もそのチームでプレーさせてもらった。中学ではバレー部に入ったが、留学先のニューハンプシャーの高校では野球を3年間続けた。

 ただ、教えるとなるとわけがちがった。何から始めたら良いのかもわからず、最初は、元からその学校で指導していらした外部指導員の方の後ろをついて歩くだけだった。一人でチームを任されてからも、野球雑誌を読みあさり、恥を覚悟で遠方の強豪校に試合を申し込み、様々な監督から指導法を学ぶ日々が続いた。生徒の保護者との関係は、あまり良いとは言えなかった。グランドに足を運んで下さる親もまばらで、ちょっとしたことでクレームが来ることも少なくはなかった。今考えてみると、それは自分の指導力の無さで、生徒の心を掴みきれていなかったからだと良くわかる。

 5年目、転機が訪れた。その代のキャプテンを務める生徒の父親が、インターハイ常連バレー部の監督だったのだ。ある時、新チームの保護者会が開かれた時、部屋を埋め尽くす保護者の方々を前にこんなことを言って下さった。先生がこれだけ一生懸命やってくれているのだから、一つ先生に全てをお任せしませんか。練習試合で他校を招く時など、相手校の顧問の先生の弁当代など、何かと金がかかるでしょう。弁当は当番制にして親の方でお弁当を用意させて頂きます。その他の経費は保護者会費を集めて賄いましょう。先生はやりたいようにやって下さい。

 僕はその父親、そして彼に賛同して下さった保護者の方々の懐の深さに敬服した。いろいろなことが変わり始めたのもそれからである。まずは、試合の時に応援に来て下さる保護者の数が激増した。そして野球部の横断幕が作られ、毎試合、保護者席が用意されるまでになった。相手校を招いて行われる試合では、お茶や弁当のVIP待遇がなされ、相手校の顧問達も驚くほどだった。練習試合では更に遠方まで赴くようになり、毎週末のように市外の学校と試合をした。冬のマラソン大会、その後の保護者の方々による炊き出し、そして0泊3日の夏の甲子園見学なども行った。チームも勝ち始め、小さな大会で優勝できるようにもなった。礼儀の正しさ、精神力の強さに重きを置く多くの強豪校の選手たちを目の当たりにし、我が野球部も少しずつ、締ったチームへと成長していった。

 翌年のキャプテンの父親はもっと過激だった。

「先生息子を頼むよ。殴るなり蹴るなり好きにやってくれ。もしそれで何かあったら必ず守ってやるから。」

 自分よりも遥かに人生経験を積んでいらっしゃる大先輩にそのような身に余る信頼を頂き、自分にやれることは何でもやろうと心に誓った。こうして、多くの保護者の方々から自身の命よりも大事であろう息子たちを委ねられたことが、自分の教員としての成長を大きく促したことは間違いない。

 僕は、教員としての自分を育てくれたのは、生徒であり、自分の先生たちであり、僕を信じて子どもたちを委ねて下さった保護者の方々であると思っている。以前、 『管理の再構築』 でも言った。教育において、人に責任を持たせるということは、委ねることである。「やりたいようにやってくれ」と言われることが、どれだけのプレッシャーを教員に与えるか想像できるだろうか。そのプレッシャーを、気持ち良いと感じる教員もいれば、困ると感じる教員も多いと思う。それで困るようなら教員にならなければ良いと正直思う。 『教員のモラルの低下について』 でも触れたが、教員にとって子どもを委ねられ、教えに浸れることほど贅沢なことはない。
 
 何回も言うが、今、教員は社会から信用されていない。子どもたちを教える立場の教員を信用しない社会において、人を信用できる子どもが育つのだろうか。国が為すべきこと、それは信用に値する器の大きい人間を育てる教職教養プログラムの創設に力を尽くすことであり、その後は教員に委ね、育てることなのではないだろうか。

2009年9月3日木曜日

君たちに伝えたいこと② ~「時間」について~ 2001年作

これは教員になる直前に書いたもので、当時都内の留学予備校で担当していた留学希望の中学生や、未来の生徒たちに宛てて書いたものだ。


 僕にとって、親から与えられた「大裕」という名前を生きることほど難しいことはない。現在28歳。今まで、なんてゆとりのない生活をしてきたかとつくづく思う。もっとも、アメリカに留学するまでは、「ゆとり」なんて概念は僕の中に存在しなかったように思う。その頃は、朝起きて、朝食を取り、普通に学校に行き、友達と笑い、部活に行き、帰って寝るという、決められた生活に自分をハメ込んでいただけだった。普通の生活は簡単だった。

 だけど、日本人が1人もいないだけでなく、留学生を特別扱いしない学校をあえて選んだ僕は、留学を始めてからは毎日狂ったように勉強しなければならなかった。日本の高校とは比べものにならない程の宿題が出され、その上、英語も使いこなせなかった僕は、アメリカ人の友達が30分で片付ける課題を3時間かけても終わらないという始末だった。しかし、僕の可能性を本気で信じてくれる先生方に恵まれ、学ぶことの楽しさをかみしめながら、常に自分にデッドラインを課してがんばった。今日中にこれやって、金曜までにあれを終わらせなくちゃ、という感じ。思いがけず時間ができた時も、自分で新しい課題をつくることによって、無駄な時間を無くそうと心がけた。大学はもっと大変だった。もうこれ以上勉強できないというくらいやった。話に聞いたことはあるかもしれないが、アメリカの大学ではかなりの勉強量をこなしていかないと卒業できない。事実、僕の周囲だけでも落第を食らった学生が5、6人はいた。大学院は大学以上の難しさだった。連続50時間眠れなかったこともあった。

 そんな僕のスケジュールはいつも分刻みで動いていて、僕が時間を使っているのではなく、まるで時間が僕を動かし、時間が僕の命を消費して生きているようだった。ミヒャエル・エンデの『モモ』を思い出す。時間を1秒でも無駄にしないようにとせかせか働く人間たち。でもそうすればする程、時間は貯まるどころかどんどん無くなっていく。理解できない時間の不思議。でも、のんびりきままに生きる浮浪者の少女、モモだけはそれをちゃんと分かっていて、イライラ生きている町の人たちを悲しそうに見つめている。

 「時間」という概念を最初につくり出したのは人間だったはず。海に住む魚が、「昨日は8時まで起きていたんだ」と仲間に言うだろうか。アフリカの森に住むチンパンジーが、「6時までに家に戻っていなきゃ」と気にするだろうか。魚たちは自然に訪れる眠りに身を委ね、チンパンジーたちは闇に伴う危険やその他の自然の摂理せつりに基づいて巣に戻るのだと思う。動物は時間によって動かされるのではなく、自然の移り変わりに合わせて生きているのだ。多くの動物は、明るくなれば目を覚まし、お腹が減れば餌を探し、暗くなれば体を休め、寒くなれば暖かい環境を探して南へ下り、暑くなればまた北へと戻って行く。そんな彼らにとって、時間とは生命の流れであり、生きることそのものである。

 だけど人間は、単位を決め、様々な時計を作り、その生命の流れを計ろうとした。それは、科学がそうであるように、自然を説明し、コントロールしようとする人間の願望の表れだったのではないだろうか。文明の発展過程で時間の単位はしだいに統一の道を歩み、今ではグリニッチ時計台が全世界の時を命令している。時計という機械の狂いはあるが、1年に365日、1日に24時間、1時間に60分、1分に60秒という時間の存在自体は、愛する人と別れようとも、僕が死のうとも、核戦争が勃発しようとも、一秒の狂いもなく刻まれて行く。人類が発明した物で、時間ほど完璧な物が他にあるだろうか…。ただ、あまりにも完璧なために、誕生とともに一人歩きを始めた時間を止めることは、産みの親である人間ですらかなわない。コントロールは失われ、逆に今では我々人間が時間の奴隷どれいとなっている。時計の遅れに恐怖を感じ、時間通りに物事が進むと、良かったと安心を覚え、予定より早く行動すると、時間の先回りをしたことに妙な優越感を見つけている。時間という基準無しには生きられない、何ともむなしい動物。
 
 僕たちの生活の中にどれだけ時計が入り込んでいるか考えたことがあるだろうか。壁掛け時計や腕時計は勿論のこと、寝室のベッドサイドには当然アラーム時計があり、ステレオにデジタル時計、充電器に刺さっている携帯もデジタル表示でしっかりと時を刻んでいる。書斎に行ってコンピューターをつければスクリーンが、キッチンに入れば炊飯ジャーや電子レンジが、居間に行けば電話やテレビが逐一、時間を報告してくれる。チッチッチッチ…。聞こえていようがいまいが、時計の音は僕らの心を確実に縛しばり上げている。

 だけど、そんな人間でも、時間の束縛から解放されることがある。いつも駆け足で生きて来た僕にもそれを感じたことが何度かある。ニューハンプシャー州の高校時代も、宿題が終わらずに徹夜をすることがよくあった。そこは1年の3分の1くらいは地面が雪で覆われているような所だったが、ある晩、眠気覚ましに窓を開けて、降りしきる雪の音に耳を傾けたことがあった。雪が降る静かで神秘的なエコーを、僕は寒さも時間も忘れて聴いていた。
 
 また、何度か夏休みに日本を一人旅したことがある。アメリカ人に「日本ってどんな所?」と訊かれた時に答えられるようにするためだ。ある夏、四国に行った。日本最後の清流と呼ばれる四万十川ほとりの、車の音も聞こえない閑静なユースホステルの庭で、足を投げ出し、夕陽を体いっぱいに浴びた山の上を飛ぶ1羽の鳶を見ていた。上昇気流に身をまかせた鳶が優雅にゆったりと旋回しているのを、心が自由で膨ふくらむような気持ちで見つめていたことを今でも鮮明に覚えている。秒針ではなく、鳶の飛行や空の色の移り変わりのみが、止まることのない生命のサイクルの進行を告げていた。そして僕は、自分もまた、そのサイクルの一部であることを悟った。

 人間は秒針を忘れる時初めて、区切ることのできない宇宙の流れに無限を感じ、その無限の一部である自分の命を感じることができる。ウィリアム・フォークナーは次のように表現した。 “Father said clocks slay time. He said time is dead as long as it is being clicked off by little wheels; only when the clock stops does time come to life”(「お父さんが時計は時間を殺すと言っていた。小さい歯車にカチッ、カチッとはじかれている限り、時間は死んでいる。時計が止まって初めて時間は命を得るのだよ、って。」『The Sound and the Fury』より). 

 この頃僕は時間の命令に逆らうことが多い。夕方、仕事が終わってもすぐに家に帰らずに、スターバックスに寄って本を読んだり、夜御飯を食べた後、家を出て駅前のカフェに手紙を書きに行ったり、夜通し詩を書くのに没頭したり、夜中に近くの海まで散歩に行ったりすることもある。海辺で冬の透き通った星空を見上げていると時間の経過なんて忘れてしまう。時間というものは心のゆとりと比例していて、ぜいたくに使おうとすればする程ゆっくり流れるものなのだ。

 時間に縛られずに自由に生きよう。でもどうやって?確かに、若いうちは特に学校、部活、塾、就寝と、1日のスケジュールが決定されていることが多いだろう。でも、週末や夏休みなどには、心の赴くままにやりたいことを思いっきりやろう。時には昼御飯を食べるのを忘れて何かに没頭したり、夜通し友達と語り合っても良いだろう。自分の心に忠実にいれば、自分にとって何が大切かはおのずと分かる筈。それを時間の命令に従って無駄にするのはあまりにもバカバカしいこと。この年になって、僕にもようやくそれが分かった。                                  文・訳責 鈴木大裕

2009年9月2日水曜日

小野寺愛さんの『船乗り日記』を読んで

 先日、『夢について』にコメントしてくれた小野寺愛さんのブログ、『船乗り日記』 を早速読んでみた。彼女はピースボートというNGOの中心人物であり、もともとは妻が大学時代に所属していたウィンドサーフィン部の先輩。とてもアクティブで、感動しやすくて、笑顔がすてきな女性だ。とてもフットワークが軽く、以前うちの中学校で、「世界と出会う」というテーマで総合学習を展開した時にも、ピースボートの仲間を連れてプレゼンをしに来てくれた。こんな日本人の女の子がもっといたら、と心から思う。

 さて、ブログだが、これがとっても彼女らしい。自然、子育て、教育、世界、愛、平和…、幅広いテーマを壮大なスケールで、でも気さくに、笑顔を忘れずに話している。このブログを読んでくれている教え子たちには、是非読んで欲しいと思う。「世界」とは想像よりもずっと身近なもの、「平和」とは何気ない日常に隠れているものだと教えてくれる。それにきっと、結婚っていいな、親になるっていいな、自然っていいな、旅するっていいな、大人になるっていいな、と思わせてくれる。何よりも、彼女の溢れんばかりの想いを感じて欲しい。

 以前、教えることとは感動の分かち合いだと思っていると書いたが、彼女がやっていることも「感動のおすそ分け」なのだと思う。きっと本人にとっては、教えているなんて意識はないのだろう。でも、まだ他の人が知らないかもしれない、見ていないかもしれない、経験していないかもしれない感動を先に生きた人間が、後から歩いてくる者に一生懸命生きる喜びを伝える…それって教育の原点なのではないだろうか。

 愛さんのブログをリンクしておくので、是非見てほしいと思う。僕が敬愛するブラジルの教育哲学者、Paulo Freire(パウロ・フレイレ)が目指した、「もっと愛しやすい世界」は、きっとこんなネットワーク作りの延長にあるのだろう。感動の輪があなたの愛する人にも届きますように。