2009年10月31日土曜日

秋色

 自分が見た秋色をあなたに伝えたくて写真を撮りました。
厳選した写真…、それでも僕が見た景色はもっと美しかった。


















































2009年10月30日金曜日

報告

 

誰もいない図書館、朝の神聖なひと時。



 つい先程、12:00ジャストに無事論文を提出しました。

結局徹夜してしまったけれど、渾身の作品が書けたと思っています。

コレクションにまた一つ、自分のかけらが増えました。

みなさん、良いエネルギーをありがとう。

              Happy Halloween,

                 大裕

2009年10月29日木曜日

儚さに宿る永遠

 

 現在午前10時。日本は午後11時だ。このメッセージが寝る前のあなたに届きますように。


以前も紹介した、オーストラリアのアボリジニー、<真実の人>族を描いた『ミュータントメッセージ』にこんな一節がある。


<ゲームが終わると、ひとりの男が私に質問した。宇宙から与えられた才能を知らないまま一生を送る人がいるというのは本当なのか?

 私の患者のなかに人とひき比べて自分は不幸だと感じて落ち込んでいる人がいることを認めないわけにはいかなかった。そう、自分には才能がないと思っているミュータント[アボリジニー以外の人間のこと]はおおぜいいる。死ぬ時まで人生の目的を考えない人が多い、と私は答えた。質問した男は首を横にふりながら目に大粒の涙を浮かべた。そんなことはとても信じられないという表情だった。

 「私の歌でひとりの人間が幸せになれば、それはとてもいい仕事だということがミュータントにはなぜわからないんだろう?ひとりの役に立てれば、それはいい仕事だよ。一度にひとりの役にしかたてないんだからね。」>

マルロ・モーガン 『ミュータント・メッセージ』 p.150




 昨日、統計学の中間試験を終えて、次の授業の前にリフレッシュしようとブログを開けた。そしたらコメントの欄に、MKさんとベルボワイユさんという、まだ会ったことのない仲間からの優しく力強い言葉があった。そんな彼女たちの言葉は、僕のメッセージがちゃんと伝わってるということを教えてくれた。

 心が温かくなり、言葉では伝えきれない勇気をもらった。教員をしていた時もいつもそうだった。『最初に…』でも書いたが、話を一生懸命聴いてくれる生徒の存在があったからこそ自分は頑張れた。今、たとえ一人でも自分の言葉を待ってくれている人がいるのなら、その人を失望させてはならない。あなたに向けて自分の精一杯を届けようと思う。


 学生をしながら、いつも心がけることがある。

試験を成績のための試験と思わない。今挑んでいる試験に、あたかも自分が背負っているもの全てが懸っているかのように臨むこと。

宿題を宿題と思わない。あたかも今書いている論文が、世界にとって最も大事な問題であるかのように取り組むこと。

そして、あたかも今日が自分の最期であるかのように生きること。


 以前、大阪市立松虫中学校の陸上競技部顧問として、個人・総合含め7年間で13回、日本一にチームを導いた原田隆史先生が、「ただの部活と思うな、人生と思え!」と繰り返し生徒におっしゃっていたという話を聞き、とても共感したのを覚えている。



 『人生の先生』でも書いたが、僕も、二人の先生から同じことを教わってきた。Mr. Walkerからは、文章は書く人の人生を表すということを学んだ。次の言葉に最善を尽くす。そしてその連続によって自分の人生を綴るのだ、と。

 言葉こそ違うが、小関先生から学んだのも同じことだ。「勝って反省、負けて感謝。」人の想いを背負って生きる侍の心と人生に学ぶ姿勢、一瞬に生きる者の儚さゆえの美しさ、そして儚さに宿る永遠…。

 そんな先生たちのおかげで、自分なりに今まで一生懸命歩んでくることができたと思っている。だからこそ、昔書いた詩やエッセイ、宿題の論文を読みなおしても、決して恥ずかしいとは思わない。まだ考えが浅かったな、少し傲慢だったなと思う。でも、それが当時の自分の精一杯であり、その先に今の自分がいるのだと知っているから。




 僕には毎日行う儀式がある。特定の宗教を信じているわけではないが、午前、午後、11:11になると祈りを捧げるのだ。


「今日も自分が強くいられますように。自分の力の全てを発揮できますように。」


 明日の正午に締め切りの論文が一つある。これから今の自分を精一杯綴ろうと思う。

 
大裕             

2009年10月28日水曜日

世界と出会う

 トルコ、ラトビア、グアテマラ、シンガポール、香港、ポーランド、フィンランド、アルゼンチン、チュニジア、エストニア、メキシコ、フランス、ロシア、ベルギー、ペルー、スペイン、イギリス、ブラジル、ドイツ、オーストラリア、アメリカ、日本…。このリスト、何だかお分かりだろうか。

 実はこれ、このブログを訪れてくれている人々の国のリストだ。世界23ヵ国だ。Google Analyticsというツールが無料で分析してくれるのだが、どんな人たちが集まって来ているのか、せっかくなのでシェアしたいと思う。日本からも茅野、岐阜、水戸、綾瀬、旭川、札幌、長野、宇都宮、浜松、佐賀、土浦、徳山、北九州、宮崎、鳥取、高知、福岡、大阪、神戸、京都、千葉、東京など、64の地域からのアクセスがあった。一番アクセスが多いのは東京。次に千葉、上越、埼玉、神奈川、京都と続く。

 皆さんお気付きだろうか。このブログの一番下にさりげなくあるカウンターに。およそ2ヵ月半前、8月9日に始めたこのブログ、おかげさまで2日前にアクセス数1000件の大台を突破した。テクノロジーは自分の専門分野ではないのでよくわからないが、何を売るわけでもない、何を宣伝するわけでもない、一学生が個人的に書くブログにこれだけ多くの、幅広い人々からのアクセスがあることを心からありがたく思う。

 

 このブログを始めた時、このブログが出会いの場、分かち合いの場となるように、また、みんなでつくっていけるようにという願いを込めて、『あなたと分かち合いたいこと』というタイトルをつけた。

 実際、とてもすてきな人たちが集まりつつある。中には僕にとって大切な友人も数多くいる。そんな彼らを、これを読んでくれているあなたに紹介できたらな、と心から思う。同時に、僕は、まだ会ったことのないあなたに会えたらと思う。あなたは、どんな理由で何をきっかけにしてこのブログに辿り着いたのだろう。あなたは今、どこでこれを読んでくれているのだろう。いつかあなたの声を聞けたら、いつかあなたが世界の裏側にいる誰かとこのブログを通して心通わせることができたらと願っている。

 嬉しいことがもう一つある。この2ヵ月半の間にこのブログを訪れてくれた人の46.03%がリピーターだということ。ランダムに辿り着いたわけではなく、あえてここを選んで来てくれる人が半分近くもいることに感謝する。もはやコミュニティーだと思っている。

 最後に、僕が望んでいるのは一方通行のコミュニケーションではない。僕が書いたもの、または紹介したものをきっかけとして読者の間でダイアローグが展開されるのなら、そんな嬉しいことはない。僕に遠慮せず、気になるコメントがあったら、それに直接コメントして欲しいと思う。このブログを相談室にする気は毛頭ないのだから。

 これからどんな出会いがあり、どんな分かち合いができるのか、とても楽しみだ。

2009年10月27日火曜日

And We Go On (English version)

Computer screen.

Block letters everywhere.

In the beginning there were a few,

Perfectly under my control.

But with tremendous vitality and speed

They reproduce.

Then the advancing and shooting begin.

In the fierce shooting of letters and numbers,

I am trapped.

Everything has disappeared in the sudden darkness.

The window, the keyboard, even the coffee cup before me.

Bushwhacking, I finally find an escape between two letters.

Seeing a line of open wires, I choose one and slip inside.

Falling and falling, I arrive at a mechanical factory

Sustained by gigantic screws.

gieeggashun, gieeggashun, gieeggashun!

gieeggashun, gieeggashun, gieeggashun!

gieeggashun, gieeggashun, gieeggashun!





With hands in my pocket, a muffler around my neck,

I go outside.

Wind welcomes me back

And tells me I’m alive as well as others.

Sky.

Huge sky,

Whose blue so true,

Squeezes a bitter smile out ’f me.

I shake my head

And laugh.

“That’s all right”

With few words, the sky pats my head.

“Go on”

And I go on.

12/10/01 – 12/13/01



And We Go On



コンピュータースクリーン。

次々と目に飛び込んでくる活字は僕の逃げ場を奪い、僕を閉じ込めようとする。

いつのまにか辺りは暗くなり、物が次々と消えてゆく。

窓も、キーボードも、目の前にあったコーヒーカップも。

僕は活字と活字の間を分けはいり、張りめぐらされたワイアーを滑り落ち、

巨大ネジに支えられる機械工場にたどり着く。


ギーッガシャン ギーッガシャン ギーッガシャン

ギーッガシャン ギーッガシャン ギーッガシャン

ギーッガシャン ギーッガシャン ギーッガシャン。





マフラーを巻いて外に出た。

でっかい空。

雲ひとつない。

僕は思わず苦笑いだ。  

答えなんてない。

「それでよいのだよ」

言葉少なげに、空が僕の頭を撫でてくれた。



12/10/01 – 12/11/01

2009年10月25日日曜日

形にできない想いを乗せて⑥ ~空の青~



空よごめんよ


おまえを青としか呼べなくて


          
         2004年2月作

2009年10月24日土曜日

プレゼント




 我が家ではいわゆる「おもちゃ」は買い与えないことにしている。愛音に買ったものと言えば、美風が産まれる前に、お姉ちゃんになる訓練にと用意した赤ちゃんの人形が一つ、そして子ども用のピアノ鍵盤と電子木琴の2つだけ。


 おもちゃは面白いからつまらない。これは僕と妻、二人の意見だ。誰かの想像力が形になったものがおもちゃであり、だからこそ子ども自身が想像力を使える余地は残されていないものが多い。


 使い道が限られているおもちゃは段々と使われなくなり、子どもは新しいものを欲しがるだろう。「もっと」 という子どもの気持ちにはきりがない。いつか捨てることを前提として、ものを買い与えたくはない。


 数えるほどしかおもちゃがない分、うちの愛音はキッチン用品で遊んだりしている。ザルやボール、おたまなどで何やら一生懸命だ。あとは音楽を聴いて踊ったり、絵本を読んだり、ママの洋服を持ってきて着てみたり、テーブルにお絵描きしたり…。特に困っている様子は見られない。






 今回、妻の出産に合わせて僕の母親がニューヨークに手伝いに来てくれた。帰国前、少し早いけどと言いながら、母から僕の誕生日プレゼントを渡された。新しい自由日記だった。


 16歳で留学を決意した僕に母がくれた自由日記については、Love the Questionsでも紹介させてもらった。専用の箱はもうボロボロだが、Quote Bookとして、高校、大学時代に僕が出会った美しい言葉がびっしりと書き記されている。ずっと、僕の宝物だ。


 このての自由日記、実はなかなか売っていない。大抵の日記は、日付が既に記されてあったり、その他にも天気や暦注、スケジュールを書く欄まで細かく決まっていたりする。


 僕も人にプレゼントしようと思い、東京中を探し回ったことがある。結局見つからず、自分がもらった最初の自由日記の会社に電話で問い合わせたところ、既に絶版されていた。


 そんな中、母から贈られるこのプレゼントからは、温かいメッセージが伝わってくる。

 


   書きたい時に、好きなことを書きなさい。

   そして、書いたものは大事にとっておきなさい。





 コンピューターで何でも書けて、幅を取らずに保存できる時代だ。自分の字で、消せない想いをペンで綴っていこうと思う。


 今回もらった自由日記は、革職人によって作られたカバーが付いている。野球のグローブのような、革のいい匂いがする。

2009年10月23日金曜日

母の日に

 

美風を抱く母 NYにて

 僕には3つ上の姉がいる。「りさ」の「さ」が言えなかった僕は、幼い頃からずっと「リーリー」と呼んできた。よく遊んでもらい、僕が知らないことや、新しい世界を見せてくれた。小学校の頃から「幼稚園の先生になりたい」と言っていた彼女は、真っ直ぐにその夢を追い続け、立派な幼稚園の先生になった。



 もう10年も前になるのだろうか。その姉が初めての子を授かった。初孫を前に、母はたいそう嬉しそうだった。姉もうちの両親と同じマンションの別室に住んでいるので、毎日のように実家に息子を連れて来た。特に母は、せっせと初孫の世話をし、それはそれは可愛がった。



 そんな幸せそうな母を前に、僕は言った。



「子どもを産んだことがリーリーの最大の親孝行だね。」



 一瞬にして真顔になった母が言った。



「違うわよ。あの子が自分のやりたいことを見つけて、それを一生懸命やっていることが親孝行なのよ。」






 今年の母の日、母に国際電話をかけた。短い電話だったが、自分が今、幸せを噛みしめながら夢を追い続けていること、36になった今でも、年を重ねる毎に人生が良くなっていることを伝えた。

 
 電話越しの母は、それはそれは嬉しそうだった。

2009年10月21日水曜日

私の中の歌い手



 大学のHonors Thesisで日本のマイノリティーの研究をしていた時に、日本の先住民族であるアイヌの生活を描く文献にいくつか触れ、その世界観に深く感銘を受けた。

 それからというもの、アメリカ先住民、オーストラリアのアボリジニー、ニュージーランドのマオリ族など、いわゆる「原住民」と呼ばれる人々の歴史と生き方に興味を持つようになったが、彼らには考えさせられることが多い。これらの人々を「原住民」として一つのグループに閉じ込めるのは危険なことかもしれない。でも、彼らの世界観にはどこか通ずるものがあるような気がしてならない。自然と神の存在、運命の捉え方、伝説と歴史、コミュニケーションの在り方、そして日常生活における音楽の中心的な役割もその一つだ。

 ニュージーランドで勉強していた時、特に人種と教育について興味を持っていたせいか、幸いにもマオリの人々と触れ合う機会が多くあった。授業によってはマオリの人々が3分の1ほどを占めるものもあった。彼らの中には若い人もいたが、おじいさんやおばあさんも少なくなかった。

 一つのクラスでは、ゲストスピーカーを招いて授業が行われることがよくあった。そんな時は、教授によるゲストスピーカーの紹介から授業が始まる。すると、さも当たり前のように、マオリの生徒たちが誘い合ってぞろぞろと教室の前に出てくる。当初、わけがわからなかった僕は、一体何が始まるのかと困惑し、自分も前に出て行こうかと思ったくらいだ。後で、出て行かなくてほんとに良かったと胸を撫で下ろしたのを覚えている。


 その中で、一番年輩と思われる長老的な男性が、話し始めた。

「我々マオリの文化では、客がある時にはスピーチで迎える。そしてスピーチの後には必ず歌が伴う。」

 彼がマオリの代表としてゲストに感謝の言葉を述べ、その後マオリの人々によって歓迎の歌が歌われた。

 毎回のように行われるそんなリチュアルが、授業という不自然な空間をよりリアルでコミューナルな学びの空間に変えてくれたのを良く覚えている。


 今回はアボリジニーの<真実の人>と呼ばれる部族について書かれた本から、あるquoteを紹介したい。彼らには、いつの日か会いに行きたいと思っている。まだ先のことになりそうだが、とりあえずはオーストラリアで頑張っているハルと果林ちゃんにその想いを託そう。



<真実の人>族は、しゃべるために声があるとは考えていない。

会話は頭と心の中枢センターで行うのだ。

声が話すためにあるとしたら、くだらないおしゃべりに流れがちで

精神的な会話がしにくくなる。

声は歌うため、祝うため、癒しのためにある。

人はそれぞれ多くの才能を持っていて、

だれもが歌えると彼らは教えてくれた。

自分は歌えないと考えてその才能を無視したとしても、

私のなかの歌い手が消えることはない、と。



マルロ・モーガン 『ミュータント・メッセージ』 pp. 81-82


 オーストラリアの大自然の中で神の存在を身近に感じながら、昔ながらの人間の生活を続ける<真実の人>族。彼らが我々に向けるこのメッセージを、我々はどこまで真摯に受け止めることができるだろうか。私たち一人ひとりが、「私のなかの歌い手」に耳を澄まし、共になって歓喜の歌を歌う…その先にはどんな世界が待っているのだろうか。



2009年10月20日火曜日

形にできない想いを乗せて⑤ ~ ベートーヴェンの心を読む ~

 コールゲート大学4年生の秋、ニュージーランドのオークランド大学へ1学期間のみの短期留学をした。その時にできた佐藤新吾という友達がいる。先日、その新吾がブログを見て、『致知』という月刊誌をアメリカまで届けてくれた。「人間学」を提唱するその雑誌には、先達の知恵や教えが随所に盛り込まれている。このブログではここ数回、自分の心を表現し、相手に伝える手段としての音楽を考えてきた。それにちなみ、今回は『致知』の中から、東洋人として初めてチェコ・フィルの指揮を務めた小林研一郎の言葉を紹介したいと思う。




 僕たちがベートーヴェンを現代に甦らせようと試みる時の難題は、行間の読みです。「あまりにも偉大なこの人の心を後世の我々が読める術はあるのだろうか」、さらに言えば「ベートーヴェンの書いた音楽を、実際に我々はまだ聴いていないのではないか」という思いがよぎることもあります。

 彼は楽譜の中に、言い表せない無限の宇宙を書き表したのではないかと思います。その再現に携わる僕としては、行間の宇宙が何を物語っているかを探求しなければならないし、そこから歪められないベートーヴェンの真実を読み取ることのできる日が一刻も早く来るよう、精進を怠ってはならないと感じています。

 ・・・

 僕はコンサートの時、目の前にその日に演奏する曲の作者がいるとイメージします。そして「曲の行間に、どうやって光を当てたらよいでしょうか」という伺いをオーケストラに投げかける。 

 ・・・

 自分の意見を通すのではありません。作曲者の意見を通すのです。その行間に表れているもの、行間の宇宙を僕なりの考えで「こうしたいと思うのですが、ご賛成いただけますか」と問い掛ける。

『致知』 2009 October pp. 29-30

2009年10月19日月曜日

形にできない想いを乗せて④ ~音楽と時間 ~



続けてヤナが言った。

“But what about music and time? Isn't time the ultimate enemy of music? Already in the moment of its very existence, music is slowly dying out. Time extinguishes music's beauty and power. The tone sounds only once and is silenced forever.”

(音楽と時間はどうかしら。時間って音楽の宿敵じゃない?音楽は生きているその瞬間にゆっくりと死に始めている。時間は音楽の美しさとパワーを消し去ってしまうわ。音は一度鳴り響いただけで永遠に沈黙してしまう。)


 ヤナのこのコメントに考えさせられた。確かにそうだ。音楽と時間…、ヤナがこの二つの存在が相反しているようにも感じるのも、僕にはとてもよくわかった。だが、実際そうなのだろうか。ある所で納得しながら、どこかで納得しきれない自分がいた。

 この両者の関係は、「時間」をどのように考えるのかによって変わってくる気がする。もし、時間を時計によって常に取り締まられているものと捉えるのであれば、答えはYESだ。時間は音楽の宿敵に違いない。

 でも、もし時間を生命のサイクルと考えるのであれば、答えはNOだ。太陽と月がそうであるように、音楽と時間は、お互いを補い合う存在になるだろう。

 音楽は、人間の命と同じで、我々がどんなに望んでも、いつかは終わらなくてはならない宿命にある。そしてその儚さこそが、音楽の美しさでもある。

 いつかは訪れる死の存在が生命に意味を与えるように、沈黙こそが音楽にその存在意義とインスピレーションを与えるのだ。



 我々が生きるこの命も、実は、宇宙の営みの一部だ。そんな果てしない宇宙の営みを考えれば、人間の命など一瞬にも過ぎない。でも、死の存在があるからこそ、我々は己が生きる一瞬に輝くことができる。そして、それは沈黙と音楽の関係に通ずるような気がする。



(興味がある人のために、このエッセイの元となったメールを載せておきます。)

Dear Jana,
     Your message made me smile. This is another dialogue that will stay in my memory forever.
  
  Funny you mention music. My most recent blog entry dealt with music, exploring the connection between language and music. I can’t agree with you more, Jana, music is indeed another form of language. And I think it is precisely its “less exact” and less defining nature that makes music so much more accurate (or loyal to the original emotion)and therefore powerful. The title of the blog entry that introduced our walk on the Rockies was “A futile effort to shape the unshapeable.” You can perhaps see why I decided to write about music next!
     About time…I don’t necessarily think time is the ultimate enemy of music, Jana. I think it depends on how you perceive time. If you define time as something that is constantly policed by clock, then Yes. It would be the ultimate enemy of music. But if you define it as the natural and historical process of life, then No. It would be a friend of music, like the sun and the moon. Nothing gives music more beauty, I think, than its ephemeral nature.
     You and I know that the music is going to end soon against our will, and that becomes our longing for more. Just as we all die at one point, music, too, is destined to cease. Just as death gives meaning to life, it is silence that becomes the very inspiration for music. And silence is actually the best friend of music. Death, silence - they are what allows us to shine in the moment. You know exactly what I mean, Jana.

     Funny, Jana. You always seem to understand so much more than the words I choose.

                                                              Daiyu

2009年10月17日土曜日

形にできない想いを乗せて③ ~音楽と言語~

 僕が書くエッセイは、手紙やメールのやり取りから偶然できるものが多い。『形にできない想いを乗せて』もその一つだ。あれは、エッセイの中でも紹介したチェコ人のヤナ(Jana)に書いたメールから生まれたもの。ヤナに書くメールはなんでいつもこんなに時間がかかるのだろう、という素朴な疑問がきっかけだった。

 今日、そのヤナからメールの返事があった。そのメールの中で、彼女も時間や言語という題材から音楽に話をつなげていたことに驚いた。僕とヤナは英語を通り越した共通の言語を持っていると言った所以だ。


 ヤナがこう言った。音楽もある種の言語よね。しかも言葉ほど形にとらわれず、その分パワフルでもある。


 全くその通りだと思う。僕の可能性信じ、ずっと心の支えとなってくれている四万十川ユースホステルのさっちゃんは、宇宙共通の言語を探索中だが、音楽もそれと深く関わるものがある。今のところ、僕は音楽以上にパワフルなコミュニケーションの媒体を知らない。音楽は、いわゆる「言語」の思考の壁を越え、異なる肌の色や文化を持つ人々の心に直接訴えかける。

 もう一つ大事なのは、ヤナが言ったように、音楽が形にとらわれない点だと思う。これを書きながら自問してしまうが、以前も言ったように言葉は少ない方がいい。説明はない方がいい。もともと形のない自分の想いを、わざわざ狭いパッケージに閉じ込める必要はないのだ。相手に既製品を押し付けるだけではコミュニケーションは成立しない。

 その分、音楽は寛大だ。作者や奏者は自らを音の中に自由に表現し、その解釈は聴き手に委ねるのだから。

  作者はどんな想いを託したのか
  
  奏者はどんな光景を想い描いているのか

       聴き手は奏でられる音色に、ただ想いを馳せる。

2009年10月16日金曜日

形にできない想いを乗せて②

「音楽は、魂の最も深いできごとを、最もシンプルに伝えることができる。
音楽はそうやって人々を限りなくつないでいく。」

生野里花 『音楽療法士のしごと』 p. 231



 音楽は、その自由な流れで、この世に存在するありとあらゆる隙間を埋めてくれる。形、言葉、理由、時間、空間、文化、人、心…。そして、時にはどんな理論や熱弁よりも説得力があったりする。



 僕の妻は音楽療法士(Music Therapist)だ。もとは国際関係法の学生であった彼女が、「平和」というものを国際社会の枠組みとしてではなく、人の心に求めた決断に深く共感したのを覚えている。



 平和って何? 



時にそれは、優しいメロディーだったりする。

2009年10月14日水曜日

太陽と月

空を見上げていて、この青い空も少し先は闇なんだなぁと思った。

宇宙の深さはあの太陽の光でさえ吸い込んでしまう。

その光を受け止めてくれる月がいなかったら

太陽はどこまで行き場を探し続けていただろうか。

月も 太陽が見つけてくれなかったら 今頃どこをさまよっていただろう。

太陽と月のいにしえの恋。

君がいてよかった。

11/14/2001 – 12/11/2001

鈴木 大裕

形にできない想いを乗せて

Fulbright Enrichment Seminarにて (一番左がJana)


 去年、渡米直後に参加したフルブライトのセミナーで、チェコ人のヤナ(Jana)という親友ができた。心震える出会いだった。

 セミナー二日目。お楽しみアクティビティーとして、僕らはデンバーの郊外にある山に登り、そこからデンバーの街並みを見渡した。周り一面に広がる美しい平野。その真中には、人工的で醜いビル街が、空を主張するように競い合って立っていた。

 何台もの観光バスが乗りつけた展望台は、世界中から集まったフルブライターでごった返していた。肩を組み合って写真を撮ったり、双眼鏡を覗いたりして、見慣れない光景を前に皆はしゃいでいた。

 周りの皆と同じメンタリティーになれなかった僕は、同じようにつまらなそうにしているヤナを見つけ、声をかけた。


   「ねえ、ヤナ。ちょっと散歩しない?」


 舗装された駐車場の裏は、なだらかな丘になっていた。僕たちは無言で歩き始めた。
 少し歩くと急に人気がなくなり、つい先程までの喧騒が嘘だったかのように、静けさが僕たちを包んだ。


 横を見ると、ヤナもその心地よい静けさに聞き入っているようだった。


 沈黙を埋める無意味な言葉は必要なかった。

 
 そして、時計の針が止まった。


 時計の束縛から解放されて自由になった時間が、二人の心を膨らませた。僕はヤナと、以前 『時間について』 でも紹介したウィリアム・フォークナーの言葉をシェアした。

“Father said clocks slay time. He said time is dead as long as it is being clicked off by little wheels; only when the clock stops does time come to life” (「お父さんが時計は時間を殺すと言っていた。小さい歯車にカチッ、カチッとはじかれている限り、時間は死んでいる。時計が止まって初めて時間は命を得るのだよ、って。」『The Sound and the Fury』より.) 


 ヤナは僕が言わんとすることを、僕が選んで発する言葉以上に分かっていた。


 宇宙、無限、悠久、時間、命のサイクル、その一部である自分…。
 その後も、時を忘れていろいろな話をした。


 来た道を戻り、展望台の人ごみの騒音が聞こえてくると、思い出したかのように時計の針がまた動き始めた。


 ものの15分だったのだろうか。二人が分かち合ったその一瞬は、永遠のように感じられた。


 人生とは不思議なものだと思った。出会って間もないチェコ人のヤナと、アメリカのコロラド州デンバーの山で、魂が触れ合う経験をしたのだ。

 二人とも英語は母国語ではない。でも、お互い、共通の言語を持っているかのように感じている。彼女と対話している時は英語で話していることさえ忘れてしまうのだ。言葉はただのきっかけに過ぎない。

 だからこそ、なのだろうか。言葉の限界を感じる。今は既にチェコに戻っているヤナとの交流はメールのみなのだが、彼女にメールを打つ時、普段使わないエネルギーが必要となる。彼女に対する特別な想いを活字に綴ることに戸惑いを感じるのだ。自分が選ぶ言葉は、自分の感謝と喜びに値するのだろうか?自分の表情や形にできない想いを正確に運んでくれるのだろうか?

 心震える想いというものは言葉にし難い。形のない、何とも言えない想いだからこそ心が震えるわけであって、それを自分の祖先たちがつくり上げた言葉という形にはめるのは所詮無理な話なのかもしれない。

 自分自身にとっての「書く」ことの意味については 『人生の先生』 でも語った。少なくとも僕にとっては、書くという行為は妥協の連続である。自分の限られた言葉の選択肢の中で、ああでもない、こうでもないと繰り返し言葉を当てはめてみて、自分の真実に最も近いと思われる言葉を選ぶのだ。やっとの思いで選んだ言葉が、最初に感じた想いやイメージと完璧にシンクロすることはないように思う。その誤差は、形のないものに形を与えようとする者の宿命として受け止める他はない気がする。

 形にならない作者の複雑な想いをより正確に伝えるには、ドキュメンタリーより小説、小説より詩の方が適していると思う。言葉は少なければ少ない方がいい。数少ない言葉を手がかりにして、その言葉に含まれるニュアンスや、その言葉が背負う歴史や文化のイメージを彷彿させ、自らの想いを映し出すのだ。

 その意味で、僕は日本の俳句を心から誇りに思う。作者たちは、5、7、5の限られた枠からは想像もできないほどの大宇宙を描き出す。


   夏草や 兵どもが 夢の跡 (なつくさや つわものどもが ゆめのあと)


言わずと知れた松尾芭蕉の詩である。もちろん、間違っているかもしれない。でも、僕には芭蕉が目にした真夏の光景が鮮やかに見えるような気がする。

 高校時代の恩師に文学の面白さを教わった自分も、比較文学の博士号を追及しているヤナも、言葉の限界を感じつつも、そんなインパーフェクトな言葉を愛している。作者たちが、様々な言葉を紡ぎ、一生懸命自分の真実を伝えようとする。そんな人間臭さこそが美しくもあり、愛おしくもある。

2009年10月12日月曜日

愛音と美風③


最近の写真

 出産報告とその後の投稿ににコメントをくれた方々、どうもありがとう!家族で嬉しく読ませてもらいました。また、「その後」の報告です。

 最近は愛音も完全に美風の存在を認識しています。今は妻が美風と、僕が愛音と別々の部屋に寝ているのですが、朝起きるとすぐに、「みーちゃん!」と言って様子を確認しに行きます。起こすなって言ってるのに…。

 愛音がいるとエネルギーいっぱい家を走り回っているので、今日は妻と美風に休憩を与えるために、Music Togetherという音楽を親子で分かち合うグループに愛音と参加してきました。他の子ともじゃれあったりしたけども、途中からは 

  「みーちゃん。」

早く帰ろうねと、帰りはベビーカーをすっ飛ばして来ました。




 AKIさんが言っていたように、抱っこもしたがります。こっちもあまり慎重にならずに、どんどんさせています。体も触りたくて仕方ありません。

 先月くらいから言えるようになった体のパーツを一つずつ言いながら、指でさしていきます。

 「あし」  「て」  「おなか」  「くぅび」  「あな」(はな)   

段々とエスカレートしてきて、指を突っ込みながら 「くち」

両手でひっぱりながら 「みみ」


そして最後は目つぶしっ!! おぃおぃ…。
美風も大変です。でも、愛音は確実に美風とのコネクションを築いています。

 愛さん、二人いるっていいよ~。何よりも最初は上の子の成長にとってかけがえのないレッスンを与えてくれる気がする。下の子が産まれることによって、上の子は家族の一員である自分の存在に初めて気付く感じ。だからこっちも、勝手に育っている美風よりも、いろいろ感じて考え始めた愛音との接し方に注意を払っているよ。もうすぐだね。赤ちゃんがおなかの中にいるこの時期を楽しんで。

 また報告します。


p.s.
 


おっぱいを飲んで恍惚の美風



2009年10月11日日曜日

君たちに伝えたいこと⑤ ~「友情」について~ 2005年作


 今回紹介するのは、初めてもたせてもらった一年生の子たちが2年生になった時に書いたエッセイだ。中学2年生というのは非常に難しい時期だ。一年生の新鮮な気持ちや初々しさが徐々に薄れ、先輩になると同時に後輩扱いもされる。部活でも勉強でも目の前の目標がなく、ことあれば不安になりがちな時期だ。そんな不安は友人関係に顕著に表れる。 「もっと大事なものがあるよ」 そんな気持ちで書いたのを覚えている。



 よく友達関係のいざこざを耳にする。やれどこのグループが誰を無視してるだとか、どこのグループが分裂しただとか誰がグループを移っただとか。話はいつも「グループ」単位。いつでもどこでも一緒にいる生徒たちや、トイレにまで誰かと一緒に行きたがる生徒たちを見ていると、「仲がいいんだな」と思うよりも、「いつも一緒にいないと不安なんだろうな」と思ってしまう。

 本当は逆なのに、と思う。もし、本当に大切に想い、相手にもそう想われる友達がいれば、いつも一緒にいなくても平気。それどころか安心して一人でいられるはず。だって相手がどこにいようが、どんな時であろうが、お互いに「つながってる」と感じるから。本当の友情とはそういうものだと思う。

 僕には一人の親友がいる。アメリカの高校で出会った一つ年下のテレンという女の子だ。今はアメリカと日本で離れてしまっていて、年に2回ほど、自分の誕生日と彼女の誕生日に電話で話すくらいだ。もう6年近く会っていないが、いつも話す時には高校時代から何一つ変わっていない親密さと安心感を覚える。最後に話をしたのは3ヶ月前。でも仮に今日テレンに電話をしたとしても、まるで昨日も電話で話したかのような錯覚を覚えるだろう。二人の友情は一日メールをしなかったり遊ばなかったりして揺らぐようなものではないのだ。

 テレンが昔教えてくれたことがある。

「お父さんが私に言ったことがあるわ。『人生で5人の真の友達を見つけることができたら、お前は幸せ者だよ』って。」

 その時は5人なんてすぐ見つかるだろうと思っていた。あれから10年以上経った今も、親友は彼女一人だけだ。でも、満足している。たった一人だが、1000人の「ただの友達」を持つよりも心強く感じる。

 テレンという親友の他に、僕にはずっと一緒に生きていこうと誓い合った女性がいる。その彼女もある意味、僕の親友なのかもしれない。夢を語り合い、他の誰よりもお互いの可能性を信じている、そんな仲だ。

 今は彼女が海外で自分の夢を追求しているため、よく電話はするが、実際に会うのは一年にたった2回だ。「会いたい」と思う。でも淋しくはない。いつもお互いに何しているかなと考えているし、何か嬉しいことがあった時、真っ先に伝えたいと思うのも、自分のことのように喜んでくれるのも彼女だ。特別な理由もなしに 「どこにいる?」 といつも気にかけてくれ、何の用もないのに 「ここにいるよ」 と伝えたくなる。

 愛も友情も、根底にあるのはそんなシンプルなつながりなのだと思う。どこにでもありそうだが、実際はどうだろう。 「ここにいるよ。誰か私を見つけて…。」 そう叫んでいる心も多いのではないだろうか。


 こんな話を聞いたことがある。小さな子を公園に連れて行く時、遊んでいらっしゃいと言っても、親が見ていないと子どもはなかなか離れようとしない。振り返る子どもは親がちゃんと自分の背中を見てくれていると分かって初めて他の子の輪に入っていける。

 滑り台やジェットコースターなどでも良く耳にする言葉がある。 「やってくるから見ててね。」 別に親が見ているからと言って急に滑り台が緩やかになるわけでもジェットコースターが遅くなるわけでもない。ただ、親が自分を見てくれているというそれだけで、その子は 「お母さんが見てくれているから大丈夫だ」 と安心するのだ。

 親友や愛する人を持つということも、そういうことなのだと思う。 「一人じゃない」 という安心感は勇気をくれる。自分が今、朝から晩まで、土日も休みなく教員の仕事に打ち込むことができるのも、テレンと彼女がいるからだと思っている。デートをする時間も、友達と遊ぶ時間もない。でも孤独だとは思わない。テレンも彼女も、自分とは遠く離れた所にいるが、二人との心の絆はいつも僕に教えてくれる。

   「一人じゃない。」

 「先生。どうやったら親友ってできるんですか?」 よくそんな質問をされる。簡単に答えられるものではないが、まずは真実の言葉で話すことだと思う。今の世の中、無意味な言葉で溢れ返っていると思う。テレビ、携帯電話、メール、あらゆるコミュニケーションツールを通して、聞いたらすぐ消えてしまう、どうでもいい言葉が発信されている。学校の休み時間も、たわいのない会話ばかりが聞こえてくるように思う。そのような会話から真の友情が芽生えるはずがない。悩みについて、恋愛について、夢について、将来について ― 自分の心に近いことについて話さないと。

 テレンとも彼女とも、どれだけ語ってきただろうか。「あの時にこんな話をしたよね」と何年経っても記憶から消えない会話の数が、僕たちの友情の深さだと思う。

 良い所も悪い所もお互いのことを本当に良く分かっていて、信じていて、大切に想い合える友達のことを親友と呼ぶのだと思う。親友をつくりたいのだったら、勇気をもって少しずつでも自分をさらけ出し、自分という人間を分かってもらわないと。

 半分の自分しか見せていないのに好きになってくれる相手は、半分の友達にしかならないよ。いくら「分かって」と言っても、それは無理な話。同時に、相手の嫌だなと感じる所を見つけても、もっと深く相手を知ろうとしないと。相手の良い所ばかり見ていても、結局好きなのはその友達の半分だけだよ。

 時にはぶつかることも必要だと思う。だって、ぶつかるということは相手を大事にすることだから。今後もずっと付き合っていきたい、そう思うからこそ、今、譲れないこともある。

 別に言葉で会話しなくてもいい。飾りも偽りもない心と心が触れ合えば、それでいいのだと思う。

 みんなと親友になれとは言わない。一人でもいい。一生涯付き合ってゆきたい、そう思える友達をつくって欲しい。

 「ここにいるよ」

2009年10月9日金曜日

自分を持つということ③ ~周りに流されない信念~

教員2年目、全校集会でのことだった。剣道部の地方大会優勝の表彰が全校の前で行われた。

「剣道部!」と司会の先生に呼ばれると、剣道部の子どもたちは「はい!!」と力いっぱい息の合った返事をし、すくっと立ち上がった。男子は全員丸坊主に「上げパン」、女子は「剣道部カット」にスカートひざ下10cmで揃えた子どもたちが、軍隊が行進するように壇上に上がっていった。全校が静かに見守る中、後ろの方でウケを狙った三年生の生徒がおどけて言った。

「出たっ、小関教!!」

ふざけたつもりのそのコメントは、ある意味的をえていた。流行に乗り、服装や髪形などで何とか自分の「個性」をアピールしようとする思春期の子どもたちにとって、剣道部のようにしっかりと「型」にはまった子どもたちは理解できないのだ。きっと洗脳されているようにしか見えないのだろう。

全校集会で生徒たちを観察してみる。どの生徒も自分のピーアールで必死だ。髪のゴムの色を人と変えてみたり、髪を立ててみたり、Yシャツのボタンを開けてみたり、上履きに色を塗ってみたり、名札に飾りをつけてみたり…。

でも不思議なことに、そんな中でひときわ目立つのは、型にはまっているはずの剣道部の子たちなのだ。服装がちゃんとしているだけでなく、顔つきも、話を聞く姿勢も、雰囲気も全然違う。校歌斉唱などでは、お経を唱えるように歌う周りの生徒たちに構わず大声で歌っている。思春期真っ盛りの子どもたちにとって、周りの目を気にしないということがどれだけ大変なことか想像つくだろうか。

剣道部の一年生の中には、仕方なくやっている子もいるかもしれない。だが、上級生になればなるほど、周りの生徒たちと同じことをしていては一流になれないと信じ切っている。流行や世間に流されない信念を持っているのだ。

個性とはいったい何なのだろう。少なくとも、剣道部の子どもたちの中には、確実に個性が芽生える土壌ができているように感じる。




あとがき

いつも剣道部の子どもたちを引き合いに出して話をするが、僕は自分が指導させてもらった野球部の子どもたちも誇りに思っている。まだまだ教師として未熟だった自分に良くついて来てくれたと思う。野球を通して出会った素晴らしい子どもたちが、教師としての自分を成長させてくれたことは間違いない。

ただ、自分の指導に満足していないのも事実だ。決して手を抜いたわけではない。胸を張って自分のベストを尽くしたと言いきることができるし、実際に数多くのチームの顧問の先生方に選手たちの元気の良さ、礼儀正しさや、丹念に整備されているグランドを褒めて頂いた。

でも、自分が理想とする指導ができたかと言うと、そうではない。自分が成長すればするほど、今まで見えなかった新しい問題が見えてきてしまうのだ。小関先生の指導を常に目の当たりにしていた自分にとって、これは当然なことだったのだと思う。

僕にとって、小関先生はつまずきの石だった。そしてそれは幸運なことだった。

2009年10月7日水曜日

自分を持つということ② ~「守」「破」「離」~

自分を持つということは、自分を捨てるということでもある。


ある時、剣道場の控室で、小関先生が剣道における「守(しゅ)」「破(は)」「離(り)」という概念について教えてくれた。

  「守」は守る

  「破」は破る

  「離」は離れる

つまり剣の道を究めるための精進の過程を表しているのだそうだ。(これは最近知ったことだが、この概念は剣道以外の他の武道や、茶、能など日本古来の伝統芸能の世界でも使われるそうだ。)揆奮館という武道塾のサイト(http://www9.ocn.ne.jp/~kihunkan/syu_ha_ri.htm)には次のように書いてある。


「守」とは、師に教えられたことを正しく守りつつ修行し、それをしっかりと身につけることをいう。

「破」とは、師に教えられしっかり身につけたことを自らの特性に合うように修行し、自らの境地を見つけることをいう。

「離」とは、それらの段階を通過し、何物にもとらわれない境地をいう。

修行をする上で、心・技・気の進むべき各段階を示した教えといえる。

[参照]全日本剣道連盟居合道学科試験出題模範解答例、月刊剣道日本編集部

そして、

武道における修行が人生に深く関わっている以上その修行には限りがない。すなわち限りなき修行に没入することを最終的には求めている言葉である。  
[参照]武道論十五講、不味堂出版


はたして、何もない所から自分の「型」を見つけることは可能なのだろうか。スポーツにしても芸能にしても、他に習い、他を徹底的に真似ることから自分の型ができていく。それは、人生においても言えることなのではないだろうか。人生における「型」とは先生に他ならない。誰かを信じ、自分を完全に委ねることから唯一無二の「自分」が生まれるのではないかと思う。


小関先生は剣道部の子どもたちに「守」の大切さを説く。剣道には「基本は極意である」という言葉もある。基本を「最初に習う簡単な技術」と捉えてはいけない。基本は己の剣道の根幹となるもっとも大事な技術だ。それは、人としての基本も同じことだ。 

小関先生は言う。3流4流の剣道人である私は一生「守」の段階だ。


あとがき

人生の先生が学校の教員である必要はない。それに、教員は自分がクラスや部活の生徒全員の「先生」にならなくても良いのだ。もちろん、教員がそこまで教えに没頭できる環境があれば、そんな理想的なことはないし、それこそ我々が目指すべき道だと思う。だがそれは並大抵なことではないし、『不登校から日本一』でも書いたように、学校に来る前から既に自分の先生を持っている子も中にはいる。親が先生である子もいるし、習い事を通して師匠を見つける生徒もいる。自分ではなく、その子に合った「先生」を探してあげることも教員の大事な仕事だと思う。

2009年10月6日火曜日

自分を持つということ① ~信じること~

以前『優等生を考える』で、「自分」を持たない八方美人の優等生ではなく、最終的には自分の心で感じ、頭で考えて判断できる自主性のある子どもを育てなくてはいけないと書いた。その続きを考えてみたい。


1.自信

子どもはどうすれば自信がつくんだと思う? 答えを考えている僕に、小関先生がこう言った。

「信じることだ。」

それは自分を信じるということではない。自分がない子にいくら「自分の可能性を信じろ」と言ったところで、その子が急に自信を持てるようになるわけではない。自信をつけたいのだったら、まずは人を信じることだ。

何かを達成したという成果なんて脆いものだ。それはまぐれかもしれないし、誰かに軽々と抜かれるかもしれない。でも、もし自分が心から尊敬している先生に褒められたらどうだろう。「よくやった」という師の一言が、生徒に魔法をかける。

小関先生の剣道部の子たちを見ていれば良くわかる。あの子たちは、自分を信じているというよりも、小関先生を信じている。小関先生の教えに自分を委ね、言われるように精進すれば、先輩たちのように強くなれると心底思っている。大きな大会でも、小関先生自身が「負けるわけがない」と言えば、子どもたちはどんな強豪相手でも臆さずに闘うことができる。小関先生に対する信頼こそが、あの子たちの自信そのものなのだ。


2.自分の中の「絶対」

そんな剣道部の子どもたちと比べ、優等生は自分の中の「絶対」を持たない。権力があると見なせば、いろんな人の意見を「はい、はい」と聞くので、自分自身の基準がないのだ。前にも言ったように、いくら正しいことでも、その子その場面において真実を貫いているとは限らない。対立する「正解」の狭間で、優等生は自由を失う。

ふと思い出すことがある。『プライド』でも書いた5000のことだ。博士課程一年目、大変な授業を受けながら、クラスメートは皆、成績に振り回されていた。自分の意見は教授にどう評価されるのか、提出した論文にはどんな成績がつけられて返されるのか、不安でしょうがないのだ。そんな彼らを見て、僕は自分自身の強さを知った。

以前、『無知の知』でも書いたように、自分の学びだけを気にしていた僕にとって、成績はさほど関係なかった。成績なんていうものは、所詮他人に押し付けられる基準でしかない。学びのスタイルも、進度も、表現方法も一人ひとり全く異なる学びの成果を、一様にしかも正確に評価できる基準など、もともと可能なのだろうか?

自分自身の基準を持っていれば、むやみに不安に駆られることもない。僕の中の「絶対」は常に小関先生だ。だから、僕が気にするのは、今自分が胸を張って小関先生に顔向けできるかということだけだ。恩師という存在は、頼りない自分に一本の「筋」を通してくれる。先生を持っている人間は強いのだ。

2009年10月5日月曜日

愛音と美風②






 美風誕生の報告を受けて、たくさんの人からおめでとうの便りを頂いた。ありがとう。ペンネーム「2年前の背番号7、8」君たちもコメントありがとう。内輪の人間にしかわからない暗号のようでいいな。まだちょっと早いけど、いつか君たち自身の子ども誕生の一報を聞きたいもんだ。



 さて、美風が産まれ、我が家は早速てんやわんやな状態に陥った。今までは両親のアテンションがフルにもらえていた愛音が妹に嫉妬をするのだ。これは複数の友人からも忠告してもらっていたことだったし、僕たち夫婦も予想していたことだった。でも、最初に妻の母乳の出が悪く、彼女が美風に付きっきりになってしまったこともあり、想像以上に愛音が情緒不安定になってしまったのだ。

 愛音は最初、友人から借りている美風用のチャイルドシートに座ったり、美風のおくるみを体にまとってみたり、美風の哺乳瓶をくわえてみたり、とにかく美風の特権を認めようとしなかった。僕の姿を見つければ、「だっこ!」の連続。ママのおっぱいを飲んでいる美風をのぞいては、顔をゴシゴシ、そしてバチン。
おいおぃ、あいね~…。

 愛音にアテンションをあげつつ、甘やかすことにならないようにする、そのバランスが本当に難しいなと感じた。赤ちゃん返りさせないように愛情を注がないと。



 今日になって、妻の母乳の出が良くなった。日本から助けに来てくれているうちの母親の料理のせいもあるのだと思う。おかげで美風が急に長時間まとまって寝てくれるようになった。

 朝、そろそろ勉強を再開しないと、という危機感はあったが思い切って休むことにして、母と共に愛音を連れ出した。コロンビア大学のキャンパスでやっていた子どものためのイベントに行き、日曜市場に行って新鮮な野菜やジャムを買い、帰りにセネガルの家庭料理を出すレストランに寄って昼食をとった。

 家に戻ると、美風がぐっすり寝ていたおかげで、妻が愛音を昼寝させることができた。そして昼寝の後は、うちの母親と公園で思いっきり遊び、夕食前には妻と一緒にお風呂に入った。今日の愛音は常に上機嫌。泣いている美風を心配したり、優しくなでなでしてあげることができた。

 我が家にとって、とっても幸せな日曜日だった。

2009年10月2日金曜日

美風



 
 みなさん。嬉しい報告です。
昨日、10月1日の深夜2:50、美風(みかさ)が産まれました。
体重4220g、身長54.6cmの大きな大きな女の子です。
我が家の喜びを一緒に分かち合ってやって下さい。

            大裕

2009年9月28日月曜日

「優等生」を考える

1.すご腕茶師に学ぶ教育の心 
 テレビを持たない僕は、勉強の合間によくYouTubeを見て気分転換をする。よく見るのが歌手のライブ映像、そして実在の人物をテーマにしたドキュメンタリー番組だ。今日は『プロフェッショナル』の前田文男編を紹介したい。

 前田文男さんは日本屈指の茶師だ。前田さんが他の茶師と全く異なる理由、それは彼のお茶の選び方にあるという。

 全国からお茶が集まる静岡の茶市場。たくさんの茶師で賑わう高級茶のセクションとは離れた人気のない所でお茶と向き合う前田さんがいた。

 そんな前田さんには、お茶を選ぶことにおいて一つの流儀がある。



     「良いお茶ではなく、伸びるお茶」



 年間50種類以上ものお茶を世に送り出す前田さんが一番こだわりを持っているのは、100グラム1000円の一番安いお茶だという。なぜか?彼は言う。

 お金を出せば良いものは提供できる。でも、作って良くなるお茶こそが茶師としての腕の見せ所だ。

 僕は知らなかったが、お茶は通常一種類の茶葉だけでできるわけではないそうだ。味はいまいちだが香りの良いお茶、見た目は悪いがコクのあるお茶、香りは良くないが色の良いお茶、特徴はそれぞれだが、何種類ものお茶を混ぜることによって極上の一杯ができるのだという。

 ではどうやって「伸びる」お茶を選ぶのか。前田さんはお茶の声に耳を澄ますのだそうだ。「お茶が何かを訴えている、そんな感覚」だという。誰にも相手にされなかったお茶を、心を込めて磨き、宝石に化けさせる前田さん。預かったお茶は絶対に最後まで面倒を見て、自信を持って世の中に送り出すという信念を持っている。


2.教員という仕事
 本題に入る前に一つ言っておきたいことがある。僕は教員という仕事は、人にできる最も尊い職業の一つであると思うし、自分が教員であったことを誇りに思っている。今、必死に勉強しているのも、将来、有能な人材が教員になりたいと願い、親は教員を心から信頼して子どもを委ね、委ねられた教員が真に教えに浸れる環境作りに貢献したいと思っているからだ。でも、そんな想いがあるからこそ、現場に立つ教員に求める要求も高くなってしまう。教員批判と取られる所もあるかと思うが、自分では逆に教員を弁護しているつもりだ。

 これは自分の教員組合に対する疑問も反映している。本当に先見性を持って教員の立場を守ろうとするのなら、弱い教員を守ることに奔走するより、頑張っている教員を守るべきだと思う。そうすることが教員の社会的地位を高め、質の高い教育を約束することにつながるのだと信じている。小作農のように、その場しのぎの問題解決を続けたところで明るい未来は拓けない。

 給料も良くない教員にわざわざなろうという人に悪い人はいない。少なくとも僕はそう信じている。ただ、良い人が良い教員になるのかといったら、それは全く別問題なのだ。


3.「優等生」を考える

 前田さんのお茶に対する姿勢は、小関先生の子どもに対する姿勢と通ずるものがある。小関先生も優等生には興味を示さない。

 優等生は、教員であれば誰の言うことでも、「はい」「はい」ときちんと聞く。理由もわからずに大人たちに言われたことをうのみにしてしまうのだ。以前、『不登校から日本一』でも書いたが、教員は皆正しいことを言う。ただ、それがその子、その場面において最適な助言であるとは限らないし、それぞれの助言が食い違うことも少なくないのだ。「あの先生はこう言っていたのに…」と思ったこと、誰でも一度は経験あるのではないだろうか。最終的には、自分の心と相談し、頭で考えて判断することを学ばなければ、その子は自由に生きていけない。でも、不幸なことに、多くの教員はそんな、自分にとって都合の良い子どもを育てようとしてしまう。

 だいたい、「優等生」というのは、大人が勝手に押し付けるラベルに過ぎない。何かの拍子にそのラベルがはずれてしまった時、又は大人の号令なしには動けない自分に気付いた時、ふと自分の心にぽっかり空いた空洞に気がついた時、その子はどうするのだろうか。大人たちに裏切られた、と感じるのではないだろうか。自分の内なる声を押し殺し、ただ盲目に「正しい」大人たちの価値観の中で育つ優等生。そんな「自分」のない子どもを育てるのは罪だ。



 2008年に教員の仕事に区切りをつけた時に残してきた野球部の一年生が、今ではチームを引っ張っている。当時副顧問として僕をサポートしてくれた若手の教員が、僕の意志を引き継ぎ選んだキャプテンがいる。バカもたくさんして来たし、多くの教員にとっては扱いずらい子かもしれない。でも、子どもらしいエネルギーがあり、手をかければ間違いなく「伸びる」子だと、そう信じている。


You Tube リンク ~プロフェッショナル 前田文男~
http://www.youtube.com/watch?v=tkpKnrq6FFA

2009年9月26日土曜日

愛音と美風

 既に知っている人もいるかと思うが、実は我が家には二人目の女の子が産まれる予定だ。しかも予定日は明日だ。出産を控えた妊婦は医者に歩くことを勧められるが、今日も妻と長い散歩をした。

 現在21ヶ月の長女も、何となくだが妻のお腹に赤ちゃんが入っていることをわかっているようだ。僕が妻のお腹に顔をつけて「おーい!」と言うと、決まって愛音も「ぅおーい!!」と言いに来る。自分自身のまん丸なお腹にも呼びかけているのが若干気になるが…。

 名前ももう考えてある。長女の愛音(あいね)という名前は、音楽療法士である妻と僕の人生を常に支えてくれた音楽にちなんだ名前だ。2歳も離れずに産まれてくる次女は、お姉ちゃんになる愛音と一生をかけて支え合い、補い合うようにという願いを込め、美風(みかさ)と決めた。愛の音を美しい風が世界に運ぶ。どうだろう、本人に気に入ってもらえるだろうか。

 名前のことを考えていると、前にも何度か紹介した、Paulo Freire(パウロ・フレイレ)の、他人が名付けた世界に生きるのではなく、自分で名付けた世界を生きるのだという言葉を思い出す。人の名前にも通ずるものがある。親からもらう名前であっても、その名前をどのように生き、どんな意味を見出すのかは本人次第だ。はたしてこの子はどんな美風になるのだろう。


 愛音の時もそうだったが、まだお腹でぬくぬくしている美風に話しかけることがある。

「早く出ておいで。いい世界が待ってるよ。」

 そう囁くたびに、身が引き締まる想いがする。

2009年9月25日金曜日

Love the questions...

  自分には高校の頃から大切にしてきた宝物がある。Quote Bookと呼んでいる物だ。元はと言えば、16歳で留学を決意した僕に母がくれた自由日記だった。

 『人生の先生』で紹介したMr. Walkerとの出会いは、僕の文学に対する情熱を開花させてくれた。いろいろな文学に触れ、ああ美しいな、この言葉忘れたくないなと思う言葉を日記に綴るようになった。それがQuote Bookの始まりだった。

 今2冊あるQuote Bookには、文学だけでなく、教育学や、詩や、街で見かけた言葉などから集められた名言が綴られている。それをパラパラと読んでいると、自分がいつどのような言葉に影響を受けたのかが分かり、当時のことが鮮明に思い出される。だから自分にとっては言葉のアルバムのような物で、成長の証しでもある。

 言葉は、時に何にも変えがたい贈り物となる。誰かを心から祝福したい時、感謝の気持ちを伝えたい時、大切な友が新たな決意を胸に旅立つ時、誰かに不幸が起こった時、誰かを勇気づけたい時…。そんな時、言葉は自分の代わりに、その人にそっと寄り添ってくれる。



 前回の『科学、デューイ、照美』を書きながら、一つの言葉が頭をよぎった。Rainer Maria Rilke(ライナー・マリア・リルケ)というオーストリアの詩人の言葉だ。

Love the questions…
I want to beg you, as much as I can,
To be patient toward all that is unsolved.

Try to love the questions themselves.
Do not now seek the answers
Which cannot be given you
Because you would not be able to live them.

Live the questions now.
Perhaps you will then gradually,
Without noticing it,
Live along some distant day
Into the answer.

Rainer Maria Rilke


疑問を愛しなさい
私の心からの願いだ
解決できないもの その全てを許すのだ

疑問そのものを愛しなさい
自分に与えられない答えを今求めるのではない
あなたはその答えを生きられないだろうから

今は疑問を生きるのだ
そうすれば 少しずつ
知らないうちに
答えの中に生きている
自分を見つける日が訪れるから

ライナー・マリア・リルケ

訳責:鈴木大裕

2009年9月24日木曜日

科学、デューイ、照美



 僕はJohn Dewey(ジョン・デューイ)という教育哲学者が好きだ。教育学を勉強するものは必ずどこかでこの名前に出くわすという程有名な学者で、アメリカでは教育学の代名詞のような地位にある。そのために彼に対する批判も多いし、敬遠されがちな部分もあると思う。

 僕自身、何度もデューイから離れようとしたが、新しいことを勉強すればするほど彼の哲学に戻ってくる自分がいる。実際に、日本のマイノリティーと多文化教育を扱った大学の卒業論文(Japanese Minorities and Democratic Multicultural Education, 1997)、アメリカの公教育における道徳教育の可能性をテーマにしたマスター時代の修士論文(American Liberal Democracy and Moral Education: Finding a Way Out of the Conflict between Liberals and Communitarians, 1999)の両方でデューイを取り上げている。

 確かデューイは93歳まで生きたはずだ。その長い学者人生において、出版した本は40冊、雑誌などに発表した論文は実に700本を超えると言われている。取り上げるテーマが多岐にわたっているだけでなく、それらのテーマが彼の頭の中では見事なほど有機的に結びついているところが、彼の哲学をまた難しくする。ある部分だけを解剖しようとすると、それがまた別の部分の一部であり、その構造を理解しようとするとまた別の部分が見えてくる…。だから、博士課程に入った今でも論文でデューイを引用することがあるが、その度に後悔するのだ。ああ、また蟻地獄にはまってしまった…と。

 あまり話すと自分がどれだけデューイを理解していないかがバレてしまうので簡単にしておこう。僕が何故デューイの哲学を好むのか、理由は幾つかある。その一つとして彼の哲学には常に動きがあることだ。デューイはダーウィンの進化論の影響を強く受けたと言われている。以前『自由について』でも話した彼の「自由」の定義もそうだが、「民主主義」の定義、「知識」の定義など、彼が扱う概念の多くが、完成を目指し常に変化し続ける不完全なものと捉えられているように思う。自由は我々が変われることに、民主主義は政府形態などではなくコミュニティーの構成過程に(*彼はどこかで民主主義のことを“community in the making”と捉えている)、知識はその追求過程にそれぞれの本質を見出している。

 何故こんな話をするのかと言うと、デューイが考える「科学」も、常にon the move(動いている)だからだ。彼にとっては、「科学」は完成形ではなく、変わりゆく知識そのものなのだ。それは「科学」という定義や意義さえも、常に裁きを受け続けるべきであることを意味している。だから、前回の『科学の囚人』でも書いたように、どのような研究手段が科学的でどれがそうでないか、科学的とはそもそも何を意味しているのかなどということを、一つの決まった形に閉じ込めること自体がおかしいのだ。デューイがそんな口論の場にいたら、きっと笑うのではないだろうか。そもそも、科学が本当に良いものであるかどうか、子どものためになっているのかどうかも問うべきであるし、誰が正しい、誰が間違っているとか、答えにこだわることに何の意味があるのか。こうして議論していること自体に真の意味があるのではないかね?

 1916年に出版されたDemocracy and Education(邦題:『民主主義と教育』)の中で彼はこう言っている。

"The undisciplined mind is averse to suspense and intellectual hesitation; it is prone to assertion. It likes things undisturbed, settled, and treats them as such without due warrant" (Dewey, J. 1916. Democracy and education. New York: Macmillan, p.188).

ざっと訳せばこんな感じだ。
「訓練されていない頭脳はあやふやなことや知的な迷いを嫌い、断言したがる。また、物事がかき乱されず、確定されている状態を好み、然るべき根拠もなしにそれらを正当化する。」


真実などは蜃気楼のように儚いもの。答えを出すことだけに囚われていても見つかるわけがない。なぜならば迷いの過程そのものが答えなのだから。

2009年9月23日水曜日

科学の囚人

 日々の宿題に追われ、だいぶごぶさたしてしまった。新たな投稿もないのに日に日に増えていくアクセス件数を見ると申し訳なく感じると同時に、「がんばらなきゃ!」という新たな勇気が芽生えてくる。みなさん本当にありがとう。


 昨日(火曜日)は、以前『プライド』で紹介した5000という授業がある日だった。自分が今学期初めて教授のアシスタントとして参加している授業だ。今その授業で扱っているトピックがとても面白い。

 アメリカでは、2001年にNo Child Left Behindという制定法が施行された。「落ちこぼれを作るな」と訴えるキャッチーな法律だが、これがこちらの教育界では随分評判が悪い。その理由はたくさんあるが、主なものとしてそれが推進するStandardized Testing(日本語では何と言うのか分からないが、要は基準化された学力試験だ)、結果的に最も貧しく最もサポートを必要としている地域がテスト結果によって罰せられるという歪んだアカウンタビリティーのシステム、そして教育学界に対する「研究の在り方」の押し付けなどがある。

 今5000で取り扱っているのは、この「研究の在り方」だ。政治家たちが教育学界に物申す。

 教育研究者たちは議論をし合うばかりで何も解決しない。
科学的な根拠に基づき明確な結果を提示する量的研究にしか資金提供をしない!

 それに対して、アメリカの教育学界でも権威のあるNational Research Council(NRC)という独立法人が論文を発表し、待ったをかける。方向性は正しいが、もう少し幅広く教育研究を定義しようではないか。今度はそれに対して何人もの研究者が待ったをかけるのだ。

  おい待て、方向性は正しいのか?
  
  政治家が研究の在り方に口を出していいのか?
  
  結局はNRCも質的研究を軽視しているのではないか?質的研究だって立派な科学である!
  
  その定義では、そこに含まれていないあれとこれとこの研究方法は科学ではないのか? 
  
  教育にこれほどまでに多様化した研究方法や理論が存在するのは、教育こそが最も難しい科
  学という証拠なのではないか?

 ふと思う。なぜ皆科学にこだわるのだろうか。

2009年9月19日土曜日

Something Beautiful ~花~




 今日は歌を一曲紹介しようと思う。

 中孝介(あたりこうすけ)の『花』を知っているだろうか。2007年に発表されたものだが、僕がこの曲に出会ったのはつい最近のことだ。YouTubeで彼がなんとも丁寧にこの曲を歌う姿に心打たれた。中孝介は、鹿児島県奄美大島の民謡出身の歌手だ。

 奄美民謡と言えば、元(はじめ)ちとせのあの独特な歌声を思い浮かべる人も多いのではないだろうか。奄美のシマ唄は世界的な大ヒットを飛ばしたフランス出身のグループ、Deep Forestが元ちとせをサンプリングしたことでも注目されたが、日本が世界に誇ることのできる民謡だと思う。

 音楽は、奏でる人の想いと共に、その音楽を創り出した環境や大地を再現してくれる。
元ちとせや中孝介の歌声に僕が感じるのは、奄美大島の大きな空、そして優しい潮風だ。これは琉球の島唄やハワイアンにも感じることだ。他にも、バグパイプの音色はスコットランドの一面に広がる草原と突き抜けるような空、ラップは爆発的なエネルギーを閉じ込める貧しい都市部の建物群、カントリーは南部の赤土を照らす悲しげな夕焼け…。

 僕が『花』を好きな理由は、その歌詞にもある。御徒町凧(おかちまちかいと)という詩人が書いた詞だが、随所に日本語の美しさと奥深さが表れている。と同時に、花の儚さとさりげない強さを愛する日本の心を歌っているようにも思う。

 このブログを読んでくれている人の中で、進むべき道に悩み、もがいている人もいると思う。そんな人にこそ、この歌を聴いて、体いっぱい奄美の潮風を浴びて欲しいと思う。

 こんな一節がある。

 
   「花のように ただそこに咲くだけで 美しくあれ」

 
 あまり難しく考えるな、裸の自分を見つめてみろ。そう歌っているように僕には感じる。


あとがき
 残念ながら僕が見たバージョンの動画は既に削除されてしまっていた。ここに掲載されているものは別バージョン。ピアノ伴奏だけで歌う彼の姿には何とも心打たれた。
歌詞リンク(goo)
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND51864/index.html

2009年9月17日木曜日

トラウマ

昨日、トラウマになりそうな出来事が起きた。思い出すのも辛いが、何とか意味を見出さなくてはと思う。

コロンビアのLaw Schoolで受けている教育と法の授業中の事だった。突然教授が僕の名前を呼んだ。

 「この段落はいったい何を言っているのかね?」
 「え…?」

予想しない出来事に、気が動転した。

「君が今日のディスカッションリーダーをやってくれると前回言っていたから。」

どこだどこだと慌ててその箇所を探し、なんとか一言二言で曖昧な答えを返した。
答えた後も、今起こった出来事が頭を駆け巡り、異常に速い鼓動を感じていた。
確かに最初の授業で、ディスカッションリーダーをやることを自分で志願した。法学部の生徒たちに囲まれる中、ためらいも感じたがやりたい人が他にいなかったし、早い段階で教授に名前を覚えてもらうことは大事なことだと思った。だからこそ、今回の授業のために皆で議論するための質問を長時間かけて考えてきてあったのだ。きっと良いディスカッションができるという自信もあった。それがあんな風に質問されるなんて…。

その時だった。

「Daiyu、この文はどういう意味かね?」

もう完全にパニックである。

正しい答えを探そうとすればするほど焦りばかりが先走り、同じ活字の上を眼が行ったり来たり。まともに考えられるような状態ではなかった。

今までこれほど沈黙をうるさく感じたことはあっただろうか。講堂の最前席に座っていた僕は、40人近くの視線に背中を撃ち抜かれるかのような錯覚さえ覚えた。

同情した教授が、これはとても曖昧な文章だと言ったり、ヒントをくれようとしたりしたが、それが僕の惨めな気持ちに拍車をかけた。

完全な誤解だった。Law Schoolでは、ディスカッションリーダーとは、最初の質問を投げかける生徒のことを指すのではなく、教授の質問に答える生徒のことを指すらしい。この文は何を意味しているのか、このケースではどのような事柄が最終判決を左右したのか…。そのような教授との一対一のやり取り(Socratic dialogueと言われるらしい)をきっかけにして、他の生徒たちも次第に議論に参加していく。法学部では、勉強する内容も違えば、授業のスタイルも教育学部とは全く違うのだ。

今思うと、自分はなんて器が小さかったのだろうかと情けなくなる。分からないなら分からないなりに、自分が理解に苦しむ箇所を指摘すれば良かったわけだし、答えられないなら代わりにジョークの一つでも言えば良かった。結局周りに気を遣わせてしまうという最悪の結果となってしまった。

こうなってしまうと、レベルの低い不安が頭をよぎり始める。
自分は授業貢献度のポイントが1点ももらえなかったのだろうか。
今後どうやったらポイントを稼げるだろうか。
教授は自分のことを二度と指してくれないのではないだろうか。
クラスメート達は自分のことを軽蔑しているだろか。
それともかわいそうとおもっているのだろうか。
どうやったら自分の名誉を挽回できるだろうか…。
こんなことを考えていると、次に教室に入るのさえ恐ろしくなってくる。

さあ、この体験をどう生かすか。
まさかこの年齢にもなって、こんな中学生のような体験ができるとは思ってもいなかった。ある意味、非常に貴重だと思う。

自分が中学生に教えていた頃が思い出される。彼らはどういう気持ちで僕の英語の授業を受けていたのだろう。英語の授業があることが苦痛に思っていた生徒はいなかっただろうか。僕にいつ指名されるのかとビクビクしていた生徒はいなかっただろうか。成績ばかりに目を向けさせられ、テストで点を取ることだけに喜びを覚えるようになってしまった生徒はいなかっただろうか。

今回、改めて教員が生徒であり続けることの大切さを感じた。それは目の前の生徒たちから学び続けるというだけでなく、学校、教室、成績と無機質な枠にはめられた教育を体験し続けることも意味している。いろいろな意味で非常に不自然なこの学びの環境において、学ぶことについて学ぶだけでなく、生徒たちの気持ちを知ることも教員に求められている。生徒たちはどのように怯え、何に喜びを見つけるのか。

話を自分に戻そう。さんざん不安に浸かったあげく、教育と法の交差点における可能性を探るという最初の目的が、良い成績をとらなくては、というあまりにもちんけな目的にすり替わってしまっていることに気がついた。原点に戻ろうと思った。

学びたい。それでいいじゃないか。

良い経験をさせてもらった。
「失うものは何もない」 - そう言い切った自分の真価が問われている。
さあ、勝負はこれから!!

2009年9月15日火曜日

君たちに伝えたいこと④ ~今こそが未来~ 2005年作

             長野のお寺で見かけた言葉


 自分は高校でアメリカに行ってから、第二の人生が始まったと思っている。毎日が未知の連続だったし、分からない英語で、どうやって自分という人間を表現しようかと必死だった。慣れてきてからも、幸福なことに、自分の才能を本気で信じてくれる数多くの素晴らしい先生に出会い、常に新たな課題を与えられ、自分の可能性に挑戦させられた。何かとてつもないことに挑戦することの楽しさを知り、自らの無限の可能性を信じられるようになった今も、挑戦は続いている。だから毎日が失敗、反省の連続だし、自分が日々進化しているように思う。普通、社会に出て職を持った時が「将来」と言うのだと思うが、30歳を超えた今も、自分の将来にワクワクしているし、「将来の夢」もある。今、こうして今までのことを振り返ってみて言えること ― 無駄なこともたくさんしたし、遠回りもいっぱいした。でもいつもがむしゃらだった。

 人は、現在からはまったく創造もつかないような生活を思い浮かべ、自分の「未来」に期待を膨らませる。でも、今日なしに明日はない。何が起こるか分からない未来に期待を膨らませる前に、何が起こるか分からない今日という新たな一日に胸を躍らせるべきだと思う。「未来」なんていつまで待ってもやって来やしない。やってくるのは「今日」だけだ。 

 じゃあ未来とは何なのか。それは灼熱の砂漠の向こうに突如現れ、一人で旅する少年を誘惑する湖の蜃気楼のようなものだと思う。追っても追っても辿り着けない幻。来る日も来る日も懸命に歩き続けた少年はふと立ち止まる。自分自身を見つめた時、少年はいつしか知恵も勇気もある、たくましい男に成長している。そして、鏡を見つめる自分が、小さい頃夢に現れた旅人であることに気付く・・・。未来とはそんなものなのだと思う。あるのは「今」だけであって、その現在とは過去の自分にとっての未来なのだ。

 将来自分は何をしたい?どんな人間になっていたい?もしそれを本気で考えて、本気で実現しようとしたら、そのために自分は「今」というこの瞬間に何をすべきなのか、きっと分かるはず。ある朝、目が覚めたら急に自分が強くなっていた、なんてことあるわけがない。ふと起きたら自分が大人になっていた、なんてあり得ない。だから結局は、一日一日を自分がどう過ごすか、何を学んでどう成長していくかが、その人の未来を決定するのだと思う。今日という一日を精いっぱい、命いっぱい生きよう。
 今こそが未来。
                     1 / 1 / 2005 鈴木 大裕

2009年9月11日金曜日

約束のバトン

   最後の授業 - Dr. Sobolを囲んで(椅子に座っているのがSobol教授)


1.発信すること
 今年の自分の課題、それは発信することだ。このブログももちろんそうだが、その他でも積極的に発信しようと、いろいろな所に顔を出している。新入生のためのオリエンテーションのボランティア、キャンパスツアーガイド、自分のような留学生のアドバイザー、教授のティーチングアシスタント…、昨日は将来のフルブライターへのビデオメッセージの収録に出かけた。

 そう考えると、去年の自分とのメンタリティーの違いに驚かされる。『納得の一年』という内容で初めに書いたが、去年の自分のキャパシティーでは、自分自身が吸収することで精一杯で、自分の学びを発信することまではできなかった。それを今、一生懸命しているところだ。


2.人間は一人だけ自由になれるのか?
 前回、『Responsibility』というタイトルのエッセイを掲載したが、僕の中では「学び」というものは「責任」と深くつながっている。学んだ者には教える責任があり、そうして恩返しすることにより一つのサイクルが完結し、また新たなサイクルが始まるのだと思っている。だからこそ、たくさん学んだ者、多くの出会いや感動に恵まれた者には教えて欲しいと思う。それは必ずしも教員になるということではなく、分かち合うということだ。

 学びは人のために生きて初めて意味を持つ。以前にも紹介したブラジルの教育哲学者Paulo FreireはPedagogy of the Oppressed(邦題:『被抑圧者の教育』)という本の中で次のように言っている。

   全ての人々を解き放たずして自分を解き放つことはできない。

これは『自由について』でも紹介したMaxine Greeneのbreaking free(システムから自分だけ逃れること)とbreaking through(システムを打ち破ること)の違いに相違ない。この二人の賢人は問う。人間は一人だけ自由になれるのか?


3.二人の巨人
 去年の秋、今年の春に一つずつ、心震える授業を受けた。それらの授業を教えたのはThomas Sobol とMaxine Greeneというアメリカ教育界において「巨人」とされる二人の教授だ。Maxineについては前述の通り。Sobol先生は学者でありながら、ニューヨーク州の教育長を何年にも渡って務めた政治家でもある。Sobol先生は77歳。Maxineにいたっては91歳である。

 彼らの授業は、いつも儀式のような雰囲気の中で始まった。時間になると、付き添いの人に連れられ、Sobol先生は車いす、Maxineは歩行補助の器具に捕まりながら登場する。生徒たちが静かに見守る中、声を出すことに支障のあるSobol先生は20人程度の生徒たちに声を届けるために胸にマイクを付け、Maxineはいつもの電動イスに腰をかけ、角度を調整する。

 彼らが万全の体調でないことは生徒誰もが知っていたし、その二人の教授が次の世代を育てることを使命とし、我々こそが次の世代なのだと、身が引き締まる想いがしていた。授業が始まると、二人の巨人が発する一言ひとことには彼らが生きてきた人生の重みがあった。全ての生徒が先生の話を食らいつくように聴く、あんな授業はかつて経験したことがなかった。しかし、言葉よりも重かったのは、我々の可能性を信じてやまない二人の純粋さだった。

   あなたたちが世界をより愛しやすい場所に変えるのだ

Freireの願いに重なった二人のメッセージに、彼らによって引き継がれてきた約束のバトンを渡された想いがした。

君たちに伝えたいこと③ ~Responsibility~ 1999年作

 昨日、KAPLAN[1]で生徒にTOEFLを教えていた時、responsibility という単語に出くわした。生徒に、「この単語の意味知ってる?」 と聞くと、知らないと言う。『責任』 という意味なのだが、何か良い教え方はないものかと思い、いつものようにこの単語を分解してみることにした。


 Responsibility は単純に大きく分けると、response と ability に分解することが出来る。Response は 「応答」、「反応」 等の意味を持つ。いずれにせよ、漢字の 「応」 という字がその意味に最もふさわしいイメージを持つように思う。そして ability は 「能力」 という意味。


 おや? Responsibility…応える、能力?それが 『責任』?予想外の発見に僕は驚くと同時に不思議な説得力を感じていた。その場は responsibility の持つ、『責任』 という意味、そしてそれを構成する要素を教え、それらの関連性については僕と生徒の次回までの宿題とした。
 

 家に帰った僕は早速、自分の持つ一番大きな英英辞典を開いた。それによると、responsibility の元となる respond (応える) という単語はラテン語の respondere という単語に語源を持つ。


    re は 「返す」

    spondere は 「約束する」


つまり、respond は元々、"to promise in return" (約束をもってお返しをする) という意味なのだ。よって、responsible は 「約束をもってお返しをすることが出来る」 という意味を持ち、その能力を持つ者を描き出す。そして、論理的には responsibility の持つ 『責任』 とは、「約束をもってお返しをする、その能力」 ということになるのだが、これがそうではないのだ。


 面白いことに、それは 「能力」 自体を指すのではなく、その能力を持つ者に 「課せられるもの」 を指すのである。僕の持つ辞典には responsibility の説明の一つとして次のようなものがある ―― 


“a particular burden of obligation upon one who is responsible”
(Random House Webster’s College Dictionary, 1997). 


Responsibleの意味を踏まえて訳すと、このようになる。


「約束をもってお返しをする、
その能力を持つ者に課せられる義務という負担。」


 能力を持つからこそ義務を背負う。こうして語源を考えると、それは世間一般に考えられている、「責任がある」 という意味が持つ、外部から強制的に背負わされるイメージとはかなり異質なものであることが分かる。それは本質的に自発的であり、恩恵を受けた人やものに対する約束であると同時に、何よりも自分自身に対する約束、けじめであるように思う。


教育を受ける機会を得た者として、親や友人に恵まれた者として、人や大地の温もりに触れた者として、学生として、教育者として、大人として、母親として、父親として、女として、男として、人間として、そして一つの生命として、僕達が持つ 『責任』 とは何なのだろうか。僕達はどんな素晴らしいことを約束し、お返しすることが出来るのだろうか?


そこには、しばしば 『責任』 とは遠いところに位置付けられる
 『自由』 が顔を覗かせているように思う。


[1] KAPLANとは自分が教員になる前に努めていた留学予備校。留学を希望する社会人や学生に英語(TOEFLやTOEICなど)を教えていました。

2009年9月9日水曜日

教育と法の交差点で




 今日から本格的に授業が始まった。幸先よく、今学期最も楽しみにしていたクラスから始まった。Michael Rebell教授のLaw and Educational Institutions: The Issues of Authority(法と教育機関:権力にまつわるイシュー)と名付けられたクラスだ。Rebell教授は我がTeachers Collegeの教授でありながら弁護士という異色の肩書を持つ。実は、今学期取る授業のうち、2つはコロンビアのLaw School(法学部)で行われる法律の授業だ。

 僕の教育と法の接点に関する興味は今日に始まったことではない。スタンフォード時代に書いた修士論文も、『アメリカの自由民主主義社会と道徳教育』というテーマで、益々多様化するアメリカにおける道徳教育の難しさを、過去の判例をとりあげながら論じたものだった。今年の夏、日本にいる良き同志の晶子さんと教育について語るうちに、博士論文の方向性が見え始めた。

 自分が今最も興味あること、それは教育と法、教育と政治の交差点で起こりうる改革のためのアクティビズムだ。

 ここでは教育と法のことだけに絞って話そうと思う。なぜ、教育と法が関係あるのか。僕は、修士号取得の勉強をしていた頃からずっと、一つの裁判で教育は変わる、と信じてきた。例えばこんなのはどうだろう。近年、学級崩壊という現象は珍しくも何ともなく、社会現象とまで言われるようになった。もし、学級崩壊を起こしているクラスに子どもを持つ親たちが、授業妨害をしている生徒の親を訴えたらどうなるだろうか。

 「あなたの子どものせいで、私の子どもの教育を受ける基本的権利が侵害されている!すぐ妨害を止めさせて欲しい!!」

 親としっかりした人間関係をつくっている教員がいる学校であったら、これくらいのことを扇動するのはさほど難しいことではないだろう。このような主張に、はたして法廷は妥当性がないと言い切れるだろうか。もしこの主張が勝訴し判例となれば、学級崩壊などなくなるのではないだろうか。

 教員の部活手当はどうだろうか。今年から部活動が学習指導要領にて学校における正規の教育活動として明記されるようになったと聞いた。だとしたらそれは教員の正規職務と見なされるわけであり、土日やそれ以外の勤務時間外の部活指導には、正規の報酬があって当然だ。少なくとも千葉市では、日曜日に部活指導を6時間以上行ったとしても、部活手当として教員に与えられる給料は合計1400円にも満たない。これを時給にしたらどうなるのか、計算して欲しい。これはもはや時間外労働などの次元を超えているし、労働基準法にも反しているのではないだろうか。もし教員組合が有能な弁護士をつけて県や国を訴えたら、問題は部活でとどまることなく、教員の時間外労働の多さにも光が当てられるだろうし、究極的には学校が担わされている社会負担にまで議論が及ぶのではないだろうか。

 『教員のモラル低下について』でも書いたが、自分が追求したいのは、法を使った教員のエンパワメントだ。それが、教員が教え浸り生徒が学び浸る環境づくりにつながると信じている。

2009年9月7日月曜日

「無知の知」

1.後輩たちへのアドバイス
 実は先日、今年C&T5000(『プライド』で紹介)を受ける博士課程一年生のためのキックオフミーティングがあった。去年5000経験した先輩として声を聞かせて欲しいという教授たちからの呼びかけに応え、同期の仲間7人と共に参加させてもらった。こんなに前年度の生徒が集まった年もなかったようで、学部の教授たちは大いに喜んでくれた。僕としても、ひと声で集まってくれる同期のかたい絆と、5000をappreciateする共通の想いが嬉しかった。

 教授陣が話し終わり、今年5000のTA(ティーチングアシスタント)をする自分に順番がまわってきた。教授たちによる授業紹介を聞き、不安を隠せない一年生を前にこんな話をすることにした。

 去年一年5000を経験して感じること、それは今、「自分は何も知らない」と自信を持って言えること。最初は皆、自信の無さから自分が何を知っているか、何を経験してきたかをアピールし、牽制し合いがちだ。でも、自分たちは知らないから、学びたいからここに来たはず。それに、これは一人の教授も言っていたことだが、知れば知るほどもっとわからない自分がいる。だから、「自分は何も知らない」と認めることには不思議な心地よさがあるし、そう言えることこそが自信の表れでもある。だから心配することは一つもない。ただ楽しむだけだ。


2.「無知の知」
 以前にも『不登校から日本一』で書いたが、小関先生の言うことは、すぐにはわからないことが多い。教員時代も、得意げに「世紀の大発見」を報告する僕に対して、「だから最初から言ってんじゃん!」と言うのが小関先生の口癖だった。(だいたいその後に、「あ~、情けない!」とか「お前と付き合ってると自分の指導力の無さを反省させられるっ!!」などのドラマが続くのだが…。)

 今、小関先生から離れてコロンビアの図書館で理論と格闘していると、不思議なくらい先生の言葉が蘇ってくる。なるほど、小関先生が言っていたのはそういうことだったのか、と今になって頷くことが度々ある。

 今回も、後輩たちに向けた言葉を話しているうちに、また小関先生の言葉を思い出した。



「無知の知」って知ってるか。

知りません。

自分が何も知らないってことを知ることが大事なんだ。



 僕の教員としての成長は、小関先生からの「バカ」を受け入れることから始まった。大人になると、人から「バカ」と言われるのは屈辱だし、それを受け入れるのは誰でも難しい。特に自分の場合は、それなりの大学、大学院を出たという自負があり、学歴という空虚なプライドが邪魔になった。部活指導くらいのことはちょっとやればできる、と信じ込んでいたのだ。

 今考えると、教員になりたての頃の生徒たちには申し訳ないことをしたと心から思う。形だけにこだわり、締ったチームを作っていた気になっていた。しかし、練習試合で強いチームに勝てても、大事な試合で勝てないのだ。その頃も、小関先生に誘われ、理由もわからないまま剣道部の練習を見学に行くことがあったが、所詮違うスポーツと思い、そこから学べることがあるとは思っていなかった。気づくことといったら、良く声が出ていること、長い時間練習していること、礼儀正しいこと、その程度だろうか。

 ある時から、同じくらい練習量を積んでいるはずなのに、小関先生の剣道部はなぜ大切な試合で必ず結果を出すのだろう、自分の生徒たちは大舞台になると萎縮してしまうのに、彼らはなぜ何千人の注目を浴びながらも自分の力を発揮できるのだろうと真剣に考えるようになった。剣道部の練習や大会を進んで見学しに行くようになったのはそれからだ。きっと小関先生としては、「やっとか」という気持ちだったのだろう。

 すると、それまで見えなかったものが段々と見えてきた。一番の違いは、剣道部の子どもたちは顧問がいなくても真剣に練習に取り組めることだった。見学に行くと、小関先生が道場にいないこともよくあった。チームの強さは顧問不在時の練習の質に表れると思う。驚いたことに、いつも練習は自然に始まり、自然に終わった。ただ単純に、制服を着替え防具を身に付けた者から練習を始めるのだ。練習が始まると、彼らは新しいことをやってみたり、お互いを観察し合ったり、アドバイスを求めたりしていた。たいていは、子どもたちは各自の課題に取り組んでいるようだった。休憩さえも本人任せであった。彼らは、休みが必要な時に休み、疲れがとれたら練習に戻るということを当然のことのようにやっていた。一人ひとりが、強くなるためになすべきことを考え、実践していた。小関先生がいる時は、彼に質問しに行く生徒も少なくなかった。そんな練習の流れには、いかなる無駄もないように感じられた。

 剣道部の練習に比べ、僕が率いる野球部はこんな感じだった。
第一に、練習はいつも僕かキャプテンの号令で始まり、休憩も、終わりも、子どもたちは号令に従って動いていた。練習内容も、僕に言われたことだけをやるだけで、勝手に実験することなど許されていなかったし、観察したりアドバイスし合うこともなく、僕に質問に来る子などほとんどいなかった。彼らは完璧に僕に依存していた。生徒を抑えつける僕のやり方がそうさせてしまったのだ。だから僕がいない時に手を抜くのも無理はなかった。

 野球部には他の先生の手をやかすような元気の良い子も多く、そんな彼らを勢いで抑えつけている僕のことを指導力があると勘違いしていた教員も多かった。だからこそ、この気づきはショックだった。

 自分は何もわかってない。

僕が小関先生の「バカ」を受け入れ、成長し始めた瞬間だった。

プライド

    今年のC&T5000のキックオフミーティングに集まった同期たち


 僕が今所属しているコロンビア大学教育大学院(Columbia University Teachers College)のCurriculum and Teaching (C&T)というプログラムの博士課程には、5000(Five Thousand)と呼ばれる一年生の関門のような必修授業がある。『納得の一年』でも書いたが、授業について来られずに脱落する者が何人も出る悪名高い授業だ。秋学期に2コマ、春に1コマある授業で、これが何とも激しい。授業を受ける前から他のプログラムの人に「大変だね」と同情されたり、通常1学期12単位分の授業を取らなくてはいけないところを、「5000を取っているから」とインターナショナルオフィスの人に言ったら、何も言わずに9単位でOKとの特別許可をくれたりした。先輩たちも、「5000さえ終われば後は楽だから」としっかり脅かしてくれた。

最初のミーティングには、学部の教授たちが勢ぞろいし、我々はあなたたちを、将来世界に貢献できる研究者(researcher)、教育政策作成者(policymaker)、教員養成を専門にする大学教授(teacher educator)、カリキュラム開発者(curriculum designer/developer)にするために全力を尽くす、と言い切った。いざ、学期が始まり、教授たちの本気がひしひしと伝わってきた。内容も実践的で、興味深いものが多かった。以下に幾つか紹介したい。

- 一つの教育現象に対して異なる視点からアプローチしている論文を読み比べ、その上で自分自身の視点で議論し合う。


- ある歴史的事件を様々な人種や職業の観点から議論し合う。

- 一人の著名な研究者になりきり、あるテーマについて会議を行う。

- 書いた論文をクラスメートと交換し、批判しあった上で論文を仕上げる。(どのように批判したかも評価の対象となる。)

- 個人でLiterature Reviewを分析、批判する。(Literature Reviewとは、簡単に言えば一つのテーマについて過去にどのような論文が書かれ、現在に至るまでにどのような議論が研究者の間で行われてきたかを書いた論文のことだ。)

- グループに分かれ、Literature Reviewを書く。(どのようなキーワード、データベースを用いて文献を探し、どのようにして文献を絞ったのかも正当化しなくてはならない。)

- 実在の教育政策の分析。

 このように、授業の内容も充実していたと思うが、5000に集まった生徒たちもまた、とても面白い人たちだった。C&T博士課程プログラムには一つのこだわりがある。それは、教員経験者しか入学させないことだ。皆、理論や政策を学びながらも、現場に立った自分の経験に根ざした議論ができるので、これがとても良かった。また、最初いた19人のうち、フルタイムの学生は僕を含めて5人だけだった。その他は皆、日中は仕事を持っていた。幼稚園、小学校の教員、中学校の副校長、大学の講師など、多様な人材が集まった。自分を含め、子どもがいる人も少なくなかった。夜に多くの授業が行われるTeachers Collegeだからこそ可能な多様性だと思った。授業で様々な視点を持つ仲間たちと議論ができるのはとても興味深かった。

 大変だったことは間違いないが、授業の前には必ず仲間同士でスタディーグループを行い、リーディングノートなどもインターネットでシェアし合い、助け合った。その甲斐あって、春学期が終わった次の日から行われたDoctoral Certification Examという博士課程認定試験では、受けた全員がパスすることができた。今では皆が親友のようだし、他の学部には絶対に負けないと言うプライドさえ分かち合っている。

 プライドは厳しさの中にしか生まれない、そう感じた。

2009年9月5日土曜日

人が育つ社会の在り方 ③

1.年金と子ども
 この夏、小関先生がこんなことを言った。

 「日本はテレビや新聞なんかで年金のことばかり言っている。大人が年金年金と言っているような社会では子どもは育たない。」

 ドイツから帰って来たばかりの僕にとって、この言葉はとても響いた。確かに多くの人々にとって、年金は死活問題だ。でも、年金問題がクローズアップされる度に、我々大人の意識は子どもから離れていっていないだろうか。これを毎日同じように聞かされている子どもたちはどう思っているのだろう。どうせ俺たちが払うんだろ、とひねくれてはいかないだろうか。 こうして、人が育つ社会の在り方について真剣に考え始めるようになった。

2.子どもを育てる大人の姿勢
 思い出すことがある。教員時代のことだ。毎年夏の総体の時期になるときまって、管理職と小関先生を応援する先生方の間でこんなやり取りがあった。

「教頭先生、剣道部の関東大会出場にあたって横断幕くらい作ったらどうですか。」
「そんな金ねぇよ!」

 こんなことが何回繰り返されただろうか。全国制覇した今年はどうだったのだろう、とふと思い、小関先生に訊いてみた。やはり。全国大会出場が決まった時どころか、日本の頂点に立って初めて平成21年度全国中学校剣道大会優勝(写真は『不登校から日本一』に掲載)の横断幕、そして、「ついで」のように関東大会優勝の横断幕が校舎にかけられた。関東大会で個人優勝した選手は2年生の別の選手である。この子は、先輩が全国優勝しなければ忘れられていたのだろうか、と怖くなる。他にもあるのだ。実は今年、小関先生が率いる剣道部は、個人選手の活躍だけでなく、男女ともに団体の部でも関東大会出場を果たしているのだ。この成果は、未だに横断幕にもされていないそうだ。がんばっている子どもがいたらそれを褒めて励まし、成果を出した子どもがいたら、その成長を認め、讃える。ごく当たり前のことだと思う。
 
 学校に自由に使えるお金がない、というのも事実なのだと思う。不幸なことに教育費はどこでも削減の道を突き進んでいる。ただ、管理職を務める方々には、それなりの器の大きさをもって欲しいと思うのも正直なところだ。以前、とても気前の良い教頭がいたことがある。横断幕はもちろん、学年の職員で飲みに行く時も、自身のポケットからお金を出してくれた。こちらが遠慮すると、「いいんだよ。管理職手当っていうのはそういうことのためにあるんだから」と言ってくれた。最近は管理職手当も減らされているのだと思う。その状況で、なおかつお金を出そうとしてくれる人がいたら、周りの部下たちはどう思うだろうか。その人に気を遣い、その人のためにがんばろうと思うのではないだろうか。ここで問題にしているのはお金と言うよりも、人としての姿勢だ。結果的に横断幕のお金が都合つかなくても構わない。もっと大事なのは子どものために懸命に努力する大人の姿勢なのだ。「わかった。何とかする。」その一言で子どもは育つ。

3.米百俵
 このようなことを考えていると、頭に浮かぶ話がある。長岡藩に伝わる『米百俵』の話だ。聞いたことのある人も多いのではないだろうか。長岡市のホームページには、『米百俵の精神』が次のように書かれている。「明治初め、戊辰戦争に敗れ困窮を極める長岡藩に、支藩の三根山藩(新潟市巻)から見舞いの百俵の米が送られました。大参事・小林虎三郎は、「食えないからこそ教育を」とその米を売り、学校建設の資金に充てたてたことに由来。」この話は山本有三の戯曲『米百俵』で広く世に知られるようになったそうだ。その中でこんなシーンがある。米百俵が送られ、飢えていた藩士たちはたいそう喜んだ。しかし、そのお米を皆で分けるのではなく、国漢学校の資金にしようと言われ、藩士たちは虎三郎に刀を抜いて詰め寄った。それに対し、佐久間象山の門下生であり、当時は藩の大参事を務めていた虎三郎は、こう言う。

「この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。国がおこるのも、ほろびるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。……この百俵の米をもとにして、学校をたてたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかりしれないものがある。いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。その日ぐらしでは、長岡は立ちあがれないぞ。あたらしい日本はうまれないぞ。……」 (http://www.city.nagaoka.niigata.jp/kurashi/bunka/komehyaku/kome100.html)

こうして建設された国漢学校には、藩士の子弟だけでなく町民や農民の子どもさえも入学を許可されたそうだ。そして後年、東京帝国大学総長の小野塚喜平次、解剖学の医学博士の小金井良精、司法大臣の小原直、海軍の山本五十六元帥など、ここから新生日本を背負う多くの人物が輩出されたそうだ。米百俵の精神に誇りを持って人々に伝えている長岡市のホームページを是非訪れて欲しいと思う。

4.親の背中を見て育つ剣道部の子どもたち
 小関先生の剣道部の生徒の親たちが子どもの教育にかける熱意も、米百俵に通ずるものがある。今年の夏、日本に一時帰国した時に剣道部の県大会の応援に駆けつけた時のことだ。開催地は大網で、帰りは剣道部の親御さんたちが僕を学校の近くまで車で送ってくれることになった。その車の中、お母さん方の話題は自分たちのパートの話に及んだ。訊いてみることにした。剣道部ではどのくらいの親が共働きをしているのか。驚いた。ほぼ全員だと言う。共働きでやっと子どもの剣道を続けさせることができるそうだ。週末くらいは疲れた体を休ませたいはずなのに、毎週末のように剣道部の遠征に車出しをする。皆、「可能性無限」と書かれた本校剣道部のTシャツを着て、子どもたちに精一杯の声援を送る。剣道部の子たちはちゃんとわかっている。自分のために弱音も吐かずに働いている親の背中を見て、感謝と責任を感じながら、しっかり育っている。

人が育つ社会の在り方 ②

           古城からみた城下町



              白鳥のお城

1.ドイツ社会と「自己責任」  
 今年の夏、生まれて初めてヨーロッパに上陸した。妻の友人の結婚式に呼ばれ、ドイツに行ったのだ。衝撃だった。驚くことは多々あったが、何よりも驚いたのはドイツ社会の成熟度だった。    最初に訪れたのはベルリン。繁華街の中心を堂々と、しかも歩行者や車をかき分けるように走るトラムに目を見張った。道路に埋め込まれた線路があるのみで、その前を歩行者が平気で歩いているのだ。よく事故が起こらないなと不思議だった。地下鉄の駅を見つけ、地下にもぐった。どこを探しても改札らしきものもなければ駅員も見当たらない。階段を下りるとすぐにプラットフォームがあり、あるのは2台の券売機だけだった。訊いてみると、自分で切符を買って、それで来た電車に乗るのだと言う。言われた通りにしてみた。もちろん電車の中で車掌さんが切符を確認しに来るのだろうと思っていたら、甘かった。全て自己責任なのだ。みんなが買わなかったがどうなるのだろうと心配になったが、現地の友人に尋ねるとそんなことはあり得ないらしい。実際、ごく希に切符のチェックがあるそうだ。ただ、そんな時に切符を持っていないのは旅行者だけだと教えてくれた。小さい頃からそのような環境で育つわけだから、ドイツ人にとって切符を買うことは当然のことらしい。日本で同じシステムをとったらどうなるのだろう、ふと考えてしまった。皆ちゃんと切符を買うのだろうか。何よりも電車への飛び込み自殺に歯止めが効かなくなるのではないだろうか。田舎町ではなく、首都のベルリンでこのような社会形態を見つけたことは、驚きの一言だった。  「自己責任」 この言葉が気になりだした。
2.ドイツとアメリカの警察官の違い   
 そのようなレンズでドイツ社会を観察すると、他にも気づくことがたくさんあった。ベルリンを去り、ハイデルベルグ、ウルム、ミュンヘンと旅を続けたが、警官がいないのだ。もちろん、全くいないわけではない。ただ、3週間の旅行で警官またはパトカーを見かけたのは、計3回だけだった。こんなにも警官の存在感の無さが気になったのは、自分がニューヨークから来たことも大いに関係している。ただでさえ警官の存在感が強いアメリカで、9.11の舞台となってしまったニューヨークの警官の数は半端なく多い。今、僕はハーレムの南端に住んでいるが、ハーレムの中心部である125丁目など、ブロックごとに警官が立っているようにすら感じる。もちろん、けん銃やこん棒を携え、非常に威圧的な格好をした警官たちだ。地下鉄の改札では、そんな警官たちが無銭乗車をする人を取り締まっている。 警官のいないドイツの街並みをゆっくり歩くと、とても優しい気持ちになった。

3.ビアガーテン
 僕は、旅行をするとその土地の地ビール工場に見学に行くほどビールが大好きだ。だからドイツのビアガーテン(ドイツ風の発音)に行くのを楽しみにしていた。無ろ過のビール、ハーフバイツェンの美味しさにも驚いたが、どのビアガーテンにも子どもがいることにびっくりした。それもそのはず、ほとんどのビアガーテンは中に子どもが自由に遊べる公園があるのだ。子連れで来園し、子どもは公園で遊び、親はビールと会話を楽しむ。なんて健全なのだろうと感心した。大人と子ども、子持ちの親とそうでない親、皆で子どもを見守ろうとするドイツ社会を支える信頼のようなものを感じた。

4.ドイツとアメリカ
 それに比べ、アメリカはどうだろう。道端でビールを飲むだけで警官に取り締まられてしまう。子どもが遊ぶ公園は、安心確保のために高い柵で囲まれている。まるで檻のようだ。自宅の前にも大きな公園があるが、夜10時以降は犯罪防止のために封鎖されてしまう。ドイツと比べ、基本的に社会が市民を信用してないように感じるし、「信頼されていない」というメッセージが警察に対する市民の反発を生んでいるようにも思う。そんな環境で育つ子どもは、「いつかは国のために」と思うのだろうか。

5.大人なドイツ、若いアメリカ
 確かにアメリカは、ドイツとは比べ物にならないほど歴史が浅く、多民族国家であるし、それに伴う差別、貧富の差、犯罪率の高さなどという多くの問題を抱える。だから、短絡的にもっと市民を信頼して警官を減らそう、なんて議論は通用しないだろう。それに、ヨーロッパとは全く違うアメリカの良さは、その若さゆえの爆発的なエネルギーでもある。
 ただ、今回の旅行で一番考えさせられたこと、それは信頼する社会と抑えつける社会、それぞれが人間の教育にどのような影響を及ぼすのかということだった。

人が育つ社会の在り方 ①

               この代の生徒達は今、高校2年生だ。



 ブログを初めてまだ一ヵ月経ってないが、このような頻度で更新できるとは思ってもいなかった。いざ書き始めると、教員時代から背負ってきた想いがとめどなく溢れ出てくるかのようだった。教え子や、自分を応援してくれている人たちが読んでくれているということも、自分にとっては何よりの励みだ。以前、生徒指導主任になったためにクラス担任を外れた小関先生が、語る場がないと嘆いていた。自分も教員を辞め、その辛さが身にしみてわかった。自分の話を聞いてもらえることの喜びを噛みしめながら、今、書いている。皆さんに心からお礼を言いたい。ありがとう。

 今週からコロンビアも新学期が始まり、いよいよ戦闘モードに突入する。このブログも、今までのような頻度で更新することはできなくなるだろう。その前にかけるだけ書いておきたいと思う。

 以前にも所々書いてきたが、自分は教員時代、野球部の顧問をやらせてもらっていた。小関先生の影響が多分にあり、部活という勝敗がはっきりする場所で、自分の教員としての指導力を試してみようと思った。自分は大学までバレーボールをやっていたので、本当は男子バレー部を創設し、その顧問を務めたかったが、結局は教員一年目に配属された野球部でその魅力にはまり、最後まで務めさせてもらうことになった。

 野球はやったことがなかったわけではない。実は父が、幸町リトルインディアンズという少年野球チームの創始者だったこともあり、自分もそのチームでプレーさせてもらった。中学ではバレー部に入ったが、留学先のニューハンプシャーの高校では野球を3年間続けた。

 ただ、教えるとなるとわけがちがった。何から始めたら良いのかもわからず、最初は、元からその学校で指導していらした外部指導員の方の後ろをついて歩くだけだった。一人でチームを任されてからも、野球雑誌を読みあさり、恥を覚悟で遠方の強豪校に試合を申し込み、様々な監督から指導法を学ぶ日々が続いた。生徒の保護者との関係は、あまり良いとは言えなかった。グランドに足を運んで下さる親もまばらで、ちょっとしたことでクレームが来ることも少なくはなかった。今考えてみると、それは自分の指導力の無さで、生徒の心を掴みきれていなかったからだと良くわかる。

 5年目、転機が訪れた。その代のキャプテンを務める生徒の父親が、インターハイ常連バレー部の監督だったのだ。ある時、新チームの保護者会が開かれた時、部屋を埋め尽くす保護者の方々を前にこんなことを言って下さった。先生がこれだけ一生懸命やってくれているのだから、一つ先生に全てをお任せしませんか。練習試合で他校を招く時など、相手校の顧問の先生の弁当代など、何かと金がかかるでしょう。弁当は当番制にして親の方でお弁当を用意させて頂きます。その他の経費は保護者会費を集めて賄いましょう。先生はやりたいようにやって下さい。

 僕はその父親、そして彼に賛同して下さった保護者の方々の懐の深さに敬服した。いろいろなことが変わり始めたのもそれからである。まずは、試合の時に応援に来て下さる保護者の数が激増した。そして野球部の横断幕が作られ、毎試合、保護者席が用意されるまでになった。相手校を招いて行われる試合では、お茶や弁当のVIP待遇がなされ、相手校の顧問達も驚くほどだった。練習試合では更に遠方まで赴くようになり、毎週末のように市外の学校と試合をした。冬のマラソン大会、その後の保護者の方々による炊き出し、そして0泊3日の夏の甲子園見学なども行った。チームも勝ち始め、小さな大会で優勝できるようにもなった。礼儀の正しさ、精神力の強さに重きを置く多くの強豪校の選手たちを目の当たりにし、我が野球部も少しずつ、締ったチームへと成長していった。

 翌年のキャプテンの父親はもっと過激だった。

「先生息子を頼むよ。殴るなり蹴るなり好きにやってくれ。もしそれで何かあったら必ず守ってやるから。」

 自分よりも遥かに人生経験を積んでいらっしゃる大先輩にそのような身に余る信頼を頂き、自分にやれることは何でもやろうと心に誓った。こうして、多くの保護者の方々から自身の命よりも大事であろう息子たちを委ねられたことが、自分の教員としての成長を大きく促したことは間違いない。

 僕は、教員としての自分を育てくれたのは、生徒であり、自分の先生たちであり、僕を信じて子どもたちを委ねて下さった保護者の方々であると思っている。以前、 『管理の再構築』 でも言った。教育において、人に責任を持たせるということは、委ねることである。「やりたいようにやってくれ」と言われることが、どれだけのプレッシャーを教員に与えるか想像できるだろうか。そのプレッシャーを、気持ち良いと感じる教員もいれば、困ると感じる教員も多いと思う。それで困るようなら教員にならなければ良いと正直思う。 『教員のモラルの低下について』 でも触れたが、教員にとって子どもを委ねられ、教えに浸れることほど贅沢なことはない。
 
 何回も言うが、今、教員は社会から信用されていない。子どもたちを教える立場の教員を信用しない社会において、人を信用できる子どもが育つのだろうか。国が為すべきこと、それは信用に値する器の大きい人間を育てる教職教養プログラムの創設に力を尽くすことであり、その後は教員に委ね、育てることなのではないだろうか。

2009年9月3日木曜日

君たちに伝えたいこと② ~「時間」について~ 2001年作

これは教員になる直前に書いたもので、当時都内の留学予備校で担当していた留学希望の中学生や、未来の生徒たちに宛てて書いたものだ。


 僕にとって、親から与えられた「大裕」という名前を生きることほど難しいことはない。現在28歳。今まで、なんてゆとりのない生活をしてきたかとつくづく思う。もっとも、アメリカに留学するまでは、「ゆとり」なんて概念は僕の中に存在しなかったように思う。その頃は、朝起きて、朝食を取り、普通に学校に行き、友達と笑い、部活に行き、帰って寝るという、決められた生活に自分をハメ込んでいただけだった。普通の生活は簡単だった。

 だけど、日本人が1人もいないだけでなく、留学生を特別扱いしない学校をあえて選んだ僕は、留学を始めてからは毎日狂ったように勉強しなければならなかった。日本の高校とは比べものにならない程の宿題が出され、その上、英語も使いこなせなかった僕は、アメリカ人の友達が30分で片付ける課題を3時間かけても終わらないという始末だった。しかし、僕の可能性を本気で信じてくれる先生方に恵まれ、学ぶことの楽しさをかみしめながら、常に自分にデッドラインを課してがんばった。今日中にこれやって、金曜までにあれを終わらせなくちゃ、という感じ。思いがけず時間ができた時も、自分で新しい課題をつくることによって、無駄な時間を無くそうと心がけた。大学はもっと大変だった。もうこれ以上勉強できないというくらいやった。話に聞いたことはあるかもしれないが、アメリカの大学ではかなりの勉強量をこなしていかないと卒業できない。事実、僕の周囲だけでも落第を食らった学生が5、6人はいた。大学院は大学以上の難しさだった。連続50時間眠れなかったこともあった。

 そんな僕のスケジュールはいつも分刻みで動いていて、僕が時間を使っているのではなく、まるで時間が僕を動かし、時間が僕の命を消費して生きているようだった。ミヒャエル・エンデの『モモ』を思い出す。時間を1秒でも無駄にしないようにとせかせか働く人間たち。でもそうすればする程、時間は貯まるどころかどんどん無くなっていく。理解できない時間の不思議。でも、のんびりきままに生きる浮浪者の少女、モモだけはそれをちゃんと分かっていて、イライラ生きている町の人たちを悲しそうに見つめている。

 「時間」という概念を最初につくり出したのは人間だったはず。海に住む魚が、「昨日は8時まで起きていたんだ」と仲間に言うだろうか。アフリカの森に住むチンパンジーが、「6時までに家に戻っていなきゃ」と気にするだろうか。魚たちは自然に訪れる眠りに身を委ね、チンパンジーたちは闇に伴う危険やその他の自然の摂理せつりに基づいて巣に戻るのだと思う。動物は時間によって動かされるのではなく、自然の移り変わりに合わせて生きているのだ。多くの動物は、明るくなれば目を覚まし、お腹が減れば餌を探し、暗くなれば体を休め、寒くなれば暖かい環境を探して南へ下り、暑くなればまた北へと戻って行く。そんな彼らにとって、時間とは生命の流れであり、生きることそのものである。

 だけど人間は、単位を決め、様々な時計を作り、その生命の流れを計ろうとした。それは、科学がそうであるように、自然を説明し、コントロールしようとする人間の願望の表れだったのではないだろうか。文明の発展過程で時間の単位はしだいに統一の道を歩み、今ではグリニッチ時計台が全世界の時を命令している。時計という機械の狂いはあるが、1年に365日、1日に24時間、1時間に60分、1分に60秒という時間の存在自体は、愛する人と別れようとも、僕が死のうとも、核戦争が勃発しようとも、一秒の狂いもなく刻まれて行く。人類が発明した物で、時間ほど完璧な物が他にあるだろうか…。ただ、あまりにも完璧なために、誕生とともに一人歩きを始めた時間を止めることは、産みの親である人間ですらかなわない。コントロールは失われ、逆に今では我々人間が時間の奴隷どれいとなっている。時計の遅れに恐怖を感じ、時間通りに物事が進むと、良かったと安心を覚え、予定より早く行動すると、時間の先回りをしたことに妙な優越感を見つけている。時間という基準無しには生きられない、何ともむなしい動物。
 
 僕たちの生活の中にどれだけ時計が入り込んでいるか考えたことがあるだろうか。壁掛け時計や腕時計は勿論のこと、寝室のベッドサイドには当然アラーム時計があり、ステレオにデジタル時計、充電器に刺さっている携帯もデジタル表示でしっかりと時を刻んでいる。書斎に行ってコンピューターをつければスクリーンが、キッチンに入れば炊飯ジャーや電子レンジが、居間に行けば電話やテレビが逐一、時間を報告してくれる。チッチッチッチ…。聞こえていようがいまいが、時計の音は僕らの心を確実に縛しばり上げている。

 だけど、そんな人間でも、時間の束縛から解放されることがある。いつも駆け足で生きて来た僕にもそれを感じたことが何度かある。ニューハンプシャー州の高校時代も、宿題が終わらずに徹夜をすることがよくあった。そこは1年の3分の1くらいは地面が雪で覆われているような所だったが、ある晩、眠気覚ましに窓を開けて、降りしきる雪の音に耳を傾けたことがあった。雪が降る静かで神秘的なエコーを、僕は寒さも時間も忘れて聴いていた。
 
 また、何度か夏休みに日本を一人旅したことがある。アメリカ人に「日本ってどんな所?」と訊かれた時に答えられるようにするためだ。ある夏、四国に行った。日本最後の清流と呼ばれる四万十川ほとりの、車の音も聞こえない閑静なユースホステルの庭で、足を投げ出し、夕陽を体いっぱいに浴びた山の上を飛ぶ1羽の鳶を見ていた。上昇気流に身をまかせた鳶が優雅にゆったりと旋回しているのを、心が自由で膨ふくらむような気持ちで見つめていたことを今でも鮮明に覚えている。秒針ではなく、鳶の飛行や空の色の移り変わりのみが、止まることのない生命のサイクルの進行を告げていた。そして僕は、自分もまた、そのサイクルの一部であることを悟った。

 人間は秒針を忘れる時初めて、区切ることのできない宇宙の流れに無限を感じ、その無限の一部である自分の命を感じることができる。ウィリアム・フォークナーは次のように表現した。 “Father said clocks slay time. He said time is dead as long as it is being clicked off by little wheels; only when the clock stops does time come to life”(「お父さんが時計は時間を殺すと言っていた。小さい歯車にカチッ、カチッとはじかれている限り、時間は死んでいる。時計が止まって初めて時間は命を得るのだよ、って。」『The Sound and the Fury』より). 

 この頃僕は時間の命令に逆らうことが多い。夕方、仕事が終わってもすぐに家に帰らずに、スターバックスに寄って本を読んだり、夜御飯を食べた後、家を出て駅前のカフェに手紙を書きに行ったり、夜通し詩を書くのに没頭したり、夜中に近くの海まで散歩に行ったりすることもある。海辺で冬の透き通った星空を見上げていると時間の経過なんて忘れてしまう。時間というものは心のゆとりと比例していて、ぜいたくに使おうとすればする程ゆっくり流れるものなのだ。

 時間に縛られずに自由に生きよう。でもどうやって?確かに、若いうちは特に学校、部活、塾、就寝と、1日のスケジュールが決定されていることが多いだろう。でも、週末や夏休みなどには、心の赴くままにやりたいことを思いっきりやろう。時には昼御飯を食べるのを忘れて何かに没頭したり、夜通し友達と語り合っても良いだろう。自分の心に忠実にいれば、自分にとって何が大切かはおのずと分かる筈。それを時間の命令に従って無駄にするのはあまりにもバカバカしいこと。この年になって、僕にもようやくそれが分かった。                                  文・訳責 鈴木大裕

2009年9月2日水曜日

小野寺愛さんの『船乗り日記』を読んで

 先日、『夢について』にコメントしてくれた小野寺愛さんのブログ、『船乗り日記』 を早速読んでみた。彼女はピースボートというNGOの中心人物であり、もともとは妻が大学時代に所属していたウィンドサーフィン部の先輩。とてもアクティブで、感動しやすくて、笑顔がすてきな女性だ。とてもフットワークが軽く、以前うちの中学校で、「世界と出会う」というテーマで総合学習を展開した時にも、ピースボートの仲間を連れてプレゼンをしに来てくれた。こんな日本人の女の子がもっといたら、と心から思う。

 さて、ブログだが、これがとっても彼女らしい。自然、子育て、教育、世界、愛、平和…、幅広いテーマを壮大なスケールで、でも気さくに、笑顔を忘れずに話している。このブログを読んでくれている教え子たちには、是非読んで欲しいと思う。「世界」とは想像よりもずっと身近なもの、「平和」とは何気ない日常に隠れているものだと教えてくれる。それにきっと、結婚っていいな、親になるっていいな、自然っていいな、旅するっていいな、大人になるっていいな、と思わせてくれる。何よりも、彼女の溢れんばかりの想いを感じて欲しい。

 以前、教えることとは感動の分かち合いだと思っていると書いたが、彼女がやっていることも「感動のおすそ分け」なのだと思う。きっと本人にとっては、教えているなんて意識はないのだろう。でも、まだ他の人が知らないかもしれない、見ていないかもしれない、経験していないかもしれない感動を先に生きた人間が、後から歩いてくる者に一生懸命生きる喜びを伝える…それって教育の原点なのではないだろうか。

 愛さんのブログをリンクしておくので、是非見てほしいと思う。僕が敬愛するブラジルの教育哲学者、Paulo Freire(パウロ・フレイレ)が目指した、「もっと愛しやすい世界」は、きっとこんなネットワーク作りの延長にあるのだろう。感動の輪があなたの愛する人にも届きますように。