2011年10月22日土曜日

未完成な自分を満喫する

 先日、38歳の誕生日を迎えた。

おかげさまで、年を重ねるごとに人生は良くなる一方だ。

38で学生というのは気にならないわけではない。

でも、遠回りばかりしてきたこの人生、本当は遠回りではなかったこともわかっている。

今の自分に満足はしていないが、成りつつある自分に手ごたえを感じているし、未完成な自分を満喫している。




先日、小関先生と数週間ぶりに電話で話した。


「僕も先生と初めてお会いした時の先生の年齢になってしまいました。」


そうか、と小関先生は笑って言った。


「嫌な感覚だよな。奥村先生なんか46で校長になったんだからな。」


ああ、小関先生も一緒なんだと、僕は思った。


あの時の先生の年になったからこそわかる先生の凄さがある。

もし今自分が教員であったなら、あの時の先生のような強い人間関係を生徒たちとつくれているだろうか?

匹敵する指導力を身につけているだろうか?

到底かなわないと思える存在でいつづけてくれる先生がいるというのは、本当にありがたいことだ。

もっと頑張らなければ…。


今日もそう思える自分がいる。


生徒たちにとって、自分もそんな存在でありたいと心から願う。

2011年10月21日金曜日

コロンビア大学 学生達の震災復興支援 ~Caring for Japan 2~

今回のシンポジウムは、メディアも何社か取材に来てくれた。

そのうちの一つ、TV-Japanの放映(2011年10月7日放送)したものがネットでも見られるのでここで紹介したい。






2011年10月7日金曜日

シンポジウムを終えて ~Caring for Japan 1~


今週の水曜日は、僕にとって一つの節目だった。以前にも紹介した震災から半年にちなんだシンポジウム、‘Dealing with Disaster: Caring for Japan Post 3-11′が終わったのだ。今回、その体験について書いてみないかという話を、僕が奨学金でお世話になっている米国大使館から頂いた。イベントの企画・運営を通して、様々なことを考え、感じ、学んだので、忘れないうちに、まずこの場で綴っていきたいと思う。


東日本大震災から半年が経過した2011年10月5日、僕が在籍するコロンビア大学で、専門家らが放射能、災害対策、政治、経済、メンタルヘルスという5つの分野からあの大震災を多角的に検証するシンポジウムを行った。コロンビア大学学長の他、在ニューヨーク総領事・廣木重之大使も招き、会場は立ち見が出る程の盛況だった。


主催はConsortium for Japan Relief (CJR) といい、震災直後にコロンビアの様々な教授や学生によって結成された組織だ。結成当初は、被害状況の把握や情報交換、そしてメンバー達がそれぞれリーダーシップを取って行っている復興支援活動の状況を報告する場であったが、それらの活動が落ち着きを見せ始めた6月、アカデミックな環境に生きる自分たちにしかできないことをやろうと言って動き始めたのがこのシンポジウムだった。


CJRは、日本のために何かしたい、といても立ってもいられなくなった人々が集まり有機的に発展してきた組織なので、予算もなく、全てが手作りのプロジェクトだった。企画・運営に携わった30名ほどの学生や教授らはもちろんのこと、ウェブサイトのプログラマー、様々なデザインを作成してくれたグラフィックデザイナー、フォトグラファー、ビデオグラファー、メディアコーディネーターやゲストスピーカーとして招かれた5人の教授まで、様々なプロフェッショナルが無料でそれぞれのスキルを奉仕してくれた。


(続く…。)

2011年9月30日金曜日

もし橋本府知事が校長になったら…

こんなニュースが僕の目にとまった。



ニューヨークにいても、橋本さんの教育に関する動きには危機感を抱いている。市場原理のみで教育を改革しようとする今日のアメリカに多い指導者の動きに非常に似ているからだ。こうしたらこうなる、ああしたらこうなる、だからこうするべきだ…。あまりにもわかりやすく、単純で、危険だ。以前書いたが、こういう指導者の言う言葉からは、子どもの匂いも表情も感じられない。


もし、橋本さんが今、校長をやったら、学校は確実に荒廃するだろう。

不登校や「不良」が増え、


精神を病む教員が増えるだろう。


先生も生徒も、挑戦すること、冒険することをやめ、日本をグローバルな視点から考えられる、大胆で豪快な子どもは育たないだろう。彼らが活躍できるのは、しょせん教育者の器の中だけなのだから。


求められるのは「良い」生徒。最初から「できる」教員。


育てようなんて視点は最初から無い。




小関先生が言っていた。
 

      「俺の夢は、自分を超える生徒を育てること。」
 
この言葉の意味が、橋本さんにわかるだろうか?


そもそも、目の前にいる自分を超える子に、橋本さんは気付くだろうか?


気付いたところで、彼はそんな子を評価し、関係を築くことができるだろうか?


締め付けで人間は育てられない。


「完成品」の教員を集めたところで、子どもたちの信頼を得ることも、彼らを伸ばすこともできない。


指導者として大事なのは、部下に教育させるのではなく、まず自分が教育すること。


自分の信ずる教育理念を、自分の生き様を通して


他の誰よりも自分に厳しく追及し、それを伝え、


自分の下に集まった教員を信じ、委ね、


命令ではなく人柄と温もりで人を動かすような、


人間としての器の大きさが求められている。




信じること、委ねることを知らない政治家に「教育」を決めさせてはいけない。


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2011年9月26日月曜日

NY発、『がんばろう、日本!!』


 東日本大震災以降、僕の生活はそれまで以上に忙しくなった。

僕が所属するティーチャーズカレッジの仲間と共にやっていた教育ブログから始まった 『世界から日本へ1000のメッセージ』、NY、アメリカ、そして世界中の日本人留学生との交流から生まれたAction for Japan、コロンビア大学の他のスクールの仲間と共に行った様々な復興支援活動…。

前にも書いたが、勉強、仕事、人生…、それらに境など存在しない。自分の心が動く方向に身を委ねるだけだ。一見、余計だったり、関係なく見えることが、本当は一番大事だったりする。中途半端にやるから、「余計」で終わってしまうのだ。

東日本大震災以降、僕がかかわってきたグループの一つに、Consortium for Japan Relief (CJR) というのがある。コロンビア大学をベースとする教授・学生から成るグループで、震災直後、コロンビア大学School of Social Workの学長であるJeanette Takamura教授と、コロンビア大学循環器科の本間俊一教授の呼びかけで生まれた。

来月、10月5日(水)、そのCJRが発生から半年が経った今、放射能、災害対策、政治、経済、メンタルヘルスという5つの分野における著名な教授達をゲストに招き、東日本大震災を多角的に検証するシンポジウムを行う。当日は、学内の教授や学生の他、廣木重之ニューヨーク総領事も参加する。

しかし、このように大がかりなシンポジウムを企画・運営することがどれだけ大変か、今回良くわかった。6月から準備を始めたが、8月以降は毎日何十通のメールを他のメンバーたちとやり取りをしている。

このイベントの一番の中心はEmilyという、韓国系アメリカ人の女の子だ。日本には父親の関係で思春期の何年かを過ごしたという縁がある。このイベントが今の段階までこぎつけられたのは、そんな彼女の熱意によるところが大きい。今では10数人のコロンビアの学生とその友人らが、本間先生とTakamura先生のサポートを受けて企画・運営をしている。ティーチャーズカレッジの仲間も何人か手伝ってくれている。

今回のシンポジウムは、世界の日本に対する意識が薄れている中、多くの人間の持続的な情熱とエネルギーが可能にする、とても意義のあるイベントだと思う。来てくれる人たちが、新たな問いや、意識をもつ機会となることを願っている。

興味のある人は是非我々のサイトを覗いてほしい。



シンポジウム詳細

·         日時:10月5日(水)、6:00−9:00PM

·         場所: Columbia University Faculty House Skyline Dining Room (64 Morningside Drive, NY, NY 10027)

·         残念ながら予算と会場の都合上、参加者は学内関係者、生徒のみとなっているが、当日の映像はUstreamでも見ることができる。 http://www.ustream.tv/channel/columbiansforjapanrelief

2011年9月21日水曜日

最高の選手宣誓で始まった春

創志学園、野山慎介主将の選手宣誓で始まった


2011年 春の選抜高校野球大会。


記憶に残っている人も多いのではないだろうか。


東日本大震災から半年。


当時の想い、大事にしたい。














2011年9月20日火曜日

みな正しいが、どれも間違っている。 ~小関先生からのメール~



一昨日、35歳になる高根台時代の教え子の結婚式に出席してきた。


プロフィールの紹介の中で、自分の宝物を


「小関先生が自前で作ってくれた、銀メダル」  と紹介してくれた。


当時、どんなに小さな大会でも入賞すれば、


一人一人にメダルや盾を作って渡していたことを思い出した。


15万程度の給料からよくやっていたと思うが、


たった数千円のメダルを握りしめて、


人生を戦っている生徒がいた。


価値はあったと実感できた。


「隆一、立派になったな!」  私の一言で、花婿が泣き崩れた (^_^;)


教師冥利に尽きる…。


自分がわたしたはずの銀メダルが、


金メダルになって返ってきた。



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あとがき


 小関先生は、「人」 という言葉が良く似合う。


先生の言葉には、不思議なくらい、人の温もりと、表情が詰まっている。


小関先生が、自分の恩師、奥村先生を語る時、言っていたことを思い出した。

    あんなに子どもの匂いがする校長は、そうはいない。


このような教育者たちを目の前にすると良くわかる。


現代の教育政策が、いかにからっぽか…。


お偉いさん達が、一生懸命教育を語っている。


みな正しいが、 どれも間違っている。 


そこにないのは、人の温もり、子どもの表情。

2011年9月4日日曜日

教師の存在意義

新たな学びに触れる前にと3日間で9件の投稿をして、丸のシリーズを何とか書き上げたのが8月26日。翌日から1週間の予定でベルギー及びハンガリーに行ってきた。今回の旅行のことについても早いうちに書きたいと思っているさなか、小関先生から一通のメールが届いた。




この夏、市内の教員のほぼ全員が集まる研修で、教育長が放った一言についてだった。



    「大震災の教訓から、『自ら判断して行動できる生徒・児童』を育てなければ…。」



どうやら発信元は文科省かどこかわからないが、全国一斉の動きだったようだ。



小関先生はその時のことを次のように語った。



   どの先生も頷きながら聞いていた姿は本当に滑稽だった。
   そんな生徒が本当に育ったら、間違いなくごく一般の先生方には、やっかいな生徒だ。



僕は思った。そもそも、多くの先生はそのような生徒を育てられるわけがない。これについては以前にも 『叱るとは愛すること』 で書いたが、臨機応変に動ける生徒を育てることは、実は最高レベルの難易度にある教育目標だ。



そして、もし何かの間違いでそのような子たちが育ったとしたら、その時は間違いなく 「やっかいな生徒」 として扱われるだろう。



残念ながら、多くの先生たちは、子どもが子どもであり続けることを必要としている。いつまでも 「大人」 である自分の言うことをはいはいと聞き、どんな時も自分の指令を待つ優等生を作ることによって、「先生」 であろうとするからだ。



しかし、そのような教員はいつまで経っても 「先生」 になることはないのだと思う。そもそも、「先生」 なんて自分の意志でなれるものではない。決めるのは生徒だ。



Hannah Arendt が言うように、教師というものは全ての大人の代表だ。そして、教師の存在意義は、最終的に自分を必要としない生徒を育てることにある。



だから、教師の仕事にはビタースウィートな別れがつきものだ。



でも、それさえもが嘘だということを、Mr. Walker が身をもって教えてくれた。



別れなど、本当はない。

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2011年8月25日木曜日

ごめんなさい ~ 丸 (完) ~


あなたは、大人である自分を遥かに越える子に会ったことがあるだろうか。



それは、教えながら、何かの拍子に生徒から教えられるのとはわけが違う。



今夏の最大の気付き、それは 「自分を越える子」 が、実は8年前の自分のクラスにいたということだった。



当時はなぜ気付かなかったのか。



今だからわかるが、それは当時の自分に子どもを見る目がなかったからだ。僕には丸という14歳の少女のすごささえもわからなかった。



以前、『不登校から日本一』 にこんなことを書いた。



小関先生がおっしゃることは、すぐにはわからないことが多い。時間が経った今、愛ちゃんのケースを考えてみると、彼女のように日本や世界の第一線で活躍する子には、既に先生がいるということだと思う。自分一人の力でそこまでになるような子はどこにもいない。やはり、誰か自分の才能を認めて、未知の可能性を信じてくれる人との出会いがあり、その人に完全に自分を委ねることで、子どもは一流になっていくのだと思う。だから、もし愛ちゃんが自分のクラスにいたとしたら、彼女に 「教える」 ということは、彼女の先生に勝たなくてはいけないということになる。



それを読んで下さった小関先生は、「そこまで繋げられるようになったか」 と驚いたと言う。



しかし、今回、改めてわかったのは、自分が何もわかっていなかったということだ。



10回に渡って書いてきた今回のシリーズの最初を飾った小関先生の問い…。



    「もし自分の教えるクラスに中学生の福原愛ちゃんがいたら…」



今だからわかる。



あの問いは、自分を越える生徒に出会ったことのある者にしか答えられない。



そして、多くの者は、そういう子に出会っていることすら気付かない。



だから 『8年の歳月を越えて ~ 丸 1 ~』 で僕が、「実は福原愛ちゃんが自分のクラスにいた」 と書いた時、小関先生は笑って言った。



    「おまえそんなこともわかってなかったのか?」



先生のそんなお叱りに、僕は 「はい!!」 と元気良く答えた。






ほんの些細なその一歩が、僕にとってはとてつもなく大きな飛躍だった。



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あの晩、一通り話した後で僕は丸に訊いてみた。



今だから言えることって何?



ケチョンケチョンに言われる覚悟をしていた僕に、丸は意外なことを言った。



    「ごめんなさい。」



あの時は生意気で。自分が働いて初めてわかる苦労がたくさんありました…。丸はそう付け加えた。



僕は、丸に完全に降伏した。



(完)

たった一言 ~ 丸 9 ~

学校では、小関先生がいたし、寂しいとは思わなかったが、一人ぼっちということは丸にとって紛れもない事実だった。



僕は今更ながら自分を恥ずかしく思った。



「丸にもっとこうして欲しい」 という担任としての自分のニーズはあっても、14歳の丸のニーズについては考えたこともなかった。



ただ、たとえ考えたとしても、当時の僕に彼女のニーズに応える力が無かったことを、丸は見抜いていた。



丸は、自分にお父さんがいないことを、人には言わないようにしていたそうだ。



「だって、そこで同情でもされたら、私、本当に可哀想な子になっちゃうじゃないですか。」



だから僕にも言わなかったのだと、彼女は正直に教えてくれた。



逆に、丸がいつから小関先生のことを慕うようになったかというと、一年生の時にその秘密を打ち明けた時だったそうだ。きっと、中一の彼女なりに、何か小関先生に感じるところがあったのだろう。






ちなみに、小関先生自身もお父さんのいない家庭で育ち、丸がそのことを知ったのはつい最近のことだ。


ある日、お父さんのことを訊かれた彼女は、思い切って言ったそうだ。



    「私、お父さんいないんです。」



でも大丈夫です、との内容を伝える彼女を見て小関先生は、ただ笑って「オーケー!!」 と答えたそうだ。小関先生を丸が信頼した瞬間だった。



    「己をもって和とする」



小関先生の言葉を思い出した。



4持っている子には教員が6を出す。代わりに9持っている子には、教員は1しか出さなくて良い。どんな時も、生徒の備え持った力を見極めて、教員は足りない分だけを出せばよい。



ただ、今回学ばされたのは、どれだけ生徒が力を持っていても、教員側の提示分が決して0にはならないということ。どのような意図をもって、己を介入するか。時にそれは、「オーケー!!」 というたった一言だったりする。



その一言すら与えられなかった自分が心から悔やまれた。


(続く…)

一流の子が抱える孤独 ~丸 8 ~

あの晩、僕と丸は、8年の歳月を越えて、色々な話をした。焼酎を飲みながら。



入ったのは丸が馴染みの焼き鳥屋。22歳になった丸の渋いチョイスが妙に嬉しかった。





話しながら、僕は初めて丸と会話しているような気がしていた。なんでもっと早くこういう風に会話できなかったのか…。苦笑いをするしかなかった。



あの晩一つ、気付かされたこと。それは丸の抱えていた孤独だった。



丸は、2年生のある日、ふと気付いたそうだ。



        「一人ぼっちだな。」



丸の孤独は、ある意味必然だった。それは、自分だけの世界を持った一流の子、そうでない子の違いから生まれるものであって、きっと中学生の福原愛ちゃんやイチローも経験した孤独なのだと思う。



丸は、周りの中学生には理解できないプレッシャーや悩みと一人で闘っていた。



それは、2年生にしながら関東でも強豪の剣道部のレギュラーを張り、そのチームを間もなく任されるアスリートとしての重圧に加え、友達にも言えぬほどの貧困の中で生きる彼女の家庭環境があった。



丸の家は、母に兄一人という母子家庭だった。もちろん僕もそれは知っていたが、丸の家がどこまで貧しかったかは知らなかった。



家には食べ物もろくになかったという。その頃から、夜遅くまで働く母親に代わって、丸が料理も洗濯もしていた。ただ、運動会の日などのお弁当は、お母さんが自分で作ると言って聞かなかったそうだ。



そんなある日、お弁当のふたを開けた丸は、中を見て驚いたという。すぐに閉めたその弁当箱の中には、パンの耳だけがきれいに敷き詰められていたのだ。



その晩、丸に問い詰められたお母さんは、笑って答えたという。



    「しょうがないじゃないの。あれしかなかったんだから。」



その、あっけらかんと答えるお母さんの姿を見て、丸は子どもながらに思ったそうだ。



「この人には勝てない。」



丸は、その時のことを振り返りながら僕に言った。



「だってあんな風に子どもに言われたら、ごめんねとか言うのが普通じゃないですか。それをあの人は笑って開き直れるんですからね。」



皮肉でも何でもなく、母の逞しさを心底尊敬する丸の姿を見て、僕は逆に丸のすごさを知った気がした。貧しくても、常に母親の愛情を感じながら育った丸の逞しさに、僕は唸らされる想いがした。






パンの耳がきれいに敷き詰められたあのお弁当…。丸は友達に見られないように、隠れて食べたという。

(続く…)

全てデタラメだった ~丸 7 ~

その頃の丸はと言えば、派手でちょっと危なっかしい女の子たちが集まったグループに入り、その子たちを中心にクラスの女子をまとめていた。



それは、僕の手伝いをしようというわけではなく、ただ小関先生の方だけを向き、自分の意志で勝手にやっていたのだと思う。丸にすれば、僕が邪魔だったに違いない。あのまま僕が手放しで丸のやりたいようにやらせていれば、きっとかかあ天下のクラスを作っていたのではないだろうか。実際、剣道で関東レベルの活躍し、クラスでは女子から信頼され、胆の据わった丸に男子も一目置いていた。2008年、僕が留学のために退職する時に、クラスだけじゃなく学校の番長格だった大山を引き連れ、花束を持って挨拶に来たのも丸だった。



今考えれば良くわかることだが、あの時の僕は自分が男子と勝負することによって、逆に彼らを勢いづかせていたに違いない。



もし、今、僕があの3年B組をやり直せるとしたら、きっと僕は丸に全てを任せていただろう。



「丸、全ておまえに任せたぞ。やりたいようにやってくれ!」



きっとそんな感じだ。そうしたら僕は一匹狼だった 翼 や不登校の子、元気の良い子たちの影に隠れて日頃目立つことのなかった子たちに集中できたことだろう。



自分はなんてバカだったのだろうか。



今考えれば、3Bは本当に面白いクラスだった。卒業間近になって、僕が親しみを込めて「暴れん坊3B」 と呼ぶようになったそのクラスは、こう言っちゃ悪いがバカを寄せ集めたクラスだった。ただ、その分他にはないバイタリティーと勢いがあった。お祭りごとが好きで、実は熱く、センチメンタルで、一生懸命何かをやりたい子が揃っていたように思う。彼らのエネルギーを抑えることではなく、生かすことに集中していれば、きっとものすごいクラスになっていたことだろう。



3Bのみんな、申し訳ない! 一生懸命やったつもりだが、全てデタラメだった!!



(続く…)

愛ではなく ~丸6 ~

せっかく 「救世主」 としてクラスにもらった丸を、僕は使おうとしなかった。



勢いと情熱だけでやっていた自分にとって、生徒の力を借りようなどという頭は最初からなかったのだ。また、仮に丸を使おうと思ったところで、当時の僕には丸を扱うことさえできなかっただろう。



「先生」 を持っている人間に教えることの愚かさ ~ 丸 3 ~ でも書いたが、当時の自分は、鈴木大裕としての本音、小関先生の教え、そして教員の建前の狭間でもがいていた。






そのような教師の価値観と自信のぐらつきに、子どもというものは驚くほど敏感だ。それまでは生徒の前で 「語る」 ことを大切にしてきた自分だったが、段々と語れなくなっていく自分に気付いていた。



小関先生が僕の目の前に丸を呼んで、「どうだ、丸。大裕先生は語ってるか?」 と探りを入れるのがどれほど嫌だったことか…。



そして、僕は彼らに勝つことだけを意識するようになっていった。



毎日が勝負だった。僕と特に男子生徒たちとの間には明らかなラインが引かれ、毎日ジワジワと自分たちの縄張りを広げようとする彼らと、それを食い止めようとする僕の攻防戦。



それには、3年の教員としての、周りからの重圧も大きく関係していたように思う。



3年生というのは、中学校の最上学年だ。下級生は皆、上を見て育つし、上がだらしなければ下の学年の先生たちも生徒指導し辛くなってしまう。だから、問題の多い上級生を抑えつけられる先生が、「生徒指導のできる先生」 と思われる節が学校文化にはある。職員会議などで自分のクラスの生徒の問題行動が議題として浮上するたびに、僕はとても惨めな想いをするようになった。そして、クラス編成時は、「大丈夫。みんなでサポートするから」 と言っていた学年の先生たちは、いつの間にかそっぽを向くようになっていた。



生徒をコントロールすることばかり考えていた僕は、いつしか生徒たちを愛せなくなっていた。



(続く…)

2011年8月24日水曜日

救世主 ~ 丸 5 ~

丸がいたのは3年B組。そう、昨夏この場で紹介した 翼 のクラスだ。



丸の学年は、2年生の時にいろいろな問題があったため、3年生に上がる時にもクラス替えをすることになった。僕は教員1年目に当時2年生だった丸の学年に副担任として入り、3学期には病欠となった学年主任の代わりにA組の担任をし、次の年はそのまま同じ学年で3年生の担任をやらせてもらえることになった。



他の学校の先生は決まって、「お前の学校はとんでもない人事をするな」 と僕に言った。普通、問題のあったクラスや、受験を伴う大事な3年生を新採に任せるようなことはしないからだ。僕が期待されていたのもあるかもしれないが、学年に人材がいなかったのも確かだ。



クラス編成…。おそらく教員をしたことのない多くの人にとっては、子どもたちのクラスがどのように決められるのかは、未知なることの一つなのではないだろうか。もはや教員ではない自分の立場を活かして、遠慮なく書くことにする。



基本的には、生徒の性別に加え、学力が中心となる。学力が明らかに偏っていると、授業の進む速度が変わってきてしまうからだ。前の学年で行われた最後の学力テストか何かの点で一列に並べられた生徒の情報カードを、クラスの数だけ一気に振り分けていく。「A, B, C, D, E, E, D, C, B, A…」 といった感じだ。



大変なのはそれからだ。「公平」 なクラス編成にするためには、考慮しなくてはならない点が幾つもある。



それらの項目には例えば、ピアノ、欠損/生活保護、リーダー、不登校などがある。



最初の、「ピアノ」 というのは、多くの読者にとって意外かもしれない。たいていの中学校では、合唱コンクールのような音楽的な行事を行う。その時、クラスにピアノを弾ける子がいないと困ってしまうからだ。



欠損/生活保護というのは、字の通りだ。親が離婚していたり、どちらかが亡くなっている家庭、また生活保護を受けている家庭の子は、ニーズが高かったり、事務手続きが大変だったりする。だから偏りがないように各クラスに分散させる傾向がある。「不登校」 も同じ理由で分けられることが多い。



どのクラスにもリーダー格の生徒は必要だ。普通は男子1、女子1を各クラスに保障する。ただこれは、あてにならないことが多い。教員の価値観によっても誰を 「リーダー」 と見なすかは変わってくるし、多くの教員は、既に出来上がっている 「優等生」 を欲しがるからだ。優等生 についてはさんざん書いてきたからここでは書かない。でも、小関先生にとっては、いわゆる 「優等生」 はリーダーにはあてはまらない。だから小関先生のクラスには、傍から見れば扱いにくい、癖のある子が多く集まり、「リーダー」 はいないことが多い。ただ、小関先生本人からしてみれば、それはダイヤモンドの原石の集まりだったりする。



そこまで振り分けたところで初めてクラス編成の土台ができるといっても良いかもしれない。本当の駆け引きが始まるのはそこからだ。たいていは一番最後の項目として、特別枠が設けられている。いわゆる 「問題児」 だ。



丸の代の3年時クラス編成には、当時学校の生徒指導主任だった小関先生も参加することになった。それによって、クラス分けは皆の予想以上のスピードで進むことになった。



簡単に言えば、小関先生がそれら特別枠の多くを容赦なく僕に振ったからだ。



「こいつはおまえ。こいつやこいつもおまえ…」 といった感じだ。



そして最後に、「その代わりにこいつもおまえ。」



そう言って僕の救世主としてあてがわれたのが丸だった。



(続く…)

2011年8月23日火曜日

したたかに、逞しく ~ 丸 4 ~


 何年か振りに再会した丸は、22歳にして大手マッサージチェーン店の店長をしていた。その晩は、小関先生の取り計らいで、飲みに行く前に彼女に足のマッサージをしてもらうことになっていた。



 入ってすぐのカウンターの所に3人ほどいて、そのうちの一人が丸だった。



    「7時から店長使命で予約を入れてあるんですけど。」



 僕がそう言うと、他のスタッフの手前、恥ずかしそうに 「お久しぶりです」 と会釈をし、「担任の先生です」 と仲間に僕のことを紹介した。職業柄、丸はおしとやかになっていた。…というか、そう振舞っていた。



 その時店には5人くらいのスタッフがいたのだろうか。丸よりも年上と思われる女性も多かった。



 僕がイスに座って待っていると間もなく丸が来て、普通のお客様と接するかのように、とても丁寧な応対をしてくれた。幾つか選ぶものがあるらしかったが、僕は、全て任せると丸に伝えた。



 マッサージの間中、僕は丸の仕事についていろいろな質問をした。



 彼女が始めたのはそんなに前のことではないそうだ。ただ、始めるとすぐに指名が絶えなくなり、半年そこらで店長に任命されたという。そして、今では指名件数が全国の従業員中5位だそうだ。



 さすが小関先生の愛弟子。小関先生の師匠である奥村先生から、話術に関して 「免許皆伝」 をもらっただけはある。施術ももちろん上手いが、誰とでも合わせて相手を楽しませられる彼女と会話したいために通う客も少なくないのだろう。









 丸が、一つ印象深い話をしてくれた。先日のこと、店に入って来て間もない若い子が、客の男性にメールアドレスを訊かれてショックを受けたと丸に泣きついてきたそうだ。



 「私をそんな対象として見ていたなんて。私はそんなためにマッサージ師になったんじゃありません!!」



そう主張する彼女に丸は言ったそうだ。



 「あんたね、だったら施術だけで客があんたの所に通うだけの腕があるの?第一お金を払ってまで会いたいと思われるなんて、女として光栄なことじゃない!」



さすが小関先生の教え子。したたかで、逞しい。



小関先生の言う、「生きる力」 を目の前で見せてもらった気がした。





(続く…)



「先生」 を持っている人間に教えることの愚かさ ~ 丸 3 ~

「正直言ってあの時は辛かった。」 僕が丸にそう言うと、彼女は何も言わずに頷いた。



僕は彼女に全部話した。当時、自分が小関先生という新たな兄貴分の言うことに耳を貸しながら、彼を信じ切っていなかったために、理解できていなかったこと。同時に、それぞれ違った価値観を持つ周りの先生たちからも、「一人前」 として認められようとしていたこと。その結果、自分の言動の一貫性を失い、生徒たちを戸惑わせてしまったこと…。自分の口から発される言葉が、次第に重みを失っていったあの感覚は、今でも忘れることができないということ。



ひとことで言うと、当時の僕には 芯 というものがなかった。



中学生というのは、子どもが大人になるにおいて、特に中途半端で、不安定で、難しい時期だ。だからこそ、信じられる大人を子どもはこの時期特に必要とするのだと僕は思う。『伝えるのは人と信念』 でも書いたように、子どもにとって本当に必要なのは明確なルールなどではなく、いつも変わらぬ不動の人格と信念であり、それを持っている親や大人が、子どもにとっての安らぎ、そして自信を与えるのだと今だからわかる。だが、残念ながら、当時の自分にはそういう視点はなかった。



「当時の丸の目に、俺はどう映っていた?」 と彼女に質問した。



う~ん…と考えたあげく、彼女は言った。



小関先生から僕のことをいろいろ聞かされ、あの時もっと話を聞いておけばよかったなと思うようになったけど、正直言ってあの時は聴く耳を持っていなかった。



そうだよな、と僕は言った。



正直言って、丸は当時の僕にとって、非常に嫌な存在だった。今だからわかるが、それは彼女が僕を越えていたという何よりの証拠だった。



丸は、小関先生の指導の下、中学1年生の時から熱心に剣道の練習に取り組み、2年生にして強豪チームのレギュラーを張り、3年生になってからは部長及び不動の大将を務めていた。



「あいつが俺のことを一番良くわかっている」 と小関先生に言わしめたのが丸だった。



そんな丸が自分のクラスにいて、僕がやり辛いと感じないわけもなかった。



いろいろ考え、何か 「ためになる」 話をクラスにしても、丸には全てを見透かされている気がしていた。自分の弱さ、浅はかさ、そして偽り…。



今考えれば、丸は何よりも、既に 「先生」 を持っている人間に教えようとすることの愚かさを教えてくれていたのだった。



(続く…。)

どうか見ていて


 昨日、末期の脳腫瘍と闘っているMr. Walkerに手紙を出した。既に字を読めなくなった先生が、見て楽しめるようにと思って買った、金色の小さな扇子が飾られた和風のはがき。






 Mr. Walkerには、てきとうなことは書けない。Holderness時代に教わったように、一語一語、丁寧に言葉を選んだ。






Dear Mr. Walker,


What gives me the courage and strength to keep going is the responsibility I feel toward your teaching and the fact that you believed in me. Watch me where I take the baton passed by you.

Daiyu



(ウォーカー先生、


僕がこうして頑張れるのは、あなたが僕の可能性を信じてくれたから、そしてそんなあなたの教えに報いたいと僕が感じるからです。あなたから引き継いだバトンを僕がどこまで持っていくか見ていて下さい。


                          大裕)

 
 封を閉じる前、ふと思い、believedをbelieveに変え、最後のピリオドの代わりにビックリマーク(!)を二つ付けた。







近くの店で切手を一枚買い、1時の郵便回収に合わせて投函した。






 Mr. Walkerの息子さんから彼の死を伝える電話をもらったのは、その日の夕方のことだった。










2011年8月21日日曜日

どのような目線で ~ 丸 2 ~

卓球の福原愛ちゃんを担任した中学校の先生は、きっとやり辛かったのではないかと思う。



彼女は遠征等で学校を休むことも少なくなかっただろうし、帰ってきたと思ったら疲れていることもあっただろう。14歳の小さな世界の人間関係に葛藤する 「普通」 の子たちを30人以上抱えながら、世界の重圧と闘うスーパー中学生を受け持った担任は、どんな風に彼女に接したのだろうか。どこまで彼女と会話をし、どんな話を他の子たちにして、どんな居場所を彼女に提供し、どのように彼女を生かし、どこまで先生らしいことをできただろうか。



「先生らしいこと」 と言っても、その形は一つではない。それが一つに決まりがちな環境では、子どもの心はつかめない。「先生たちはみんなこう言う」 ― 子どもたちがそう愚痴るのは、教員たちが子どもたちの心に寄り添えていない証拠だ。



近年、「上から目線ではなく、生徒と同じ目線で生徒と接する」 のが 「良い先生」 と思われる傾向がある。



これは間違っている。



どういう目線で接するのかは、目の前の生徒によって変わってくる。それを、生徒を観察せずに自分の目線を決定するのは愚かというものだ。



多くの場合、先生という者は高いたかい所から、親の愛情をもって導かなければならないのだと僕は思う。



今年の夏、目線の話をしていた時に、小関先生が面白いことを言っていた。



以前書いた Hannah Arendt のことを引き合いに出し、親が赤ん坊にやる 「高いたかい」 という行為が象徴的だと言うのだ。大人が子どもを引き上げ、大人の高い目線から見える世界を見せてあげる…。そういうことだと僕は解釈した。



ただ、それは多くの場合であって、それだけではない。生徒と同じ目線で物事を見つめなければならない時も必ずある。






しかし、もっと大事なのは、それだけでもないということだ。生徒によっては、下から見上げなくてはならない子も中にはいるのだ。小関先生いわく、それは 「教員を越えてしまっている子」 だ。そして、この最後のケースが一番難しい。



丸という14歳の女の子は、僕にとって、まさにこれに当てはまるケースだった。



(続く…。)



2011年8月13日土曜日

8年の歳月を越えて ~ 丸 1 ~

 思い返せば、去年の夏もかつての教え子から大きな学びの機会をもらった。2008年に教員を辞めて早3年の月日が経過したが、今になってようやくわかること、今だからできることがたくさんある。教えにも学びにも完璧はない。



 前回再投稿した 『不登校から日本一』 に出てくる卓球の福原愛ちゃんの話、読んで頂けただろうか。



 あれを書いた僕の理解は不完全だった。小関先生が若手にあの話をする度に、僕はわかったつもりでいた。若手があきらかに間違った答えを返すと、小関先生は決まって僕に模範解答を求めた。僕はいつも、先輩らしく若手に正解を提示した。でも、今考えると、先生に振られる度に、模範解答と理由を記憶の中から掘り起こしている頼りない自分にどこかで気付いていた。



 おそらく、僕にとってこの夏最大の気付きは、「福原愛ちゃん」が実は自分のクラスにいたということだった。それは「丸」という8年前、僕のクラスにいた一人の女の子だった。









 8年…。この時間をどう理解したらよいのだろうか。



 僕にとってそれは、丸に会いたいと思えるようになるのに要した時間だった。今だったら、自分の至らなさを心から謝れる、今だったら「大人」の余計な見栄を張らずに素直に彼女から学べる…。初めてそう思えたのだった。



 今年の夏、丸と何年かぶりに再会し、飲みに行った。僕の方から連絡を取り、実現したものだった。丸と会った夜、小関先生から一通のメールを頂いた。



   「心洗われたか? -^_^-」



いろいろ考えたあげく、一行の短い返事を出すことにした。



   「今日、初めて丸と会話をしました。」


(続く…)

不登校から日本一 (再)


本校の校舎に飾られた横断幕。
写真は小関先生の良き理解者、関先生によるもの。


 今年の夏、小関先生の指導のもと、一人の女の子が中学校剣道女子個人の部で日本一になった。もともと不登校だった子だ。彼女は小学校の頃、担任の先生に算数ができないということでいじめられ、そのうち学校にも行けなくなった。彼女を支えたのは家族と、好きで続けていた剣道であり、剣道を本気でやれる学校環境が中学校に通うための絶対条件だった。そんな中、剣道の指導なら小関先生という評判を聞き、うちの中学校にやって来た。自分の学区からは程遠い中学校だった。


 日本一になるような子は、他の子にない何かを持っているのだと思う。それは必ずしろ、ある競技における卓越した技術ではない。例えば、北島幸助を育てた平井コーチが、何故北島を育てようと思ったか。それは彼が水泳でほかの子どもたちから抜きんでていたわけではなく、彼の眼がギラギラしていたからだという。その女の子も、他の子とは違うところがあったのだろう。そして、それが小学校の担任には気にくわなかったのだと思う。どうしたのかと言うと、手なづけることもできずに、彼女の苦手だった算数の授業を利用して、彼女を潰してしまったのだ。不幸なことに、これは画一的な教育を行う日本の学校ではよくあること。出る釘は打たれるのだ。




 小関先生は、よく過激なことを言う。以前、こんなことを訊かれたことがある。


「もし、卓球の福原愛ちゃんがお前のクラスにいたとして、授業中に寝ていたらどうする?」


 普通の教員だったら、「注意する」 と答えるだろう。でも、小関先生は、「そのままにしておく」 と言う。


 周りの子が愛ちゃんが寝ていることに対して何か言ってきたらどうするのかと訊くと、「きっと練習でへとへとになってるんだから寝かしといてやれ」と答えればいいと言う。代わりに、起きた時に彼は愛ちゃんにいろいろ教えてもらうそうだ。練習のこと、普段の生活のこと、試合での駆け引きのこと、大会前のコンディション作りのこと、そして彼女の先生のこと。そのような彼女の体験談が、同世代の子たちに与える影響は計り知れないと言う。生徒のことも知らずに注意をしたり可愛がったりするのではなく、その子を見極めること、その子の良さを認め、その子が人生において勝負できる物を持たせることが大事なのだと教えてもらった。


 小関先生がおっしゃることは、すぐにはわからないことが多い。時間が経った今、愛ちゃんのケースを考えてみると、彼女のように日本や世界の第一線で活躍する子には、既に先生がいるということだと思う。自分一人の力でそこまでになるような子はどこにもいないだろう。やはり、誰か自分の才能を認めて、未知の可能性を信じてくれる人との出会いがあり、その人に完全に自分を委ねることで、子どもは一流になっていく。だから、もし愛ちゃんが自分のクラスにいたとしたら、彼女に 「教える」 ということは、彼女の先生に勝たなくてはいけないということになる。多くの教員は、そんなことも知らずに、勝ち目のない勝負に挑もうとする。世界クラスの子どもを育てる人間に勝る指導力を持つ教員が、全国に何人いるだろうか。残念ながら今の現場の状況では程遠い。ただ、いつか世界クラスの指導力を持つ教員を国が本気で育てようとする日が来て欲しいと願うばかりだ。




 話を今年の夏に日本一に輝いた女の子に戻そう。中学に入り、部活も学校も頑張る日々が2、3ヵ月続いたが、徐々に授業に出るのが辛くなり、毎日遅刻するようになった。特に数学の時間になると、「こんなこともわからないのか!」と他生徒の前でプライドを傷つけられることを極度に恐れ、教室に入れなかった。小学校の時の担任によるいじめが、彼女のトラウマとなっていたのだ。そしてとうとう、放課後の部活しか来られなくなってしまった。


 彼女が部活だけ参加するということについては、職員の間から様々な批判の声が上がった。学区外の子なのに特別待遇をして良いのか、甘やかすことになるのではないか、他の子に悪い影響を与えるのではないか。それを必死にかばったのは小関先生だった。彼はきっと、周りの教員に「自分が勝ちたいから」と思われていたに違いない。実際に、「そこまでして勝ちたいのか」と陰口を叩く教員もいた。


 我々教員は、皆、それぞれ正しいことを言う。子どもに嘘を教えては言えないという職業柄、知らず知らずのうちに正しい答えを求めるように訓練されていくのだ。そう、子どもたちと同じだ。こうなったら、こうする。こう訊かれたら、こう答える。まるで正しい答えが書かれているマニュアルがあるかのようだ。その理由もわからないでもない。質問する生徒によって、与えられる答えが違ったり、生徒によって叱り方を変えては「不公平」だからだ。ただ、普遍的な正しい答えが(そんなものがあるとするならば)必ずしもその瞬間の真実を貫いているとは限らない。一般的には「正しい」答えが、その瞬間、目の前の子や周りの子どもたちのためになるとは限らないのだ。


 周りの教員がその子の扱いに対して言ったことは皆正しい。確かにあれは特別扱いであったし、普通にいけば甘やかすことになっていただろうし、他の子の影響も考慮しなければならなかった。しかし、誰がその子の今までの経緯を詳しく知った上で、その子の将来を考え、心から救おうと考えていただろうか。少なくとも、その子の面倒を全てみる気持ちでいたのは小関先生だけだった。結局、周りに対する悪影響も特に見られず、一人の生徒を本気で救おうとした小関先生の熱意が、周りの子たちにも伝わった形となった。そして、また不登校になってもおかしくなかった子が、中学生日本一になったのだ。


 小関先生は、一人一人の生徒に全く別のことを言い、応対もまた違う。その生徒、その状況、その生徒との信頼関係、その生徒の指導の経緯、はてはその瞬間によって、求めるものが変わってくるのだ。授業中、一人の生徒があることをして褒められたのに、次に別の生徒が同じことをしても叱られたりする。「差別だ!」 言われると、「ばかやろう、これは区別だ!!」 と言い返す。生徒たちはそんな小関先生が大好きだ。





 不登校だったその子が日本一になった時、一人の教員が小関先生にこう言ったそうだ。


  「どうやったら日本一になれるんだよ。一年生の時に授業出ねーで、部活だけやってればいいのか?」


 その人は、そんなに簡単に日本一になれると本気で思っているのだろうか。残念ながら、「部活だけやっているから当たり前」 と言ったり、彼女のちょっとしたミスを見つけては、「日本一になったからって偉いと思うな」 と陰口を叩きそうな教員も、中にはいるのではないかと思ってしまう。だがそうではない。部活だけやっているから勝てるというものではない(実際に彼女は、二年生になって休まず授業も受けられるように成長した)。


 それに何よりも、日本一 は 「偉い」 のだ。彼女は今後、どんな道に進もうとも、どんな仕事に就こうとも、間違いなく生きていけるだろう。文科省が目指す 「生きる力」 を彼女は既に身につけているのだから(実は文科省が提案することは、元々のアイディアは間違っていないことが多い。方法論が伴っていかないのが玉に瑕だ)。彼女がここまで来るのにどれだけの苦労があったか。どれだけの壁を乗り越えてきたか。友達と遊ぶ時間も削り毎日練習をし、自分の弱さと向き合うことを強いられ、けがを乗り越え、生活の全てを剣道に捧げ、決勝のセンターコートで戦う自分の姿を何千人が凝視する中で力を発揮する器を身につけ、常に反省すること感謝することを10代前半で学んだのだ。実にあっぱれである。


 県大会で個人優勝を果たして全国大会出場を果たした彼女が、団体では力を発揮できずに関東大会で涙した。その後、何が彼女の中で変わったのか、小関先生に訊いてみた。すると、自分がチームメイトや家族やあらゆる人々に支えられ、みんなの想いを背負っていることに気付いたのだと言う。全国大会の初日に、落ち着いた表情で彼女がこう小関先生に言ったらしい。


自分はこの中で一番弱い。でも、みんなの想いを背負って一生懸命やってきます。


 不登校だった彼女がそこまで成長したのか、と心が震えた。そして、小関先生が目指す、「一流の生徒を育てる教育」 の真髄を見せて頂いた気がした。

2011年8月7日日曜日

それでいいのだ

 昨日、12歳の甥っ子が帰国した。


僕は、卒業式当日の担任の心持で最終日を迎えた。



あの時ああしてればと考え出せばきりがないが、自分の未熟さの範囲で、できることは全部やった。最後、卒業生は何を胸に飛び立つのか…。



最初は軽く考えていた今回のホームステイだったが、実際にはかなり大変だった。それは、一流の指導者に学んだ者としての自身の責任感と、姉への恩返し、甥っ子への愛情が根底にあったからだと思う。



 僕が中学生を目の前にする時、常に彼らに言い聞かしてきたのは、 『今こそが未来』 ということ。「未来」なんて「今」の積み重ねに過ぎない。だから今この瞬間をどう生きるか、それが将来そのものだと思っている。「いつかきっと」なんてミラクルはあり得ない。



 今回もそのスタンスで甥っ子と係わった。だから、「ああ、楽しかった」で終わるただの観光旅行ではなく、普通ではできない色々なことに挑戦させ、それが良い想いでも悪い想いでも、何か強烈に心に残るような体験をさせようと心に決めた。もしかしたら自分の無力さを感じる悔しい旅になっても良いとも思った。



初日から彼の覇気の無さが気になり、一つのテーマを与えた。



「失うものは何もないから、リスクを冒して冒険すること」



 でもそれがなかなか難しい。いざ誰かに話しかけざるを得ない場面になるとモジモジモジモジ…。



彼にとっては自分の弱さと向き合う、大変な旅だったと思う。ここではとても書ききれないが、滞在中、実にいろんなことを彼にやらせた。




 進んで人に自分の写真を撮ってもらい、何か物を買う時は全部自分でやり、トイレの場所なども自分で質問し、コロンビア大学の図書館で世界の学生達と肩を並べて勉強し、学生食堂でも一人でご飯を食べ、「初めてのお使い in ハーレム」を遂行し、僕の視覚障害者の友人と2人きりでNY自然史博物館に行き、NYメトロポリタン美術館も2日に渡って一人で探索し、お粗末な公教育の現状を危惧する人々のデモに日本人中学生としてただ一人参加するためにワシントンDCに行き、わけもわからないまま人々と一緒にホワイトハウスに行進し、日本の大手学習塾の全国模試でトップ30人に選ばれた小学四年生たちの10日間のアイビーリーグツアー最終日の「決意表明」に立ち合い、世界の第一線で研究している日本人物理学者と食事をし、最後はブロードウェーミュージカルで他の客と一緒になってスタンディングオベーションをした…。






今回のホームステイ、二つ嬉しかったことがある。



一つは、日本で英語習ってるけど、実際にこっちに来てどう思った?との質問に対して彼が、「英語の問題じゃなくて気持ちの問題だってわかった」と答えたこと。



もう一つは、デモのことに対して感想を求めた時、「本当はあれが普通なんだと思う。日本ではテレビなんかでみんな首相の悪口を言ったりするだけで何もしない」との答えが返ってきたこと。それがわかっただけでも、ワシントンDCに連れて行って良かったと感じた瞬間だった。



この旅が彼の人生にとってどんな意味を持つのか…。彼がその答えを理解するのは、きっと何年も先のことなのだと思う。



それでいいのだ。

2011年7月29日金曜日

どんな学びをプロデュースできるか

 一昨日、日本から帰って来た。



 今年も、多くの人に積極的に会い、充実した夏だった。あまりに忙しかったため、まだこの夏の学びをまとめることすらできていない。8月中に時間を見つけてやっていきたい。



 この夏のただ一つの心残りは、短い日程の中、自分の博士論文に関係する人たちを優先に会ったため、何人かの大事な友人に会うことができなかったこと。



 何歳になっても、時間が足りないことだけは変わらない。



 さて、ニューヨークに帰って来たのだが、今回は甥っ子の勇太郎も同伴だ。10日間の日程で学びに来ている。せっかく機会があるのなら早いうちに世界を見てきて欲しい、という姉夫婦の願いが実現したのだ。中学校に上がったばかりの甥っ子が10日間で何を学べるのだろうか、また自分はどんな学びをプロデュースできるのだろうか。



 明日、急遽ワシントンDCに連れて行くことにした。7月30日に、アメリカ公教育の現状に憤りを感じている人々による大規模なデモがある。教員、様々な分野における教育者、保護者、その他何十万の人々が集まり、ホワイトハウスに向けて行進する。僕が甥っ子に見せたいのは、人が集まり、一つの大きな力として動く姿だ。



 1泊2日の強行スケジュールだが、ある年、僕が指導させてもらっていた野球部の子どもたちを0泊3日(車中2泊)で甲子園に連れて行ったことを考えれば何てことない。今考えれば相当な無茶をしたが、あれがきっかけで僕を評価してくれるようになった指導者も中にはいた。今回のDC行きは、いろいろな意味で、あの時のことを思い出す。



 何か少しでも熱いものを感じ取ってくれればと思っている。

2011年7月4日月曜日

一時帰国します!!

 7月5日、一年ぶりに日本に帰ります。

今回は3週間ほどの比較的短い滞在。その中で、やりたいこと、やらなくちゃいけないことはたくさんあるけど、この夏どんな学びと出会いが自分を待っているのか、今からとても楽しみです。

2011年6月27日月曜日

木のいのち、木のこころ 1 ~ 個性 ~

 日本が世界に誇るべきものの一つに、1300年前に建てられた世界最古の木造建築物、法隆寺がある。先日、『人と人とを紡ぐ時代に』でも紹介した竹越さんが、その法隆寺の宮大工による本をプレゼントしてくれた。『木のいのち、木のこころ』という本だ。







 読めば読むほど、教育のこと、子どものことを書いているとしか思えない。学ぶこと、命を育てること、伝えること、自然の中に生きること、将来を想い描くこと…。この本には、教育の真髄が詰まっている。きっと僕の博士論文の一部となることだろう。今後、この本からの抜粋をこの場にてシェアしていきたい。



 第一回は「個性」について。我々はどこまで子どもたちの個性を重んじているのだろうか。子どもが変われば、教え方も変わって然り。子どもを知らなければ、教えられるはずもない。





 時代は科学第一になって、すべてが数字や学問で置き換えられました。教育もそれにしたがって、内容が変わりました。「個性」を大事にする時代になったといいますな。

 しかし、私たち職人から見ましたら、みんな規格にはまった同(おんな)じもののなかで暮らしているようにしか見えませんのや。使っている物も、住んでいる家も、着ている服も、人を育てる育て方も、そして考え方まで、みんなが同じになっているんやないかと思っております (p. 13)。

(中略)

 私らが相手にするのは檜(ひのき)です。木は人間と同じで一本ずつが全部違うんです。それぞれの木の癖を見抜いて、それにあった使い方をしなくてはなりません。そうすれば、千年の樹齢の檜であれば、千年以上持つ建造物ができるんです。これは法隆寺が立派に証明してくれています (pp. 14-15)。

2011年6月25日土曜日

「なんて素晴らしい日なんだ。」

 今週の日曜日、Mr. Walkerに会ってきた。

 彼の住むRyeという町は、New Hampshire州の海沿いの美しい町だ。ニューヨークから車で5時間。行きの車の中、僕は、初夏のニューイングランドにふさわしい、穏やかできれいな別れを思い浮かべていた。


 

 そんな僕の期待は見事に裏切られた。

待っていたのは、自らの死を受け入れ、周りの人間との別れを惜しむ老人ではなく、どろ臭く、どこまでも生にこだわろうとする生身の人間だった。

 僕たち家族が着いた時、家の前には既に何台もの車が停まっていた。家族の人が迎えに出てきてくれ、導かれるままに僕らは裏庭に行った。寝たきりかと思っていたMr. Walkerは、ピクニックチェアーに座っていて、僕を驚かせた。

 考えてみれば前回もそうだった。癌が再発し、もう会うのは最後かと思って尋ねた去年の8月。あの時も、僕らが泊っていたホテルまで車を運転してきて僕らを驚かせた。きっと家族としては気が気じゃないだろう。

 挨拶に行くと、Mr. Walkerはかすれた声で、

“Good to see you.”
「会えて嬉しいよ。」


と言った。

 奥さんのPhillisも元気そうで、僕らを歓迎してくれた。次々に家族の人たちが挨拶に来てくれた。僕はMr. Walkerのお子さんたちを何人か知っていたが、どうやら僕が会ったのはほんの半分に過ぎなかったらしい。全部で8人のお子さんがいると知って驚いた。

 少し経つと、家族の輪に何らかの緊張感があるのを感じた。原因はMr. Walkerだった。

僕がMr. Walkerの隣に行って、思ったよりも元気だと言うと、彼は何度も首を振った。本も読めないのだ、と。いろいろやりたいことはあるのだが、すぐに疲れてしまうそうだ。本気で悔しがっている彼に、僕はあきれてしまった。きっと自分自身に求めるものが相当高い所にあるのだろう。

 Mr. Walkerが何か言葉を発しても、うまく出てこないことがほとんどだ。そんな時は、自分へのフラストレーションなのだろう、極端に大きな声で繰り返すのだ。でもそれが周りには、相手へのうっぷんを晴らしているように見えてしまう。それに、そんな怒鳴ったら体にさわるだろう、と周りは更に気を遣う。

 もう打つ手はないため、ホスピスの人を迎え入れ、心の準備をしようとしている家族の人たち。それとは反対に、「まだまだ」と一人で生にしがみつこうとするMr. Walker…。そんな温度差を感じた。

 つい先日も、危ないから、と何とか止めようとするナースを無視して海へ歩いて行ったそうだ。実際、僕の訪問に関しても一もんちゃくあったのだ。先週僕が電話をした時、実は彼の状態を懸念した奥さんに訪問は遠慮してくれと言われていたのだ。僕も了解し、家族の写真を送るだけにすると伝えた。しかし、次の日、彼から僕に怒りの電話が来た。僕の訪問を奥さんが断ったと聞いたが、彼女にそんなことをする権利はない、もしこちらの方に来る用事があるのだったら寄ってくれ、と。

 相当の頑固じじいだ。途中から、僕はおかしくなってしまった。

 それでも、目の前で遊ぶ僕の子どもたちを見ながら見せる優しい笑顔は昔と変わらなかった。

高校時代、あの顔が見たくてどれだけ頑張ったか。もう一人の恩師、小関先生が教えてくれた言葉が思い出される。

「この人に褒められたいと思われる先生になれ」。

 自分にとって、Mr. Walkerはまさにそうだった。
「よくやった」  ―  彼のその一言で僕は天にも昇るような気持ちになれたのだった。

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 数日後、電話越しの小関先生にMr. Walkerのことを気にかけてもらった。どうだった?と訊かれ、上に説明したようなMr. Walkerの状態を伝えると、小関先生は言った。


 「侍だねぇ。おまえな、一流の指導者なんてみんなわがままだぞ。」

 確かに。僕は笑った。

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 2時間くらいお邪魔したのだろうか。

帰りの車の中、陽だまりの中で遊ぶ子どもたちを見て言った言葉の余韻がずっと僕の中に残っていた。



“What a day.”

「なんて素晴らしい日なんだ。」




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2011年6月18日土曜日

"I love you."

 この場に何度か登場しているMr. Walker…。僕の高校時代の英文学の先生である以上に、自分の人生を変えてくれた、生まれて初めての人生の先生だ。あの時彼に出会っていなければ、僕は日本の教育に疑問を持ち、教育の道を志すことはなかったかもしれない。



 Mr. Walkerは、書くという行為を通して生き方さえも教えてくれた。



 同じ意味を持つ言葉でも、構成部分やその言葉の歴史的背景から微妙なニュアンスの違いが生まれる。そして数ある選択肢の中から、常に最善を尽くして次の言葉を選ぶ…。その繰り返しによって綴られるのは、その人の生き様だ。







 『いつの日か ~繋いでいくこと(完)~』 でMr. Walkerの脳の癌が再発したことを紹介してからもうすぐ一年になる。1ヶ月に一度ほど電話してきたが、このところ会話もうまく続かなくなった。



 先週、電話をした。いつものように奥さんのPhillisが電話に出た。キモセラピーはやめたが、旦那は変わらず元気に闘っていると言う。



 おそらくMr. Walkerがすぐ隣にいるのだろう。どこか気丈に振舞っているような気がしてならなかった。



 Mr. Walkerが電話に代わると、僕はいつも通り、自分の勉強のこと、家族のことなどを話したが、それに対して、彼は相槌をうつのが精いっぱだった。



 疲れさせてはいけないと思い、僕は手短に電話を切ろうとした。



 最後に、Mr. Walkerが苦しそうに言った。







"I love you."







迫りくる恩師の死を悟った瞬間だった。



来週、家族を連れて再び彼のもとへ行く。

2011年6月17日金曜日

伝えるのは人と信念




 子育てをしながら、自分の教員時代を振り返ることがよくある。



つい先日も考えていた。



子どもの躾について。



これはやってよし、これはやっちゃダメ。そんなルールばかり教えていたら、子どもばかりか自分までをも無機質な規則の塀に閉じ込めてしまう。



教員時代、最初のうちはずっとそれがわからなかった。ルールを決めることによって子どもたちを管理し、満足していた自分がいた。



伝えるのは人と信念。ルールじゃない。



お父さんはこんな人、お母さんはあんな人。こうしたら怒るし、ああしたら喜ぶ。



そんな不動の親の在り方が、子どもたちに安心感を与える。



子どもたちは自然に、そして自由に、ものの良し悪しというものを学んでいくのだ。




2011年6月3日金曜日

まとも

ある夏の終わり、うちの野球部の3年生の進路で小関先生に相談していた時の話。



小関先生: 「Aはどうするんだ?」



大裕: 「あいつはU高校がいいと思うんですけど。あそこの顧問は結構まともみたいっすよ。」



小関先生: 「ばか。周りからまともと思われているうちはまともじゃないんだ。」



…本気で日本一の子どもたちを育てようとしている小関先生の重い一言だった。







これは、数年が経過し、アメリカの大学院にて学業に励む今でも、時折自分に軌道修正を迫る言葉だ。



そうだ、周りとおなじことやっていても一流にはなれない。

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2011年6月2日木曜日

みかさとカットわかめ

 最近、次女のみかさにはちょっとしたマイブームがある。



カットわかめだ。



お腹がすくと、自分で台所まで行き、取ってくる。



そして、袋の中におもむろに手を突っ込み、黒くてひからびたカットわかめを無造作に口に入れるのだ。そして、



「あかめ おいちーね~」 の一言。



どこかイメージキャラクターとしてうちの子を使ってくれるわかめ会社はないものだろうか。



カットわかめ一年分で手を打ちまっせ~!!