2011年5月5日木曜日

災害を喰いものにする政治家と大企業 ~日本への警告 3~

(4月29日 アメリカ教育最前線から)

1970年代から自然災害やクーデター等による社会危機を利用して市場原理主義を推し進めてきたミルトン・フリードマンとその崇拝者たち。2005年のハリケーン・カトリーナによって壊滅的な被害を受けたニューオーリンズは、アメリカにおける彼らの絶好の実験場となった。

 ニューオーリンズの堤防が決壊してから2週間後、ワシントンDCにおいて最も影響力を持つ保守的シンクタンクの一つであり、フリードマンの崇拝者が数多くいるHeritage Foundationが会合を持ち、“Pro-Free-Market Ideas for Responding to Hurricane Katrina and High Gas Prices”(ハリケーン・カトリーナと石油高騰対策としての自由市場推進案。別名Opportunity Zone。)という合計32もの政策から成るリストを発表した。

それらは民営化規制緩和、そして公的部門の大幅財政カットという、ミルトン・フリードマンとその崇拝者たちが、チリ、イラク、スリランカなどで使ってきたショック・ドクトリンのトレードマークとも言うべき3本柱を要求する内容だった。そしてそれは復興支援とは名ばかりの、人道支援や民主主義とはかけ離れた市場原理主義推進政策だった。

 良く考えて欲しい。この民営化、規制緩和、そして公的部門の大幅財政カットという3本柱は、今まさに共和党が実権を握っているほとんどの州で行っていることだ。プリンストン大学のノーベル賞受賞エコノミスト兼NY Timesの人気コラムニストであるPaul Krugmanが、ウィスコンシン州から始まったこの一連の動きを、“Shock Doctrine USA”と分析したのも納得だ。もう一点。約一週間前、アメリカの有力経済誌The EconomistJapan's disaster and business reform: A good place to start(日本の災害と経済改革:良きスタート地点)という、上の自由市場推進案と非常に類似した提案を日本の指導者に向けて発信している。「まさか日本でも」と危惧して調べていたら遭遇した情報だった。Shock Doctrineが日本でも使われる可能性は無きにしも非ず、その危機感が、今私にこれを書かせている。これらの二点に関してはまた機会を改めて書こうと思う。

話を元に戻そう。先の自由市場推進案は、Heritage Foundationで持たれた会合に出席していた共和党保守派の政策研究グループが提案し、一週間も経たないうちにブッシュ大統領によって採用された。



民営化
 カトリーナ後の復興政策で際立っているのは、復興のあらゆる側面における民間企業への委託だ。被災した軍隊基地や橋などの建築、暴動対策などの警備、仮設住宅作り、死体処理に至るまで、災害のどさくさにまぎれて入札なしに委託された。その多くはイラクでもブッシュ政権に委託されて事業を展開している企業で、全てがブッシュの選挙に貢献した大企業だった。入札無く委託されたため、それらの企業は各事業に信じられない程高額な請求書を書く一方で、仕事はなかなか進まなかった。ブッシュは再三追加予算を国会で迫り 、カトリーナ上陸2週間後の9月13日には、実に一日$1 billion(約817億円)ものお金を復興に費やすまでになっていた。イラクの時と全く同じ展開に、スパイク・リー、ナオミ・クライン他、知識人やジャーナリズムにいる多くの人間が、カトリーナの「対応のまずさ」は、実は緻密な計画に基づいたものであったと考えている。

もう少し具体的に見てみよう。仮設住宅作り一つをとっても、入札なしに委託された4つの企業の予算は、当初の$400 millionを遥かに上回り、最終的に$3.4 billion(約2778億円)となった。また、死体処理に関しても、委託された企業は1体あたり平均100万円以上ものお金を州政府に請求した。にもかかわらず、その仕事は驚くほど遅く、1週間経っても炎天下の下で死体が放置され、NGO職員または地元の人間が死体処理した際には、彼らの利権を侵害したという理由で罰金が科される始末だった。

この企業だけではない。驚くことに、ブッシュ政権に委託された企業の多くが、地元のボランティアや救済のために駆け付けたNGO、送られてくる支援物資などが彼らの利権を侵害していると政府に不満を呈した。また、本来であれば被災地で仕事を失った人々を雇用するべきところだが、代わりに多くの企業が非公式に最低賃金以下で違法移民を雇用し、地元の人は手をこまねいて見ている他なかった。(これは、先に述べた自由市場推進案によって、Davis-Bacon prevailing wage lawsという、政府に仕事を委託された人間には生活可能な賃金を支払う義務があるとする法案を被災地においては撤廃するという新たな法案ができたからだ。)これらのカトリーナ復興事業に関わった民間企業の数々の汚職に関しては、約一年後に公表されたレポートに詳しくまとめてある。

(続く…)

*ここに書かれている意見は、完全に筆者個人のものであり、このブログやティーチャーズカレッジを代表するものではありません。

2011年5月3日火曜日

これがアメリカなの? ~日本への警告 2~

*この記事は、元々もう一つのブログ『アメリカ教育最前線!!』に載せたものです。一人でも多くの日本人にこの事実を知ってほしいと願い、この場でシェアさせてもらっています。



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【主張】教育政策担当: 鈴木


 ニューオーリンズがハリケーン・カトリーナによって水没してから約半年後の2006年2月、メディアや民衆、上院・下院など、国のあらゆる側面から圧力を受けたブッシュ政権は、The White House Katrina Reportを公表し、その未曾有の被害は国の対応のまずさから起きたものであったことを認めた。

 しかし、カトリーナ後、一週間経ってもまだ被災者が崩壊した家の屋根から救助を求め、避難所となったスーパードームの外では死体がそのまま放置されているテレビの映像には、「対応のまずさ」だけでは理解できないものがあり、世界中を驚かせた。CNNのレポーター、Sanjay Guptaは「これがアメリカなの?」と問い、ボストンの有力紙、Boston GlobeのDerrick Z. Jacksonも、

“Here’s the wealthiest nation in the world—gave a Third World response to a major catastrophe”
「世界で最も裕福な国が大災害に対して第三世界並みの対応をした」と酷評した。

 では実際にどのような状態であったのか、アカデミー受賞監督、スパイク・リーの2006年作のWhen the Levees Brokeというドキュメンタリーフィルムが見事に映像として残しているので是非機会がある人は観て欲しいと思う。




そうでない人は以下の抜粋で我慢して欲しい。ちなみにこのフィルムは、George Polkテレビドキュメンタリー賞を始めとした、ジャーナリズムで最も権威のある賞の多くを受賞している。



 では、何がそのような「対応のまずさ」に繋がったのか。前回紹介したナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』は、ブッシュ政権の最大の狙いは人的救助にはなく、この社会危機をビジネスチャンスとして利用することにあったことを指摘する。

(続く…)

*ここに書かれている意見は、完全に筆者個人のものであり、このブログやティーチャーズカレッジを代表するものではありません。

2011年5月2日月曜日

オサマ・ビン・ラディンの死を考える




アメリカは朝から祝福ムード。


テロリストとはいえ、一人の人間の死を国を挙げて祝福する様子に


違和感を覚える。


もしこれが日本であったら、同じ光景になるのだろうか。


小関先生だったら何と言うだろう?


    勝って反省、負けて感謝


アメリカ人の多くは、「反対じゃないの?」と訊き、理解に苦しむ


小関先生の武士道。


今は祝福ではなく、沈黙の時。


我々に残されたのは、答えではなく、新たな問い。

2011年4月25日月曜日

ショック・ドクトリン ~日本への警告 1~

*この記事は、元々もう一つのブログ『アメリカ教育最前線!!』に載せたものです。一人でも多くの日本人にこの事実を知ってほしいと願い、この場でシェアさせてもらっています。


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【主張】教育政策担当: 鈴木


まえがき

 2005年、カリブ海諸国並びにアメリカ南部を襲ったアメリカ記録史上最大級のハリケーン・カトリーナをあなたは覚えているだろうか。被害総額も史上最大の99億ドル(今日の換算で約7兆6000億円)の損害を出した。中でも壊滅的な被害を受けたのがルイジアナ州ニューオーリンズで、市内の陸上面積の8割が水没、カトリーナによる死者1836人のうち、約86%がニューオーリンズで発見された。

 カトリーナ以降、「改革」という名目でニューオーリンズにてどのような恐ろしい政策が施行されてきたか、それが今日のアメリカ全体にどれだけ影響を及ぼしているかを知っている日本人はどれだけいるだろうか。約一ヵ月半前、カトリーナを遥かに超える災害に見舞われた日本。多くの市町村が壊滅的な被害を受け、学校システムも一から造り直す必要がある所も少なくないだろう。ポスト・カトリーナのニューオーリンズが発するメッセージ…。それは復興の険しい道を歩み始める日本にとって、警告に他ならない。



ショック・ドクトリン(The Shock Doctrine) 

 カナダ人ジャーナリスト、ナオミ・クライン(Naomi Kleinの世界的ベストセラー『ショック・ドクトリン』(2007)が今、アメリカで再び注目を集めている。




ショック・ドクトリンとはいったい何のことか。一言でいえば、ショック療法の経済的適用だ。ショック療法とは精神病患者に電気ショックを与え、まずは患者を子どものようなまっさらな状態に戻してから好ましい状態へと導いていくことを目的とする「療法」で、1950年代にはアメリカの秘密諜報機関であるCIAが目をつけ、拷問や洗脳などにも使われてきた。




では、ショック療法の経済的適用とは、何を意味するのか。それは、上のビデオでもあるように、自然災害あるいはクーデターなどで社会全体が麻痺に陥った時、人々がショック状態から立ち直る前に、過激で後戻りの効かないシステムを一気に構築することだ。具体的に言えば、市場原理主義に基づいた自由市場の構築で、教育、医療、郵政、電気やガス等のエネルギー資源、警察や地方自治体の行政に至るまで、政府が担ってきたあらゆる機能が民営化されることを意味している。もちろん、このような極端な政策は、社会が正常な状態であれば猛烈な反対に会う。だからこそ自然災害等の社会危機が必要なのだ。

社会危機の利用価値に目をつけ、ショック・ドクトリンを最初に提唱したのは、「新自由主義の父」とも称されるノーベル賞エコノミスト、ミルトン・フリードマン(Milton Friedman)だ。

フリードマンは言う。
“only a crisis—actual or perceived—produces real change”
「現実の、あるいは仮想の危機だけが真の変化を生む

驚くことに、このショック・ドクトリン、実はハリケーン・カトリーナの30年以上も前から存在していたという。最初の「実験舞台」となったのが1970年代のチリのクーデターで、フリードマンが社会危機の利用価値に最初に気付いたのも、クーデターによりチリの独裁者となったアウグスト・ピノチェトのアドバイザーとして彼がチリの経済改革に関与した時だったとクラインは指摘する。(ちなみに、チリではフリードマン及びシカゴ・スクールで彼のもとで学んだ数多くの教え子たちによる経済改革により、政府のあらゆる機関の民営化が行われ、瞬く間にフリードマンが夢見た自由市場を作り上げたのだ。教育に関しても、国全体でバウチャーを導入し、世界を驚かせた。)そして、その後もイラク、スマトラ沖地震などで磨きあげられ、30年もの間ずっとフリードマンと彼の崇拝者たちが待っていたアメリカ本土における危機こそがハリケーン・カトリーナだったのだ。

 カトリーナがニューオーリンズを水没させた3ヶ月後、93歳で衰弱していたフリードマンは、最後の力を振り絞ってウォールストリートジャーナルに寄稿したそうだ。その中で彼はこう言っている。

“This is a tragedy. It is also an opportunity to radically reform the educational system.”
「これは悲劇だ。しかし教育システムを劇的に改革する機会でもある。」

このフリードマンの言葉通り、ニューオーリンズはその後、アメリカにおける新自由主義的市場型教育改革の実験場としての道をまっしぐらに突き進むのであった。

(続く…)
*ここに書かれている意見は、完全に筆者個人のものであり、このブログやティーチャーズカレッジを代表するものではありません。

2011年4月20日水曜日

再投稿: 校舎の影 芝生の上 吸い込まれる空

「今日初めて授業をサボってしまいました…」と罪悪感に苦しむ友達からメールをもらった。そりゃ良かったね~。I've been there, done that ♪  なんくるないさ~。ハクナマタタさ~、と心から言いたい。エールっ!!






 今日、一つ授業をさぼってしまった。統計学の授業だ。

 担当の教授がモゴモゴ、しかも早口でしゃべる人で、正直僕にとっては何を言っているのかさっぱりわからない。まるで教授の中にもう一人の存在がいるかのように、生徒たちにというよりも自分自身と会話している(映画『ロード・オブ・ザ・リングズ』に出てくるゴラムのようだ)。そんな彼のトークが僕にとっては面白く感じられて仕方がないのだが、授業の内容はちんぷんかんぷんになりつつあった。いろいろ考えたあげく、今日は授業に行かずにインターネットにアップされる彼の講義ノートをじっくり図書館で読み返すことにした(はっきり言ってそうした方が良く理解できる)。

 授業が始まる30分前まで授業に行こうか迷っていた僕は、同じ授業を取っている友達に電話をし、ノートを取ってくれるように頼んだ。



 ランチを買いに外に出た。空が急に広くなったように感じられた。11月中旬にしてはとても暖かく、とても気持ちのいい天気だ。心の中に新鮮な空気がいっきに入って、知らぬ間に僕の胸を縛っていたロープを解いてくれた気がした。

 自然と僕の足取りもゆっくりとなり、何か得した気分だ。大きくなった空を見上げながら、尾崎豊が校舎の影芝生の上で見上げた空もこんなんだったのかなぁと思いを馳せた。



 教室の窓から見える空と同じ空には到底思えない。



 ゆっくり歩いていると、いろいろな記憶が蘇ってきた。







 風邪をひき、初めて幼稚園を休んだ土曜の朝。僕の中に残っている、父親との最初の記憶の一つだ。家に父親がいるのをとても不思議に感じた。幼稚園でコマまわしが流行っていること、まだ僕がまわせなかったことを母親から聞き、父親が教えてくれることになった。

 僕が何回やってもまわせなかったコマを、いとも簡単にまわした父親を、僕は尊敬の眼差しで見上げたものだ。そして特訓した結果、昼ご飯前には僕もまわせるようになったのだ。

 その時父親が言った言葉、そして見せた優しい表情を今でもはっきりと覚えている。



   「どうだ。たまには幼稚園を休むのもいいだろう。」





 中学校で英語の教員をしていた時、ほぼ毎年、千葉市中学校英語発表会の指導、引率をさせてもらった。夏休み中、参加する生徒を部活の合間に学校に呼んで指導するのだが、9月初頭に稲毛海浜公園近くの会場で行われるその大会に行くことは、僕の楽しみでもあった。

 午前の部と午後の部の間に少しまとまった時間がある。僕はいつもその時間を大事にしていた。引率した生徒たちと近くの砂浜にエスケープするのだ。普段なら教室で他のクラスメートたちと勉強している時間、そんな時に見る海は格別にきれいだ。

 学校という枠組みから一歩出るだけで、景色は全く違って見える。ただの道路もいつもと同じように見えないし、体に入ってくる空気でさえ、どこかいつもと違う味がする。

 目の前に広がる砂浜、そして海。工業地帯に囲まれている海でさえ、どでかく見え、ゴミが点在する砂浜でさえ美しく見える。恥ずかしがりながらも、波打ち際まで走ってみたり、大声(本人いわく。実際はそうでもないが…)で海に向かって叫ぶ中学生の姿を見るのが大好きだった。







 学級に「T」といういわゆる「問題児」を抱えていた時にも同じような経験をしたことがある。実質、両親とも不在の状態で4人の兄弟だけで暮らすTは、学校に来たがらなかった。いつものように自分の空き時間に彼を家まで迎えに行った時のこと。



   「朝飯食ったか。」

   「いや。」

   「学校行く前に食ってけよ。」

   「食うもん何もねーし。」

   「そうか。…じゃあ吉野家でも行って朝飯食うか?」

   「え…?」


 驚いたことに、Tは席に着くと何も言わずに僕の箸とナプキンを取ってくれた。それに、店を出る前には頭を下げて「ごちそうさまでした」と言ったのだ。

 朝10:00、中学生などいるわけもない駅前の松屋で、二人で並んでかき込んだ牛丼はめちゃくちゃうまかった。


11/16/2009

2011年4月17日日曜日

ニューオーリンズからの祈り ~ 今しかできない教えと学び 2~

 

 ニューオーリンズから帰って来て、ちょうど今日で一週間が経った。学会に参加するための一週間ほどの小旅行だったが、とても刺激的な時間を過ごしてきた。学会発表の他に、1000のメッセージのチラシを配ったり、スケッチブックにメッセージを書いてもらったり、ローカルの教員組合の会合に参加して、2005年のハリケーン・カトリーナによる被害に便乗して進められた公教育の民営化及び教員の集団解雇の悲惨な実情を聴いたり…。また、希望者のために、ハリケーン・カトリーナの爪跡が未だに残る廃墟化した町並みや復興の最前線を周るバスツアーも企画されており、自分にできることのヒントを求めて僕も参加してきた。


 ハリケーン・カトリーナによって、市内の80%が水没するという未曽有の被害を受けたその地で、強く感じたこと…。それはニューオーリンズの人々が、日本の苦しみを心の底から分かち合っているということだ。


 旅行3日目の朝、印象的な出来事があった。同じく学会に参加していたかおるさん、シンガポールから来たシュリーンとフレンチ・クウォーターを歩いていた時のこと。反対側の歩道で、70代くらいのシスターが立っているのが見えた。車が通るのを待って道路を渡ろうとしているのだろうか。僕らが道路を横断して、彼女の横を通り過ぎようとすると、ふと彼女が話しかけてきた。
 
    あなたたちは日本から来たのですか?


 不意を突かれ、一瞬言葉が出なかったが、慌てて、「そうです」と答えた。シンガポール出身のシュリーンのことを忘れて…。すると彼女は、


   “At our church, we are praying for your country every day.”


   「私たちの教会では、毎日あなたの国のために祈りを差し上げています。」


と、背後にある教会を指差して教えてくれた。ただそれだけを伝えるために僕たちのことを待っていてくれたんだ…。そう思うと、妙に心動かされるものがあった。


 あまりにも短かった会話の余韻に浸りながら、僕らはまた歩き始めた。ふと振り返ると、元気に走ってきた子どもたちを教会に入れてあげているシスターの後姿が見えた。

2011年4月12日火曜日

いつか東北で ~ 今しかできない教えと学び 1~

 2005年、カリブ海諸国並びにアメリカ南部を襲ったアメリカ記録史上最大級のハリケーン・カトリーナ。




 被害総額も史上最大の99億ドル(今日の換算で約7兆6000億円)の損害を出した。中でも壊滅的な被害を受けたのがルイジアナ州ニューオーリンズで、市内の陸上面積の8割が水没、カトリーナによる死者1836人のうち、約86%がニューオーリンズで発見された。



 そのような未曾有の被害を受け、未だに復興の途中にあるニューオーリンズを、一か月前にカトリーナを遥かに超える災害に見舞われた日本出身の自分が訪れることに、何か運命的なものを感じていた。



 カトリーナから約5年半後の2011年4月初旬、American Educational Research Association (AERA) による年一度の学会が開かれた。参加者は少なくとも13,000人。研究者、教員、大学院生等、世界中の教育関係者がニューオーリンズに集まった。ダウンタウンの各有名ホテルの会議場では一日中様々な会議が行われ、客室はどこも満室となり、フランス領だった時代の面影を300年以上もの間大切に守ってきたFrench Quarter(フレンチ・クウォーター)のレストランやギフトショップも、AERAのトートバッグを持った人々で賑わった。



 経済効果はいったいどれくらいになるのだろうか。意図的にニューオーリンズを選んだかどうかはわからない。でも、こんな形の災害支援もあるのかと非常に感銘を受けた。訪れた多くの店では、学会のために来たことを伝えると、“Thank you so much for coming!!” (来てくれてどうもありがとう!)などと歓迎され、普通の客と店員以上の絆を感じた。



 「同じようなことを東北でやりたい」と、ふと思った。未だに不安定な原発の恐れはある。だが、時期を見計らってこのような大きなイベントを東北でできないものだろうか?



 また、わくわくしてきた。

2011年3月27日日曜日

世界から日本へ1000のメッセージ

この度、コロンビア大学ティーチャーズカレッジの同志と共に始めた 『世界から日本へ1000のメッセージ』 プロジェクトが朝日新聞の27日付朝刊国際面に掲載されました。


『世界から応援メッセージ続々 米の日本人留学生がサイト』





2011年3月26日土曜日

生きること 7 ~寺澤美帆さんから~

たくさんのメッセージをありがとうございます。


とても胸を打たれます。



いてもたってもいられない、今はみんなそうだと思います。

けど私は、この想いのともしびが、

いつか忘れ去られてしまうのではないか、

消えてしまいそうになっていくことがとても怖いです。

それは、もちろん自分に対してもですし、周りの人たちに対しても。



大裕さんのブログのタイトルから引用するわけではないですが、

だからこそ、今こそ本当に、あらゆるツールを駆使してでも、

いろんなことを分かち合うことが大切だと、痛感しています。



どうか、1日でも早く、一人でも多くの方に笑顔と希望が届きますように。

2011年3月25日金曜日

生きること 6 ~ 福島からのメッセージ

3月12日、いても立ってもいられなくなって始めた 『世界から日本の人々へ1000のメッセージ』。地震後、僕らのもとに届き始めた世界の友人たちからの励ましのメッセージを、ティーチャーズカレッジの同志で運営している教育ブログに載せたのが始まりだった。

現在、Facebookに書きこまれたメッセージは既に1000に迫ろうとしていて、ブログへのアップロードが追い付かない状況だ。少なくとも49カ国、5大陸の国々からメッセージが届き、それを少なくとも47名のボランティアとTCの仲間が日本語への翻訳、そして各サイトの運営をしてくれている。

このプロジェクトは、長期的なビジョンのもとに運営されている。世界からの声が被災地で最も苦しんでいる人々にずっと先のこと。日本がしっかりと復興の道を歩み始めた時、くじけそうになった時、背中を後押ししてくれるようにとの想いを込めて、皆が一つになって頑張ってくれている。

そして、いつか、世界から日本へという矢印が、日本から世界へと変わっていけばと願っている。



先日、被災地から初めてのメッセージが届いた。



「私は福島に住んでいます。

祈る想いで、原発の動向を見守っています。

そして、メディアを通して世界中からの応援を受け取り、

深い深い感謝と感動、

そして勇気をいただいて、

涙が止まりません。

私達は頑張ります。

世界中の皆様、本当にありがとうございます。

小さな子供を抱え、不安ばかりです。

でも、頑張ります。

皆様本当にありがとうございます。

この感謝の気持ち、

どうか世界中の方に届きますように。」

             じゅんこ


2011年3月17日 9:08 PM に投稿

世界の想い、日本へ。

日本の想い、世界に届け。



生きること 5 ~元同僚からのメッセージ~

想いを行動に移せるかが勝負ですね。


「あら、今日は学活を見に来てくれている」 と思ったら

後で 「ブログ読んだので、これは行かなくてはと思いました」

と伝えてくれたS氏。

同じ職場に私がどのような言動をしているかと見てくれている同僚がおり、

日々ほどよい緊張感が保たれています。何とも幸せなことです。



生徒と話していて今日気付いたこと。

切実に思ったのは

今、家族の絆があまりにも弱い。

何でもないときに関係をしっかりっと築くことが

とても大切だと感じました。



震災の時は厳しく、誰もが苦しい環境で過ごします。

このときにどれほど大人がしっかりとしているか、

希望を捨てずに、自分たちを守ろうと必死で動いているかを子ども達は

見つめていると思います。



恵まれた環境の中で守れていないことを

究極の状態で行動に移すことは並大抵ではありません。



まずは家庭、そして地域、学校

人とのつながりが生きる力になる。

そんな関係、互いの信頼、愛し愛され

生きていこうという思いが常に溢れていること



仲間がいると実感して生きていること

自分が生きていることを嬉しいと思ってくれる人が

確実にいると実感していること

そんな生きる力を高めていくことが

本当に必要だと思いました。


                        里枝

2011年3月24日木曜日

生きること 4 ~元同僚からのメッセージ~

生きていること

普通に過ごせていることに

感謝の思いを持って

出来るときに出来ることを精一杯に取り組む

そんな姿勢を自分も持ち、

子ども達に伝える時ですね。


喜びも悲しみもつらさも 

人ごとではなく自分のことのように

感じ取れる心を持てるようにと願います。

人として本当の意味で

 「生きる」 ことができるように

熱く生きている大人が

色々な場にいることを日々伝え

生徒や娘、息子の一番近くにいる自分も

そんな大人を目指さなくてはと改めて思いました。

里枝

生きること 3 ~小林美恵子さんから~

卒業シーズンですね。

私自身も、本当に久しぶりの卒業式で、学長先生から手渡された学位記に、特別な重みを感じました。

生きること、いのちを支える現場に飛び立つ私たちです。

こんな時代だからこそ、こんな時だからこそ、福祉・医療の現場に身を置けることを私は尊く感じています。

迷いも、不安もありません。

私は目の前にいる人の健康を支え、一人でも多くの人を笑顔にしたい。

今の自分にできること、それはこれまでの学生生活で学んだたくさんのことを、社会に還元することだと思っています。

そして、無関心にならないこと。

自分の身に降りかからなかった出来事を、我が身のように思い続けることは、きっと難しいことかもしれません。

でも、思い続けること。

寄り添い、考え、行動し続けます。

2011年3月23日水曜日

今後を見据えて 2


*以下は、日本の災害支援活動をしている中で出会った各国の日本人留学生リーダーたちとのメールのやり取りにてシェアさせてもらったものです。『今後を見据えて 1』に続く、今僕が大事にしようとしている長期的な問題意識です。





皆さま、

 Action for Japanの鈴木大裕です。(なんかみんなを繋げる合言葉になりそうでいいですね。)
以前、「今後を見据えて」というタイトルで、We are with JapanのGoogle Groupに、一世紀かかるかもしれない日本の復興を視野に入れた、一つの長期的な視点をシェアさせてもらいました。今日はその続きです。


 以前シェアさせてもらったのは、日本の災害がまだまだホットな話題である今のうちに、ドナーをする側、される側といったラインを引いた関係から、「これは私たちみんなの問題」と思えるような、ラインのない関係を築いていくこと。つまり、早い段階で日本人以外の人々をいかにdonorとしてだけではなく、participantとして巻き込んでいくかがsustainableな支援活動を展開する一つの鍵になるのではということでした。


 その後、我々の大事な使命の一つは、次に起こるであろう災害に備え、災害支援のためのインフラを造ることなのではないかと考えるようになりました。今、我々はそれぞれの活動に携わりながら、多くの壁にぶつかり、学んでいます。その成長の記録を、精査された情報として、またすぐにでも使えるシステムとして残すことこそ、人々の記憶の中に日本の苦しみを深く刻むことになり、将来的に日本をも生かすことに繋がるのではないかと思っています。


 先日、NYUとCUNYの日本人会代表の方たち、Action for JapanのDC大学連盟の人などとお話しをする機会がありました。そこで、上のような投げかけをしたところ、では、災害支援活動のノウハウに関するwikiを作ったらどうかという意見が出てきました。そして、その日のうちにNYUの方が米国における震災支援活動方法に関する情報共有wikiを立ち上げて下さいました。是非ご覧になって頂き、共有できる情報をwikiにてシェアして頂ければと思います。誰でも書き込みのできる状態になっていて、NYUとCUNYの方に情報管理・精査をお願いしてあります。地域情報、大学ごとの情報や、注意を要する点などの項目がありますので、現時点では大学ごとの情報を集約したものを僕の方に連絡頂けると助かります。使い易さ、様々な団体がこれを使えるよう長期的なsustainabilityとflexibility、English Speakerにも使える言語の変換機能を重視していますが、あらゆる面でのコメントをお願いします。ご協力お願いします。


 また、今日、コロンビアに勤める友人たちと話していたところ、とても良いアイディアを出してくれました。僕が、「長期的なフレームで日本を生かす支援活動、しかも学生にしかできないことは何か?」と振ったところ、基金を設立するのはどうかという答えが返ってきました。次に起こるであろう大規模な自然災害のために、今回の日本の大震災をメモリアルにした基金を設立する…。これをAction for Japanの一つの目玉にできたらと思うのですが、いかがでしょうか。現時点では、日本の政府は資金的な援助を国際社会に対して要請していません(http://goodintents.org/)。新聞などでも書かれていますが、海外のNGOからの援助オファーなどに関しても、混乱を避けるために非常に制限した受け入れをしております。だとしたら、この時期に基金を設立するのは非常に理にかなっていますし、様々な企業を巻き込むこと、そして大学の知的財産を活用することにも繋がると思います。災害時の通信用アプリやその他の災害にまつわるInformation Technologyの開発、地震に関する更なる研究、津波情報システムの向上など、基金の規模によっては貢献度も相当高くなり得るかと思います。いかがでしょうか。


 今、日本が世界中の人々から受けている優しさ…そのバトンを次の被災国に繋ぐことが、日本をも生かすことになるのではないかと信じています。

生きること 2 ~元同僚からのメッセージ~

原子力発電所では命をかけて皆のために作業してくれているたくさんの人々がいます。

自分の身を犠牲にして多くの人の命を守ろうと懸命に仕事をしてくれています。

本校では募金活動が始まりました。

しかし、多くの生徒は日々の生活にほぼ変化はなく、勉強、部活がない時間の過ごし方も緊張感や現状への感謝の思いも十分とは言い難いと感じます。

日本に住んでいてもdonorの域です。

私も含めここから抜け出すことが必要であると読んでいて改めて感じました。

何かを伝えなくてはいけない。

今しかできないことを伝えなくてはと思います。

未来を担う子ども達の心が育つように 自分の場で出来ることを精一杯していきたいと思います。

多くの人々がつながり、活動の参加者が増え、持続的な支援活動となることを心から願っています。

2011年3月22日火曜日

生きること

 自分が勤務していた中学校だけじゃなく、今年もいろいろな地で、教え子たちが卒業を迎えた。



そんな中、東北大地震が起こり、多くの方の命と大切な物が奪われた。



 今取り組んでいる日本復興支援活動の中、いろいろな人に優しさと勇気をもらっている。命という最も根本的なところで、我々は皆同じだと教えてくれる。



 今回の活動を通して強く思ったこと、それは、学生、教師、主婦、看護婦、会社員、フリーター…、社会における立ち位置に関係なく、やれることは実はたくさんあるのだということ。もっと言えば、自分にしかできないことが実はたくさんあるのだと思う。そして、それを見つけ、全身全霊で行動した時、人は、「生きている」と感じる。



 先日、野球部の教え子の母親が亡くなったとの知らせを受けた。何度も顔を合わせたことのあるお母さんだった。去年の夏に僕が日本に帰った時、野球部の時の仲間たちが、母子家庭である彼の家に度々立ち寄り支え合っていると聞いた。



 「死」の存在があまりにも身近にある今日、その生徒だけでなく、全ての教え子たちと分かち合いたいこと、それは生きることだ。

2011年3月20日日曜日

今後を見据えて 1

*以下はロンドンで日本の災害支援活動をしているWe are with Japanという団体のメーリングリストにてシェアさせてもらったものです。様々な活動を展開する中で、今、大事にしようとしている長期的な問題意識です。




皆さま、


 NYコロンビアの鈴木大裕です。

今後の展開を見据えて考えていることがありますので、この場でシェアさせて下さい。



 我々が世界全土、様々な形で行っている日本支援活動は、地震と津波だけでなく原発の損壊による放射能漏れの影響も考えると、長期戦になることが予測されます。となると、我々の活動をいかにsustainableなものにするかが一つの大きな課題となるかと思います。



 メールでのやり取り、もしくはネットやメディアによる情報を見ていますと、私がいるコロンビアを含め、現在は日本人が主導となって活動を行っていることがうかがえます。それは至って自然で、望ましいことなのだと思います。しかし、今後はいかに日本人以外の人々をdonorとしてだけではなく、participantとして巻き込んでいくかが大事になると思うのです。このような活動に自分自身が係わって初めて味わうsense of agencyや高まるconsciousnessがあるかと思います。もし、日本復興に何年、何十年とかかるのであれば、今この時期にいかに多くの、幅広い人々に問題意識を共有してもらえるかがキーとなるでしょう。ドナーをする側、される側といったラインを引いた関係から、「これは私たちみんなの問題」と思えるような、ラインのない関係を築いていくことがsustainableな支援活動に繋がることでしょう。“They”から“We”への転換を視野に入れ、日本人以外のボランティアを幅広く巻き込んだ活動していけたら素晴らしいと思います。


鈴木 大裕

日本からのメッセージ

大裕、




3/20(日)16:00。風がおだやかでいい天気です。もう春です。



新浦安の自宅から現状のご報告です。



新浦安地区は断水が続いております。

復旧の目処はたっていません。

電気とガスは使えます。

道路は波打ち、フェンスは倒れ、信号は傾いています。

街中でホコリがたち、泥で学校の校庭も道路も埋め尽くされています。

液状化現象です。

救急車のサイレンが鳴り響いています。



幸い新浦安地区の建物は問題ありません。

建物の倒壊や窓ガラスが割れる等の情報は聞いておりません。



生活ですが、

お風呂は入れませんし、洗顔や歯磨きもできません。手も洗えません。

物がなくて、食事も一日一食から二食、ちゃんとしたあったかい食事は食べられません。

私ひとりですので、給水や食料、食事(炊き出しへの参加)は最小限にして、

多くの人に物が行き渡るようにと思っています。



給水には多くの人が並び、1時間以上、待ちます。

近所の中学校のプールへ水をくみにいって、お風呂にためて、

下水に使っています。水汲みは何往復もします。

お年寄りには辛い作業です。。。

外には、不安そうな子供達やお年寄りがたくさんいます。。。



実家が兵庫県ですので、大地震は2回目になります。

阪神淡路大震災のとき、私は19歳になったばかりでした。

炎に消えてゆく神戸長田の町をみて、涙が止まらなかったことを思い出します。



会社に職場近くの六本木のホテルをとってもらい、六本木のホテルと新浦安を

往復する毎日です。



気持ちは明るく元気にしています。

ちょっと疲れていて、頭痛がしますが、

大丈夫です。ご心配要りません。



ただ、今日をどう過ごすか、私だけでなく、多くの方が精一杯です。

これから、スコップで泥をどけるお手伝いをします。



この地震にあわれたすべて方の心の回復を切に祈っています。



松原 由和

2011年3月17日木曜日

本当の仕事

 随分ご無沙汰してしまった。

 東北大地震が起こってから、こちらNYでも怒涛の日々が続いている。
基本的には我がコロンビアティーチャーズカレッジの日本支援活動の取りまとめ、コロンビアの他のスクール、他大学、他国大学との連携に毎日奔走している。

 たまたま今は春休み中だ。勉強など一切していない。

昔、職員室で事務仕事をしていた僕を見つけるたびに小関先生が必ず放っていた言葉を思い出す。

   「こんなのは仕事じゃない。作業だ。子どもと係ることが俺たちの仕事なんだ。」

 このような惨事がある度に僕らは気付くのだ。

本当の仕事とは何か、生きている意味は何なのか。

小関先生からのメッセージ

 ここ千葉市では、海岸地区に液状化と工場地帯の火災があった程度。
大裕さんの実家周辺も液状化の被害はあったんだと思う。

直接的には、ガソリンの不足は生々しいものがある。

電車も動いたり動かなかったり。

コンビニやスーパーに行っても何もない状態がようやく改善してきた感じ。

原子力発電所の事故に関しては、かなり不安な状態。



 そんな中、学校は給食が配給不可能ということで毎日3時間授業で終わり。

本校は部活動も21日まで中止。

 余震の心配も合わせてということだけれども、こんな時こそ、本当の教育活動をしたいと思う。現状を様々な角度から教師が語り、子どもたちに考えさせたい。

地震や津波など、人間に力ではどうにもならない自然の力について、

今、自分達がやるべき事について、できることについて…



人間が人間のために努力する姿、協力する姿。

我慢すること、希望を捨てないこと…。

弁当持ちにしてでも、勉強をさせたいと思うべきじゃないのか?そう思う。

2011年3月13日日曜日

海外にいる我々にできること

現在海外で学ばれている日本人留学生の皆さま、




 大震災のことが気になっていても立ってもいられない人も少なくないことと思います。アメリカにいる我々にできることは限られていますが、何かできることをしませんか?



 今、コロンビア大学ティーチャーズカレッジの日本人留学生を中心に、様々なイニシアティブを立ち上げています。賛同して頂けるようでしたら是非参加下さい。



1. World's 1000 Messages for JapanというFacebookページを作りました。これからはこのサイトではなく、そちらのページで東日本大震災に関することを発信していきます。



皆さまのもとにも世界中の人々から日本の人々へのお悔やみと励ましのメッセージが届いていることかと思います。それを自由に書き込んで日本に向けて発信しましょう。



海外の地震関連の報道で、donationの動きなど、encouragingなものもたくさんあります。そのようなリンクをシェアして頂ければありがたいです。ご友人たちにも広くinvitationを出して頂きますようお願いします。



2. Twitterアカウントを作りました。Facebookのページに書き込まれた世界中の人々からのメッセージが一つひとつfollowerに届くようになっています。Twitter accountをお持ちの方は是非フォロー頂き、リツイートお願いします。これらのメッセージは、『世界から日本の人々へ1000のメッセージ』というブログでもご覧になれます。



3. 他に、アメリカに限らず、海外の大学で勉強される友人や、その他の在外日本人ネットワークを持っていらっしゃる方は、このメッセージを自由に転送して下さい。他の組織との連携等、やれることをやりましょう。募金等、新しいアイディアも募集中です。



4. Fundraisingイベントを行います。企画、運営、パフォーマンス等、どのような形でも良いので、参加頂ける方は連絡下さい。



海外にいる我々にもできることはあります。日本の人々と心を一つにしていきましょう。

2011年3月9日水曜日

卒業する君たちへ

熱く生き、感動に満ちた人生を!!

君たちの卒業を遠くから祝福しています。

おめでとう。

 

                                  鈴木大裕






2011年3月5日土曜日

3年生を送る会、ニューヨークからのメッセージ。

MHG中学校3年生の皆さん、

 ご卒業おめでとうございます。この度、ビデオメッセージを送ることができないので、この場を使って僕からの祝福のメッセージを贈りたいと思います。


 僕は今、アメリカのニューヨークにある大学院にいます。日々、世界中から集まった学生や有名な教授たちと、どうやったら教育を良くできるのかということについて考えています。僕が体育館のステージで君たちにサヨナラを言ってからもう3年が経とうとしています。


 僕が君たちと過ごしたのは2008年の4月から8月までのたったの4ヶ月間。そう思うとちょっと信じられません。英語の授業や、給食、昼休み、委員会や部活動などで、とても密の濃い時間を共にできたような気がしています。一人ひとりのこともよく覚えています。






 さて、君たちも良く知っているサッカー日本代表の本田圭佑選手が、


 「どうして不動のポジションを築いていたオランダからわざわざロシアに移ったのか?」


と訊かれてこんなことを言っていました。


 「常に自分にとって厳しい環境に身を置くことが大事だと思うから。」


 これは、言いかえれば、ちっぽけな想いをたくさんすることなのではないかな、と僕は思っています。一つの環境で一番になれたところで、上には必ず上がいます。自分にとって居心地の良いその場所でぬくぬくと過ごすのと、あえてもっと厳しい環境に移って一から始めるのとでは天と地の差があります。


 僕は、そうやって、ちっぽけな想いをたくさんすることが人を大きくするのだと信じています。自分に与えられた環境で満足することなく、厳しい環境を追い求め続ける。きっとそんな問題意識を持っている人は一生謙虚でいつづけ、走り続けられるのではないかなと思います。


 中学校卒業後、君たちは、それぞれの道を歩みます。新しい環境にて、ちっぽけな想いを楽しんでください。そして、いつかどこかで、ひとまわりもふたまわりも大きくなった君たちと会えることを楽しみにしています。






2011年3月吉日、 鈴木大裕。

2011年1月22日土曜日

先生という仕事


自由の女神から見た虹


先生という仕事


世間では、先生の仕事は教えることだという

でも、おそらくそれは間違っている

人は人のために何ができるのか

教えることなんてできやしない

教員だった私が、年月をかけ

子どもたち、一人の先生、そしてその娘さんから学んだこと

それは愛することだった

子ども一人ひとりの無限の可能性を信じ

妥協せずに愛すること



あとがき

書きながら、過去に小関先生から頂いた一通のメールを思い出した。

去年2月、このブログ上で精力的に自分の教員時代の回想をまとめていた時のこと。

小関先生から、「今だったらあの子たちともっと違った係りができただろう」 という内容のメールを頂いた。

僕が、「愛してやれなかったのだ、と反省ばかりです。」 と応えたところ、こんな返信があった。


「愛してやる」 のではなくて、ただ、「愛する」 だな。


この、ちょっとした言葉の違いには天と地の差があった。

一年経った今、自分はようやくそれに気付いた。

2011年1月13日木曜日

Something beautiful 8 ~街角のプロフェッショナル~

 バーを出たら外は大雪だった。

一軒目を出た時に降り始めた雪は、いつしか10cm程積っていた。

夜10:30をまわっていただろうか。

その日出会ったばかりの素晴らしい友人に別れを述べ、雪の中を歩いていたら無性に腹が減った。

さっき食べたあの肉厚バーガーはどこへ行ってしまったのか。

途中、一瞬迷ったが、わざわざ110th とColumbusの大きな交差点を渡り、開いてるか開いてないかもわからないピザ屋に立ち寄った。

客は誰もいなく、イスは全て机に上げられていた。



   “Are you guys still open?” (まだ開いてるのか?)



と僕が訊くと、二人いた店員の一人がジャケットを脱ぎながら、“OK.”と気のない返事をした。

スライスをオーダーすると、その店員が一枚切ってオーブンに放り込んでくれた。

白人の30代かと思われる兄ちゃんで、アクセントから察するところではイタリア系の移民だろうか。ハーレムでは珍しい。

何時に閉まるんだ?と訊くと、壁の時計を見て、あと2分だと言った。

住んでるのがここら辺だといいけど、と雪を心配して僕が言うと、ブロンクスだと教えてくれた。

この雪の中ブロンクスまで帰るのかと思うと気の毒になり、それは悪かったと言ってピザをオーブンから出すように伝えた。

すると、彼は迷わずNoと断り、こう言った。



   “Either you do it right, or you don’t.”
(やるんだったら正しくやる、そうでないんだったらやらない、そのどちらかだ。)



 外に出た僕は、歩きながら熱々のピザをほおばった。

 そのピザのおいしかったこと!

2011年1月11日火曜日

Something beautiful 7 ~All god’s children~

 最近、日曜日によく子どもたちをゴスペルに連れて行く。間違いなく、ハーレムに住む醍醐味の一つだろう。僕が行くのは、116thとAdam Clayton Powell Jr. Blvd (7th Ave)の交差点にあるバプティスト教会。次女の美風をスリングに入れ、長女愛音はベビーカー。急いで歩けば10分もかからない。



 この前の日曜日も行った。着いた時には既にミサが始まっていたので、僕らは2階席へ。係の人が気をきかせて、子どもでも見やすい席へ案内してくれた。来ている人たちはほとんど黒人で、白人もパラパラいるが、いかにも観光客らしくキョロキョロしている。アジア人などほとんどいない。僕が愛音の手を引いて入って行くと、皆優しい笑顔で歓迎してくれた。



 音楽が始まると愛音はいつも釘づけになる。盛り上がってくると自然に立ち上がり、拍手したり踊ったりしている。美風も僕の膝の上で敏感に音楽に反応する。



 いつも教会の中はすごい熱気だ。ど迫力のゴスペル隊のエネルギーがすぐに観衆に伝染し、皆歌ったり踊ったり両手を上げて神を崇めたり。牧師の話も、徐々に上がり調子になり、しまいにはマシンガンのようになる。ああ、黒人のラップはここからきたのかとさえ感じさせる。




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 一週間に一度、こうして一堂に集まって、歌を歌い、聖書を読み、神に感謝する…。何度も言うように、僕は特定の宗教を信じてはいないが、こうしてゴスペルに来る度に思うのだ。何てすてきな休日の過ごし方だろう。



 ミサが終わり、3ドルを寄付の封筒に入れ、外に出た。



 帰り道、教会でもらったマーティン・ルーサー・キングJr.牧師のうちわを楽しそうに振る愛音を見て、黒人のおばちゃんが優しく言った。



              “All god’s children.”


2011年1月9日日曜日

おとうさま

愛音はよく意味のわからないことをする…



 うちの愛音はなかなかの悪女だ。
最近の愛音のヒットは、クリスマスにサンタさんにもらった 『若草物語』 のビデオ。中でも、4姉妹がお父さんお母さんのことを、「お父様」「お母様」と呼ぶのが愛音にとって新鮮だったらしい。

 新しい言葉はすぐに使うのが愛音の主義。

昨日、こんなことがあった。

僕が食器を洗っていた時、玄関から愛音が、サイズ28cmの僕のブーツをはいてキッチンにドタドタ入ってきた。かと思ったらそのままはき捨てて走り去ろうとする。おいおい、ちゃんと直しておいて、と僕が言うと、愛音はおすましして、

 「はいはい。おとうしゃま❤」



そう答え、足で直して走って行った…。
3歳にて男の気持ちをもてあそぶ我が娘。末恐ろしい…。
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2011年1月7日金曜日

どんな走りを




 明けましておめでとうございます。
随分ご無沙汰してしまいましたが、みなさん良い年越しをされましたか?
最新ポストがずっと『討死に』であることがずっと気にはなっていたのですが、僕にとっては師走の忙しさも一緒に年を越してしまった感じです。学会のプロポーザル、新たな奨学金のアプリケーション、妻と始めた音楽療法関係の本の翻訳、子どもたちとの遠足などなど、やることは山積みです。
 本当は年初めに去年一年の反省と今年の抱負から始めたかったのですが、それを書き終えるのを待っていると日々の感動が消化されないまま過ぎていきそうなので、とりあえず今日みなさんとシェアしたいと感じたことから2011年、始めたいと思います。


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 今日、自分にとって最初の 「先生」 であるMr. Walkerに年初めのご挨拶をした。以前、『いつの日か ~ 繋いでいくこと(完) ~』 でも書いたように、Mr. Walkerは脳に癌を患っている。8月後半に彼のもとに駆け付けた時には、もういつ死んでもおかしくないと言われていたが、「闘うんだ」 と言った言葉通り、彼は2011年も迎えることができた。

 電話越しの彼の言葉は、意外とはっきりしていた。

僕は、訊かれるままに、自分の研究のことやら家族のことやらいろいろ話をした。そして、最後に、無駄と思いつつ彼に感謝の言葉を述べた。今までに何度試みたことだろう。僕の第二の人生は、彼との出会いから始まった。彼と出会っていなければ教育を志していなかっただろうし、間違いなく今の自分はない。しかし、言語というものが、そんな感謝の気持ちをこぼさず運んでくれた試しはない。

 いつものように、Mr. Walkerは 「わかっている」 と応えた。



 苦笑いをしたら、涙が出てきた。


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 恩師に挨拶することほど新年を始めるにふさわしいスタートはないと思う。これは、もしかしたら僕が特定の宗教をもっていないからかもしれない。僕にとって、新しい年の始めに恩師に挨拶をすることは儀式のようなものだ。過ぎて行った一年を恩師に報告する自分を見て、去年一年の自分の生き様を問い直すのだ。まっすぐに恩師の目を見つめられているか?堂々と胸を張れているか?それができて初めて次の一歩を踏み出すことができるのではないだろうか。

 新年早々、もう一人の恩師、小関先生にも電話でご挨拶することができた。またしても新たな気付きを頂いてしまった。これに関してはまた改めて書きたいと思う。

 自分が受け継いだバトンの重さを確認し、今年も素晴らしいスタートをきることができた。

 2011年、自分はどんな走りを恩師たちに見せることができることができるだろうか。

2010年12月19日日曜日

進化論

生徒は先生の器の中でしか育たないという。



確かにそうだ。



「それでも、自分を超える生徒を育てなければいけないんだ。」
と久し振りに電話で話した小関先生が言った。



「進化論だよね。進化してなんぼだから。」



  それが教員にとっての 「破」 なのだろうか。

2010年12月13日月曜日

「どぉじょ~!!」

 美風 (みかさ) が得意なことの一つに



    「どぉじょ~」 がある。



本や洗濯袋を見つけては、次から次へと 「どぉじょ~」 と持ってきてくれる。



使い方が少し間違っているのが気になるところだ。



美風は自分が何か欲しい時も、やっぱり 「どぉじょ~」 なのだ。



赤ちゃん用のイスに座り、食事が出てくるのを待つ美風。



食べ物がテーブルに運ばれてくると止まらなくなる。



「どぉじょ~、どぉじょ~っ!!」


2010年12月12日日曜日

「ばてぃこぃ ばてぃこぃっ!!」



 我が家の次女、美風 (みかさ) はもう14カ月になった。

どこだって歩いていくし、言葉もしゃべる。

    「まんま」 「ぱぁぱ」

の他にも、絶妙なタイミングでいろいろな言葉を上手に真似る。

NYでは英語に触れる機会も多いので、かなり怪しいが一応バイリンガルだ。

    「るっく!!( “look!!” )」 だって言えるし、

この頃のお気に入りは、「まいんっ!!( “mine!!” )」 だ。

そう、下の子は強いのだ。

お姉ちゃんが何か物を取り上げようとしても、

    「まいん、まいんっ!!」 を連発して応戦。負けてない。




美風は良くわけのわからない言葉もしゃべる。

    「ぶりっかぶりっかぶりっか!」

    「あ~ぢこ~ぢこ~ぢ!!」




中でも傑作なのが一つある。

    「ばてぃこぃばてぃこぃっ!!」 だ。

自分が野球部顧問をしていたからか、長女愛音 (あいね) の攻撃に

泣きながら応戦する美風が発するその言葉は、どうしても自分には、

    「バッチこい!」 と言っているように聞こえて笑えてしまうのだ…。
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2010年11月27日土曜日

愛音とどんぐり 2

 11月のある夕方、ベビーカーを押して近所のスーパーに買い物に行った時のこと。空を見上げると、何とも見事な月が出ていた。


   大裕: 「うわぁ~、愛音見てごらん!」

   愛音: 「あっ、おちゅきしゃま!」

   大裕: 「きれいだねえ」

   愛音: 「おっきい!」


ふと、愛音は太陽と月の関係をどう理解しているのだろうと思い、

   「愛音さ、お月さまは誰のことが好きか知ってる?」 と訊くと、 

   「と、うんと…。」 と一生懸命考える。


しばらくして僕が、

   「太陽さんだよ」 と言うと、

   「へぇ~」 と感心する愛音。


そして、「それでね、太陽さんもお月さまのことが大好きなんだよ」 
と言うと、愛音のテンションは急上昇し、

「そぅ!あいねちゃんね、
どんぐりさんがすきなの!!」


ほんとに好きなんだなと感心しつつ、僕はまたしても大笑いだ。


そして、

   「そっかあ。でもさ、どんぐりさんは愛音のこと好きなのかな。」

ちょっといじわるっぽく僕が訊くと、すぐさま、



と、あしたきいてみる!!」



「あいねちゃんのことすき?」「あいねちゃんのことすき?」 と、どんぐりにかたっぱしから声をかけまくる愛音をリアルに想像してしまった…。


2010年11月23日火曜日

愛音とどんぐり 1



ある晩、ベッドで愛音に姪っ子のまりなの話をしていた時のこと。


  「今年の夏は日本でまりなちゃんにいっぱいおんぶしてもらったね。

  まりなちゃんね、愛音みたいな小さな子がだ~い好きなんだって。

  大きくなったらまりなちゃんのお母さんみたいに幼稚園の先生に

  なりたいんだってよ。」


と僕が言うと、思い出してテンションが上がってきたのか、興奮気味に


「そぅ!あぃねちゃんはね、

おとなになったら

どんぐりになるの!!」 と愛音。



僕が大笑いしながら、


「そっか! でもなんで?」 と訊くと、


と、せっかくなのに(だから)!」



う~ん、大人には絶対にまねできない芸術的な子どもの感性…。

そのまま育ってくれー!!

2010年11月22日月曜日

真理を貫く

 『先生の教え』 というカテゴリーで紹介させて頂いている小関先生が、今年赴任された学校で孤軍奮闘中だ。時折先生から頂くメールには、「不良」 生徒たちを 「やっつける」 ことしか考えていない先生たちと、心を育ててもらってこなかった生徒たちの姿が綴られている。


 柔軟な子どもと比べ、大人を変えるのは難しい。積み重ねてきた歳月が心を固くし、いらないプライドが 「変わろう」 とする気持ちの邪魔をする。


 「自分はまだ何もわかっていない」 と認めることの自由、変われることの喜びを知らないのだ。


 進化することを拒む先生に子どもは教えられない。


 自分を変えるのは勇気がいる。


 その勇気を与えるのが先生なのだ。


 先生がその勇気を持っていなければ、子どもにその勇気を与えることなどできるわけがない。





 今日、小関先生からメールを頂いた。

夜遅くまで頑張っている新採の先生とこんな会話を交わしたそうだ。



   小関先生: 「先生は英語を教える先生だよね?」

   新採:    「はい…」

   小関先生: 「どうやって英語教えるか。難しいだろ?」

   新採:    「はい。教材研究頑張ってます。」

   小関先生: 「英語を教わりたい先生になること考えてる?」

   新採:    「は???」





小関先生は言う。

 どういう教育をどのようにするかという研究はたくさんされている

 でも本当に大事なのは どうしたら

 「あの先生に教わりたい」 と生徒達に思われる先生になれるか

 どうしたらそんな先生を育めるか



小関先生は言う。

 正しいことを教えても子供の心には入らない

 子供に教えるべきは 本当のこと


僕の心に入ったのも、小関先生の真理を貫くそんな教えの数々だった。

2010年11月21日日曜日

「約束」の意味 ~Revisiting “Responsibility” 3~

 ここ3回に渡って "Responsibility" (責任) の意味を問い直している。
僕にとって興味深いのは、Arendt の子どもの捉え方だ。Arendt にとって、「子ども」 は一時的な状態に過ぎない。彼女は、子どもを

“human beings in process of becoming but not yet complete”

「形成途中で未だ不完全な人間」

と表現している。そして、彼らが 「新しい」 のは、彼らの目の前に広がる世界との関係の中だけでのことであり、いつかは彼らも大人として子どもの産み出す力を育み、彼らに自分たちの古くなった世界の行く末を委ねる時が来るのだ。


Arendt は言う。


“Our hope always hangs on the new
which every generation brings.”


「我々の希望は常に新しい世代がもたらす新しきに懸っている。」


 『最大のテーマ ~Revisiting “Responsibility” 1~』 で書いたように、自分は今まで責任を与えられる側からしか考えて来なかった。自分が常に与えられていたのだから無理もなかったのかもしれない。結果、無意識に僕は与える側、与えられる側に生ずる責任の関係を一方的に理解していた。つまり、責任を「与えられる側」だけに課されるものとして、そして心のどこかで、恩返しは与えてくれた本人にすべきものだと考えていたのだ。Arendt の考えは、僕の理解が不完全であったことを教えてくれた。


 亮太君帰国の朝、僕らは出発の数時間前まで飲んでいた。いろいろ振り返りつつ、彼が僕に対する感謝の気持ちを伝えてくれた。そこで、僕は今回の亮太君の訪問を通して自分が学んだことを告げた。


   亮太君が僕を必要としていただけではない。
   僕自身も、自分の責任を果たすために、亮太君を必要としていたのだ。



「私にできることがあるわ」と言った、Naraian教授の顔が思い出される。きっと彼女の使命感も、同じような所から来ているのではないだろうか。きっと、彼女も、亮太君を必要としていたのではないだろうか。


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 最後に、今回これを書くにあたって、一つ気になって調べたことがある。


それは、responsibility の中心的な要素である 「約束」 の語源だ。


ご存じの通り、英語では約束という意味を指すのに promise という単語を使うが、このpromise、本来は、

pro(前に) mise(送る)

という意味を指している言葉だそうだ。



語源を追及して浮かび上がってくる “responsibility” という言葉の意味…。それは、与える者と与えられる者が 「約束」 というバトンを前へ前へと繋いでいく姿だった。



- 完 -

2010年11月20日土曜日

「二重」の責任 ~Revisiting “Responsibility” 2~

 先日、 “Arendt, Greene, and ‘shu-ha-ri’: the Dialectic of Freedom” というタイトルの論文を書いた。時間を十分かけ、格闘の中にも楽しみと情熱を忘れずに書き上げることができた。ここでは、Hannah Arendt (ハンナ・アーレント)の responsibility の概念に焦点を絞って語ってみたい。


 Arendt は大人には二つの responsibility があるという。一つは自分たちの世界に対する責任、もう一つは子どもに対する責任だ。


世界に対する責任
 まず、自分たちの世界に対する責任とは、「世界を子どもから守ること」であり 「古きを新しきから守ること」 だ。子どもに自分たちが守ってきた伝統や価値観を好き放題に壊させてはいけない、自分たちが歩んできた道のりにプライドを持て、もしくは持てるような生き方をしろと言うArendt の叱咤激励が聞こえてくるようだ。


 と同時に、Arendt がイメージする 「世界」 とは、そんなきれいごとだけでは済まない。善いもの美しいものだけではなく、悪しきもの醜いものもそっくりそのまま子どもに教えなければいけない。子どもたちはそうすることによって初めて、自分たちが受け継ごうとしている世界が発展途上で不完全だということを知るのだ。


 Arendt は更に主張する。全ての人間がいつかは死すべき運命にあるように、この世界も進化を止めれば死にゆく運命にある。そして、その進化を為し得るのはいつの時代も子どもだけなのだ。皮肉にも、大人たちは自分たちが守ってきた世界を慈しむが故に、子どもたちにそれを創り変えさせるのだ。


 こうして、世界に対する責任は徐々に子どもに対する責任へと融合していく。


子どもに対する責任
 Arendt は、子どもは “natality” (産み出す力)というものを持って生まれ、一人ひとりが新しさと革新の要素を持っていると断言する。そして、大人の責任とは、「子どもを世界から守ること」、「新しきを古きから守ること」 であり、彼らが世界を創り変えるための準備をすることだ。


 これらの分析から導かれる一つの結論、それは、世界に対する責任を全うすること(古きを新しきから守ること)は逆に子どもに対する責任を全うすること(新しきを古きから守ること)をも要求するということだ。


 これは、大人に課される 「二重」 の責任は、実は古きと新しきの間に存在する一つの緊張の関係であり、我々大人はその両端を包含する教育によってのみ、世界の存続を可能にすること意味している。

(続く…。)

最大のテーマ ~Revisiting “Responsibility” 1~

 「あなたにとっての最大のテーマは?」 と誰かに訊かれたら、僕は間違いなく 「責任」 と答えるだろう。


 16歳の時、両親に多大な経済的負担をかけつつ留学させてもらった時に始まり、留学先のニューハンプシャー州の高校で自分の人生を変えてくれた Mr. Walker と出会い、日本の教育改革を志し、大学、大学院と教育学を専攻し、素晴らしい教育者たちとの出会いや先達の知恵に恵まれ、帰国して公立中学校の教員になり、小関先生との出会いによって自分の芯を持ち、再びアメリカにて教育学に没頭している今も含めて、自分の歩みの全てを、この 「責任」 という一言で説明できる。


 以前にもこのブログにて、日本語英語両方で responsibility という英単語の語源を探求しつつ 「責任」 の自分なりの定義を試みた。 responsibility は本来


    re (return) – spondere (promise) - ibility (ability)

    「返す」     「約束する」     「能力」


という3つの部分から成っており、それを踏まえて英英辞典の定義 (“a particular burden of obligation upon one who is responsible”) を訳すと次のようになる。


「約束をもってお返しをする、

その能力を持つ者に課せられる義務という負担。」


 この探求を通して、僕は responsibility における 「責任」 とは、外部から強制的に背負わされるものではなく、本質的に自発的であり、恩恵を受けた人やものに対する約束であると同時に、何よりも自分自身に対する約束、けじめなのだと考えるようになった。


 しかし、今回、片岡亮太君をゲストとして2週間ほど迎え入れたこと、そして同時期にHanna Arendtを読んでいたことが、僕に新たな気付きをもたらしてくれた。


 以前にも 「責任」 を与える者と与えられる者の関係として認識してはいたが、今になってわかるのは、自分が「与えられる」側からしか責任を考えていなかったのだ。


 しかし、今回の亮太君の訪問で、僕は与える側から責任を考えることができた。もちろん、もらったものもたくさんあった。だが幸運にも、与えられるものもたくさんあった。ただそれは僕自身の力というわけではなく、自分を通して多くの人の力を彼に貸すことができたというだけに過ぎない。


 亮太君がNYにやって来た2日後、僕らは早速、彼の留学の立役者となってくれたNaraian教授に挨拶に行った。彼女は僕が所属するCurriculum & Teachingという学部の教授で、スポンサーとして彼を受け入れてくれた人だ。今年3月、僕自身とも初対面だったにもかかわらず、僕が口頭で紹介した亮太君の受け入れに同意して下さった、非常に懐の深い人間だ。


 その彼女、亮太君との初めての出会いを心から喜んで下さり、ただ単に彼を受け入れるだけでなく、1年間という短い彼の留学をどうしたら有意義なものにできるかということを真剣に考えて下さった。個人授業や学会への参加など、いろいろな可能性を熱く語って下さる中、彼女が言った一言が心に残った。


“I have something to offer.”

「私にできることがあるわ。」

 
(続く…)

2010年11月17日水曜日

「生きているって楽しい!」 ~ 片岡亮太君のメッセージ ~


 2010年3月12日。妻の大学時代の後輩から一通のメールがあった。彼女の友人が、このたび奨学金を得て一年間アメリカに学びに来ることになり、行く場所や学ぶことを具体的に決めるにあたって相談にのってもらえないかということだった。その「友達」というのが全盲の和太鼓奏者、片岡亮太君だった。

 彼のブログを見た妻が感銘を受けメールしたところ、早速返信があった。「何とかしてあげたいんだけど」と言いながら見せられたそのメールに、僕自身も何か大きなエネルギーを感じ、自分にやれることは何でもしようと決意したのだった。


 この場を借りて少し彼の紹介をしたい。


 片岡亮太君、26歳。生まれつき弱視だったが、10歳で完全に視力を失った。その後、静岡の盲学校に編入。そこでの太鼓と出会いによって人生が大きく変わった。東京の全寮制の高校を経て、上智大学文学部社会福祉学科入学。勉強の一環として訪れた様々な福祉施設で、盲目という障害を抱える社会的弱者である自分に対して、多くのご老人や障害を持っている方々が心を開いてくれることに気付き、自分にしかできないことの可能性を実感し、勉強に励んだ。気付けば同学科を首席で卒業していた。その後、全盲にて和太鼓奏者、そして社会福祉士である自分だからこそ伝えられるメッセージと音楽があるのではという想いから、プロの和太鼓奏者としての道を進むことを決意。現在は日本中で活躍している。




 10月30日、その亮太君が我が家にやって来た。来年1月から僕の通うコロンビア大学ティーチャーズカレッジ(TC)にて科目履修生として入学することが決まり、下見のための訪問だ。


 運が良い…というのはおかしいのかもしれない。今回、彼の留学のために、本当に多くの人たちが動いてくれた。僕が所属する学部の教授たち、Office of International Study Servicesの人たち、TCそしてその他の大事な友人たち、太鼓繋がりの先輩夫婦、こっちで新しく出会った人々…。皆、彼の生き方に共感した人々だと思う。滞在中、何か信じられない幸運に出会うたびに、「今までの生き方は間違ってなかったね」と彼に言ってきた。ぼくたち家族にとっても、彼のおかげで様々な人々の優しさに触れた2週間だった。


 しかし、それらの人たちの協力で、彼にとって本当に贅沢で密の濃い2週間となった。TCの日本人留学生の皆さんの協力を得て、彼の訪問前には「片岡亮太君を応援する会」なるものを立ち上げてあったのだが、彼のウェルカムパーティーには約25名もの人々が参加してくれた。それ以外にも、様々な人たちが忙しいスケジュールの合間を縫って、交代ごうたいで彼のガイドを務めてくれた。TCでの授業見学、教授との面接、図書館での勉強、チャイナタウン見学、TC和太鼓愛好会の練習参加、そこでのパフォーマンス、NYマラソンでの彼らとのコラボ、ハーレムでのゴスペルやジャズの殿堂であるブルーノートでの音楽鑑賞、ブロードウェイでのミュージカル見学、NY在住日本人による子どもたちのプレイグループへの参加、視覚障害者施設や音楽療法センター見学とそこでのジャムセッション、メトロポリタンミュージアム見学、セントラルパークやコロンビア大学散策、アッパーウェストサイドでのディナー、本場ニューヨーカー宅でのホームステイ…。そして、帰国前夜にはTCのInternational Education Weekというイベントのレセプションでとりを務め、人々からstanding ovationを受けた。今回様々な形で支援して下さった多くの方々も応援にいらして下さっており、フィナーレとしてふさわしい、華々しい最後だった。その時の演奏はこちら



 そして、帰国前日、彼から応援してくれた人たち宛てにありがとうのメールが届いた。

 12日金曜日から二泊三日のDallasでのスケジュールも無事に終え、いよいよ僕の短期NY滞在ももうすぐ終了です。来年一月には帰ってくるとはいえ、寂しい気持ちを隠しきれないのが正直なところです。本当にあっという間、もないほどに、凝縮された濃密で充実した、素敵な時間をすごさせていただきました。TCで学んでおられる方たちはもちろんのこと、それぞれに皆さんがお忙しい日々をすごしているにもかかわらず、僕にお力を貸してくださったおかげです。本当にありがとうございました。心から感謝しています。本日7時から、TCのGrace Dodge Hall (GDH) 179で行われるイベントでの演奏で(僕は20時半くらいの演奏の予定です)、皆さんへの思い、今ここにいられることの幸せを音にこめたいと思っています。お時間がおありな方はお聞きくださるとうれしいです。

 今年2月、ダスキンの奨学金に合格し、どんなチャレンジをしようかと考え、「音楽家であり、障害や福祉についてのメッセンジャーでもある存在でいるために、改めて勉強をしたい」と考え出したことからはじまった新たな歩み。大学時代の友人を通して大裕さん、琴栄さん夫妻と出会わせていただき、Teachers Collegeで障害学を学ぶチャンスを得られたことは、信じがたいほどの偶然の重なりの結果でした。けれど、そのことを心からありがたいと思う反面、話が進めば進むほど、僕の心には、大きなチャレンジが具体性を帯びていく中で生まれる、さまざまな不安が影を落としていました。


 「英会話が得意ではない、大学卒業後は学問にほとんど触れていない、外国も一度しか行ったことがない…、そんな自分に一年間もアメリカでの生活なんてできるのか?でも、奨学金をもらうのだし、自分は何かを伝えていく使命があるはずなのだからがんばらなくてはいけないんだ。」そのような自問自答を何度も繰り返しているうちに、僕の心は自由さを失ってがんじがらめになっていました。何もかもが怖くなってしまい、身動きがとれない日もありました。


 そんなとき、大裕さんからのメールで、皆さんが僕をサポートするために手を上げてくださっているという連絡をいただいたのです。想像もしていなかった出来事に、うれしい気持ちと感謝の気持ちがあふれ、胸が熱くなりました。今も、あのときの不安と、今回皆さんがくださったたくさんの暖かさを思い出すと目が潤んでしまいます。皆さんに伝えるべき感謝の言葉がうまく見つけられないほど、心からありがたく思っています。あのときから、僕の心にはまた大きなエネルギーが戻ってきました。


 こちらに来る直前に、奈良市内にある中学校で公演をさせていただきました。「道を進む」と題し、太鼓の演奏と僕の話を聞いてもらうというものでした。その準備として、中学生に何を伝えたいのかについて考えていた際、改めて僕が歩んできたこれまでの道のりを思い起こしていました。そして、僕が見てもらいたいこと、伝えていきたいことは、「生きていることの尊さと喜び」なのだということに気づきました。


 弱視で生まれ、絵を描く喜びに目覚めた10歳のときに失明し、どうしようもない悔しさや絶望に近い感情を知りました。生きることを止めてしまいたいと思ったこともありました。けれど、11歳で太鼓に出会えたころから、僕の心に新たな光がさし、たくさんの喜びに触れ、たくさんの出会いを経験し、すばらしい出来事を全身で味わうことができる人生をこれまで歩んでこられました。そして、今新たなチャレンジとしてアメリカという大きな舞台に足を進めようとしています。当然、一筋縄ではいかないこともありましたし、それはこれからも同じだとは思います。けれど、それも含めて、「楽しい」と胸をはれる今があることは、間違いなく僕がずっと行き続けてきたからです。生きていればもちろんつらいことにも出会うけれど、最高の幸せにも出会える。小中学生が生きていることをやめてしまう今、僕に伝えられることは、生きることは無限の可能性に満ちているということ、それを言葉だけでとどめないために、僕自身がすべてを楽しんでこれからも生きていきたい。障害学を学ぶことは、使命ではなくて、僕が片岡亮太という人生を楽しむ大きなエッセンスなのだと今は考えています。だからこそ、真剣に取り組もうと強く思っています。


 「生きているって楽しい」というメッセージを伝えていきたいと考えながらすごしたNYでの短期滞在は、輝きに満ちていました。知らなかったこと、知ろうとしていなかったことにたくさん出会えました。皆さんとお話させていただいた言葉の一つ一つが僕の心を楽しくしてくれました。その中で、「片岡亮太はこういう人間だ」とか、「自分の演奏はこういうものでなければいけない」など、気づかないうちに重ね着をしてきたこだわりという服に気づき、それらを脱ぎ捨てることで何もかもを楽しみ、その楽しさをまっすぐに表現したいと考えている自分の心の核の存在を今まで以上に強く意識することができたように思います。「自分の内側を耕してきたい」とダスキンの面接の際に話していたのですが、心の核を覆っていたたくさんのものに気づくことができた今、耕す準備ができたと思っています。一月からの学びのスタートを前に、このような状体に自分を持ってくることができたことを、心からうれしく思います。皆さんが、お忙しい中僕をさまざまなところにガイドしてくださったこと、TC内でお声がけくださったこと、素敵な時間をアレンジしてくださったこと、さまざまな言葉をくださったこと、すべてに感謝しています。ありがとうございました。

 滞在中にすばらしい条件のアパートも見つけることができ、最高のコンディションで一月からのスタートに備えられます!明日帰国し、再びこちらに戻ってくるまでの時間も、たっぷり楽しんで、いよいよ始まるチャレンジを端から端まで楽しく味わいつくす準備をしてきます!ぜひ来年TCなどで僕を見つけてくださったときには、声をかけていただけるとうれしいです。そして、たくさんお話させていただければ幸いです。


 長文にて失礼をしました。NYはこれからどんどん寒くなることと思います。どうかご自愛ください。約二週間、本当にお世話になりました。これからもよろしくお願いします!!


    心からの感謝を込めて

        亮太





 溢れる想いというのは、こういうことを言うのだと思う。帰国前夜、出発の数時間前まで彼と酒を飲んで語っていた時、前回紹介した『第五の山』のquoteを思い出していた。
心に聖なる炎を持つ男や女だけが、神と対決する勇気を持っている。そして彼らだけが、神の愛に戻る道を知っている。なぜならば、悲劇は罰ではなくて挑戦であることを、彼らは理解しているからである。 
 生きることの喜びを伝える亮太君のメッセージと太鼓は、きっと多くの人々の心に響き渡ることだろう。

2010年11月13日土曜日

宗教における守破離 ~「自由」を捨てて自らを解き放つ 6~

 前回再投稿した 『信仰と自由の関係』 に対して、マサさんがコメントを下さった。彼の真っ直ぐな人柄が伝わってくる、真摯で批判的なコメントだった。彼のコメントを読みつつ、自分が何故、「宗教」 を持ちだしたのかを思い返してみた。そして、そうすることが、小関先生との出会いが僕の宗教観を如何に変えたかということを確認する機会を与えてくれた。


 僕にとって、『信仰と自由の関係』 を書くこと、それは自分の過去の宗教観を問い正すことだった。


 僕の宗教に対する考えは小関先生に出会って完全に覆された。


 冒頭の、「神を信じる人間はきっと自由なのだと思う」 というあの言葉、小関先生に会う前の自分だったらきっとこう言っていただろう。


 「神を信じる人間はきっと心が弱く、不自由だと思う。」


 小関先生も僕と同じように、ある特定の宗教をいらっしゃるわけではない。ただ、宗教に対する深い理解を持っていらっしゃる。それはご自分が、自分自身の先生を信じる感覚と宗教家が神を信じる感覚は似ているのではないだろうかという推察からだ。


 ここで僕が取り上げているのは 「何を」 信じるかではなく、信仰される対象の説得力の問題でもない。僕の興味の中心にあるのは 「どのように」 信じるかということであり、「信じきる」 ことから生まれる精神の自立だ。


 そして、それは宗教にも守破離を見出すことができるのではないかという一つの可能性を示唆している。


 世界中に散らばる無数の宗教を、「宗教」 という名目の下ひとくくりにするのはある意味馬鹿げているし、だからこそ前回の投稿で誤解を生んでしまったのだと思う。


 なので、ここでは 「宗教」 という institution ではなく 「神」 として、神の側からではなく個人の側から、人が神を如何に信じるかという個人的な体験として考えていきたい。





 先ほども述べたように、僕は、神を信じるという行為にも守破離という道筋があるように思う。


 意味も分からずにただハイハイと教えを守るだけの 「守」 から始まり、自分の行動を制限するだけでしかなかった 「枠」 が、いつしか精神の 「芯」 として内在化されていく。初めは困った時だけ、注意した時だけ守っていた神の教えは、いつしか自分の生活における全ての軸をなすようになるだろう。


 自分の弱さとの葛藤が消えることはないが、もはや迷いは消え、目指すべき所、今なすべきことが自ずと見えるようになる。教えには書かれていないことにも神の意志を問うようになり、神との対話から自分の行動を決定するようになるだろう。

 そしていつの日か、神の教えに挑む時が来るのではないだろうか。「挑む」 と言うと傲慢で挑戦的に聞こえるかもしれないが、根本にあるのは謙虚さと共に、我々人間にどれだけ神の言葉や行いを理解することができるのかという問題意識でもある。よって、挑むということは神の意志を真に理解しようとする、譲れない信仰心を持つ者にしか為せないことだ。


 僕の大好きな作家の一人に、パウロ・コエーリョというブラジルの作家がいる。『アルケミスト』、『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』、『星の巡礼』など、数多くの素晴らしい作品を世に送り出してきた作家だ。彼の作品の中に、『第五の山』 という宗教と深く関わる本がある。最後に、その中の一節を紹介して終わりにしたい。そこに描かれているのは宗教における守破離のプロセス、そして信仰と自由の関係であるように思えてならない。



 時には、神と争うことも必要なのだ。
人間は誰でも、その人生で悲劇に見舞われることがある。
住む町の崩壊、息子の死、誤った告発、病気による体の障害などだ。
その時神は、自分の質問に答えるよう、人間に挑戦するのだ。


「なぜ、お前はそんなにも短く、苦しみに満ちた一生に
しがみついているのだ?お前の苦闘の意味は何なのだ?」

 この質問にどう答えるかわからない者は諦めてしまう。
一方、神は公正でないと感じて、存在の意味を求める者は、
自分の運命に挑戦する。天から火が降りてくるのは、その時である。
それは、人を殺す火ではなく、古い壁をひき倒して真の可能性を
それぞれの人に知らせる火なのだ。臆病者は絶対に、
この火が自分の胸を焼くのを許そうとはしない。彼らが望むのは、
変わってしまった状況がすぐにまた、元通りになって、
それまで通りの考え方や生き方で生きていくことだけなのだ。
しかし、勇敢な者は、古くなったものに火をつけ、たとえ、
どんなにつらくとも、神をも含めてすべてを捨てて、前進し続けるのだ。


 「勇敢な者は常に頑固である。」


 天界では神が満足の笑みを浮かべている。
なぜならば、神が望んでいるのは、一人ひとりの人間が、
自分の人生の責任を自らの手に握ることだからだ。
主は自分の子供たちに、最高の贈り物を与えているのだ。
それは、自らの行動を選択し、決定する能力である。


 心に聖なる炎を持つ男や女だけが、神と対決する勇気を
持っている。そして彼らだけが、神の愛に戻る道を知っている。
なぜならば、悲劇は罰ではなくて挑戦であることを、
彼らは理解しているからである。 pp. 219-220




2010年11月6日土曜日

信仰と自由の関係 ~「自由」を捨てて自らを解き放つ 5~(再)

 

 神を信じる人間はきっと自由なのだと思う。


 僕は、神の存在を信じているが、信仰する宗教はもっていない。

そんな自分が宗教を語るのはおかしいかもしれないが、 「自由を捨てて自らを解き放つ」 というタイトルは、人が神を信仰するプロセスに通ずるのではないかと思う。神を信仰するということは、様々な欲望を抑え、厳しい神の教えに従うということだと思う。でも、それは自由を失うということではないように思う。


 宗教にはいろいろあるし、一概には言えないのは分かっているが、僕がイメージする宗教を語ってみたい。僕が思うに、宗教を信仰するということは神の教えを内在化させることであり、それによってもたらされるのは精神の自立だ。神の教えが自分の中の 「絶対」 となれば、それは周りに流されない信念を与えてくれるだろう。その信念は自分を神の教えに閉じ込めるのではなく、逆に新たな考えや世界へと踏み出す自信となるだろう。迷いは消え、自分の弱さとの葛藤のみが残るのではないだろうか。




 僕が言う 「先生を持つ」 という感覚は、きっと宗教家が 「神を信じる」 という感覚と似ているのだと思う。先生の教えを内在化させるということは、いつであろうがどこであろうが先生を意識して行動することに他ならない。アメリカにいる今でも自分に問いかける。 「今、小関先生がこの場に入って来られても、自分は胸を張っていられるだろうか。」 そう問い続けることが、自分を鼓舞し、正しい方向へと導いてくれるように思う。


 これを読んでくれている人たちの中でも、僕と小関先生の人間関係を理解できない人も少なくないのではないかと思う。そんな不安もあり、このブログで小関先生のことを書く時にはあえて敬語を使って来なかった。このブログの投稿記事数は今回で109になるが、少なくとも5回に1回は 『先生の教え』(計25本) について書いていることになる。[注: 2010年11月6日現在では209本中の52本だ。]


 『自分を持つということ③ ~周りに流されない信念~』 で、剣道部の生徒たちがいかに小関先生に洗脳されているように周りに映るのかを書いたが、間違いなく自分も周りの教員からはそう見られていた。生徒の前であろうが呼ばれればダッシュで駆け付けたし、夜中だろうが何をやっていようが携帯で呼び出されればすっ飛んで行った。夏休み中、長野の山奥の山小屋に妻を一人残して、 「いざ鎌倉!!」 と言わんばかりに埼玉まで関東大会の応援に駆け付けたこともあった。


 もしその人が間違った方向に導いていたら…、そこまで一人の人間を盲目に信じることは危険なのでは…、と思う人もいるかと思う。だが、僕にとってそんな不安はさらさらない。これはいつか書こうと思い続けてきたことだが、実は小関先生にも二人の先生がいるのだ。一人は大学時代の剣道部の先生である塩入先生。もう一人はまだ船橋市の教員だった頃から師弟関係のある奥村先生だ。二人とも超一流の教育者だ。


 小関先生は言う。


    「俺が言っている言葉は全て先生たちの言葉だ。」


 僕が小関先生に絶対の自信を持てるのは、小関先生自身が自分の先生に学び続け、自分を問い続けているからだ。自分はこれで良いのか。先生だったら何とおっしゃるだろう?


 また、奥村先生も、小関先生の道場の控室に飾ってある奥村先生の師匠の写真を見ながら、 「俺が語っているのは全部爺さんの言葉だ」 と何とも優しい目でおっしゃっていた。


 だから、こうして僕が崇拝している教えは、歴代の先生方によって、何十年、何百年と受け継がれ、磨き継がれてきた 約束のバトン だと思っている。それは決して完成されたものではない。でも、未完全で、満足されることなく追い求めてこられた教えだからこそ、自分は身を委ねることができるのだと思っている。


 小関先生は生徒にも平気で自分が打たれる姿を見せる。


 奥村先生は、よくうちの中学校の道場に顔を出される。大会前などになると、防具をまとい剣道部の生徒に稽古までつけて下さる。そんな時、小関先生は決まって自身も防具をつけ、真剣勝負を挑む。そして無惨に打たれる生身の姿を生徒に見せるのだ。


「お前たちだけじゃない。自分だって修行中の身だ。」 


そんなメッセージを生徒に送り続ける小関先生の教えには、何にも勝る説得力がある。

2010年11月4日木曜日

型は進化する ~Re: 古典的奏法から得られる身体運動の無限の可能性~

 先日マサさんが紹介して下さった締め太鼓の打ち方に見られる可能性から、型の理解を深めたいと思う。


 マサさんの見解やシェアして下さった動画から、締め太鼓の古典的奏法が、一見不自然に見えつつ、実は理にかなっていて様々な応用が可能なすばらしい打ち方であることが分かる。


 この気付きに表れているのは、武道や芸能における 「型」 の重みだと思う。そして、この理解こそが、マサさんが危惧する現代和太鼓音楽の行き詰まりや、源了圓氏が指摘する高度成長の激動で日本が陥った「型なし状態」の危険性を打破するために欠かせないものなのではないかと考える。


 「守・破・離」の前の「信」のコメントで竹越さんが、「過去の叡智の積み重ねの上に成り立っているサイエンス」 における 「守」 の必要性についてシェアして下さった。また、それとは別に、最近仲良くさせて頂いている伊喜利さんが、型を 「最大公約数」 という表現で理解されていた。


 ここで大事なのは、型を静的で arbitrary なものとして理解するのではなく、長い長い歩みの中、先達によって積み重ねられ、時代の流れに合わせて進化してきたとする理解だ。その意味で、竹越さんが紹介して下さった、ニュートンの "Standing on the shoulders of giants." という言葉は非常に的を得ている。大事なのは、"Standing on the shoulders of giant." ではなく "giants" となっている所なのではないだろうか。思い描かれるのはたった一人の偉大な創始者ではなく、各時代を築き、繋いできた巨匠たちの姿だ。


 逆に、伝統や型を無視するということは、先達が歩んできた道を否定し、積み重ねてきた叡智を無視することになるのではないだろうか。マサさんの 「入門者がその持ち方をすると数時間で肩がばりばりに固まり、腕が上がらなくなる。」 という指摘からも分かるように、そもそも、型の真の大切さは守りきった者にしか分からないのだと思う。だから入門者には有無を言わさずやらせるしかない。それを最初から、型が何故大事なのかと問うたり、型を避けて通るのは間違っている。


 最近僕が格闘し続けているHannah Arendtは、次のように主張する。大人たちは、自分たちの生き方や先祖から受け継いできた伝統を子どもたちに有無を言わさず教え込むのだ。そうして型にはめることによって初めて子どもたちは、いつしか自分たちが受け継いだ世界の美しさや守るべき善だけでなく、醜さや改善すべき悪をも理解するだろう。そこに新しい光がもたらされる。立ち止り、進化を止めれば死にゆく運命にあるこの世界も、子どもたちが持って生まれる natality (産み出す力) によって変わることができる。それが世界が生き続ける唯一の方法なのだ。


 だから彼女は、子どもたちが為すべきことが Creation (新しい世界の創造) だとは言わない。常に Re-creation なのだ。そのこだわりに託されたのはこんなメッセージではないだろうか。


世代交代によって新しい世界が創られるわけではない。

新しい世界へと創り変えられるのだ。




2010年11月3日水曜日

型の内在化: 「枠」 から 「芯」 へ  ~「自由」 を捨てて自らを解き放つ 4~(編)

 前回、 「守・破・離」 における型とは自分の行動、思考、信念を制限する 「枠組」 みではなく 「精神の芯」 であると書いた。ただ、修行を始めたばかりの者に、「型とは枠組みではない!」 と言っても理解できないと思う。


 僕自身にとっても、小関先生から与えられた型を守ることは、最初は息苦しくて仕方なかった。小関先生の教えに学ぶことは自分で選んだ道だったが、理解できないことばかりで、言われる通りに従うだけだった。英語の授業をしていても、グランドで野球部の練習を指導していても、小関先生にどこからか見られているのではないかと、いつもビクビクしていた。


 当時の自分にとっては、型とはまさしく自分らしさや 「自由」 を制限する枠組みでしかなかった。しかし、何年目だったかは分からないが、枠組みがいつしか自分の 「芯」 へと変化していたのだ。きっと、毎日まいにち守り続け、先生の教えを刷り込まれるうちに、型が内在化された結果なのだと思う。






 自分の教えを振り返ると、僕が野球部の指導で達成できなかったのはこのステップだったのだと思う。枠を与えることはできた。しかし、それを生徒たちが内在化する所までは持って行けなかった。そのために、僕の意図する教えが彼らの心にまで浸透することはなかったように思う。


 だから、生徒たちはグラウンドでは礼儀正しく一生懸命やっていても、練習以外の時間では服装を乱したり、僕が練習に出られない時は雰囲気が緩んだり、少なくとも学校の敷地の中ではちゃんと教えを守れるようになっても、家に帰ると大会前でも怠惰な生活をしたりして本番で力が発揮できなかったりした。


 野球部顧問として、僕が最後まで苦悩し続けたのは技術指導よりも心の指導だった。どうしたら、人の想いを背負って今という瞬間を大切にできる一流の人間を育てることができるのか…。自分が最終的に目指したのはそこであった。


 今考えてみると、僕の教員生活の大半は、理由も分からずに生活指導をしていた。


   学校生活でも服装を正しなさい。

     挨拶をきちんとしなさい。

       自分の身の回りを整理整頓しなさい。

         時間を守りなさい。

           汚れたユニフォームは自分で洗いなさい…。


 見た目ではなく、自分の内面から滲み出る個性、自律の精神、感謝の心など、これら全てが理解できて初めて僕が目指していた人間の育成が可能になること、そして、それは選手たちにとって、周りの中学生だけじゃなく、時に周りの大人をも超える人間性を身につける必要があるということに気付くまでに何年もかかった。そして気付いたところで、その教えを枠から芯へと導く力は自分にはなかった。これは自分が彼らの「先生」になれなかったことを意味している。


    悔しい…。


でも、だからこそ、今でもそこを目指している自分がいる。

2010年11月2日火曜日

「枠」 ではなく 「芯」 ~「自由」 を捨てて自らを解き放つ 3~




型とは 「枠組み」 ではなく精神の 「芯」 である。


 ここ数回に渡り、 「守・破・離」 の教えにおける型と自由の関係について考えてきた。このテーマの最大のチャレンジは、真逆とも取れる 「型」 と 「自由」 が実は共存するということを言葉で説明することだ。いろいろ考えたあげく、難しさの一因は 「型」 が持つイメージにあるのではないかという結論に至った。


 型というと、一般的には形を決めるための「枠」のことを指すのではないかと思う。もし型を枠と捉えれば、確かにそれは自由と相対するものになる。こうしなければいけない、そうしてはいけない、これが正しい、それは間違っている、これが必要、それは不要…というように、自分の行動、思考、信念など全ての自由を制限するだろう。


 しかし、もし型を 「精神の芯」 と捉えたらどうだろう。その場合、型は行動、思考、信念の枠組みではなく土台を意味する。「守・破・離」 の教えにおいて、自由とは 「精神の自立」 を意味するのではないだろうか。



あとがき (2010年11月2日)

 前回も紹介した 『武の素描 ~気を中心にした体験的武道論~』 という本で、筆者である大保木輝雄先生は次のような結論に至っている。



技の歪みを正し、身体を正すことによって、

何物にもとらわれない自由な心の在り方を会得させる、

それが剣術の 『かた』 習いの本義であった。




 今度改めて紹介したいと思うが、この前も書いたように、先週の土曜日から約2週間の予定で、盲目の和太鼓奏者、片岡亮太君が日本から我が家に来ている。滞在2日目、Teachers Collegeの太鼓愛好会の練習会で彼のパフォーマンスを聴く機会があった。彼の演奏は、DVDでは観たことがあったが、ライブは初めてだった。音楽を言葉で説明するとどうしてもチープになってしまいそうなので避けたいと思うが、少なくとも、彼のビートが和太鼓が好きでそこに集まった人たちの心に鳴り響いたのは確かだった。


 演奏後、音楽療法師である僕の妻が言ったことの中で、一つの言葉が僕の頭から離れなかった。


   「軸がぶれないよね」


亮太君は嬉しそうに、意識しているんです、と答えた。


 そんな亮太君も、そこにたどり着くまでには相当の苦労があったようだ。最初のうちは、師匠である仙堂新太郎先生にいつも叱られていたらしい。


「おまえは太鼓の前に立つだけで体が硬直しているように見える。」


 自分ではそんなつもりは全くなかったらしいが、どうやら、目が見えないがために物にぶつかる恐怖心が体に染み付いてしまっていたらしい。思考錯誤を繰り返したが、先日ゲストとしてこのブログに登場してくれた、亮太君の良き兄貴分でもあるマサさんの助言で始めた 「ゆる体操」 という筋肉のマッサージが大きな転機となった。それにより、硬直していた筋肉の質が変わり、「軟体動物」 のようになったという。


 体をリラックスすること、そして体の軸だけに意識を持って行くようになってからというもの、驚くべき変化があったそうだ。


 まず、駅前などで停めてある自転車などにぶつかっても、それまでのように自分が倒れることが無くなった。古武術のように、体に衝撃を受けても、まるでカーテンのように体が衝撃を後ろに逃がすのだ。面白いことに、意識を体の末端から軸へと移すことによって末端は解放されるのであった。


 もう一つ、亮太君を驚かせたことがあった。それまでは、何台もの太鼓を使って演奏する時、意識は自然と体から遠い所にある太鼓に向かっていた。しかし、いくら遠くの太鼓を意識しようともなかなか正確には打てなかった。それが、逆に意識を中に、体の軸へと向けるようになってからは、亮太君のバチは不思議なくらい正確に、遠くの太鼓をとらえ始めたのだそうだ。


 何故僕がこんな太鼓の話を持ち出すのか。それは外から内へと意識のベクトルを変えることによって解放された亮太君の姿が、小関先生という自分の芯を持つことによって外に散らばる 「正解」 の呪縛から解かれた自分の姿と重なったからだ。


 型が 「枠」 から 「芯」 へと変わっていく過程、それは無秩序であった一つひとつの行動が軸を中心に回り始め、小宇宙としての摂理が生まれていく過程を表しているように思う。